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第4章 告白 Saturday October 2

部屋に入り、ルームキーを玄関横のソケットに差し込むと、部屋の明かりがついた。携帯の時計を見るとちょうど午前零時を回ったところだ。

落ち着いた間接照明のホールを抜けると、二十畳程のメインルームがあり、その両サイドに独立したベッドルームがあった。それぞれダブルサイズのベッドが備えつけられている。実沙に右側のベッドルームを使うように言って、先にシャワーを使うように勧めた。

実沙はユニットバスではない浴室に驚き、作りつけではない、タイルの上に設置してあるバスタブに湯を入れると、お湯が溜まるまで広いスィートルーム中を楽しそうに確認した。素也に「お先に」と声をかけ浴室に入る。

素也は壁にはめ込んである大型の液晶テレビを付けニュースにチャンネルを合わせた。そして、これも壁にはめ込んである冷蔵庫を開けると缶ビールを取り出しプリングを開ける。革張りのソファーに腰を降ろし、缶ビールを三回にわけて飲み干し、もう一本取り出す。

壁から聞こえるテレビのニュースを聞いてはいるものの、音は素也の身体に留まらず素通りする。素也は自分の実態がどこにあるのか掴みかねていた。ここは何処だろう。俺は今ここで何をしているのだろう。

二本目をゆっくりと飲み終えた時、実沙が浴室から出てきて、メインルームに入ってきた。

「素也さん、どうぞ。すごくいいお部屋ね。浴室も広くて驚いたわ」

備えつけの浴衣を着ている。化粧を落として赤みを帯びた肌が眩しかった。

「ビールでも飲んでなよ」

素也は言うと、浴室に向かった。広い脱衣所で服を脱ぐと、足つきのクリーム色の大きな浴槽に新しい湯が張ってあった。

身体を浸し、隅々まで洗う。身体の深いところにあった酔いが素也の身体を包む。十分ほどで上がり、お湯と水のシャワーを交互に浴び酔いを覚ますと、脱衣所でバスタオルを使った。浴衣を着て、脱ぎ捨ててあった衣服を手に持ち、左側の寝室に置いた後、メインルームに入る。

実沙はソファに浅く腰かけ、お茶を飲みながらテレビを見ていた。寒いのか、ゆかたの上に今日着ていたカーディガンをはおっている。素也に「お茶飲む」と尋ねる。素也は首を振ると冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プリングを引いて押し込む。

「飲み過ぎたみたいだ。色々あったし、これを飲んだら寝よう」

素也は自分に言い聞かせるように言った。言った後で変な言い方にならなかったかと気を遣う。言葉の余韻がいつまでも空気中に残っているようだ。

「明日は素也さんどうするの」

「朝会社に戻って、もう少しトレーサーの面倒を見ようと思う。今日やり残したことがあるんだ」

「そう言うと思ってたわ」

足を組み替えながら実沙が言う。浴衣のすそが乱れる。すそを直しながら

「こういう浴衣って苦手。朝起きるとひどいことになっているの。いつも泊まるときはスエットを持ってくるんだけど」

そう言って素也に笑顔を見せた。素也は

「帯の仕方が悪いんだよ。ちゃんと締めれば朝まで大丈夫だよ」

素也は立ち上がって自分の浴衣の帯をほどくと、さっと帯を締め直した。空手の帯の縛り方だ。

素也の通う道場では、帯の緩みは許されない。きちんと締めれば、ずっと緩まないはずだというのが師範代の意見だった。身なりがだらしない練習生はいくら技量が上がっても白帯のままだ。

実沙も立ち上がって締め直す。素也が斜め後ろに立って教える。

まず五十センチぐらい帯を余らせて、お臍の少し下あたりに左手で帯を当てる。この時、余った五十センチを左側に垂らす。そして、長い方の右を、右手で時計回りに身体に二周巻きつける。

