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第6章 クラッキング Monday October 4

目覚めると7時前だった。窓の外を見ると、霧雨がしんしんと降っている。実沙は隣で静かに寝息を立てていた。しばらく寝顔を見た後、そっとベッドから抜け出し床のバスローブを拾い、洗面所に向かった。

洗濯機にバスローブを突っ込み、トイレに行き、シャワーを浴びる。バスタオルを使い、トランクスと白いTシャツを着る。寝室に戻り昨日履いていたリーバイスを履いて左手首にオシアナスを巻く。

物音で実沙が目を覚ました。素也を見つけ、回りを見回し

「ここはどこ?」

柔らかな笑顔で尋ねる。はだけたバスローブや、髪の毛の寝癖までもが魅力的だ。素也は寝癖を撫で付けながら尋ねる。

「おはよう、良く眠れたかな」

実沙は頷いた。

「朝御飯はパンでいいよね。俺が作るよ。シャワーをあびてくればいい」

素也は言うと、キッチンに向かい、お湯を沸かした。昨日の皿を片付け、冷蔵庫からベーコン肉の固まりを取り出し、5ミリ程の厚さで切り始めた。パンナイフで食パンを手早く切り、オーブンを余熱しておく。

卵を4つボウルに割り、手早くかき混ぜる。フライパンにバターを少し落とし、コンロに掛ける。煙が立ち上ったのを確認してベーコンをフライパン一面に敷き詰めた。

パンをオーブンに入れる。ベーコンは自身から出た油でカリカリに揚がる。ベーコンを皿に取り出し、オムレツ用のフライパンを取り出すとバターを引いた。ボウルの卵を流し込む。固まらないうちにフライパンを傾け、ゆすって卵を巻き込み、半熟のオムレツを作った。

実沙がシャワー後バスローブのままキッチンに入って来ると申しわけなさそうに言った。

「ごめんなさい、全部させちゃって」

素也は笑顔で応えると、焼き上がったパンをオーブンから皿に取り出し、カウンターに運んだ。そしてベーコンとオムレツをカウンターに運び、野菜ジュースと牛乳の大瓶を冷蔵庫から持って来た。コップも四つ用意する。そして食後のコーヒー用にお湯を沸かした。実沙に「さあ、食べよう」と言うと、パンにバターを塗り出した。

素也がオムレツに縦にナイフを入れると、オムレツは自分の重みで綺麗に二つに割れた。フォークでベーコンと共に味わう。実沙は「美味しい」と何度も言う。パンでオムレツの皿を拭って綺麗にする。

素也はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、カウンターに運んだ。コーヒーを飲みながら

「今日はミーティングの日だったね。八時十五分にここを出れるかい」

と実沙に尋ねた。実沙があたりを見回して時計を探す。素也が左腕のオシアナスを示しながら「後三十分」と答えた。実沙は「大丈夫」と頷く。

素也はコーヒーを飲み終え、立ち上がりかける実沙を制し、皿やカップを食器洗浄器に突っ込みボタンを押した。オーブンの中皿を洗い、フライパンを洗ってコンロに掛けて水気を取り、油を引いておく。カウンターとキッチンの回りを布巾で拭き、布巾を洗って消毒液に浸し、絞らずに洗ったまな板の上に被せる。

実沙が感心して言った。

「私より手際がいいわ」

素也は

「このキッチンに慣れているだけだよ。実沙さんもすぐに慣れるって」

実沙は嬉しそうに微笑んだ。


実沙は八時十分に荷物をまとめ、身なりを整えて玄関に出てきた。素也は窓を施錠して、玄関の数字錠を掛け外に出た。玄関前のロータリーは、玄関の前だけ車止め用に屋根がついている。

MGのトランクリッドを開け傘を入れ、実沙のショルダーバッグを積みトランクリッドを閉めた。助手席のドアを開け実沙を座らせ静かにドアを閉める。運転席側に回り込み乗り込む。エンジンを掛けると、暖機もせずにゆっくりとMGを発進させた。

