第7章 イマジナリープレイヤー Tuesday October 5
長村は素也のオフィスの裏手に広がる造成地にアリストを停め、車を降り表通りに向かった。あたりに人影が無いことを確認して正木を呼び出す。正木がハイブリッド走行させたエスティマを駆り、殆ど音を立てずに素也のオフィスの駐車場にエスティマを乗り入れた。
正木は車から降りると、素也の携帯を使って手に入れたシリアルキーをセキュリティゲートに打ち込んだ。長村は鋭い眼光を周辺に浴びせ続ける。ロックが解けると二人でオフィスの中に入っていった。
素也と佳子はホテルを出て、待ち合わせたコンビニに向かった。車中で佳子はひっきりなしにペットボトルのお茶を飲みながら、憑き物が落ちたように明るく今までの素也との想い出を話した。
そして、素也の方に顔を向けるとこう言った。
「今日ほどプリント焼いていて辛かったことはなかったわ。でも焼いているうちに、どんなことにも終わりがあると言うことに気づいたの」
素也は黙って聞いている。MGはコンビニの駐車場に着いた。
「今まで感謝しているわ。心はもう素也さんがいなくても大丈夫。身体はちょっと自信ないけどね」
佳子はそう言うと、帽子を深くかぶり直して降りていった。
目当てのディスクを手に入れ、撤収の準備をしていた長村に松下から着信があった。
「ちょうど終わりました。社長。今から引き上げます」
「そっちは無事か」
「何かあったのですか」
「加藤と島田がやられた。山岡総合病院で治療中だ。相手に心当たりは有るか」
「いえ。水野と宮部の所在は押さえてありますが」
松下はしばらく無言で考えた後、口を開いた。
「予定以外の物でもかまわん。なにか重要そうな物があったら持ってこい。乱暴な真似をしても許す」
「了解。加藤と島田の容態はどうですか」
長村は驚いていた。あの二人を病院送りに出来る男はそうはいないはずだ。相手は大勢だったのだろうか。水野は確かに女とラブホテルに入って行った。宮部は自宅に居るとの部下の報告を受けていた。だとしたら一体誰が。
「今のところ安定している。島田の方は治療が遅れたら危なかったらしい。まあ倒された場所が良かったということだ」
松下はそう言うと電話を切った。「倒された場所?」長村はしばらく松下の言葉の意味を考えていたが結局理解できなかった。
その時、長村は何者かに見られている気がして素早く回りを見渡した。すると、壁の隅で素也の開発中のトレーサーが、鈍い光を放ちながらこちらを睨み付けているのが目に入った。恐怖に耐えながらトレーサーに近づくと、恐る恐る細部を点検した。そして、長村は正木を呼び寄せ指示を与えた。
素也は山荘に向かっていた。
国道に右折で合流し、私道の山道を左折、月明かりに照らされるアプローチの道路を登りロータリーにMGを停めた。MGを降り、玄関に向かう。
数字錠の鍵を開け、クラブハウスに入る。急いで室内をチェックする。すると、明らかに誰かが侵入した跡があった。寝室の窓枠のセロハンテープが剥がれている。丹念に室内を見渡す。デスクの引き出しを開けると、プライベート用途の携帯が消えていた。そしてそこにメモがあった。
オマエニハナニモノコラナイ
素也は玄関から懐中電灯を持って外に出ると、クラブハウスの回りを一周した。寝室の窓の外に残る微かな足跡、石畳の外の雑草を踏みにじった太いタイヤのトレッドの跡。Qちゃんを作動させておかなかった自分を悔やむ。懐中電灯を消して、しばらく素也は闇の中に立ち尽くしていた。
部屋に戻り、トイレを済ませ歯を磨き、スエットスーツに着替えると、お湯を沸かしてポットにダージリンを淹れた。ポットとカップをお盆に乗せて寝室に運ぶ。寝室の窓を開け、外気を吸い込む。怒りと疲れで考えがまとまらない。紅茶を飲みながら頭の中を整理する。
敵が松下とその部下に限定されるのであれば、こちらにも考えがある。宮部という頼もしい味方も居る。ただ、実沙や清美に被害が及ぶのはなんとしても食い止めなければならない。
ベッドに横になるが、気持ちが高ぶり寝つけない。疲れが澱のように素也の身体を包み込んでいく。置き時計に目をやると午前二時四十分。
素也は無理にでも眠る必要があった。キッチンに行ってマッカランのボトルと、ショットグラス、そしてチェイサー用にフラスコに水を注ぐ。ベッドルームに戻り、デスクの上にフラスコを置き、ショットグラスにマッカランをなみなみと注いだ。半分程一気に飲む。喉と胃が焼けるようだ。
ベッドに座り少しずつ飲む。時折フラスコの水を口に運ぶ。三杯目を飲んだところで、緊張が緩み、疲れが素也を包み込む。
そのまま横になると毛布をかぶる。毛布は実沙の香りがした。そして、実沙の香りに包まれ、素也は深海に引きずり込まれるように眠りに就いた。
実沙はいつものように携帯のスケジューラーにセットしておいた着信音で目覚めた。枕元の携帯を探り当て、着信音を止めた実沙は、素也のプライベート用の携帯からメールが届いていることに気づく。実沙はベッドの中でうつ伏せになりメールを開いた。そこにはこう書かれていた。
修報社への書類を明日の朝、直接先方に届けるように
実沙は「何よ、そっけないわね」と呟きながらも素早くメールを打つ。
了解しました。郵便局で内容証明の手続きするより楽ね。
宛先を確認して送信のボタンを押した。その後布団をかぶり直し、しばらくじっとしていた実沙だったが、意を決したように布団を蹴飛ばすと、元気よくベッドから跳ね起きた。
しかしそのメールが素也の元に届くことはなかった。
素也は携帯の呼び出し音で起こされた。ベッドから起き上がり、椅子の背もたれに掛けておいたジャケットの内ポケットから携帯を取り出す。液晶画面には宮部が書いた宮部の似顔絵が映っていた。
「もしもし、俺だ」
「社長、オフィスが荒らされました。セキュリティゲートのシリアルキーは新しい物に変更されていました。今ざっと見たところ、バックアップのオプティカルディスクが四枚と開発中のトレーサーがありません。サーバーは衝撃を受けたようで、ディスクに読み取りエラーが出ています」
「すぐに行く。携帯を手元に持っていてくれ」
「警察へは届けますか」
宮部は尋ねた。
「俺が行くまで待て」
素也は少し考えてからそう言って電話を切った。携帯の時計に目をやる。七時五分だった。素早く洗面とトイレを済ませ、スエットスーツを脱いでトランクスとアンダーウェアを着け靴下を履く。昨日着ていたズボンとシャツを着て、上着を持つと、MGの鍵と携帯とオシアナスを掴み、財布とカード入れがジャケットに入っていることを確認し、玄関から飛び出した。玄関のロックを掛け、MGに乗り込むとイグニッションを回しエンジンを掛けた。すぐに走り出す。その時、寝室の窓を閉め忘れたことに気づいたが、放っておく。MGに乗り込むと、国道まで一気に駆け下り国道に右折で合流、しばらく進んで信号の三叉路を左折して農道に入った。スピードを上げる。
昨夜の侵入は警備会社に連絡が行ってないところを見ると、オフィスの玄関から堂々と正規の方法で侵入があった事を示している。そして、素也は思い当たった。素也のプライベート用途の携帯で、素也はオフィスへのロックを解くシリアルキーの発行を受けていた。その携帯には、素也の会社への携帯からのウェブアクセスの履歴が残されていたはずだ。それを使って、シリアルキーの発行を受けたのだろう。昨夜の素也の行動は敵に筒抜けで、佳子とホテルにいるときにまんまと山荘への侵入を許したのだ。すべては自分の油断と過信が招いたものだ。これは自分のミスだ。素也は決心した。これは自分で片をつけなければならない。
では、いつシリアルキーの変更指令を出したのだろう。実際の発行より12時間以上前に変更指令の手続きが必要なはずだ。土曜日のログチェック時点では変更手続きされてなかった。
「そうか、昨日の朝の、ハンガリーからの不正アクセスの時か」
素也は思い当たり思わず声を上げた。あれはシリアルキー変更指令の手続きをカモフラージュするための物だったのだ。その時の膨大な不正アクセスのログに埋もれているのだろう。林道を駆け抜けるMGのスピードは危なささえ感じさせる物となっていった。
オフィスに着いた。駐車場にMGを停め、階段を駆け上がる。オフィス内を見渡すが、乱暴に荒らされた様子は無い。宮部が近づいてきた。
「社長、やはり無くなっているのはバックアップ用途のオプティカルディスクが四枚。オプティカルディスクは一枚4テラバイトで、合計16テラです。顧客情報とGRAPHASEのオリジナルコードと更新ジャーナルが入っています。そして、社長が開発中のトレーサーも有りません。充電用のスツールもです。ただ、ロッカーに仕舞ってあったトレーススーツとヘッドマウントディスプレイは無事でした」
宮部は言葉を区切って説明した。
「メインサーバーの被害は?」
「何故かディスクドライブ上に大きな石が乗っていて、ディスクが数セットいかれてます」
素也は苦笑した。そして、宮部に言った。
「サーバーはセカンダリに切り替えて有るんだろうな」
「はい、出社した七時にすぐに切り替えました。サーバーのログから、午前0時頃にディスクの故障が起こったはずです」
そして、宮部は続けた。
「清美さんが出社次第、午前0時から今朝7時までのサーバー停止のお詫びのメールをクライアントに打ってもらうことになってます。電話で伝えてあるので、もうすぐ出社するはずです」
「実沙さんには伝えたか」
「いえ、まだです」
そこまで聞くと素也は、昨夜山荘への侵入が有り、携帯を盗まれた事を手短に宮部に話した。携帯を使ったシリアルキーの解除方法と、昨日のサーバーへのクラックの関連性にも触れる。さらに先週のアルテッツアとの一件も話す。岩をアルテッツアの屋根に投げたところで、宮部が顔をしかめた。
「社長、いくらなんでもそれはやりすぎですよ。だからこんなこと」
そう言いながら宮部はホール北側のサーバーの一角にあるメインサーバーのディスクドライブに歩み寄った。素也も後を追う。ドライブの上部に人の頭ほどの石が乗っていて、ドライブの天板は対角線に沿ってヒビが入っていた。素也は無言でその石をにらみ続ける。宮部は腕を組み、素也からの指示を待った。
いつの間にか清美が出社してきたようだ。そーっと二人の様子をうかがうように、近づいてきた。そして、メインサーバー停止の原因に気づき、二人の顔とサーバーのディスクドライブ上の石を交互に見る。そして二人の首に両手を掛けると自分の顔に引き寄せてこう言った。