そして、帯の余りを押さえていた左手の上に重ねる。この時、帯にねじれが無いことを確認し、左右に垂れた長さも揃える。

右側に垂れた帯の端を帯の下に通して左右の帯の端を持ち、上下に引く。あとは、好きなように締めるだけだ。

ウエストで締めるのではなく、腰骨の上からしばるのがコツだ。そして綺麗に重ねられた帯は、張りついたように緩まない。

実沙も失敗しながら何度か締め直すうちに締め方がさまになってきた。はだけた浴衣の胸元の奥に覗く白い膨らみが痛いほど素也の眼に突き刺さる。

洗ったばかりの少し湿った黒い髪の毛先がパラパラとはねている。帯の下に張り出す豊かな曲線から視線を引きはがすのに苦労する。後ろから抱き締め、首筋に顔をうずめ実沙の肌の香りに包まれたかった。

でも素也は決心していた。今日は実沙を抱くべきではないと。悪意によって作られたこの状況をチャンスと呼ぶわけには行かない。それになんといっても、実沙は会社の大切な同僚なのだ。

実沙は帯の締まり具合に満足したようだ。帯の下あたりを片手でパンと叩くと「演歌歌手みたい」と呟き、素也に「おやすみなさい」と言うと、ベッドルームに入っていった。

素也は缶ビールを手に窓から外を見た。十五階から見える車は小さいが、視力のいい素也は車種を見分けられる。見える範囲ではアリストは見当たらない。

缶ビールを飲み干すとテレビを消し、トイレを済ませ、部屋の電気をフットライトのみにして、ベッドルームに向かいベッドに倒れ込みシーツを被った。しばらくすると高ぶっていた意識が落ち着いてきて、眠りのベールが素也を覆い始めた。枕元のスイッチで照明を絞り、エアコンを消すとスィートは息苦しいほどの無音の世界になった。


今何時だろう、どれぐらい眠ったのだろう。何処からか誰かの声が聞こえた。

素也の意識の外、違う世界からの声だった。

声の余韻がリアルに感じられる。

素也は頭の中に辛うじて残っていた言葉の跡を時間順に並べ直す。それはこういう言葉だった。


私にはもうすぐ五歳になる娘がいるの


素也はそっと起き上がり、実沙の寝室に向かった。実沙は静かに泣いていた。月明かりが実沙の涙を照らす。

素也はシーツとブラケットをめくり、身体を静かに滑り込ませると両腕で実沙の身体を優しく包んだ。実沙が身体を素也の方に向ける。おでこを素也の胸に当てる。

実沙は静かに話し始めた。その話は、誰かに話すためにすでに形を整えられていた。そして初めて誰かに語られる話だった。


私にはもうすぐ五歳になる娘がいるの。大学を出て就職した銀行で上司と恋に落ち、すぐに結婚したの。エレベーター式の女子高、女子大で免疫が無かったのね。ほとんど初恋だったわ。もちろん両親は早すぎると反対したけど、とにかく彼と少しでも長く一緒に居たかった。

彼は弘さんと言うんだけど、とても優しくて、清潔で、仕事も出来たわ。歳は私と一回り違ったのだけど、英語やフランス語も堪能で出世も早く、回りからも頼りにされていたの。入ったばかりの新人が将来の頭取候補を射止めたと、社内でも噂になったわ。

入社した年の秋、結納があり、弘さんの家に初めて行ったのだけど、名門の旧家らしく、大きな古い家に驚いたわ。彼の父親は知的で優しそうだった。そして、再婚したばかりらしく若く綺麗で、姑というよりお姉さんのような義理の母がいたわ。二人の子連れで再婚したのね、弘さんには義理の弟妹がいたのよ。

もう一人弘さんには実の兄がいる様だったけど、数年前に家を出たようで、家族はその事になると口をつぐんだ。

私も何も聞かなかった。

入社一年目の冬に、弘さんの希望通りに会社を辞め、式を挙げたの。新婚の頃はとても楽しかった。でも、だんだん大変なことになっていったの。ちょくちょく遊びに来ていた義理の弟妹が次第に家に居すわるようになってきたの。数ヶ月もすると揃って家に入り込み、我が物顔で振る舞い始めたの。そして、義妹は弘さんを誘惑し始め、義弟は私に性的な嫌がらせを始めたわ。