実沙が首を回して、雨に濡れるクラブハウスや庭、ジャグジーや池を名残惜しそうに見つめている。そして呟いた。

「本当に楽しかったわ」

素也はワイパーのスイッチに手を伸ばし、間欠ワイパーにセットしながら答えた。

「まだまだこれからさ」

実沙は視線をフロントガラスに向け、微かに頷いた。


オフィスに着き、一階の駐車場にMGを突っ込み、降りると助手席のドアを開け実沙を降ろす。コンセントをMGのボンネット下に差し込んだ。MGの後ろで待っている実沙に話し掛ける。

「今日の帰り、家まで送るから荷物は入れっぱなしでいいよ」

実沙は「あ、そうか、ありがとう」と言うと笑顔を見せた。


一緒にオフィスに入った二人を見て、宮部はポカンと口を開けた。がすぐに真顔に戻り、こう言った。

「社長、実沙さんおはようございます。実は今、我が社のサーバーへの不正アクセスが発生しています。以前もぽつぽつとは有ったのですが、こんなにまとまって攻撃されるのは初めてです」

素也が宮部の端末に近づいた。宮部が示すログを確認する。

「相手は特定出来るか」

「ハンガリーのセキュリティの緩いホストを踏み台にしてます。その管理者には通報済みです」

「そこがふさがっても、踏み台が変わるだけだな」

「はい、こちらの穴は塞いであるので、やはり根気よく通報し続けるのが第一かと」

「こちらのサーバーの処理能力はそのクラックでどれぐらい落ちているんだ」

「15%程かと思われます」

「30%を越えるようなら、セカンダリサーバーに切り替えてくれ」

素也は指示を出すと、自席に座り、端末の電源を入れ、ログを開いた。攻撃のパターンを割り出す。

素也はアメリカのサーバー代行会社で高性能大容量のサーバーを借り、オフィスのプライマリサーバーと全く同じ物を待機させてある。ハードウェアトラブルや、今回のような外部からの攻撃に備えているのだ。ただ、まだ実際に切り替えたことはない。

遠いアメリカにわざわざバックアップを置いたのは、バックアップは近くに保管しても仕方が無い事を知っているからだ。火事で一緒に燃えてしまうような物はバックアップと呼べない。

宮部が言った

「アタックが止まりました」

素也がシステムのステイタスを表示させると、アタックはピッタリと止んでいた。端末の時刻は九時ちょうどだった。

「しばらく様子を見よう」

素也は宮部に言った。宮部は「はい」と返事をする。いつのまにか清美が出社していた。実沙を見つけると

「実沙さーん、今日はどうしたの、いつもの電車にいなかったじゃん、社長に呼び出しくらったの、どーせたいしたことない用事だったんでしょ」

清美はあっけにとられる皆を見渡した。そしてこう付け加えた。

「さあ、ミーティングの時間でしょ」

三人が一斉に吹き出す。清美は肩をすくめた後、腕を組むと呟いた。

「また私に何か隠し事してる」


毎週月曜日の九時はミーティングの時間となっている。仕事の進み具合を素也に報告し、問題点を洗い出すのだ。アルバイトの配置もこの時に決められる。今日はサーバーへのアタック以外、特に問題点は見当たらなかった。各プロジェクトは順調に進んでいるようだ。

十時過ぎにミーティングは終わり、素也はメールに目を通す。アルバイトがちらほらと出社してくる。返事が必要なメールには返事を書いた。

そして、クライアントのサーバーの動作チェックにかかる。現在メンテナンス契約を交わしているのは約二十社だった。それぞれのサーバーにワンタイムパスワードを使いログインする。グラフィカルな動作チェック画面を立ち上げ、異常が無いかチェックする。それが終わると、もう正午だった。実沙に話しかける。

「お昼を食べに出よう。それから、一つお願いがあるんだ。トレーサーもQちゃんの様に携帯から電源をオンオフしたいんだ。Qちゃんのと同じのでいいから契約してくれないか」

