Je bent een stomme idioot.
陽が傾きかけた下鍛冶屋町の石畳に、ぱつ、ぱつ、と妙な音が響いた。
見てみっと、異国の履き物――黒革の靴ば履いちょる男が、ゆるりと歩いちょった。
地味な着物ば着ちょったどん、目を引かずにはおれん風格じゃった。肩は怒り、背筋は矢のごた伸びちょる。顎ば引いて、じいっと歩くその姿は、まこて、薩摩隼人そのもんじゃった。凛としちょって、骨がありもす。それでいて、どこか優しか影ば背負うちょった。
その男がふと足を止めて、こっちば見た。
いや、正確に言えば、うちの後ろにおった吉之助ば見ちょった。
「坊主、名を名乗れ!」
どん、と腹ん底に響くごた声じゃった。
吉之助は一瞬ぱちくり目ば瞬かせてから、まっすぐその男ば見上げて答えた。
「西郷吉之助でごわす!」
男はふっと笑うた。
それは心底嬉しかごた笑いじゃった。まるで、長いこと探し求めちょったもんに、やっと巡り会うたように。
じゃっどん、なんでかは分からん。吉之助はそのまま、ぽかんと立ち尽くしちょった。
「そうか……お前が西郷か」
妙なことばっか言う男じゃった。初めて会うたはずの相手に、なんでそげんこと言うとかい。
男はしばらく黙りこんで、じいっと吉之助ば見つめちょった。
その瞳が、ふと深く揺らいだ。まるで水面に、遠か星の光が落ちたように。
その刹那、空気がすうっと冷え込んだ気がした。周りのざわめきも遠のいて、時がぴたりと止まったごた感じじゃった。
「時代の節目には、必ず名もなき“火種”が現れる。……おもしろい」
ぽつりと、まるで誰にも聞こえんように呟いた。
男は懐から紙ば一枚取り出すと、するするっと筆ば走らせて、異国の文字ば書きつけた。
ほいで、吉之助に向かって、ひょいと投げるように差し出しながら、にやりと唇の端ばつり上げた。
「――さあ、西郷吉之助。読んでみろ」
紙には見慣れんくるくるした文字が並んじょった。
読めるはずもなか。じゃっどん、吉之助は黙って、そればじいっと見つめちょった。
「“Je bent een stomme idioot.” オランダ語だ。意味は――“お前は馬鹿者だ”。」
男はなんの悪びれもせんと、にやにや愉快そうに笑うた。
まるで吉之助の腹ん底ば覗き込んじょるごたる眼差しじゃった。
「読めないか? それは困った。――悔しいなら、学べ。学ばねば、お前は一生“馬鹿者”のままだ」
その瞬間じゃった。吉之助の胸ん中に、ばちんと火花が散るごたる熱が走った。
“知りたい”。悔しさや怒りやなか。ただ、まっすぐな想いじゃった。
その顔ば見て、男は静かにうなずいた。満足げに、誇らしげに――。
男たちが去った後、吉之助はまだじっと紙を見ちょった。手ん中に握られたそれが、まるで火種のように熱を持っちょるごたった。
――石畳の先を歩く二人の影――
「もうお帰りに?町の視察は…」
「今日はもう十分だ」
男は、足を止めずに静かに応えた。
「……あの者、以前からご存知で?」
男はふっと笑みを浮かべ、わずかに顔を上げた。
その瞳は遠く、誰も見たことのない未来を映していた。
「――あれは、日本の未来だ」