「あーら、どうしちゃったのよ一体。漬物石があっても、ぬか味噌がないと漬物は漬かないわよ。社長と宮部ちゃんらしくもない」
素也と宮部の顔がほころぶ。二人は親しい女友達に喫煙を見つかった時の不良高校生のような笑みを見せた。その時宮部はかすかな消毒液の匂いを嗅いだ気がした。素早く宮部は匂いの元を探した。
清美の細い左腕の肘の辺りに包帯が幾重にも巻かれているのが、ピンクハウスのブラウスを通して見て取れた。
「清美さん、怪我したのか」
心配そうに宮部が尋ねる。
「昨日の帰り、自転車で転んだのよ。でもね、見て見て、新聞に載ったのよ」
清美がそう言うと、右手に持っていたディパックから今朝の朝刊を取り出しディスクドライブの上に広げた。清美が指差した小さな記事を宮部と素也が覗き込む。そこにはこう書かれていた。
住宅地にパチンコ玉散乱
昨夜一九時頃、山岡市藤苑町三丁目の路上でパチンコ玉が大量にばらまかれるという事件が起きた。坂道を転がってきたパチンコ玉のため自転車に乗っていた会社員、酒井清美さん(23)が横転し、左手に全治四週間の怪我を負った。また、住宅に飛び込んだ玉により、窓ガラスが数枚割れるなどの被害が出た。警察は悪質ないたずらと見て捜査を進めている。
「なにも被害者の年齢までバラすことないのにね」
清美が呟いた。その次の記事は
病院内で会社員二名襲われる、一人重体
で始まっていた。その記事はまったく三人の興味を引かなかった。
素也は清美に頭を下げた。
「清美さん、本当にすまない」
素也はいつまでも頭を上げない。宮部と清美は驚いた表情になった。そんな素也の振る舞いを見るのは初めてだったからだ。
「社長のせいじゃないわ」
清美は呟きながら新聞をデイパックに入れた。そして
「事故って本当に意外な形で起こるのね」
そう言うと、バツの悪そうな顔で微笑んだ後、自席に戻っていった。
宮部は清美の方をしばらく見つめていたが、ディスクドライブに向き直り、漬物石を片手で掴みあげるとこう言った。
「やっぱりこいつは持ち主にきっちり帰してやりましょう」
素也その場に立ち止まり、じっと考え込んだ。色々な状況を想定してさまざまな作戦を立てる。こちらの戦力は限られている。反撃の糸口が見つからない。素也の表情に焦りの色が浮かぶ。
盗まれた物は、素也に的確なダメージを与える物ばかりだった。オプティカルディスクには顧客データーが暗号化した形とは言え書き込まれていた。暗号はいつかは破られる。もし、顧客データーの流出が起こったら、社の死活問題だ。
たとえ盗まれた形とはいえ、データーを保管していたフェイジングテクノロジ社の信用は失墜する。一度失った信用は完全な形には二度とは戻らない。修報社の狙いはそこにあるはずだ。
さらにそのディスクには、バックアップとは言えソースコードを含む宮部の開発した
GRAPHASEの全貌。そしてもう一つの被害であるテレイグジスタンスを実現するトレーサーは、素也のこの一年間かかりっきりになった英知の結晶だった。
たとえ警察に通報したとせよ、警察は証拠も無しにすぐに修報社を捜査することはないだろう。人命はかかわってなく、ただのディスクなのだ。その間に修報社はまんまとデーターを解析することが出来る。オリジナルは処分して、コピーした物でだ。
宮部は清美に顧客へのお詫びのメールの指示を与えた後、苦悩する表情の素也の横に立ち「警察はどうしますか」と尋ねた。素也は首を振る。
「暗号キーはどれぐらい持ちそうだろう」
「47ビットの暗号アルゴリズムですので、そんなに強力とは言えません。持って数日ぐらいでしょうか、敵の演算能力にもよりますが」
素也は頷いた後、話し始めた。
「あちらはよっぽど足がつかない自信があるのだろう。警察に通報したところで、修報社には捜査の手の伸ばしようがない。捜査令状を取るなんて夢物語だ。参考にアルテッツアとの一件を話したところで、加害者は誰がどう見ても俺だ」
素也は一度言葉を切った。
「不正アクセスの足跡は消してある。侵入の通報は無い。目撃者もいないだろう。証拠はと言うと、奪ったディスクなどどうにでも書き換えられるし、トレーサーは何処かに持っていって分解すればただの汎用部品だ。部品に製造番号が打ってあるわけでもない。何とでも処分出来る。少し急ぐ必要がありそうだ」
そこまで言ってあることに思い当たる。
「あのオプティカルディスクはアメリカのODS社製だったよな。確かあのディスクドライブストレージはうちが日本では初めて導入したはずだ。宮部、当たってくれ。今日のODS社日本法人はきっと忙しくなるぞ」
宮部は頷いた。
時計を見ると八時過ぎだった。素也は実沙の携帯に電話をかけた。実沙はまだ出勤前のはずだ。が、実沙は電話に出なかった。念の為実沙の部屋の固定電話にも電話してみたが出ない。素也の顔色から血の気が引いて行く。
素也は電話を切った。ポットからコーヒーをカップに注ぐとホールの隅に椅子を持っていき、そこに座り込んだ。カップを床の上に置く。時折カップを口に運ぶ。頭の上で手を組み、考え込む。何分も動かないかと思えば、突然頭をかきむしる。
かれこれ30分以上もそうしている素也の様子を見ていた清美が、心配そうに宮部に言った。
「宮部ちゃん、助けてあげたら」
「まあ、黙って見てなって。今までの経験では、こういうときの社長は詰め将棋をしているはずだ。もし敵の玉が詰んだら奴等はたっぷりと後悔することになる」
九時になり宮部はODS社の日本法人山岡支社に電話をかけた。社名を伝え、オプティカルディスクドライブの担当者に取り次いでもらう。担当者が出るまで素也の様子を伺う。素也は目を閉じ全く動かずに椅子に座っていた。
「PTの宮部です、実はドライブが調子悪いんですよ。一度見に来てもらえませんか」
「え、午後になるんですか、それは遅いなあ、もっと早くならないの?」
「そうですか、先約ですか。そのお客さんは遠いんですか?」
「そういうことなら仕方ありませんね」
宮部は突然、受話器から口を離し、大声で「えっ?直ったの」と叫んだ。
「すみません、ディスクドライブのケーブル交換で無事直ったそうです。修理はもう結構です。お手数をおかけしました」
宮部は電話を切ると、素也のそばに行き報告した。
「社長、ODS社の山岡支社は、今日新規のお客さんへの納品があるそうです。納品はODS社の山岡支社から比較的近くらしいです。ということは修報社の本部ですね。まず間違い在りません」
素也は目をわずかに開き、宮部の話を聞いた。いつのまにか素也の表情から焦りの色が消えていた。素也は宮部に「ありがとう」と礼を言う。これで相手の場所は特定できた。素也は清美を呼び寄せると、ホールの隅で二人に計画を話し出した。
それは驚くべき内容だった。
宮部はノートパソコンを取り出し、会社のネットワークに接続すると、必要なファイルをノートパソコンに転送した。素也はロッカーからトレーススーツとヘッドマウントディスプレイを取り出し、USBの端子をノートパソコンに繋ぐ。宮部が動作チェックを行なった。ノートパソコンのIPアドレスを、トレーススーツのホストのアドレスと一致させ、ノートパソコンの電源を切る。
トレーススーツとヘッドマウントディスプレイ、ノートパソコン、ノートパソコン用の予備充電池、それから無線LANのターミナルをアタッシュケースに詰め、作業服を着て、作業帽を被り、作業用のスニーカーに履き替えると二人は外に出た。
清美は楽しそうだ。出社してきたアルバイト達が何ごとかと清美に話しかける。清美はこう答えた。
「二人で営業に出るのよ、私がたまには行きなさいよと勧めたの」
社用車のカローラワゴンに乗り込み、エンジンを掛ける。宮部が運転席だ。宮部はウオッシャー液を出しながらワイパーを作動させ窓に積もった埃を取った。素也のシートベルトを確認すると、宮部はカローラを発進させた。
見た目をわざと商用車にデチューンさせてあるこのカローラは、街を走っていても全く目立たない。太めのマフラーと図太い排気音、甲高いカムノートを聞くとただのカローラではないことはすぐわかる。
積み替えられた5バルブシステムのエンジン、前後のリミテッドスリップデフと、強化された中央のビスカスカップリング。足回りは車高高めのラリー仕様だ。タイヤも高性能な物に変えてある。が、マグネシウム削り出しのホイールが目立ないように純正のホイールキャップをはめてある。
二人は手順を確認しながら山岡市に向かった。堅めの足回りが路面の継ぎ目を拾う。午前中の国道はトラックと白い営業車であふれかえっていた。
素也は定期的に実沙の携帯に着信させた。さらには詳しく状況を伝えるメールを打つ。次第に素也の表情に心配の陰が浮かぶ。宮部はそんな素也を横目で盗み見ていた。
実沙は修報社山岡支社の応接間にいた。昨日素也に頼まれて作成した合併提案を正式に断る書類を膝の上にのぜ、不安な気分と戦っていた。
修報社山岡支社は山岡市駅北口の近くなので、実沙のアパートから歩いて十分程の距離である。一階の守衛室で面会表を書きフロアを登り、受付で社名を名乗ると実沙はすぐに応接間に通された。ただ受付で書類を渡すだけのつもりだったので、広い応接室に通され実沙の気分は落ち着かなかった。
ひとしきり待たされた後、修報社の社長の松下と部下らしき男が二人、応接室に入って来ると、松下は実沙の向かいのソファに無言で腰を掛けた。社長室の長村と正木は実沙の背後で手を後ろに組んで立っていた。実沙はこの丁重過ぎる応対に明らかに戸惑っていた。
実沙は立ち上がり一礼後、挨拶と自己紹介をした。
「はじめまして。フェイジングテクノロジ社の牧野です」
うわずっている自分の声に驚く。用意してあった書類封筒を社長の松下に差し出すと、何も言わずに自分を見ている松下から逃げるように口を開いた。
「それではこれで失礼させていただきます」
一礼後実沙はハンドバックを手に立ち去ろうとした。
実沙の差し出した書類封筒をぞんざいに脇へよけると、松下は実沙を見上げ丁重に話しかけた。
「折り入って話があります。お掛けください」
実沙は振り向くが、ドアの側に男が立ち、とても部屋から出られる状況ではない。ハンドバッグをソファに置き、スーツのスカートの裾を押さえ、実沙はゆっくりと腰を掛けた。
松下は実沙の目を見据え、言葉を区切るようにゆっくりと話しかけた。