年上の義弟は思い出したくもないのだけど、私を監視し続け、弘さんが居ない平日の昼間は、意味もなくつきまとい、私の体を舐め回すように見たわ。盗撮もされていたかもしれない。疑い出すときりがないけど、そういう気配は有ったわ。下着もたまに無くなっていることがあったの。弘さんに相談しても、気にしすぎだと笑われ、被害妄想を哀れんでいる表情をされるだけだった。

そして二つ年上の義妹は血の繋がっていない弘さんに恋をしていたの。表面上は穏やかなのに、廊下ですれ違う時など、私のことをまるで汚い物を見るような眼で見たの。ずいぶん彼女には追い詰められ、その策略で次第に誰も私の言うことを信じてくれなくなってきたわ。彼女といるといつも憎しみの固まりをぶつけられているように感じたわ。

反対を押し切って結婚した手前、実家にも戻りづらかったし、結婚するときに父から励まされた言葉を思い出して頑張ったわ。毎日今日こそ何かが起こって、状況が変わるのではないかと期待して耐えたの。そして、妊娠していることがわかり、これがきっといいきっかけになると思って喜んだの。弘さんも喜んでくれて嬉しかった。しかし、事態はもっと酷いことになっていったの。

つわりがひどく、家事をすることができない私を、弟妹は次第にお腹が大きくなる私をまるで動物を見るような目で見た。弘さんの前でも遠慮なく。結婚当初は優しかった姑も次第に私を無視し始め、実の子供達と結託して私を貶めてるように感じ始めたの。そして義妹と弘さんが必要以上に仲よくなっていくのを見せつけられたの。

私は一人で部屋に閉じこもることが多くなっていった。この頃から、精神的なバランスが崩れてきていたと思う。思い込みや、被害妄想も出るようになって、現実との境が曖昧になってしまうことがあったの。思い出せないのだけど、義弟に何かされたことがあったかもしれない。


独りになると自分の心臓の鼓動の激しさにいつも怯えていた。その怯えから逃れられるのなら、いっそ消えてしまいたかった。誰にも必要とされず、何かをしようとする気力さえ失われた日々だった。

そして、七ヶ月の時破水があり、救急車で運ばれ総合病院の産科に入院したの。そして子供がおなかの中ではっきりと主張をするようになって、一人きりで過ごす私の精神は身体の内部のみに向けられ、次第に病んでいったの。

医者は最初、一種のマタニティブルーだろうと言ってたけど、一向に改善しない症状を見て、抗鬱剤の投薬を開始し、精神科の治療を受けるように弘さんに勧めた。私は他人の問い掛けに上手く返事ができないようになり、自分の身の回りの事さえすることが困難だった。看護婦さんにずいぶん迷惑をかけたわ。私がもう少し強ければ、そんなことにならなかったのに。


極度な鬱に陥った私をあの家族は、私の実家にさえ病状を隠したまま大学病院の精神科に転院させたの。そして、私は意識がはっきりしないままそこで女の娘を産んだ。私の誕生日に。

子供に逢いたくて毎日泣いていたように思うけど、はっきり覚えてないの。薬を飲まされ、眠らされ、検査であちこちつつきまわされる日々が続いたわ。二ヶ月も。ベッドに縛られ続けたこともあったのよ。

そして、快復しかかった頃弘さんがやってきたわ。離婚届を持って。ご丁寧に親権放棄の確認書まで持ってきたわ。離婚には応じたけど、親権放棄は認めなかった。すると、弘さんは精神病の診断書を盾に家庭裁判所へ親権放棄を訴えたのよ。

