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赫い灯の下で

作者: 藤邑微風
掲載日:2025/05/04

「灯がともったら、誰かが“終わる”んだってさ。でも――あの夜だけは違ったんだ。終わるどころか、“何か”が始まったって話。……今も続いてるらしいよ、静かにな」




その町には一本だけ、奇妙な電柱がある。昼には気づかれぬほど、ごくありふれた姿をしている。だが、夕暮れ時だけは違う。細くのびた影が、道を横切る時――そこに自分の影が重なると、魂を抜かれて何かに入れ替わるという。入れ替わられたものはやがて失踪すると。



誰が言い出したのかもわからぬまま、長いことそう囁かれていた。誰もが気味悪がって避けて通った。だが、それでも入れ替わってしまう者が、ときおりいた。



その日。夕暮れがあたりを包む少し前、鏡矢は学校の帰り道、まさにその“例の電柱”の前を通った。ふと、空が赤い。焼け焦げるような、赫い光がすべてを照らしていた。



そして――電柱の影が、彼の足元にすっと重なった。そのとき、彼の目にうっすらと映ったものがある。自分自身の影が、ほんの一瞬、違う動きをした。

呼吸が止まりそうな違和感を覚えた瞬間、すべてが赫い灯に飲まれた。世界は、ひっくり返った。


目が覚めたとき、彼は自分が“鏡矢”であることに気づいていた。だが同時に、“鏡矢でない何か”であることも、知っていた。身体はそのまま。言葉も、記憶も保っている。しかし、何かが不気味に違っていた。

彼は鏡を見て、戦慄した。瞳が少しだけ深く沈んでいる。呼吸をしても、空気が入ってこないような妙な感覚がある。



自分が自分を演じているような、そういう異常。何者かに“入れ替わられた”のだ。何者かが、自分を乗っ取っている。



彼はまだ、それが“怪異”の成せる技であることを、深く理解していなかった。


「おかえりなさいませ、お兄さま」玄関先で、鈴子が出迎えた。



黒髪は艶やかに整い、紅をひいた唇は微かに微笑む。礼儀正しく、どこにも破綻のない“妹”の顔。だが、その目の奥には、なにか得体の知れぬ熱が宿っていた。



「……ただいま」言葉を返すと、彼女は、うっすらと微笑んだ。それは“安堵”ではなかった。“勝利”だった。



怪異の支配がまだ安定していない身体の感覚で、彼は悟った。この妹は――すべてを知っている。そして、それを待っていた。


鈴子は夜、自室の窓辺に膝を抱えて座っていた。月の光は青白く、帳はまだ閉じぬまま。そこに、思い出が、そっと差し込んできた。



あれは、わたくしが“妹”になって、まもない秋の日でした。古びた土蔵の裏に、小さな猫が傷ついてうずくまっていたのです。少年が石を投げて笑っていた。わたくしは何もできず、ただ立ちすくんでいた。



そのとき。「おい」お兄さまが、庭を駆けてきました。声は鋭く、しかし怒気よりも悲しみに満ちていて――猫を抱き上げると、ご自分の上着をそっと脱がせて、かけたのです。



「痛かったな。でも、逃げなかったな……えらいな」その声が、忘れられません。その瞬間、世界が反転しました。わたくしは、知ってしまったのです。

この人に選ばれたい。この人が、愛を向ける“その場所”に、自分が立ちたい。



でも、お兄さまはけっして、わたくしを“その場所”に置かなかった。幾度、風邪を装っても。涙を流しても。倒れても。お兄さまの眼差しは、いつも遠く、静かでした。



それでも、あの日の猫には、上着をかけてくださった。



――ならば、違う方法を選ぶしかなかったのです。わたくしを、傷つけて。あなたを、恐れさせて。

あなたの優しさの奥にある“裁き”のまなざしを、どうか、わたくしにも向けてください。



その日から、わたくしは“神”であるお兄さまを愛することを決めました。そして、“神に裁かれる者”であろうと決めたのです。

彼女の唇が、赫い灯の中で微かに動いた。「もうすぐよ。お兄さま……」


夜の帳が降りる。部屋には灯ひとつ、赫く滲んだ行灯があるきりだった。その赫さが怪異の仮面を照らす。鏡矢の貌をかたどったそれは、じっと黙して鈴子を見つめていた。



鈴子は、穏やかに微笑んでいた。その笑みは凪いだ湖のように静かで、だがその下に、ひとつの地獄が広がっていた。


「……その体、もう馴染んだのかしら?」



怪異の内にある“何か”が、徐々にざわめきを覚えていた。この妹は、なぜ恐れない?なぜ、拒絶しない?その目は、狂気と慈悲のあわいで煌めいていた。まるで、“入れ替わった”存在をも愛おしむように。