「私は、修報社の松下です。牧野さん、はじめまして」
「我が社は今、技術部門以外のアウトソーシングを進めています。会計、経理部門でも例外ではありません。優秀な外部組織に委託したいと思っています」
「ちょっと調べさせてもらいました。あなたの会計士としてのキャリアと実力を買わせてください。この近くにあなたの会計事務所を開きます。事務所の開設費は修報社が持ちますし、質のいい従業員の手配もします」
言葉が実沙の中で落ち着くのを待ち、さらに続けた。
「そして、我が社の会計事務の仕事を優先的にまわします。事務所の年商は一億円程度になると思いますよ」
話し終え、椅子に深くかけ直した松下に、困惑顔の実沙はしばらく考えた後こう答えた。
「ありがたいお話ですが、お断りします」
松下は驚いた顔を作り、時間をかけて凄みのある笑顔に表情を変化させ、ゆっくりと言葉を切りながら話した。
「悪い話ではないと思いますよ。一度ゆっくり考えてみてください。あなただって、あんな田舎の小さな会社の事務をずっとやっていてもしょうがないでしょう。他の三人とあなたの収入の差をよく考えてみるといい」
そして、ソファーから身を乗り出し実沙を覗き込むと、こう付け加えた。
「あなたもそろそろ娘さんと一緒に暮らしたいでしょう」
実沙の顔が蒼白になり、脚が震え、揃えた膝元が緩む。松下は実沙の全身を舐め回すように眺めた後、背もたれに身体を預け、実沙の腿の奥に視線を移す。そして松下は長村に目で合図をした。長村が颯爽と歩み寄り、書類封筒を松下に渡す。
松下はA4サイズに引き延ばされた写真を二枚、書類封筒から取り出すと、実沙の前に滑らせた。そこにはコンビニの駐車場でMGに乗り込む佳子と、運転席の素也。そして、山岡南インターそばのラブホテルへ入るMGが写っていた。二人の顔も見分けられる。望遠レンズで高感度モードで撮影された写真らしく、ザラザラした粒子を浮きたたせたプリントだった。
「昨夜の写真です」
松下が言った。実沙が松下を睨み付ける。
「しばらく一人で考えてみてはどうですか、あなたの返事次第では悪いようにはしませんよ」
そしてこう付け加えた。
「あなたの年収を上回る支度金を今日お支払いする準備があります」
松下は正木を一人残し、社長室長の長村を従えて応接室から出ていった。
修報社は大手生命保険会社所有ののオフィスビルのワンフロアにテナントとして入っている。そのオフィスビルはまだ竣工して日が浅い。一年は経っていないはずだ。修報社の上階は修報社の親会社である外資系の商社の山岡支社が入っていたはずだ。素也と宮部は先月の修報社との打ち合わせの事を思い出していた。
さまざまなテナントが入っているオフィスビルは、ビル内に立ち入るのも比較的容易だ。単独の自社ビルだと、入門時に身分照明が必要となるが、ここではそんなことはない。そして、先月の時点では、まだ数フロア分の空室があったはずだ。素也はそこに賭けていた。
実沙は呆然としていた。
素也と佳子の写真の事もあるが、それより娘のことを松下が調べ上げていたことに驚いていた。顔も知らない亜季への想いが実沙を揺り動かす。
ドアがノックされ、女性社員がお茶を持って入って来た。実沙はあわてて写真を折ってハンドバッグに仕舞う。
女性社員は実沙に一礼後、テーブルにお茶を置き、また一礼してドアへと戻った。その時女子社員が正木に小声で話しかける声が実沙の耳に僅かに届いた。ODS社の名前と納品時間を正木に伝える。
聞き慣れた社名に我にかえった実沙はハンドバッグからマナーモードにしてあった携帯を取り出し、多くの着信履歴に驚く。素也からの数通のメールを素早く読み、修報社の周到な計画に嵌められた素也の危機的状況を理解する。あわてて素也に電話を掛け、二言三言話したところで、大股で近づいてきた正木に携帯電話を取り上げられた。
宮部は修報社山岡支社のあるビルの裏手の路地に設置してあるパーキングメーターにカローラを停めた。宮部は素早く運転席から降りると、ポールに小銭を投入する。素也はアタッシュケースを後部座席から取り出し車を離れた。その時素也の携帯の着信音が鳴った。実沙からだった。素也はあわてて受話器を耳に当てる。
「実沙さん、何処に居るんだ」
「今、修報社山岡支社の応接室。今朝騙されてこっちに来たのだけど、素也さんのディスクがここに」
実沙がそこまで言うと突然電話は切れた。素也は事態を理解するのに苦労した。宮部に今の会話の内容を話すと「計画に変更が必要ですね」
宮部はきっぱりと言った。
二人でオフィスビルの正面玄関に回った。偶然ODS社の社員と鉢合わせになった。リーダーらしき男が、守衛所で入室許可を求めている。社員は全部で四人、作業服が二人、修報社から発注されたディスクドライブの乗った台車を押している。背広組がリーダー合わせて二人だ。営業だろう。
素也と宮部はODS社の社員に気づかれないように俯いた。知っている顔を素早く探すが、見当たらない。素也は宮部に目くばせすると、ODS社の社員の後ろに付き、さも同じ会社の社員のように振る舞うと守衛の前を抜けた。
守衛の横を通りすぎるとき、壁に架かっている各フロアの会社名を見た。思ったより空きが少ない。修報社は七階で、九階と十階がまだテナントが入って無いようだった。
エレベーターホールでODS社の社員からそっと離れると、二人でエレベーターに乗りこんだ。素也は十階のボタンを押した。七階で修報社の社員が乗ってこないか心配だったが、登りのエレベータに乗る用事はどの会社の社員にも無いので、どの階にも停まらずに十階に着いた。
エレベータを素早く降り、非常階段に向かう。一階分階段を下ると、九階の無人のフロアに出た。エレベーターホールの前のフロア内部に入るドアは施錠されていた。宮部が素也の前に回り込み、両手でノブを思いっ切りひねった。振り向いてドアからねじ切られたノブを素也に向けるとこう言った。
「社長、不用心ですね」
素也は苦笑する。二人がドアを開け中に入ると、何も無いワンフロア分の空間が広がっていた。所々にダンボール箱が置いてあるだけだ。
素也は素早く部屋中をチェックした。宮部にODS社が出て行ったら教えてくれと言って作業着から携帯を取り出し、ノートパソコンの横に置いた。
素也は作業着とズボンを脱ぐとトレーススーツを着込み、ゴーグルタイプのヘッドマウントディスプレイを装着した。ノートパソコンにUSBケーブルを繋ぎ、無線LANのターミナルをノートパソコンにセットすると、ノートパソコンの電源を入れた。メモリチェック後カーネルが展開する。いつもと同じ画面だが、ハードディスクのアクセス音がやけに大きく感じられる。
ストレッチで身体をほぐしていると、ツーフロア下の様子を伺っていた宮部が戻ってきた。トレーススーツ姿の素也を見て笑顔を見せた後
「ODS社引き上げました」
そう言って、真顔に戻った。素也は携帯を指で示す。
宮部が携帯を取り上げ、トレーサーの番号を携帯のメモリーから呼び出し、素也の顔を見てから発信ボタンを押した。素也は階下で鳴り響いているであろう着信音を、心の中で再生しながら言った。
「たっぷり鳴らしてやれ」
着信すると、宮部はノートパソコンに向き直り、トレーサーのIPアドレスにpingを掛けた。20秒ほど無応答だったが、トレーサーは起動に成功したのだろう、応答が帰ってきた。二人は心底ほっとした。
宮部がトレーサーにログインし、トレースアプリケーションを起動した。ノートパソコンの画面にトレーサー頭部のカメラが捕えた光景が再現される。素也のヘッドマウントディスプレイにはステレオで再現されている。
驚く数人の表情が素也の眼に飛び込んできた。
素也は宮部に頼んだ。
「携帯を切ってくれ」
宮部が携帯を手に取りながら尋ねた。
「こんなことはどうでもいいことだとは思うのですが、着メロはなんだったんですか」
素也は答えた
「『ワルキューレの騎行』だ。実沙さんが設定した」
携帯を切ると、宮部は画面に目を戻してこう言った。
「よくもまあ、この状況にピッタリな曲を選んでいたものだ。
社長、実沙さんは天使か悪魔ですよ」
素也はそれを聞くとこう言った。
「俺も今、そう思っていたところだ。俺にとってはどちらでもかまわないがね」
そして、前方に居並ぶ修報社社員を一人ずつ順に見据えるとこう言った。
「さあ、いっちょ行くか」
ツーフロア下の修報社会議室では異変が起きていた。
お目当てのディスク類以外に、予定外の戦利品として素也の開発中のトレーサーを盗んだ社長室長の長村は、ソフトウエア、ハードウェアのエキスパートを集めると、この人間型ロボットの解析を極秘裏に命じていた。
ロボットを中心に置き、机を囲み長村を中心に解析方針や解析場所を決めるミーティングを行なっていたときに、突然携帯の呼び出し音と思われる「ワルキューレの騎行」が鳴り響いた。参加者全員が非難の目を向け合うが誰も電話に出ない。驚いて音源と気づいたロボットを見つめ直す。すると、あろうことかロボットの頭と目が動き出し、一人ずつをじっと見るように視線を移していったのだ。
そしてコンプレッサーの作動音と共に唐突にロボットが充電用スツールから立ち上がると、会議室すべての人間が悲鳴を上げ、ドアに殺到した。勢い余って転ぶ社員もいた。ロボットは自分を取り囲む邪魔な机を持ち上げると横に放り投げドアに向かった。とり残された長村がさらに大きな悲鳴を上げる。
素也は机を放り出した方に目を向けた。机が壁に当たり、バラバラになっていた。
「おお、思ったより強いなこいつ」
素也は独り言のように言うと、宮部の方を向き直って言った。
「宮部、電池の残量を調べてくれ」
宮部はノートパソコンの画面上に映し出された腰を抜かしている長村を見て呟いた。
「あ、こいつだ」
そして気を取り直しノートパソコンをタイプした。太い指を折り畳んでとんでもない早さでキーを打つ。
「あと十分程度です。フル充電済みのようですね」
「親切な奴がいるもんだ。組み手五ラウンドか」
素也は独り言を言った後、会議室のドアまで歩いて進むと、逃げ出した社員が閉めたドアの前に立った。そしていきなりドアにに前蹴りをした。
ドアのノブと蝶つがいが吹き飛び、ドアは破壊され床に倒れた、それを見た社員が壁際に避難した。怖いもの見たさか、怪我人が出ていないためか、まだフロアの外に逃げ出す社員はいない。
素也が宮部の方を向いて言った。
「前蹴りはドアを押すように蹴るのが基本だ」