そして弁護士を連れて病院にやってきたわ。

唯一味方と信じていた弘さんに手酷く裏切られたこともあり、親権放棄の書類にサインしたわ。結婚してちょうど一年、身も心も切り裂かれた一年間だった。そして、退院すると身体一つで放り出されたの。

娘に逢いたくて、あ、「亜季」という名前なの。そう書類に書いてあった。近くに部屋を借り、通院の合間にパートで働きながら何度も家に出向いたのだけど「お互いの為」とまったく拒否された。家の出入りは車だし、顔を見ることもできなかった。そして、私と離婚してから半年もたたないうちに、弘さん義妹とは別の人と再婚したのよ。

そう、亜季は今新しい母親に育てられているの。私の出番はまったく無いの。もし亜季と会えたとしても、亜季に話しかける言葉が無いの。

それに不思議なもので、亜季に逢いたい気持ちもゆっくりと薄れてきたの。そしてその気持ちが薄れるにつれ、前向きに生きる力を取り戻して来たように思うの。素也さんにもずいぶん助けられたわ。法的手段に訴えれば亜季を取り戻せる可能性はあると思うの。私勉強したのよ。でも亜季を取り戻すことが正しいことかどうか私には解らないの。

亜季はもうすぐ五歳になるのよ。亜季の事を考えると、自分がまったく無力で無意味な存在に思えてくるの。それは今でも変わらない。


そこまで話すと、長い沈黙の後、実沙は静かに寝息をたてはじめた。素也は実沙の娘のことを想い、そして腕の中の実沙のことを強く想った。

実沙の身体からそっと腕を引き抜くと、ベッドを離れ、自分の部屋に戻った。痺れた腕に実沙の体温を感じ、その腕に残っている実沙の涙の痕に口をつけながら素也は眠りについた。それは深い眠りだった。


かすかな物音で素也は目覚めた。ベッドに組み込まれている時計を見ると七時過ぎだ。起動時のコンピューターのように頭の中に現在の場所と状況をインプットする。幸い二日酔いでは無い。落ち着くと立ち上がり洗面所に向かった。

トイレと洗面を済ませ、メインルームに向かうと、実沙はすでに着替えていて、窓辺に立ち目覚め始めた街を見下ろしていた。

素也に「おはようございます」と言い、注いだばかりのお茶を勧めた。そして、窓の外に静かに視線を戻すとこう言った。

「あそこは小学校かしら、もう運動会の準備をしてるわ。いい天気で良かったわね。あ、あそこにも」

素也も窓辺に寄って見下ろす。民家の中、そこだけ大きく四角に切り取られた空間に、万国旗が放射状に張られ、白いテントが立っている場所があった。

そして、少し離れた場所にもカラフルな小さな四角形が民家から切り取られている。幼稚園だろうか、駐車場はもうすでに一杯で、三脚やビデオカメラを抱えた保護者たちが会場に向かっている様子が見える。実沙はじっとその様子を見続ける。

素也はお茶を飲み干すと、礼を言って、部屋に戻って服に着替えた。そして、実沙にゆっくりしていくように声を掛けると、部屋を出て、エレベータを降り、フロントで連れが残っていることを告げ、カードで清算しホテルを出て山岡市駅に向かった。


オフィスに着いた素也は、シリアルキーをセキュリティゲートに打ち込み、ロックを解き、階段を上るとオフィスに入った。オフィスの空調は二十四時間保たれている。ジャケットを脱ぎ、端末に向かうと、セキュリティゲートのアクセスをチェックした。昨日のロック後の不審なアクセスは無い。

セキュリティゲートのシリアルキーは随時更新される。会社のサーバーに外部からアクセスして、ユーザーアカウントとパスワードで認証された者のみ、さらに個人コードとアクセスキーを入力して受け取る事が出来る。社員四人のみにアカウントを発行してある。素也は週末ことに山荘用の携帯電話からシリアルキーの更新手続きを行なっていた。更新手続き後十二時間以上経つと、更新前のシリアルキーと共に、新しいシリアルキーが受け付け可能になる。新しいシリアルキーが受け付けられた時点で更新前のシリアルキーは無効になる。