実沙はカーディガンを羽織り、ハンドバッグを持って立ち上がると会社の印鑑をバッグに入れ

「Qちゃんと家族割引効くかしら」

と素也に真顔で尋ねる。二人で一緒に外に出た。雨は殆ど止んでいた。

素也はMGに戻りトランクリッドを開けると、クーラーボックスから撮影済みの未現像フィルムの入った布袋を取り出した。トランクを閉め、実沙と一緒に羽鳥駅の方に歩いた。

実沙に「蕎麦にしないか」と言うと、素也が月に数回利用する駅前の手打ち蕎麦の店に入った。美味しい蕎麦を打つこの店は昼食時はいつも混んでいたが、今日はまだカウンターに空きがあった。四人がけの席で相席になるよりはカウンターの方が広いし気楽だ。

カウンターに座ると、メニューを開き実沙に渡す。実沙が一緒に見ようとメニューを素也の方に差し出すと、素也は首を振った。

「いいんだ、もう決まっているから。週末ちょっと食べすぎたんで、あっさりしたものでいいんだ」

「なにか身体がおかしいの。食欲が凄くて」

「じゃあ、好きなだけ頼めよ。俺も食べるから。親子丼がお勧めだぜ」

そう言ってから店員を呼んだ。実沙に注文を促す。

「えーと、ざる蕎麦に野菜の天ぷらの盛り合わせ、それと親子丼をいただくわ」

「あ、ざる蕎麦は三人前にしてくれ。野菜の天ぷらも二人前だ。そして親子丼の大盛りも追加」

伝表に注文を書き込んでいた店員が顔を上げ二人を見る。そして伝票を書き終えると、注文を丁寧に復唱した。さらに厨房に注文を通す。回りの客が食べる手を止め二人を見た。実沙が小声で素也に言った。

「なにが『あっさりしたものでいいんだ』よ、皆に注目されちゃったじゃない」

地鶏と新鮮な鶏卵を使ったこの店の親子丼に素也は目が無かった。蕎麦も新蕎麦のようで、前回食べたときより明らかに香りが強い。計六枚のせいろがあっと言う間に片づいていく。食後に運ばれてきた蕎麦湯を飲み終えると二人で席を立った。素也は勘定を払いながら実沙に声を掛ける。

「じゃあ、携帯の契約を頼む。俺は岬スタジオに行ってくるよ」

二人は駅前のメインストリートを左右に別れた。


岬スタジオには数人の客がいた。七五三の記念写真の予約のようだ。店長は奥で熱心に子供の衣装を選んでいる客の相手をしている。数分待つと

「水野さん、お待たせしました」

と店長が声をかけてきた。素也はカウンターに行き、紙袋から未現像のフィルムを取り出し、ポジとネガに分ける。

「えーと、ポジが六本、ネガが六本の計十二本かな。ポジは現像とデーター処理、ネガは現像とデーター処理とプリントを頼む」

店長がメモを取り終えると「佳子さんいるかな」と小声で尋ねた。

「奥で飯食ってますよ、ネガは今日の夕方までには出来ます。ポジは水曜日の夕方ですね。プリントとスキャンニングは佳子がやりますわ」

店長は言うと、素也に受け取りを渡した。素也はフィルムを物色してから外に出た。オフィスに向かう。

オフィスに戻ると実沙はまだ戻っていなかった。宮部がハンガリーのホストの管理者からの返事があったことを素也に伝えた。

「穴はふさいだそうです。入り込んでいたのはブラジルかららしいのですが、ログが書き換えられていたそうで、詳しくは不明だそうです」

「そうか、ありがとう」

素也は返事をして、宮部に食事に行くように勧めた。そして今朝のクラッキングがどんな意味があるのかを考えたが、全く見当もつかなかった。

素也はカップにコーヒーを注ぎ、窓辺に立ったまま飲んだ。笑顔で辺りを見回しながら歩く実沙の姿を見つける。とても良い表情をしている。実沙もオフィスの窓に素也の姿を見つけると小さく手を振った。