宮部は思わず頷く。素也は歩き始め、宮部はケーブルを持ち上げながらパソコンを手に後をつけた。
ロボットは周りを見回しながらゆっくり歩いている。何かを探しているようだった。長村は社長室に転がるように駆け込んだ。すぐに、社長室から長村の陰に隠れるように松下が姿を現した。
隣接する応接室からも正木が飛び出してきた。実沙も悲鳴と物音につられておそるおそる応接室から顔を出した。
ロボットはその四人を見つけると、そちらに向き直り、両手を顔の前でクロスさせ、ゆっくりと腰の横に引いた。足は肩幅程度に開き平行に揃え、腰を落とす。空手の正対の構えである、ナイファンチ立ちに構えを取った。
ロボットとは思えないような動きに社長以下の社員は目を奪われる。気合いや息吹が聞こえてくるようだ。部屋中が静まり返った。
その中で、実沙だけは安堵感に包み込まれ、前かがみになりお腹の底から込み上げてくる笑いと戦っていた。ロボットの動きはそれほど素也そのものだったのだ。
長村がその様子を見て、気分が悪くなったのかと勘違いして、実沙を応接室に押し戻そうとした。実沙は涙を拭きながらその手を払いのけると、誰にも聞こえない声で呟いた。
「大無しモト君、さあ、本領発揮よ」
ロボットはしばらく動きを止めた後、社長室の右奥にショールームを兼ねたガラス張りのコンピュータールームを見ると、そこに向かって歩き出す。
足を止めずにスピードを上げながらガラス張りの壁に向かって歩いて行く。そして駆け足で前のめりに倒れ込みながら、両腕で頭部を保護するように組み、そのままガラスに突っ込んで行った。天井までの一枚ガラスが大音響と共に砕け散った。
宮部が顎の不精ひげを撫でながら言った。
「無茶しますねえ、社長」
「他に開け方を知らないんだ」
素也は起き上がりながら答えると、回りを素早く見渡した。さっきODS社の社員によって運び込まれた台車の横の机の上にお目当ての物を見つけた。四枚のオプティカルディスクだ。納品されたディスクドライブストレージにまだマウントされていない。間に合ったようだ。
近づいてキャディに収まっているオプティカルディスクの一枚を机から滑らせ、机からはみ出た部分を片手で掴みながら下に押し、浮いた部分をもう一方の手で掴んだ。そして挟み込むように両手で持つことに成功すると膝を振り上げディスクを叩き割った。それを四度繰り返す。
再度コンピュータールームを見渡す。ディスクアレイらしき物が目に止まった。高さ1メートル程の立方体だ。
「宮部、これが何か解るか」
「奴等のメインサーバーのディスクアレイでしょう。ジュピターマイクロシステムズ社製のキュービックアレイ。最新型ですね。図体だけならうちのサーバーの数倍はありそうだ」
大容量で、高速のストライピングにより、障害時も連続動作可能な、修報社の心臓部のサーバーだった。ディスクキャッシュ8テラバイトを誇る。
素也はそのディスクアレイの1メートル程前に立つと、右足を振り上げ、身体を前方に傾けながらかかとを振り下ろした。体重の乗ったかかと落としだった。見事にディスクアレイの中央に決まる。素也は言い訳がましく呟いた。
「石忘れただろ、宮部」
鈍い音がして天板が砕け、内部の基板とディスクが破壊された。かかとはディスクアレイの中程まで食い込んでいた。ロボットはディスクアレイの両わきに左手を掛けると、右足を引き抜いた。
ゆっくり振り返ると、口を開けてロボットを見つめる大勢の社員に手を振った後、拍手の真似をした。回りを見回し、誰も拍手をしてくれないのを確認すると、両手を横に開いて肩をすくめた。
宮部は素也に向き直り、早口で言った。
「社長、イマジナリープレイヤーがここの何処かにあるはずです。さっき脱輪男の顔が見えました」
「こういうのを何というのかな『漁夫の利』かな、いや『虎穴に』」
「社長、そんなことはどうでもいいから早く探してください」
ロボットはしばらく動きを止めた後、真っ直ぐに社長室に向かった。
閉じていたドアのノブに手を掛けて廻す。が、滑って上手く回らないノブにいらついたのか、ノブを持ったままドアに膝蹴りをした。蝶番が吹き飛び、ドアの反対側が開く形になった。ロボットは反対側から入ると、律義にドアを元通りに締めた。松下が部下をけしかけるが、誰もそのドアに近づけない。
素也はイマジナリープレイヤーを探した。カメラの在り方を根本的に変える物。それは社長室の中には見当たらなかった。二人は焦った。社長室の壁の廻りを歩き回る素也。突然宮部が口を開く。
「社長、そのキャビネット、引き戸になってませんか」
素也は数歩後ずさると、宮部が指示する場所に立った。腰をかがめる。大型の書架の横に、絨毯に埋もれるようにスライド用のレールが僅かに見えていた。
「怪しいな」
素也は書架に指を掛け横に動かそうとした。が、鍵がかかっているのか全く動かない。
「社長、あと三分しか時間がありません」
「まだ三分もあるのか」
素也は独り言を言うと、書架の横に廻り、左手を壁に当て、右手で書架の裏側上部に指を差し込んだ。両手に力を込め右手を引き下ろすと、書架はスライドレールと直角方向に傾き、大音量を共に手前に倒れ込んだ。
画面を見ていた宮部が呟いた。
「そうきますか」
書架に隠されていた内部の光景が露になる。
そこは松下の個人的な部屋だった。革張りの応接セットに磨き上げられたテーブル、大画面液晶プロジェクター、壁にはカウンターバーがあり、コルクボードにはフェイジングテクノロジ社の社員四人の写真が貼ってあった。
そして、部屋の隅にそれはあった。ファイルや書籍の間に挟まれ、ガラスのケースに入れられていた。そして、電源を与えられ、動作中だった。
素也はイマジナリープレイヤーが投影している立体像をヘッドマウントディスプレイ越しに見て思わず驚きの声を上げた。そして笑みを浮かべながら宮部の方を向いて尋ねた。
「さあ、この娘をどうしよう」
宮部は窓に駆け寄り、非常用に開閉可能な窓を全開にすると、叫んだ。
「社長、窓を開けて上に放り投げてください」
素也はガラスケースを叩き割り、イマジナリープレイヤーを軽く掴み、ACアダプターのプラグを引き抜いた。そして非常用の赤い三角シールが貼ってある窓に近づき、レバーに手を掛けた。レバーは下に引き落とすタイプの物だったので、窓はスムースに開く。素也は窓から身を乗りだし、上を見上げようとした。しかし、トレーサーには無理な体勢だった。
宮部は斜め下のトレーサーの姿を確認するとその真上の窓まで走った。急いで窓を開け素也の方へ振り向いて叫んだ。
「時間がありません、落ちてもかまわないので、五メートル程真上に投げ上げて下さい」
素也は上を見るのを諦め、両手の上にイマジナリープレイヤーをのせると、掛け声と共に真上に放り上げる。しかし1メートル程足りなかった。宮部の絶望的な声が素也の耳に届く。
素也は再度視界の上部に現れたイマジナリープレイヤーをバーチャルな視線で追いかけ、両手を伸ばした。殆ど偶然にもイマジナリープレイヤーはトレーサーが伸ばした指の先に落下した。両手をボウルの形にした素也は、手の中で飛び跳ねるイマジナリープレイヤーをなんとかキャッチする。そしてもう一度掛け声と共に、さらに力を込めて真上に放り投げた。
今度は二フロア分の高さを超えて、イマジナリープレイヤーは見事に宮部の目の前を空中に舞い上がった。しかし、少し遠い。宮部が左手で窓枠を掴み、いっぱいに身を乗り出して、右手で落ちてくるイマジナリープレイヤーに手を伸ばす。
その直後、宮部の歓喜の声を聞いた素也は、喜びに包まれながら目前の架空の窓を閉めた。
安心して、崩れるように座り込んだ宮部の手の中で、イマジナリープレイヤーは立体像を投影し続けていた。素也はヘッドマウントディスプレイを跳ね上げ、その光景を眺めるとこう言った。
「さすがイマジナリープレイヤー、時空を超えて飛んできたな」
素也の声で我に還った宮部はイマジナリープレイヤーのスイッチをオフにした。そして素也に視線を移すとそっと呟いた。
「今ようやく解ったぜ。頭をぶん殴られた気分だ。イマジナリープレイヤーというのは、社長、絶対に、あんたのことだ」
社長室内部から大きな物が倒れるような激しい音が聞こえ、すぐに物音が止んだ。しーんと静まり返ったフロア内に、社員同士の興奮した声が次第に満ちてくる。何分か経った後、突然ロボットが社長室ドアのノブの反対側を開けて現れた。女子社員が悲鳴を上げる。ロボットはドアを閉じ、松下と実沙の方に歩き出した。
今の実沙には、ロボット、いやトレーサーを介して素也の心の動きがまっすぐに掴める気がしていた。そして素也が近づいて来るのを待っていた。トレーサーを抱き締めたい程だった。トレーサーは松下の正面で足を止めた。実沙は、トレーサーが自分の方を向いて、出口の方に小さく顎を振るのを見た。
正木がトレーサーの後方から椅子を手に近づき、トレーサーの頭部を椅子で横殴りに殴りつけた。その瞬間歓声を上げる社員達。顔を手で覆い小さく悲鳴を上げる実沙に長村が気がつく。
トレーサーはその衝撃に耐えるように踏ん張ると、正面の松下に飛びついた。そのあと松下を抱き抱えて立っていたトレーサーは、ゆっくりと後ろ向きに床に倒れた。小柄な松下の身体が宙に浮き、トレーサーと共に倒れ込む。松下の悲鳴が社内に響く。松下は気を失った。正木と社員が数人駆け寄る。
喧噪の中、実沙は誰にも気づかれないように、ゆっくり、ゆっくりその場から離れた。ドアから出て行く実沙の動きに気づいた長村が後を追う。
素也の視界が一瞬歪んだ後、次第にブラックアウトしていった。それでも両脚で踏ん張ると、視界の中の松下の位置を思い出し、倒れ込みながら両腕で抱え込もうとした。そして宮部に「今だ」と合図をした。
宮部はトレースアプリケーションをコントロールCで停止させると、トレーサー内部のコンピューターの半導体ディスクのマウントを外した。そして、ディスクにフォーマットを掛けた。
これで電源が切れたトレーサーを分解してみても、素也が全力で組み上げたトレーサーの動作プログラムは一行たりとも拾い出せない。今動いているオペレーティングシステムも電池切れと共に失われる。頭部と手足の回路情報は、直接回路に書き込んであるため、外部から取り出すことは出来ない。取り出せたところで、インターフェイスが解らなければ解析は不能だ。
「連中はまず何をインストールするだろう」
宮部が呟くと、素也はこう答えた。