駅前のパン屋で買ってきたサンドイッチを噛りながらメールをざっと読み、ペットボトルの無糖の紅茶を飲む。そして、立ち上がりトレーススーツを着ると、昨日の続きに取りかかった。

人間の一瞬一瞬の姿勢そのものがバランスの上に成り立っているので、その動きを模倣することによって、トレーサーは立ち続けるのにほぼ正確な姿勢の情報を持っていることになる。ただ、大きく違うのは連動性だ。

人間は生まれてから長期間の学習により、連続した動作を淀みなく行なうことが出来るようになる。その結果、単独の動作なら存在する途中の動きをスキップすることが出来る。サッカーボールを蹴った後その動作のまま走り出せるし、歩きながら回転したり急にターンしても動作の滑らかさは失わない。頭脳が次の身体の動きを予想した挙動を採らせるせるためである。

この連動性は動作が早くなればなるほど顕著になる。各パーツの算出する予想動作に加えて、ジャイロの数字から重心の移動加速度を算出し、さらに係数を設定して、演算しなおすことを繰り返す。端末に向かう時はトレーススーツの電源を切り、ヘッドマウントディスプレイを外す。

テーブルの上に置いてある上着に入っている携帯が着信した。携帯をポケットから取り出し着信画像に眼をやると、実沙の横顔だった。通話ボタンを押す。

「素也さん、今会社でしょ。今日お昼をご馳走したいのだけど、いいかな」

「いいけど、またどうして」

「いいのいいの。じゃあ待っててね。あと一時間ぐらいで行くから」

すぐに電話は切れた。しばらく受話器を見つめ続ける。思い出したように携帯をテーブルに置き、端末に向かう。

トレーサーはほぼ満足する動作に近づいてきた。時計に眼をやると正午過ぎだ。激しい動作にも遅延無くついてくるようになり、挙動の姿勢も落ち着きを増していた。そして、時には素也が驚くほどのバランスを見せた。

後は、学習機能を組み入れれば、もっと演算に余裕が出て、洗練された動作になるだろうが、そうすると、トレーサー内に容量の大きなメモリが必要になり、システム全体の大きな変更を伴うので、今回の試作で組み入れるかどうか迷っていた。どちらにせよ、トレーススーツを着たままこれ以上修正を続けるのは苦痛だった。ヘッドマウントディスプレイと端末を交互に見続けた眼も疲れてきている。

トレーサーの電源を切り、トレーススーツを脱ぎハンガーに掛け、ヘッドマウントディスプレイと共にロッカーに仕舞い、トレーサーを充電器の上に座らせた。テーブルの上で固定電話の着信を知らせるランプが点滅した。電話機に付いている液晶の表示を見ると、宮部の自宅のアドレスを示していた。端末からテレビ電話機能を呼び出すことも出来るが、素也は単に受話器を上げるだけにとどめた。受話器から

「宮部です、社長、お疲れさま。やっぱりここでしたね。今犬飼さんの告別式から帰ってきました」

と、宮部の声がした。宮部の声はひどく沈んでいた。

「ご苦労さん、様子はどうだった」

「英子さんの旦那さんが喪主で、告別式の場所は山岡市南山の英子さんの家でした。英子さんは憔悴してました。少し話せたのですが、やはり急なことだったようで、まだ母を亡くした実感が湧かないと言ってました。社長は元気かと聞いてきたので、相変わらずだと伝えておきました。あ、花輪のお礼も伝えておきます」