実沙がオフィスに戻ってきた。入れ換わりに宮部が昼食に出て行く。

「ただいま、はい、携帯」

素也に契約してきた携帯を手渡すと、小声で「ごちそうさまでした」と付け加えた。素也は笑顔で頷く。そして、さっそくオフィス奥のロッカーから光センサーと基板を取り出して、トレーサーのメイン電源を携帯の着信でオンオフ出来るように改良を始めた。

携帯を素也からの着信のみイルミネーションオンにして、充電器に固定してテープで止める。充電器のACアダプターを取り除き、電源コードを基板に半田付けした。センサーを取りつけパッケージにして、トレーサーの拡張ベイのソケットに差し込む。背中のメインスイッチからコードを引き込み、パッケージに接続した。素也は自分の携帯を取り出し、トレーサーの携帯の電話番号をメモリーさせた後、その番号に発信した。

「ワルキューレの騎行」が鳴り響き、トレーサーはメイン電源をオンにした。実沙の方を向いて「いい趣味だ」と笑った。実沙は「『ツァラトゥストラはかく語りき』とどちらにしょうか迷ったの」と答えた。

フラッシュロムによるソリッドステートディスクを使っているため、トレーサーの起動はとても早い。素也がデスクの端末からトレーサーにログインしてエラーがないかチェックする。そのあともう一度携帯を着信させ、トレーサーの電源オフを確認した。

その後の午後は、のんびりとウェブを見て回り、新しい技術が使われているようなサイトチェックをして過ごす。明らかに時代遅れのサイトは、リストに残し清美にメールをする。素也のウェブシステムの先進性を謳ったパンフレットに、清美が直筆の紹介文を付けて、郵送で送るためだ。

清美の直筆の文は好評だ。顧客の担当者を名指しで書かれている。一読すると、とてもシュレッダー行きにできない魅力がある。清美の文で新規顧客と契約出来たときは、契約高に応じて清美に逐次特別ボーナスを出していた。今年の清美への特別ボーナスの額は、清美の去年の年収をすでに越えていた。清美の文才を考えるとそれでも安いものだと素也は思っていた。

素也は実沙に修報社から提案されていた合併計画書に断りの返事を書くように頼んだ。実沙は二つ返事で引き受け、明日の出勤時に郵便局から内容証明付で送付すると素也に伝えた。

宮部は昼食から戻ってきてからずっと、社内用のネットワークサーバーを組み上げている。その図体に似合わず実に器用だ。宮部の半田付けした基板を見ると、素也はいつも自分でやる気をなくした。そして、備品や設備の調達は、もう宮部に任せっきりだった。

いつもの職場の光景だった。窓から差し込む光が傾き始め、赤く色づいてゆく。雲の切れ間が広がり、その切れ間から陽光が差し込む。素也は実沙に合図をすると、宮部に「後は頼む」と言い残してオフィスを出た。

MGの充電プラグを抜き、車載コンピューターとオフィスのコンピューターの同期をかける。それが済むとエンジンを掛け、バックで駐車場から出て階段横にMGを停めた。数分待つと実沙が降りてきた。MGに乗り込みドアを閉める。素也はMGを発車させた。

岬スタジオの駐車場にMGを停め、実沙に少し待つように言ってから素也は店に入った。昼間物色しておいたフィルムを二パック掴み、受け取りの伝票とともにカウンターに置く。店長が「ネガ分ですね」というと、紙袋をカウンターの後ろから取り出し、フィルムと共に大きな袋に入れた。会計を済ませ、MGに戻る途中に、DVDのケースと購入したフィルムを二パックを抜き出し、ジャケットのサイドポケットに仕舞う。

実沙に紙袋を渡し中身を見るように勧めた。実沙に話しかけながらMGを発進させる。

「それから、明後日実沙さん誕生日だろう、二人で会社を休まないか。実沙さん、もうずいぶん有休を取ってないはずだ。明日の夜からまた家に来ればいい。二人でパーティをしないか。それとも先約が有るの」