「それは連中に任せるとして、あのトレーサーがまったくもって役立たずになったことだけは確かだ」
素也はトレーススーツを素早く脱ぐと、ズボンを履き、作業着を着て作業帽をかぶった。宮部は素早くトレーススーツとノートパソコン、そしてイマジナリープレイヤーをアタッシュケースに詰め、素也を待つ。そして回りを見渡すと、何も残してないことを確認した後、廊下に出て捩じ切ったドアノブから指紋を拭き取りドアに嵌め込んだ。二人は非常階段を降りる。
七階の修報社のフロアを通りすぎた後、宮部が後に続く素也を手で制した。階段の踊り場で争う物音が聞こえる。実沙の前に長村が立ちふさがり、抵抗する実沙の手を掴んだ所だった。実沙の黒髪が乱れている。実沙は掴まれた手を振りほどこうともがいていた。
宮部は素也にアタッシュケースを押しつけるように渡すと、音を立てずに階段を降り、長村の背後にすり足で恐ろしく静かに忍び寄った。実沙の視線の動きで背後の気配に気づいた長村が、振り返ろうとした瞬間、宮部の丸太のような太い腕が、長村の首を裸締めで締め上げた。激しく手足を動かした長村だったが、数秒で全身から力が抜ける。
宮部は六階の非常ドアを開くと、内部を伺い実沙に目くばせした。実沙はハンドバッグを拾いフロア内部に駆け込む。床に長村をそっと寝かせ、呼吸と脈を診る。階段を降りてきた素也に、こう言った。
「この脱輪野郎には借りがある」
苦笑した素也は、倒れている長村を心配そうに眺めながら階段を降りた。
一階のエレベーターホールに出ると、守衛の前を通りすぎ、ビルの外に出た。守衛は出て行く物には注意を払わなかった。そして玄関を出ると、何事も無かったかのように来客バッジを守衛に返した実沙が、何処からともなく合流した。
三人で落ち着いてビルの横に回り、カローラに乗り込む。パーキングメーターはまだ時間内だった。カローラを控えめに発車させ、ビルから数ブロックはなれた所で信号につかまると、車内で素也と宮部は握手し手をたたき合った。そして後部座席の実沙を振り返り怪我が無いか確認した。
実沙は首を振った後、二人と眼を合わせないように後ろを向いた。そして誰かつけてないか確かめるように、リアウィンドウのから景色を眺め続けた。
オフィスに戻ると正午を過ぎた所だった。アルバイトは昼食に出かけており、清美だけが手持ち無沙汰な様子で電話番をしていた。実沙の姿を見かけると心配そうに駆け寄る。
オフィスのホールのテーブルで、素也と宮部は昨日からの出来事の一部始終を実沙と清美に話した。実沙も皆に今朝のいきさつを説明する。素也はそこに微かな歯切れの悪さを感じた。
「大無しモト君、可哀想。置いてきちゃったのね」
清美が寂しそうに言う。宮部が
「そんな名前が付いていたのか」
そう言って笑った後、思い出したように付け加えた。
「そういえば、今日はずいぶん色々な物を大無しにしたな」
素也は破壊されたステレオカメラが、最後にヘッドマウントディスプレイに映し出した松下の恐怖にゆがむ顔を思い出し、眩暈を感じた。それを振り払うように頭を振り目を開け言った。
「設計図と制御ソフトはこっちにある。今度はフルモデルチェンジ版を作ってやる。強いぜ」
続けて、
「これに懲りてしばらく大丈夫だろう。今回の件はこちらが被害届を出さない以上、向こうも公に出来ないはずだ。なーに、なにかあったらまた『ワルキューレの騎行』を鳴らしてやるさ。連中、震え上がるぜ」
三人共吹き出した。素也は続けた。
「すぐに人を雇おうと思う。あちらの動きをしっかり見張るんだ。受身ではたまらない。そして、本業でたっぷり差をつけ、松下の首を切ってやる」
そこまで言うと、眩暈の原因が空腹にあることに気づいた。そして、昨日の昼からまったく食事を摂ってないことに思い当たる。「食事に行こう、俺のおごりだ」と言うと即座に近くのステーキハウスに電話をかけ、今から四人で行くとの予約を入れる。
素也は三人がオフィスから出るのを確認すると、アタッシュケースを開き、そっとイマジナリープレイヤーをジャケットのポケットに忍せた。そして、食事から帰ってきたアルバイトに留守番を頼むとオフィスを出て行った。
羽鳥駅のメインストリートから東に外れた住宅街の中にその店はあった。壁に小さな看板がかかっているのを見逃すと、蔦の絡まる瀟洒な洋風の住宅に見える。
中に入ると、一番奥の窓際の席に通される。身体になじむダイニングチェアに、広いテーブル。見事なアレンジフラワーがクロスの上を飾っていた。
ウエイターが控えめにやって来て、黙って待つ。四人はそれぞれ好きな部分を好きな量オーダーする。宮部はロースを1ポンドオーダーした。素也は付け合わせとサラダを全員分頼み、思い出したようにスープを追加した。
食後のコーヒーを飲んでいるとき、実沙は素也に尋ねた。
「ところで、修報社の社長室で何をやっていたの、心配したんだから」
素也は
「これを取り戻していたんだ」
そう言いながら、ジャケットのポケットからイマジナリープレイヤーを取り出した。宮部が素也の方を見てきょとんとしている。素也は立ち上がり窓まで歩いた。そして窓のカーテンを閉めながらこう言った。
「さあ、PT社のエース、宮部正昭の新たなる開発品、カメラの歴史を変えるシステムの記念すべき公開の日がやってきました」
素也はイマジナリープレイヤーの電源を入れ、テーブルの中央に置く。宮部が「社長、やめてくださいよ」と言いながら手を伸ばした。素也はその手を勢いよく払いのけると、モードダイアルを再生にセットした。
実沙と清美が見つめるイマジナリープレイヤーから光が漏れ、イマジナリープレイヤーの10センチほど先の空間に長い髪の少女が現れた。それはまるで手品を見ているようだった。二人の口からため息が漏れる。
空間に投影された一枚の絵は、その輪郭を精緻に浮き上がらせ、天然色で光り輝いていた。背景までおぼろげに形を浮かばせている。そして視点を変えると、立体像は視界の中で回転した。
宮部は大きな体を丸めていた。実沙が驚いた顔のまま口を開く。
「宮部君、どおりで最近残業が多いと思ったわ」
清美は口を半開きにして、空間に現れた自分の横顔を見つめていた。そして宮部の方に向き直るとキュートな声を出した。
「宮部ちゃん、ありがとう。でも実体の方がずっといいでしょ」
宮部は真っ赤になって頷いた。
店を出てオフィスに向かう歩道を歩きながら、素也は宮部に清美の自宅と会社間の送迎をしばらくするように頼んだ。そして素也は清美の方を向き直るとこう言った。
「雇われガードマンより数倍安全のはずだ」
清美は笑顔で宮部の背中をぽんと叩き「よろしくね」と言った。宮部は清美の方を見ることが出来なかった。
清美は実沙を振り返ると
「実沙さん、明日誕生日だったわよね」
実沙に尋ねた。
「もう喜ぶ歳じゃ無いわよ」
実沙は照れて微笑む。
「明日、俺と実沙さんは会社を休もうと思う。後を頼む。何かあったらすぐに連絡してくれ」
素也は話しながら振り向くと、宮部と清美に軽く頭を下げた。
「ずっと休んじゃいなよ。社長。二人とも働きすぎだって。全然休んでないじゃん。後は私と宮部ちゃんに任せておけば大丈夫。ねえ、宮部ちゃん」
清美が宮部の方を向く。
「どうぞごゆっくり」
宮部が笑顔で二人に声をかけた。宮部はとても嬉しそうだった。
午後から素也と宮部はサーバーの復旧作業に忙殺された。予備のパーツを引っ張り出し、足りない分は部品を手配し、特急で届けてもらい組み上げる。
四時ごろになって、実沙が素也の側にやって来た。腰をかがめ、素也の耳もとに話しかける。
「私、先に上がって一度アパートに戻ってから買い物をして、素也さんの家に直接車で行くわ。先に料理を作って待ってるから、帰る時間がわかったら連絡ちょうだい」
素也は少しだけ考えてから頷いた。
「八時までには帰れると思う。携帯に電話するよ」
実沙は何処からともなく取り出した二つに折り畳まれた書類を、そっと素也の膝の上に置くと、ロッカールームへと去っていった。怪訝な表情で素也はその書類を取り上げる。広げた書類は引き伸ばされた二枚の写真だった。さっと二枚に目を通した素也の顔色が変わる。そしてすぐに机の上に写真を伏せて置いた。腕を組んで天井を見上げる素也。その体勢のまま呟いた。
「なかなかよく撮れてる」
データーの修復を終え、セカンダリサーバーの更新分をプライマリサーバーに反映させ終えたのは午後七時だった。動作確認とサーバーの切替を宮部に頼み、素也は引き上げることにした。大きな仕事を終えた満足感と、明日の休みのことを考えると、素也の気持ちは華やいだ。そう言えば会社のある日に休むのは何年ぶりだろう。考えてみたがまったく思い出せなかった。写真のことが頭をかすめるが、素也は実沙に嘘をつく気は全く無かった。正直にありのままを話すだけだった。
ジャケットを羽織り、携帯をズボンのポケットに仕舞う。端末の電源を切ると、宮部と清美に声を掛けてオフィスから出た。階段を下り、MGの充電用のプラグを外す。
MGに乗り込み、発進させた所でズボンのポケットの携帯が鳴った。実沙からだった。車を走らせながら電話に出た素也の表情が一変した。実沙の声はせっぱ詰まっていた。
「素也さん、今素也さんの家に向かっているところだけど、バイクの男につけられているみたいなのよ。気のせいならいいんだけど」
「今どこ、携帯をずっと切らないでくれ。バイクの様子は」
素也の頭の中に、実沙のアパート前で見かけたあのオートバイの男の姿が唐突に浮かんだ。フルフェイスのヘルメットをかぶった男。
「あと五分ぐらいで素也さんの山の入り口に着くわ。家を出るときからバイクが後ろを走っていたんだけど、スーパーで買い物をした後、しばらくいなかったから大丈夫かなと思ったの。でも、またさっきから後ろにバイクがいるの。何か同じバイクのような気がして」
「俺もそちらに向かっている。スピードを落として、時間を調整しよう。こっちは全速力で行くよ」
しばらく無言の時間が過ぎた後、実沙が口を開いた。
「あ、もう入り口についちゃった。曲がって一旦車を停めるわ。あ、よかった、バイクはいないわ。通りすぎたのかしら。やっぱり考えすぎだったみたいね。今から坂を登るわね」
素也は安心した。それでも携帯を肩に挟み、林道を矢のように登っていく。
「今、坂道を登り中よ、もう大丈夫みたい。心配掛けてごめんなさい」
しばらく話しているうちに実沙はクラブハウスに着いたようだ。