「そうか、英子さん結婚していたか。英子さんの弟がいるはずなんだけど、見かけたか」

「いえ、英子さんの旦那さんには先妻との間に子供がいるようで、その子達は見かけましたが」

「報告ありがとう」

素也が電話を切ろうとした時、宮部が早口で言葉を繋いだ。

「社長、大変申しわけありません。車上狙いにあい、イマジナリープレイヤーが盗まれました」

「いつのことだ」

「昨日、週末に自宅で調整する予定で持って帰ったのが災いしました。メガクルーザーのグローブボックスに入れたところまでははっきり覚えてますが」

「それから順に話して見ろ」

「昨日は清美さん達を乗せて、私のマンションの駐車場に車を置き、イマジナリープレイヤーをそのままにして女の子達と宴会に向かいました。そして、二次会後清美さんを家まで送った後、駐車場に寄るのを忘れそのまま自宅に戻ってしまったんです。今朝告別式を終え、さっき自宅に戻ったとき無くなっている事に気づきました」

「警察へは」

「さっき届けてきました。遺失物の内容を説明するわけには行かないので、ビデオカメラとして届けました。まったく弁解のしようがありません。恥ずかしい限りです」

素也はしばらく考えた。

「あの回路情報はどれぐらい持つんだ」

「プログラムはラムに入ってますから、バックアップ用の充電池が持つまでですので、もう切れているころだと思います」

素也はそれを聞いて少し安心した。そして続けた。

「昨夕会社を出てから、無くなったことに気づくまで、なにかいつもと違う出来事はなかったか、なんでもいいから思い出して見ろ」

宮部はしばらくして口を開いた。

「昨夜は少し飲み過ぎました。清美さんを送ったときのことははっきりいってあまり覚えてません。でも無事に送り届けたはずです」

素也はその様子を想像して苦笑した。その状況で清美にちょっかいを出す男はまずいないだろう。宮部が続ける。

「そして、マンションの駐車場から車を出して、英子さんの母親の告別式に出かけ、英子さんの家の近くに臨時に設けられた弔問客用の駐車場に停め、」

一旦言葉を切ってから宮部は続けた。

「そういえば、今朝告別式が終わった後、弔問客用の駐車場の隅で、側溝に脱輪している車があって、弔問客が困ってました」

「気は優しくて力持ちの宮部君になったわけだな」

「そうです。ウインチで引っ張ろうかと思い、車を前に付けたのですが、案外小さい車だったので車の後ろに回り込み」

「殆ど宮部一人の力で車を持ち上げたと」

素也が面白そうに話した。そして続ける。

「他に被害は」

「貴重品は身に付けていたので無事でした」

「多分その脱輪の時だな。葬式は泥棒の稼ぎ時だからな。お互い知らん顔ばかりだし、それになにしろ服装が目立たない」

素也は笑ってそこまで言うと、独り言のように付け加えた。

「しかし、あんな物持っていっても、その価値は分からないだろうに、写真が撮れるわけじゃないし。電池が切れたらプログラムを転送し直さなければ全く動作しない。そして演算方法はすべてプログラムの中にある。今ごろは処分に困っているところだろう。まあ、ハードウェアはすぐに作り直せる。宮部もそろそろスペックを上げて作り直したかったところだろ」

宮部はそれを聞くと、少し楽になったようだった。早速部品の手配をしますと言うと、再度素也に謝って電話を切った。

素也は受話器を置いた後、しばらく考え込んでいたが、物音に気づき振り返る。オフィスのドアが開き、実沙が入ってきた。

「素也さん、こんにちは、昨夜はお世話になりました」

ローライズのジーンズに鋲付きのベルト、淡い黄色のTシャツとジーンズと同色のジージャン、長い足が際だつ。首にはスカーフを巻いている。実沙は後ろ手に下げていたバスケットと水筒を目の前にかざし

「良かった、お昼に間に合って。お弁当作ってきたの」

そう言うと、テーブルに弁当を広げ出した。あっけにとられる素也を笑顔で手招きする。素也はおそるおそるといった感じで近づき、お弁当に目をやる。それは運動会に運動場で広げられるべき弁当だった。