一気に素也が話すと、実沙はしばらく考え込んでからこう言った。

「嬉しいわ。実は今日別れるのも辛い程なの」

そう言うと、ギアをつかんでいる素也の左手をそっと撫でた。


実沙をアパートの前で降ろした後、素也は空手の道場に向かった。

あの後実沙は、自分の写真を一枚ずつ眺めた。とても気に入ったようだった。

「まるで自分じゃないみたい」

と何度も呟いた。素也にとってみればファインダー越しに見えたままだった。

準備もなく突然撮ったにしては上手く撮れていた。佳子のプリントのせいもあり、クリアさが際だっていた。プリントは全部実沙に渡した。

素也はポジの上がりも楽しみだった。アンティークなインテリアや暖炉や窓枠を写し込んだ物は、ポジの発色と共にドラマティックに実沙を引き立てていることだろう。

そんな事を考えているうちに素也は空手の道場に着いた。駐車場の隅にMGを停め、セキュリティロックを掛け玄関に向かう。

道場の玄関に入り、受付でクリーニングに出しておいた道着とバスタオルとフェイスタオルを受け取る。師範に会った素也は、練習生の名簿を見せてもらった。ケンの名は、石田賢となっていた。


ロッカールームで道着に着替える素也に、他の練習生が次々に「押忍」と声を掛ける。素也も気合いをこめて挨拶を返す。素也の目はケンを探していた。

板張りの道場に一礼後足を踏み入れ、神前に進み、正座して深く礼をする。しばらく黙想の後、再び深々と礼をする。十分程かけて、ストレッチで体をほぐす。体調はいいようだ。少年の部に回り、小学生の指導をする。小学生の健気な姿に自然と笑みがこぼれる。


清美は駅から自宅に向かう途中の石畳の長い坂を自転車に乗って下っていた。

小さな声で鼻歌を歌い、軽くブレーキを掛けながら自転車をバンクさせている。毎日通る路だった。通りは緩やかにカーブして、お洒落な街灯が人気のない街路を照らしている。両側は瀟洒な高級住宅が立ち並び、人を寄せつけない堅牢な塀が風の通り道となる。秋の湿った風が清美の背中を押していた。

風に揺らされる竹林がたてる音のような「ザァー」という音に気付いた清美が後ろを振り返ると、清美の視界一杯に、信じられない光景が飛び込んできた。石畳の道路一面を、銀色に輝く小さな玉の群れが、飛び跳ねながら自分に向かって来たのだ。

清美はいきなり自転車のハンドルを取られ横転した。悲鳴を上げ逃げ場も無く小さく身体を丸める清美に、容赦無く鉄の玉が激突する。頭を両腕で抱え込む清美。未知の恐怖が清美の身体と精神をすっぽりと包み込む。十数秒後、自分の耳元をかすめる音が次第に小さくなり、自転車のフレームを叩く玉の音が止む。

転倒時の肘の傷の痛みで我に還った清美は、身体を丸めたまま携帯を取り出すが、手が震えてボタンを上手く押すことが出来ない。


七時になり、道場では全体練習が開始された。移動基本と演武の型が始まり、素也は指導に回った。新人を中心に教える。新人の型と素也の型では、とても同じ演目に見えない。気合いと迫力、スピードと正確性、流れるような美しさ、素也の型は新人の教科書だった。

八時からの小休止で、素也はケンを探した。が、姿が見えない。ケンと同じ高校の後輩を捕まえ、ケンのことを聞いてみた。

「お母さんに不幸があったようで、今日は学校にも来ていませんでした」

後輩はそう答えた。素也は頷くと、思い出したようにケンの名前を後輩に聞いた。

「確か、犬飼涼だったはずです。リョウは涼しいです。ケンはあだ名です」

素也は後輩に礼を言った。後輩は「押忍」と言うと素也に背を向けた。さっき師範に見せてもらった名簿の石田堅とは違っている。ケンは道場と大会では偽名を使っていたことになる。