「今着いたわ。もう真っ暗ね。今後ろから荷物を出しているの、結構買い込んだから重いのよ」
その時
「あ、バイクの音が聞こえる。近いわ、どうしよう」
実沙の悲鳴に近い声がした。素也は激しく動揺した。頭を働かせるのに苦労する。
「実沙さん、落ち着いて。よく聞くんだ。玄関は内側からロックできないから開けては駄目だ」
そして、今朝寝室の窓を閉め忘れたことを思い出す。
「玄関を右に進んで建物に沿って左に曲がると奥に開いている窓がある。寝室の窓だ。そこから入って、窓をロックした後、トイレの個室に逃げ込め。ドアをロックしてしばらく待つんだ。あと十分もかからないうちに俺が着くから」
そこまで言うと、Qちゃんの事を思い出した。
「実沙さん、トイレに入ってロックをしたら、携帯を切ってくれ。Qちゃんを作動させる」
「今窓から中に入るわ、バイクの光が見える、こっちに走ってきているわ」
実沙の声は焦っていた。物が擦れる音が聞こえる。
「窓をロックして、トイレに行くわ。じゃあ切るわね」
そして電話は切れた。素也はQちゃんに40秒の発信を行なった。四十秒が無限の時間に感じられる。
Qちゃんへの発信を切った後、実沙に電話をしようとして素也は迷った。もし、男か家の中にいたら、着信音で男に実沙の居場所を教えることになる。素也はダイヤルすることが出来ない。そして、大きな間違いをしてしまったのではないか、もっと違う手があったのではないかと激しく後悔した。
クラブハウスの中のキッチンのカウンターに掛けていた男は動きを止めた。
車の停車音に続いて建物の外を走る音、電話で話す女性の声、そして実沙と思われる女が窓から寝室に入ってくる気配と同時に「オバケのQ太郎」の着信メロディがクラブハウスに鳴り響いた。モーターのうなる音と、空気の吸引音が聞こえてくる。さらにはバイクが近づいてくる音がした。誰かが洗面所に駆け込む音が聞こえた。男は突然の状況変化を掴むべく冷静になろうとした。しかしそれは無理だった。キッチンの入り口から、掃除機の本体ほどの物体が吸引音を響かせながら男に近づいてきたのだった。
思わず立ち上がった男をまるでマークするように、掃除機のような物は男の回りを回り始める。
ライトが点きっぱなしでリアハッチの側に食料品が散乱している実沙のフィアットの横にバイクの男はオートバイを停めた。オートバイから降りると、玄関を開こうとするが数字錠が掛っていて開かない。壁を右に進み、窓から中を覗き込み、窓を揺らしてロックを確かめる。そのまま窓や勝手口のロックを確かめながら男はクラブハウスを一周した。
素也はただただアクセルペダルを踏み込み、ステアリングを切り続ける。
タコメーターをレッドゾーンに飛び込ませながら農道のストレートを飛ぶように走り、少しの減速のみで信号を無視して国号に突っ込む。
国道に合流した素也は、躊躇無く先行車を追い越し反対車線に飛び出す。対向車のパッシングとホーンの集中砲火を浴びる。かまわずに素也はアクセルペダルを踏み続ける。タコメーターは五千回転から落とさないようにギアを変え続けた。
山道の入り口につき、激しくリアをスライドさせて左折すると、路面に伝えきれないパワーを撒き散らすかのようにリアを左右に振りながらMGは山荘への山道を登った。
実沙は焦っていた。
トイレのフットライトが消えないのだ。これではここにいると教えているような物だ。心の中で「消えて、消えてよ」と叫びを上げる。
部屋の内部にいた男は、掃除機に歩み寄ったと同時に、突然近づいてきた掃除機に跳ね飛ばされた。立ち上がった男にさらにその物体は突っ込んでくる。足の裏で掃除機を止めようとしたが男はまた跳ね飛ばされた。転んだ男のまわりをその不気味な掃除機は、空気を巻き込む音をたてながら回転して距離を取る。目の部分のLEDが点滅する。
実沙は思い出した。
素也に抱き抱えられてベッドに入り、その後にフットライトが消えたことに。便座の上に乗ると両脚を抱えて座り込む。しばらくするとフットライトは消え、真っ暗になった。Qちゃんの吸引音と、激突音が聞こえてくる。そして大きな激突音と共に吸引音は止み、静寂が広がった。
男は低く構え、突っ込んできた物体の勢いを殺すことなく両手で掴むと抱えあげた。
持ち上げてしまえばその物体は何も出来ない。男はうなりを上げる物体を頭上に抱え上げ、壁の石の部分に叩きつけた。激突音と共に、静寂が訪れる。
男はフットライトを引き連れ寝室に向かい、部屋の中を見渡す。クローゼットを勢いよく開く。その後洗面所に入ると、一つだけ鍵のかかっている個室の前に立った。
実沙は足音を聞き、揺らめきながら近づくフットライトを床の透き間から感じた。心の中で素也の名を呼び続ける。
突然激しい激突音がして、ドアが自分の身体におおいかぶさってきた。実沙はあまりの恐怖に気を失いかける。
男は実沙の襟首と髪の毛を掴んでトイレの個室から引きずり出した。
実沙は抗い、ワンピースの袖が抜け、背中の合わせ目が大きく裂ける。実沙は悲鳴を上げ、少しでも男から遠ざかろうとする。寝室を抜け、キッチンに駆け込む。しかし男は実沙の腕を掴み、後ろから実沙の胸を掴む。下着が上に捲れ上がる。激しく実沙が抵抗する。男は実沙の腿を蹴り付けた。実沙はその場に崩れ落ちる。男はさらに倒れた実沙をいたぶるように何度も蹴り上げる。
突然男の動きが止まった。
クラブハウスの外でうなりを上げるバイクのエンジン音が聞こえてきたのだ。そして、激しい激突音が何重ものこだまとなって実沙と男の耳に届く。男、加藤は実沙から手を離し、玄関に向き直った。ベルトに差しておいたブラックジャックを抜き、右手に構える。
突然クラブハウスの内部から大きな音が聞えてきた。
続いて女の悲鳴が夜空に響く。バイクの男にとってその悲鳴は遠い世界からの声のように聴こえた。バイクの男は、玄関先に止めておいたバイクに駆け寄ると、素早くまたがり、スロットルレバーを開きながらクラッチを繋ぐと、玄関ドアに突っ込んだ。何回目かの激突で、ドアの金具は外れドアは内側に倒れた。オートバイを倒したままにして、バイクの男はクラブハウスの中に入る。フルフェイスのヘルメットのシールドを跳ね上げる。
加藤は大股でキッチンに入ってきた男を見て激しく動揺した。
たとえ誰が何人でかかってこようが楽しいだけのこの男にとって、目の前に立つ長身の若い男、昨夜叩きのめされたばかりの男は、恐怖の塊に見えた。
バイクの男は加藤の目の前に静かに立ち止まった。目に悲しげな怒りを湛えている。加藤の足が勝手に激しく震え出し、身体が言うことを聞かない。精神は戦うことを拒む。その場を逃げ出すことしか加藤の頭になかった。
振り返り寝室へ駆け出し、窓をブラックジャックで叩き割り、クラブハウスの外に転げ出ると、森の中へ駆け込んだ。
バイクの男は実沙を無表情で見下ろしていた。
実沙はワンピースが大きく裂け、ずれた肌着から隠すべき肌を露出させていた。実沙は助けてくれたこの男、初めて見るこの男が何者か計りかねていた。男が実沙に近づき手を差し伸べる。タイヤの激しいスキール音が聞こえてきた。実沙はもう何が起きているのは考えることが出来ない。男の手を握ると一緒にキッチンを出てメインルームに向かった。
MGはフルブレーキで玄関前に停まる。
素也がMGから飛び降りた。オートバイによって破壊された玄関の残骸を飛び越え、玄関ホールに駆け込んだ素也の眼に、服を乱し男に引きずられるように歩く実沙と長身の男の姿がキッチンからの灯りを背にシルエットとなって浮かび上がる。
「実沙を離せ」
素也の声が地鳴りのようにホールに響き渡る。
実沙が顔を上げ、素也の姿を確かめると安堵の声を上げその場にしゃがみ込んだ。実沙は頭部から出血していた。おでこに一筋の血が流れる。
それを眼にした素也は、頭から血の気がすーっと引くのを感じた。身体から余分な力が抜け、おへその下に身体中の気が集まる。素也は極限の怒りで逆に冷静さを取り戻す。
外から実沙のフィアットらしいエンジン音とタイヤの激しいホイルスピンの音が聞こえてきた。しかし、三人は誰もその音に注意を払わない。
男が実沙から手を離し、フルフェイスのヘルメットを取って、床に放り投げた。実沙が壁際にいざるように移動する。壁際のフットライトが揺らめく。実沙が素也に振り絞るような声を出した。
「この人は私を助けてくれたのよ」
しかし、男は実沙の声を無視すると素也に静かに言い放った。
「お前は俺の母親を殺した」
素也は声を聞く前、最初に姿を見たときから男が誰だか気づいていた。あるいは、もっと前からかもしれない。バイクの男はやはりケンだった。
素也にはケンの言葉がまったく理解できない。何が起こっているのさえ解らない。しかし、目の前にいるのは強靭な危険な男と、守るべき女の二人だ。余計なことを考えずに、自分の気合いを高める事に専念する。戦いは回避できない事を相手の目は物語っていた。
「殺しておきながら、葬式の日は女とデートかよ」
もしかしたら、以前から実沙の事をかぎ回っていたのかもしれない。そう思うと、実沙にこの場から逃げ出すように伝えた方がいいかもしれないという考えが素也の頭をよぎる。実沙が危険だ。しかし、実沙は立ち上がれずにいた。
「俺はお前の母親のことは何も知らない」
「お前がなぶり殺したんだ」
「何が言いたいんだ」
「お前と戦いたい、本気の勝負だ」
「道場で組手が出来るじゃないか」
「俺は殺し合いがしたいんだよ」
そう言うとケンは両手を上げてガードを固めると、ジリジリと素也に近づいた。ケンは手に革のグローブをはめ、足元はライディングブーツだ。組手の素足の時より重みで蹴りの威力は増すだろう。素也は革靴だった。大理石の床で滑るかもしれない。
素也は素早く靴を脱ぎ、靴下を取った。ジャケットも脱いで、壁際に放り投げる。ホールの中央部まで後ずさり、実沙から距離を取る。
二人はホールの中央で次第に距離を詰めながら左に回り続けた。ホールのフットライトも揺らめきながら二人を追って回転する。
ケンはガードを上げ、素也にジリジリと近づくと、アップライトの構えから距離を測るように左前蹴りを放った。素也は下がらずに一歩左斜め前に出てそのままケンの左足に沿って、強烈な右の中段突きを放つ。ケンが左の肘でその突きを受けた。後ろに一歩下がる。骨と骨とがぶつかり合い、嫌な音を立てた。
下がり際、ケンは左足に体重を残したまま、右のハイキックを放った。ほぼ垂直に足が上がり、右手の突きを引き終えた素也の頭部を上から襲う。
