革靴とカステラ
吉之助ちゅう男はな――あの不思議な「熱」の力を除いちょけば、まっこて飾り気のなか、素朴そのものの男じゃった。いや、ただの平凡ちゅうよりも、貧しか暮らしが肌に染みついた、生粋の下積み育ちじゃ。おいも同じ郷中の出じゃが、吉之助ん家は、うちよりもなおさら厳しかった。
毎日の飯は麦飯に薄か汁、漬物がちょっぴり。着物は繕いに繕いを重ねちょっても、風が隙間から忍び込んでくる、そげん暮らしじゃった。じゃっどん、吉之助は愚痴ひとつこぼさず、いつも朗らかに笑うちょった。
あいつの周りには、なんでか知らんが人が集まってくる。不思議と、誰もが心を預けたくなる。そいは、あの異能のせいばっかいやなかった。吉之助が持っちょる、生まれつきの「人の良さ」が、誰の目にもはっきり見えちょったからじゃ。
じゃっどん、そん分、自分のことは後回しじゃ。人の世話に追われて、自分のことはどげんしても粗くなる。家の銭の工面も、学問も、最低限だけ。郷中での勉強にも食らいついちょったが、元より、頭の回る方ではなかった。それに――なにより、あいつ自身、自分の暮らしで手一杯じゃった。
西郷隆盛を知っちょる者からすれば、「不器用な男じゃった」とは、とても信じられんかもしれん。じゃっどん――あいつが学問に心を入れ始めたとは、ある日、思いがけず出会った一人の男の影響じゃった。
その日、郷中に見慣れん二人連れが現れた。年の頃は三十手前かい。一人は、きびきびとした動きで後を付いていっちょる。もう一人――先を行くその男は、何とも言えん風をまとっちょった。粗末とは言わんが、どこか場違いなほど質素な装い。じゃっどん、その立ち居振る舞い、声の調子、何気な仕草に、ただ者じゃなか気配がにじみ出ちょる。
なにより目を引いたとは――足元じゃ。艶を抑えた真っ黒の履き物。よう見れば、革を細工したような皺模様が光を吸い込むごたる広がっちょった。
「……さすがに革靴は目立っちまったかな」
その男は、ぽつりとつぶやいた。黒革の靴音が、石畳に軽やかに響く。その男は地味な着物をまとい、片手にはカステラをそっと持っちょる。従者が小声で呟いた。
「ご無体でございます。こんなところでカステラなど…」
男は微かに笑みを浮かべ、肩をすくめるごとし言うた。
「甘いものひとつ嗜まずして、どうして世の苦さがわかるってんだ」
その影は、まだ誰も知らん薩摩の未来を、静かに見据えちょった。