小さく俵型に握られ、海苔が巻いてあるおにぎり、柔らかそうな卵焼き、国旗があしらってあるつま楊枝が刺さった唐揚、一口大のハンバーグ、タコの形に切られた赤いウインナー、小さく切り揃えられたハムサンド、サラダはキャベツの上にブロッコリーとウサギの形の林檎、魚の形のソース入れ、可愛い容器に入ったお手ふき。

ホテルから戻って急いでこしらえたのだろう。運動会に出ているかもしれない自分の娘のことを思いつつ。改めて実沙の顔を見る。

実沙は弁当に眼をやりながら言った。

「ゴメンね、一食付き合って。今日はあちこちで運動会やっているでしょ、どうしても作ってみたくなっちゃって。でも、一人で食べるのは寂しいし」

実沙は両手を口元で合わせ、上目使いに素也に笑顔を向けた。素也は弁当に視線を合わせたまま実沙に言った。

「弁当をバスケットに仕舞ってくれないか」

実沙は両手を口元に当て小さく息を吸い込んだ。

「こんなところで食べるのは勿体ない。ちょうどいい場所があるんだ、招待するよ」

そう言うと、素也は実沙の背中にそっと左手を当てた。


素也はオフィスから出ると、MGを一階の駐車場から出し、階段の下に停めた。トランクリッドを開き、トップの幌を跳ね上げてオープンにする。実沙が階段を降りて、オフィスのセキュリティロックを掛けた。

実沙はバスケットと水筒をトランク内のクーラーボックスに仕舞い、トランクリッドを閉じMGに乗り込む。素也はシートベルトを締める実沙を見ると、雲一つない青空の下、MGを静かに発進させた。

羽鳥駅の駅前交差点を右折して急な傾斜をローギアで登る。住宅地に向かう道をそれ、山を越える林道に入り、普段の七割程度のスピードでのんびりとMGを走らせる。

実沙は片手で髪の毛を押さえながら振り返り、眼下に遠ざかる羽鳥市の街並みを眺め続けた。街が見えなくなると雑木林と青空の境目を楽しそうに眼で追った。時折素也の様子を伺う。素也に視線を合わせると、背景の碧と蒼の彩りが溶け合うように混ざり合う。素也は左手を伸ばしダッシュボードを開けると、ニットの白い帽子を取り出し、実沙にかぶるように勧めた。

林道は下り始め、素也は少しスピードを上げた。それでもハードなブレーキは控え、スムースなラインは崩さない。ダブルクラッチでシンクロナイズされたギアチェンジは、全くシフトショックなく心地よい加速感をシートに伝える。

眼下の景色は収穫間近の稲の色に染まる。林道を下りきり、田園地帯を抜ける農道を直進する。直射日光を受け火照った顔に爽やかな横風が心地いい。風が太陽の匂いを運ぶ。遠くの山を中心にあぜ道が放射状に伸び、黄金色の稲がターンテーブルとなって回り出す。

頭上を飛ぶように流れる並木の影。路肩の雑草や石までもが意味或る物として光り輝く。実沙は身の回りで形を変えてゆく光景を五感すべてを用いて味わい尽くす。その様子がいとおしい。

信号を右折して国道に合流し、しばらく走ると、素也の山荘に続く山道のアプローチが見えてきた。素也は実沙に「この分岐路を覚えておいてくれ」と頼むと、左折して山道に入った。小さな山を反時計回りに回り込むように駆け上がる。数分程走ると山道は終点となり、実沙の眼に予期せぬ光景が広がった。素也はMGのスピードを落とす。


山頂のすぐ下に立てられたクラブハウスと、その玄関前の石畳のロータリー、ロータリー中央は花壇になっていて、秋桜が咲き乱れている。そしてその奥の山岡市を見下ろす芝生の広い庭が眼に入ってきた。

芝生は古い枕木で無造作に区切られ、これも枕木で作られたテーブルが数脚備えつけられている。アンティークレンガで組んである立方体が二つ見える。手前の小さいのはバーべキューコンロで、奥の大きなのはジャグジーらしかった。