素也は上体を右にひねって避けるが、左の肩口に強烈な衝撃を受けた。打下ろしのハイキック?体験したことのない攻撃に素也は驚いた。左肩の鎖骨が折れたかもしれない。
が、連続して、下から剃刀のような攻撃が素也の顎を襲う。アッパーカットのような軌跡で飛んでくるムエタイ流の肘打ちだ。素也は際どく後ろに倒れ込みながらかわすと、素早く起き上がった。
ケンは表情を崩さずに攻撃を仕掛けて来る。素也も受けながら突や蹴りを放つが、ことごとく見切られる。
素也は、道場での組手の時の攻撃パターンと今のケンの攻撃パターンがまったく違うことに驚いていた。まったく迷いが無く、しかも容赦が無い。空手でいう正拳突きや回しげりは使わない。肘と膝、そして、打下ろしのハイキックだ。しかも一撃一撃が重い。少しでも受けを誤ると、それが致命的になることが素也には分かっていた。
ハイキックを避け、ダッキングで屈んだ素也の首を長い手で上から押さえつけると、ケンは膝蹴りを連打した。鳩尾にいい膝蹴りを受け呼吸が止まる、ガードが下がった素也の顔面に、左横からケンの肘が飛んでくる。辛うじて肩をもちあげて顎をガードする。肩に当たった肘が方向を変え素也の左のこめかみに当たった。衝撃が失われているとはいえ、まともに食らった素也は思わず右膝を突いた。うずくまる素也に、ケンの打下ろしのキックが連続的に襲い、素也の頭部のガードを跳ね飛ばす。実沙の悲鳴が聞こえた。
「それで終わりかよ、道場での偉そうな態度はどこに行った」
ケンの声がホールに響く。ケンも呼吸が乱れている。
素也は頭を振りながら立ち上がる。左の側頭部から流血していた。鎖骨には少なくともヒビが入っていることだろう。呼吸が苦しい。頭の中で敗北を認める自分がいる。身体の痛みがこれ以上戦うことを拒む。
しかし素也はそれにかまわず前後左右にフットワークを使い始めた。リズムを感じ次第に精神が覚醒し、身体が羽根のように軽くなり始める。そして、素也は兄、拓也とボクシングののスパーリングで磨いたコンビネーションを思い出していた。
素也の空手の動きは、稽古毎の組手でケンに惜しみなく与え続けている。このまま前後中心の動きでは、攻撃しても今のケンには通用しないだろう。両手の拳を口の前に揃えて構える。左右にステップアウトし、細かく身体を振る。素也がボクシングに夢中だった頃の構えだ。
構えを変え、フットワークを使い始めた素也に合わせて、ケンも攻撃パターンを変えてきた。足技中心に戦法を変える。ダッキングでかわしたら、また上から押さえつけて膝と肘で仕留めるつもりだろう。
自在に動く脚を使って、ケンは多彩な蹴りを見せる。空中で蹴りの軌跡が変わり、ムチのように遠くに届く蹴りだ。素也はかわすのに精いっぱいで、攻め込めない。後退する。
素也を壁に追い詰め、中間距離から伸びるキックを放ち、壁を避け回り込んだ素也に、下から垂直に駆け抜ける前蹴りを素也の顔面に放つ。スウェーで後ろに避けた素也に、ケンは、ジャンプしての二段蹴りを見せた。二発目を受け損ね、衝撃を胸板にくらった素也を追い、左のストレートを放つ。
素也は勝負に出た。
素也はケンの左に合わせて、自分の右方向にスリッピングを見せた。ケンの左が素也の左耳をかすめる。そして右前に跳んだ身体の動きを右足で止め、反発力を生じさせると、右のショートフックを、密着したケンの左の無防備なわき腹にたたき込んだ。腰を思いっ切りひねり、その回転を上腕に伝え、拳を捻り込む。この戦いで始めての手応えだった。そしてこれで終わりだ。
ケンは左後ろからのパンチに対応するため素也のいる左に向き直らざるを得ない。ケンの攻撃がワンテンポ止まる。そして、左に身体をひねると、素也の顔面めがけ、右の打下ろしのストレートを放つ。
素也はケンの右のストレートに合わせて、今度は左に鋭く跳ぶと、ケンの右のストレートをまたもやスリッピングでかわした。ケンのパンチが素也の右頬をかすめる。そして、着地した左足に全体重を掛けて反発力を生じさせ、ケンの伸びきった右脇腹に渾身の左ショートフックを至近距離からたたき込んだ。ケンの表情が苦痛に変わる。
ケンは今度は自分の右サイドに姿を消した素也を探し右に向き直った。しかし、両脇腹の激痛で両腕は上がらず、ノーガードだった。下から飛んでくる素也の右アッパーカットを視界の隅に捕え、ケンは敗北を確信する。
ケンへ左ショートフックを放った後、素也は右足に全体重を掛けると、身体中のバネを使い、右のアッパーカットを自分の身体の中心から外に向けて放った。右手が軽く何かを砕いた感触があった。鋭く返しの左ストレートを放った素也の目の前にケンの姿は無かった。ケンは素也の足元に崩れ落ちていた。そして崩れ去りながらも実沙の姿を眼で追うケンの表情が素也の残像に残された。
素也は実沙に駆け寄った。ゆらめく光が素也を追う。
実沙はじっと素也を見ていた。素也のこめかみの傷を心配そうに触る。素也は実沙の手を払うと、実沙の頭部の傷を探した。実沙の傷は浅く、すでにふさがって血が渇いていた。倒れてきたドアが頭に当たったのだった。
素也は実沙の無事に大きく安堵のため息を漏らした。実沙を抱き締める。その直後、自分の身体の節々を走る激痛に顔を歪め呻き声を上げる。
そして、脱ぎ捨てたジャケットから携帯を取りあげてメモリから宮部を呼び出しダイアルした。呼び出し音を聞きながらジャケットを実沙に掛ける。
「宮部か、今どこだ」
「今車の中です。今から清美さんを送って、そのまま帰るところです。社長」
宮部の声は素也に大きな安心感を与えた。
「悪いが頼みがある。英子さん夫婦を連れて俺の山荘に来てくれないか。犬飼涼がここにいると伝えればいい。英子さんの弟だ」
宮部は「了解」と言うと、電話を切った。宮部は余計なことは何も聞かなかった。素也がめったにしない個人的な頼みなのだ。宮部が断る訳が無かった。
素也は電話を切ると、実沙に寝室で休むように勧めた。実沙は首を振る。そして、倒れているケン=犬飼涼の方に眼をやると、素也に話しかけた。
「あの人大丈夫なの」
「ああ、骨が数カ所折れただろうが、あれぐらいで死ぬような奴じゃない。しばらくメシを食うのに苦労すると思うがな」
素也はそう答え、犬飼涼の事を実沙に話した。
「あいつは、俺の空手の教え子だ。そして、一番の練習相手だった」
「あいつの姉は宮部の学生時代の知り合いで、昔、宮部と俺の三人で俺の会社で働いていたことがある。設立当初の半年程だ。そのことはあいつは俺に隠していた。俺も最近まで知らなかった」
「そして、土曜日はあいつの母親の葬式だった。宮部が出席した。その日俺と実沙さんの後をつけたようだ。実沙さんのアパートの前でヘルメット姿のあいつを俺は見た。その時はあいつだとは気づかなかったがな」
「そして、今日、実沙さんのアパート前から、実沙さんの後を追い、ここに来た」
素也は自分の気持ちを整理するようにゆっくり話した。そして、こう付け加えた。
「俺が知っているのはここまでだ」
実沙が素也の知らない部分を付け足した。クラブハウス内にすでに知らない男がいたこと、その男に襲われたこと、犬飼涼がバイクで玄関を壊して助けてくれたこと。
素也は遠くを見つめながらその話を聞いた。そして実沙の話が終わると二人は黙り込んだ。
大理石の床は、昼間に照らされた太陽熱を蓄熱して輻射するので、ホールの中は暖かい。破壊された玄関から時折夜風が吹き込む。火照った頬に心地よかった。
実沙は洗面所に行くと化粧を直し身なりを整えた。寝室のクローゼットから素也のカーディガンを取り出し、裂けたワンピースの上から着込んだ。素也のジャケットはクローゼットに掛けておいた。そしてタオルをお湯で絞り、ホールに戻ると、素也の左頬の血を拭き取った。素也が実沙に礼を言う。
宮部に連絡を取ってから40分ほどで、宮部と英子夫妻がやってきた。大きなメガクルーザーのエンジン音が最初に止み、そのあと小さなエンジン音が止んだ。車のドアの開閉音がした後、数人の足音が近づいてくる。実沙は一旦キッチンに下がった。
素也は壁の上部に光る赤い点を右手で遮った。ホールの壁と天井の透き間が次第に明るさを増し、ホール全体が浮かび上がるように明るくなった。
宮部が姿を現した。ケンの姿を見て驚いている。
「殺しちゃったんですか」
素也に小声で尋ねる。素也は苦笑して首を振った。
「早かったな、ありがとう」
素也が礼を言うと
「社長から連絡があった後、すぐに英子さんに電話しました。そして、俺達は真っ直ぐに来たんです。しばらく待ってからこの山の下で英子さん達と落ち合いました。清美さんを家まで送ってから来ようかと思いましたが」
そう言うと宮部は玄関の方を見た。入り口で様子を窺っていた清美が驚いた顔で「あらあら」と呟きながら入ってきた。そして素也に顔を向けるとこう言った。
「私、どうしても来たかったの」
そして清美の声を聞きつけ、キッチンから出てきた実沙の姿を見つけると
「実沙さん、心臓が止まるかと思ったわ」
そう言いながら実沙に駆け寄り、実沙の無事をそれは喜んだ。怪訝な顔の素也に気づくと、宮部はこう説明した。
「この山荘の入り口で先ほど事故が有ったようなんです。事故処理の車が沢山止まってました。英子さん達を待っている時、事故現場を眺めていたのですが、大破した車が実沙さんのフィアットではないかと清美さんが言い出したので、まさかと思い、慌てて事故処理中の警察を捕まえて事情を聴いたのですが、被害者は男性と言うので不謹慎ですがホッとしたのですよ。まさか社長かとも思いましたが、社長がそんな事故に遭うはずは無いですし」
そこまで宮部が話したとき、英子とその夫がホールに姿を見せた。英子は心配そうに部屋の中を伺っていた。身体にフィットしたセーターに細身のジーンズ。そして、英子の夫は四十歳前後の身体が引き締まったハンサムな男だった。普段着に作業用ジャンバーを羽織っている。実沙は驚いた顔で英子の夫を見ている。全く視線を外さない。
英子が倒れている涼に気づき、駆け寄ると素也の方を振り向いた。素也が「命には別条無い」と断ってから、今日の状況を四人に話し始めた。犬飼涼が素也の空手の教え子だということも話す。そして、英子の方を向き直るとこう言った。
「あばら骨数本と顎の骨が折れている恐れがあるので、すぐに病院に連れて行った方がいい。空手の道場の近くに神田外科という医院がある。腕も確かだし、少々無理が利く」