いつもケンが受けてくれるミット蹴りを省略し、素也は組手の受けを行なった。的確な指導をする素也には、組手の希望者が多い。一人ずつじっくりと教育的な組手で相手をする。

相手には胴とスーパーセーフを付けてもらう。素也は付けない。ポイントを外して受けるので、まったく効かないからだ。すべての打撃を弾き返す。そして、顔面への攻撃はしっかりと見切った。

同じような体格だと、パンチや蹴りの衝撃やスピードはそうたいして変わるものではない。今受けている練習生達の打撃でも、止まっている物に当てたときは結構な衝撃力を発揮するだろう。

動く物に的確に当てることは難しい。ということは、相手を動かさなければ良いことになる。正確には相手が動き出す前に当てるか、動き終えたところに当てるかだ。

素也が受けている練習生達と、ケンや素也クラスの打撃の違いはそこにある。まったく予備動作無しに最短距離で繰り出されるパンチ、相手の視界に対して左右にブレずに垂直に飛んでくるため、当たるまで反応出来ないパンチ、フェイントで相手の動きを止め、見えない角度から飛び込んでくる予期せぬ蹴り、放たれた後、軌跡を変え蛇のように伸びる蹴り、そして、攻撃が次の攻撃の予備動作になり、加速し続けるコンビネーション。そういう隠された鍵に気付いた者だけが、次のステップに進むことが出来るのだ。

そういうことを考えない一般の練習生の組手の相手をすることは、素也には退屈だった。なので、適度に打たせて、筋肉に衝撃を与え、鍛え上げることに専念した。そして、素也との組手を希望した女子練習生の相手もする。中高生やOLのリズムカルな打撃は、素也にとってマッサージのように気持ちが良かった。九時までに二十人程の組手の相手をして、そのあとクールダウンストレッチを施し、シャワーを浴びた。

バスタオルとフェイスタオル、道着を受付でクリーニングに出し、素也は道場に一礼して外に出た。MGまで歩くと、セキュリティロックを解除し、ドアを開け乗り込む。身体のどの部分も痛みは無い。筋肉は心地よい疲れに包まれていた。


実沙のアパートを見下ろす位置に立っている山岡総合病院の非常階段の踊り場に二人の男がかがみ込んでいた。修報社社長室の加藤と島田だった。焦点距離600ミリの大口径望遠レンズを三脚に立て、実沙の部屋に向けている。デジタル一眼レフカメラの為、実際の焦点距離は千ミリ近い。赤外線透過フィルターを装着しているので、レースのカーテン越しの部屋の様子が、モノクロイメージではあるが、手に取るようにわかる。

「今夜はこのままずっとここか。おい、そろそろ風呂から出る頃じゃないのか」

長身の方の男、加藤が退屈そうに小声で言った。ペンライトで照らしたファイルをゆっくりとめくる。そこには盗撮された実沙の裸身が写っていた。

「もうすぐだろう。今風呂場の電気が消えた。さっきの長村さんの電話では、水野がここに来る可能性があるらしい。そしたら面白い写真が撮れそうだ」

ファインダーをのぞきながら島田が答える。加藤がペンライトを消し、実沙の調査ファイルを閉じながら言った。

「長村さん達は今夜か。俺なら、見張るような真似はせずに、水野と宮部を直接叩きのめしてからオフィスに乗り込むがな。あいつら、ちょろいくせに生意気そうな面しやがって。思い出しただけでもむかつくぜ」

「まあそう興奮するな加藤、社長命令だ。お前に長村さんのような細かい策略は練れないだろう。俺たちが出来るのは、届け出られない大金を持っているとガセネタを噛ませてガキを仕向けるか、軽トラック一杯のパチンコ玉を集めたり、ばらまいたりすることくらいだ」

加藤が黙り込む。五人に囲まれても平然と眉一つ動かさない素也を思い出していた。あの程度の連中なら、たとえ何人掛かりでも結果は同じだろう。加藤の脳裏にそれほど素也の一瞬の動きは鮮烈に映った。