「あなたが何であっても、もう、わたくしには関係ありませんの。だって、お兄さまがわたくしを“視てくれた”のは、いまが初めてだから。」



「……なにを、言って……」


怪異が問うた。



「お兄さまの記憶は、すべて知っています。でも、あの人は決してわたくしを愛してはくださらなかった。あなたなら、わたくしを壊してくださるでしょう?」



その言葉に、怪異はほんの一瞬、背を引いた。魂の奥底に、微かな震えが走る。この娘の愛が、理を超えて踏み込んでくる。――それは恐怖だった。



「……お前は、人間か?」



「ええ、そうです。わたくしは、人です。それほどまでに、お兄さまを、あなたを、愛しているのです。」



怪異はたじろいだ。喰らう側であるはずの自分が、喰われる側になってゆく。心の奥に、知らぬうちに植えつけられた種が、静かに芽吹いていた。



鈴子は、一歩踏み出し、怪異の手にそっと指を重ねた。赫い灯が揺れ、その影がゆらりと壁に滲む。



「“お兄さま”……」



その声は静かで、どこまでも深い。



――そのとき。怪異の中に、微かな“彼”が、確かに揺らいだ。魂の底から、ささやかな光が立ちのぼる。鏡矢の意識が、一瞬だけ、顔をのぞかせた。



「鈴子……」



それは、まぎれもなく、兄の声だった。鈴子の目が、大きく見開かれる。その胸の奥に、熱い何かが込み上げた。



お兄さまが、戻ってきた。



その瞬間、鈴子は腕を伸ばし、彼を抱きしめようとした。だが、その動きがぴたりと止まる。



「お願いだ、鈴子……」



鏡矢の声が、かすかに響いた。それは祈るようで、懇願するようで、彼女の奥深くを揺さぶった。

鈴子は、ゆっくりと微笑む。その笑みは悲しみとも喜びともつかない、深く静かなものだった。



「……あなたを手に入れたのです。だから、もう逃がしません。わたくしのものになってください。」



その手が、怪異の胸に強く重ねられる。鏡矢の瞳が揺れ、再び異質な光を帯び始めた。



「すまない……鈴子。だが、君にこんなことは……させられない」



彼の声が、赫い灯の中に消えてゆく。魂が再び沈み、怪異の支配が戻っていく。



「……逃げるんですか、兄さま?」



問いかけは応えられず、沈黙が落ちた。



「いいえ、逃がしませんわ。あなたが鏡矢であっても、そうでなくても。わたくしが望んだのは、ただ、あなたと在ることだけ――この赫い灯の下で」



鈴子は、怪異の目をじっと見つめる。その瞳に宿るのは、人間のもつ最も純粋で、最もおぞましいもの――絶対に引かない、情念の光だった。



そして、怪異は知る。この娘こそが、真に恐るべき存在――“怪異”をも侵す人の情念そのものなのだと。

月の光が、ひっそりと屋敷を照らしていた。その屋敷の奥で、鈴子は静かに笑った。その微笑みは、優しくも冷たい。



鏡矢の魂は、もしかするともうここにはいない。けれど鈴子の中に、彼の痕跡は確かに息づいている。その記憶、その痛み、その優しさすらも――

彼女は、すべてを愛していた。それがどんなかたちであっても。



夜の静寂に包まれた屋敷の中、鈴子は静かに、赫い灯の下に佇む。そしてその灯は、まるで彼女の内なる炎のように、夜の深淵に向けて、赫く揺れていた。




それから幾ばくかの時が過ぎた。邸は変わらず、森の奥にひっそりと息を潜めている。訪れる者はいない。けれど、誰も忘れてはおらぬ。あの家には“何か”が棲んでいる――そう囁く声が、町のはずれに今も残る。

ある者は言う。夜な夜な、赫い灯が一つだけ灯るのだと。またある者は、月の下、女がひとり、誰かに語りかける声を聞いたとも。

けれど、誰も確かめには行かない。そこにあるのが“人の情”であるならば、なおさらだ。

赫い灯の奥、静かに揺れる影が一つ。

――鈴子はそこにいた。

今日も、変わらず。

誰を待つとも知れず、ただ一つの想いを胸に抱きながら。

愛したものを手放さぬために。それが叶わぬなら、共に在るために。たとえそれが、この世に許されぬ形でも。

赫い灯は揺れている。情念が風に溶けるように、夜を焦がしながら。

そして、やがてまた夜が来る。彼女のためだけに用意された、永遠の夜が。


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