久しぶりに見る英子は疲れでやつれてはいる物の、学生の頃と変わらず魅力的だった。その上に成熟した女性の美しさが加わっていた。だが今の英子の表情は険しかった。英子は横たわる涼の横に座り込んだ。そして
「全部私のせいです」
そう言うと、涼の背中にそっと両手を置いた。気がつくと、涼は泣いていた。背中が小刻みに震えている。
英子は立ち上がり、玄関の横に立ち尽くす英子の夫の所に戻ると、小声で何ごとか伝えた。英子の夫は英子の肩を叩いてうなずくと、素也と実沙の前に来て両ひざを床に着け、頭を下げるとこう言った。実沙がその姿を瞬きもせず見つめる。
「私は英子の夫の犬飼聡です。涼の保護者として、深くお詫びします。責任を持って、損害を賠償し、私が涼をたたき直します。もし、水野さんが望むのであれば、被害届を警察へ出して下さい」
はっきりとした言葉で謝罪する英子の夫の話を聞いて、素也は「頭を上げてください」と言った後こう続けた。
「ケン、いや、涼のことは自分なりに知っていたつもりでした。だが、まだ知らない事が有った。これから溝を埋める用意はあります。それに、今夜の詳しい状況はまだ私も何も掴めていない。どうか今日のところは涼を病院に連れていってください。神田外科には私から連絡を入れておきます」
英子の夫は立ち上がると、深々と素也に礼をして、その後実沙に礼をした。実沙は相変わらず英子の夫を見ていた。
そして、涼の所に行き「立てるか」と涼に聞くと、英子と二人で涼の肩を支えて立たせた。そのまま二人で挟み込むように涼を支えながら歩いて玄関から出ていった。涼は激しく泣いていた。
エンジンの音がして、すぐに車が走り去る音が聞こえた。素也は携帯を取り出すと、神田外科に電話をして院長を呼び出した。挨拶をした後「これから顎と肋骨を骨折した練習生が行くので宜しく」そう言って電話を切った。
偶然道場と同じ町内にある神田外科は、練習生の怪我の治療場所になっていたのだ。救急病院にも指定され、小さいながら入院設備もある。素也も道場に入門当時は幾度もお世話になっていた。
電話を切った時、玄関から英子が再び姿を現した。宮部が壁際にある大型のソファを軽々と持ち上げると、英子の後ろにそのソファをそっと置いた。もう一脚を素也と実沙の後ろに置く。そして、宮部と清美はキッチンに消えた。
三人はソファに座り込んだ。誰もが答えを求めていた。英子が静かに話し始めた。
私と八つ歳の離れた涼は、お姉さんっ子でした。母の仕事が忙しく、自然と涼の面倒は私が見るようになりました。
涼はお姉さん思いの優しい子です。社長、いや、素也さんご存じのようにうちは母子家庭です。私が中学生の時父を交通事故で亡くし、その後は母のパートや父の遺族年金と事故の示談金で暮らしてきました。そのお金で私も大学に行くことが出来たのです。
大学で宮部先輩と仲良くなり、素也さんの会社でバイトしました。あの頃は本当に楽しかった。それまでの人生でも一番輝いていた気がします。素也さんと宮部先輩と一緒なら、本当に何でも出来、何処までも行ける気がしていました。
家に帰って毎日、今日あったことを詳しく当時中学生だった涼に話して聞かせました。涼も、色々私に質問してきました。そして仕事から帰ってきた母にも同じことを。
宮部先輩が何を話し、素也さんがどんな表情でそれを聞いたか。二人の仕事に取り組む様子や、毎日毎日仕事が凄い勢いで進むこと。そして、自分の仕事が少しは素也さんの役に立ったことを確認して、自慢していたのだと思います。
私は正直言って、卒業後、そのまま素也さんの会社で働きたかった。しかし結局、宮部先輩だけが残ることになりました。分かっています。技術者の宮部先輩はともかく、あの頃正社員を二人も雇う余裕は素也さんには無かったことは。そして、大きな会社に就職するように勧めた素也さんの心遣いも。
就職活動に身を入れてなかったこともあり、卒業後の進路はすぐには決まりませんでした。そして、私はふさぎ込むようになりました。
就職のこともあったのですが、その時私は、素也さんに恋をしていたのです。素也さんから離れることはとても苦痛でした。そして悲しみの中でそのまま私は卒業したのです。
涼はすべてを知ってました。勘のいい子なんです。私の落ち込んだ様子を見て、何かと励ましてくれました。しかし、母は私を責めました。「何で自分から会社に残れるように頼まなかったの」とか「せっかく苦労して大学を出したのに」と言って、仕事から帰ると毎日私に愚痴を言ったのです。
私は職業安定所を通じて、山岡市の小さな運送屋兼引越会社である、夫の会社に就職しました。そして、一年ほど働いた後、夫と結婚したのです。夫は、先妻に先立たれ、男手一つで子供を育てていました。そこで働くうちに、次第に気持ちが通じ合い、愛し合うようになったのです。
しかし、母は、私たちの結婚を認めませんでした。自分とそう変わらない年の私の夫に対して「雇い主の癖に父親面して、大事な娘をたぶらかした、男やもめの子持ちの小さな会社の社長」という評価しか与えませんでした。何を言っても聞いてくれません。
しかも、結婚前に夫が夫の実家から籍を抜いて、犬飼に養子に入りたいと言い出したことから、さらに話がこじれ、母と私達の関係はもう修復不可能なところまで来てしまいました。涼はつつましくも幸せな家庭が、荒れてゆく中で多感な思春期を過ごしました。私と母の間に立って、とても辛かったことでしょう。
涼はちょくちょく私の家に遊びに来てくれていました。彼なりに私と母の溝をなんとかしたかったのだと思います。最近は私の子供を通じて雪解けの気配があっただけに、母と完全に和解できぬまま、永遠に別れることになってしまい私もショックでした。
母の死後、母と二人暮らしだった涼は一人で姿を消しました。私たちも心配で八方探したのですが葬式にも出ずに、こんなことをするなんて。
涼が素也さんのまわりをそれとなく探っていたことは私も気がついてました。空手を教わっていることも。姉が好きだった男に兄や父のような興味を持ったのだと思ってました。私があまりにも素也さんを褒めすぎたのがいけなかったのかもしれません。ただ、私は、涼が素也さんと仲良くなってくれることを心の何処かで期待してました。
そういえば、数年前涼が
「姉貴がバイトしていた会社に、事務の女性社員が初めて入ったみたいだ」
そうなにげなく私に話したことを覚えています。
その時はただ、そのまま聞いただけでしたが、今となってみるとその時から
そこまで言うと、英子は実沙を見つめて唐突に言葉を切った。続けるべき言葉が見つからないようだった。
実沙が口を開いた。
「英子さん、牧野実沙と申します。はじめまして」
「はじめまして。この度は弟がたいへんなことを」
英子は実沙に頭を下げた。実沙はとんでもないという風に首を振った。一呼吸置いて実沙が切り出した。
「英子さんの旦那さんの事について聞きたいのですが」
素也と英子は実沙の言葉に驚いた。実沙は続ける。
「聡さんとおっしゃいましたが、実家と揉めていらっしゃるようですが、何故なのでしょう」
「何故そんなことを?」
英子は尋ねるが、実沙は答えない。いや、答えることができない。
しばらく沈黙が続いた後、実沙の表情に気圧されるように、英子は言葉を選びながら話し始めた。
「夫は、実家ととても折り合いが悪かったのです。身内の恥なので申し上げにくいのですが、可能な限り詳しく話したいと思います」
「夫は学生の時、両親の再婚を期に家を飛び出しました。それ以来実家の呼びかけにも答えず身を隠すように大学に通いました。そして学生時代にバイトしていた隣町の運送会社に卒業後就職、そこで十年以上働き、努力が実ってのれん分けしてもらい、この町で起業したのです。小さな会社ですが、少しは皆様のお役に立っていることと思います」
「先程お話ししましたように、私との結婚を機に夫は犬飼籍に入り、相続放棄をして実家とは完全に縁を切りました。その頃、実家のことは双子の弟に任せてあると言ってましたが、今やもうその弟もいません」
ソファの上で実沙が僅かに身を乗り出した。
「その弟は子供の頃から神童扱いされ、将来を嘱望されたサラリーマンだったのですが、二度の結婚に失敗した上、義理の妹とのよからぬ噂を会社で取り沙汰され、海外に一人で左遷同然に転勤になったようです。そして二年前に赴任先で体調を崩し、極度な鬱病と診断され、日本に送り返される直前に現地で自ら命を絶ちました。遺書は夫宛でした。夫は深く悲しみました。そして、『おれの育った家は他人の物になった』と言ってました」
思わずきつく眼を閉じた実沙は、しばらくの間微動だにしなかった。そして、実沙は眼を開け英子を見つめると、震える声でさらに質問をした。
「失礼ですが、旦那さんにお子様は」
英子の表情がわずかに和らいだ。
「夫には先妻との間に女の子が一人います。もう十四歳で、成績も良くしっかりしてます。仕事で忙しい私たちを助け、下の子達の面倒をよく見てくれます。この娘は、陸上部で全国大会に出るほど足が速いんですよ」
「それから養子縁組み申請中の女の娘が一人、これは自殺した夫の弟の娘です。施設に入れらていたのを、弟の葬儀後、弟の遺志に従い夫が引き取ったのです。実の母親からは病気で親権放棄され、二番目の母親や実家の家族にはずいぶん邪魔にされていたようです。可哀想な境遇の娘でしたが、こちらに来てからはすっかり元気になり、ちょうど五歳になりました」
「あ、この娘はとっても涼になついていて、私の言うことより涼の言うことをよく聞くんですよ」
「そして、私との間にもうすぐ二歳になる男の子がいます。口には出さない物の、初めての男の子で夫も喜んでくれました。ただ、夫は上の子と違い甘やかしちゃって。なのでいたずら好きで困ってます」
英子は子供たちの顔を思い出したのか、優しい微笑みを見せた。素也が実沙に眼をやった。実沙はもう質問する事は無かった。
実沙はただただ呆然としていた。大きな眼を見開き、誰もいない壁を凝視していた。素也はその一瞬後にすべてを理解した。
英子は立ち上がり、二人に向き直るとこう言った。
「素也さん、実沙さん、涼には必ず謝罪させます。私は素也さんを感謝こそすれ全く恨んでいません。涼ともう一度一緒に暮らして、私たちの幸せをたくさん分けてあげます。きっと涼はわかってくれるはずです。きっと」
素也は英子の顔を見て、ゆっくりと頷いた。