返事をしない加藤を確認するように島田はファインダーから目を離し付け加えた。

「だがな、社長はずいぶんその写真を見て喜んでいたぞ。もっとも写真だけではもの足らず、実物を欲しがっているようだったが」

加藤の返事をあきらめ、島田はファインダーを再度覗き込み続けた。

「しかしパチンコ玉とはよく考えたな、加藤。酒井の方は今度はどうやっていたぶってやろうか」

加藤は答えない。しばらく無言が続いた後、島田が急に声のトーンを上げた。

「お、出てきた出てきた。それにしてもいい女だ。何枚撮っても飽きないせ。ちっくしょう、今度は俺が興奮してきやがった、今夜水野が来なかったら替わりに俺が行ってやるか」

島田が歪んだ笑みを作り、ケーブルリレーズのボタンを押し、風呂上がりの実沙の無防備な姿を記録する。

加藤はファイルを足元に放り出すと、尻のポケットから革製の棒状の物を取り出した。砂がぎっしり詰まった30センチ程の細長い革袋、直径は4センチ程か、グリップの部分にはリストバンドが付いていた。加藤の武器でもあるブラックジャックだ。

「そいつは面白そうだ、その時は俺も起こしてくれ。こいつにもたまには女の感触を味合わせてやらないとな」

加藤はブラックジャックの感触を確かめるようにさすったあと、二三度軽く手の平を叩く。そして暗い笑みを浮かべるとそのまま後ろに倒れ込んだ。

「今日の夜は長そうだ。少し寝る」

加藤はそう言い残すと、ブラックジャックを枕にしてコンクリートの上で仮眠の体勢に入った。

その非常階段の踊り場の上階で、黒い革つなぎの男が剥き出しのコンクリートに寝そべっていた。片耳をコンクリートに押しつけ、身じろぎ一つしなかった。


素也はシートベルトを締めようとして、ジャケットのサイドポケットにDVDが入っていることを思い出した。取り出して、ケースを開くと、佳子のメモが挟んであった。ルームランプを点け目を通す。


週末連絡くれなかった理由が解ったわ。

もう終わりなの?一度電話して


佳子との週末の約束をすっかり忘れていた素也は携帯を取り出すと、佳子の番号を発信した。佳子は彼女なりに気を遣っているのか、彼女から素也に電話やメールをすることは今までなかった。岬スタジオで話すか、メモで連絡を取っていた。素也も既婚者である佳子の携帯にメールしたことはない。なので、素也が電話したときにもし佳子が話が出来ない状態ならば、電話に出てすぐに切ることになっている。が、今日は切れなかった。

「佳子、すまない」

素也が無言の相手に向かって話しかける。しばらく間が空いてから、佳子のかすれた声が聞こえた。たぶんずっと泣いていたのだろう。

「いつかこうなると思っていたわ」

素也は何も言えなかった。そして、受話器の奥で小さな声が聞こえた。

「もう一度だけ、今から逢って」


ファインダーをのぞきながら、時折リモコンのレリーズボタンを押していた島田は、上階の踊り場の手すりにぶら下がって降りてくる男にまったく気づかなかった。ゆっくりと下半身が降りてきて、右足が後ろに引かれ、そのまま島田のこめかみに振り下ろされる。

声を上げる間もなく昏倒した島田と望遠レンズが装着された三脚が共になぎ倒された。凄まじい音に加藤は跳ね起きた。瞬時に右手にブラックジャックを構えるが敵が全く特定出来ない。中腰であたりを素早く見回す加藤の正面に、黒ずくめの革ツナギの男がどこからともなく降り立った。

暴力沙汰に慣れ、いつもは相手をたたきのめす過程を楽しむ余裕のある加藤が、目前の相手を前にして、こみ上げる恐怖と戦っていた。前足である左足をつま先立ちさせ、両手を体側に自然に垂らした男。そこには攻め入る隙が全く見いだせなかった。

加藤はフェイントを交え、ブラックジャックによる一撃を与えるチャンスを待った。ぎっしり詰まった砂が与える鈍い衝撃は、一撃で相手の戦闘能力を奪うのに十分のはずだ。相手は武器を手にしていない。加藤にとって永遠のような短い時間が過ぎて行く。


勝負は一瞬でついた。

相手の左前蹴りを感じた加藤は右手のブラックジャックでその足をなぎ払おうとした。相手の脛に相当なダメージを与えるはずだった。しかし、相手の左足は振り払われたブラックジャックの寸前で消えたように見えた。次の瞬間、加藤の鳩尾に男の左足がめり込む。そしてその体勢のまま渇いた音を立てて相手の右足がコンクリートを蹴った。加藤が見たのはそこまでだった。後頭部に強烈な打撃を受け、加藤は前のめりに倒れる。凄まじい勢いで男が右回し蹴りを放ったのだ。

酸素を求めて時折痙攣する加藤の横で、革つなぎの男はカメラとレンズをコンクリートの床に何度も叩きつける。物音に気付いた病院職員だろうか、内部から非常ドアに駆け寄る音が聞こえてきた。男は素早く実沙のファイルを掴み、音もなく非常階段を降りていった。


素也は佳子のマンション近くのコンビニに車を走らせた。駐車場に乗り入れ店内を見ると、雑誌売り場で立ち読みをしている佳子が目に入った。深く帽子を被って顔を隠している。佳子もすぐに素也のMGに気がつき、雑誌を棚に戻し、一旦奥の冷蔵庫に向かいレジで支払いを済ませ、店から出てきた。MGの助手席に向かい、ドアを開け乗り込む。素也は何も言わずMGをバックさせ、駐車場を後にした。高速道路の山岡南インター一帯のホテル街に向かう。

佳子は思ったより落ち着いていた。もう涙も見せていない。助手席の窓から、車側を流れる景色を眺めている。

ウイークディなのでホテル街は閑散としていた。新築の明るいホテルを見つけ、MGを乗り入れる。そこは、ガレージと部屋が一体になっているモーターホテルタイプで、部屋毎に別棟になっていた。空いているガレージにMGを突っ込むと、自動的にガレージのシャッターが降りる。部屋にはまったく仕切りが無く、駐車中の車からガラス張りのシャワールーム、ソファに小さなテーブル、そしてベッドが見えた。部屋は吹き抜けで天井は無く、そのまま屋根裏の傾きが見える。床は陶器のタイル張りだった。素也が無言で車を降りると、佳子もペットボトルが二本入ったコンビニの袋を手に助手席から降りてきた。


長村は素也の山荘にいる正木を呼び出した。

「今ラブホの部屋に入った。今度は別の女だ。野郎、いい気なもんだぜ。これからあと二時間は大丈夫だろう。そっちはどうだ」

「例の携帯を手に入れました。不用心な事にこの前と同じ場所にありました。これから計画通り羽鳥に向かうところです」

「分かった、野郎のオフィスで合流する。あの峠を通るなら今度は落ちるなよ。なあに、今度はこっちの番だ」

長村は笑って電話を切ると、アリストを素也のオフィスに向けた。


お互い無言のまま二人でシャワーを浴び身体を洗い合う。身体をざっと拭くと二人は真っ直ぐにベッドに向った。佳子は少しの時間も惜しむように、小さな身体を無言で素也にぶつけてきた。素也は佳子の気持ちを考え、考える余裕を与えないように荒々しく佳子を扱った。素也の腕の中で様々に形を変えられ、固定され、開放され、また折り畳まれる白く小さな身体。

佳子は途中から泣き出した。最初は声を殺して。そして次第に顔に当てた枕から声が漏れ始め、遂には子供に還ったように大声で泣き出した。素也はそれを無視して、ストイックに佳子を攻め続けた。身体中の白い球体を強い手で揉みしだかれ、休みなく振動を与えられる佳子。それは佳子の身体中から水分という水分を一滴残らず絞り採り尽くすように長く長く続いた。

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