そして、芝生の庭を石で造成された水路が蛇行して、中を清流が流れている。水路は、芝生のなだらかな斜面を下ったところにある池に流れ着いている。池の脇まで丸太の階段が続いていて、池のそばに桟橋付きの小さなログハウスが建っている。

MGをロータリーに停めると、素也はトランクリッドを開け、クーラーボックスからバスケットと水筒を取り出し庭のテーブルに運び、手早くお弁当を広げた。水筒のカップとキャップにお茶を注ぐ。

実沙はMGを降り、まわりを見回し、水路にかかる石の橋を越えながら、ゆっくりゆっくりとテーブルに近づいてきた。

「信じられない程素敵なところ、私もっと」

「ボロボロの山小屋だと思ってた」

実沙は答える代わりに素也に笑顔を見せた。

黒髪が風にそよぎ金色に輝く。

「おなかが減った、さあ食べよう」

素也はベンチに腰かけると、日の丸付きの楊枝でタコの形に切ってあるウインナーを刺し、口に放り込んだ。

実沙は涙がこぼれないように心持ち上を向きながら、二人だけのランチを楽しんだ。秋の柔らかい日差しに包まれた、とても忘れられそうにない体験だった。


二人はお弁当を食べ終えると、バスケットと水筒を持ってクラブハウスに向かった。素也は玄関の数字錠を開け、実沙にナンバーを示し、覚えるように言う。Qちゃんに「ただいま」と言って、実沙をホールに招き入れる。そして、実沙にクラブハウス内を案内する。去年の春に引っ越して以来、宮部に次いで二人目の客だった。

玄関ホールには大きな船舶用の羅針盤が置いてあり、壁にはラットが飾ってある。それに続くメインホールは大理石の床、石と白壁とログの壁、大きな開口部の出窓と、玄関上のステンドグラス、太い梁がむきだしの天井、点在するアンティークのインテリア、額に飾られたモノクロームの写真、そして石積みの暖炉。

右手のキッチンは大型のシンクが中央に配置され、そのまわりにオーブンと食器洗浄器が組み込まれた調理台、そして四人以上座れそうなカウンターが配置してある。左手の壁には、大型の冷蔵庫や食器棚が組み込まれている。

その奥にはシャワールームと、男女別になっている広い洗面所。トイレの個室は一坪以上ある。そして、一番奥の寝室は壁に作り付けのクローゼットと書架、キングサイズのベッドとデスクのみが置いてある。そして東側は一面の窓だ。


実沙は妙な違和感に捕えられていた。そしてその原因に気がついた。コンセントがどこにも無く、電気のコードが見当たらない。延長コードも、見慣れた二又ソケットも、天井から下がっている照明のひもも無い。壁にはスイッチさえない。そもそも電化製品が見当たらない。テレビもエアコンも照明器具も無い。

「宮部君の言っていた意味がやっと解ったわ」

実沙は呟いた。宮部が素也の家には何も無いと言っていたことを思い出したのだ。宮部にとっての何かとは電化製品のことだったのだろう。そして素也に尋ねた。

「夜トイレに行くときはどうするの」

「ランプを手に下げて行くんだ。慣れないと漏らすことになる。実沙さんも気を付けて」

実沙が笑顔で素也の足にローキックを放った。


素也はキッチンに戻り、コーヒーを淹れた。豆を轢き、コーヒーメーカーに入れ、お湯を注ぐ。カップにお湯を入れて温め、シュガーポットとフレッシュを用意する。カップのお湯を捨て、コーヒーを注ぐ。カップをソーサーに乗せカウンターに運び、実沙に勧める。カウンターに並んで座り、コーヒーを一口飲み、素也は実沙に話しかける。

「週末はずっとここに居ればいい。月曜日の朝一緒に会社に行こう。お弁当のお礼がしたいんだ」

実沙は素也の方を向いて「えっ」と言うと、驚いた表情を見せた。素也はしばらく待ってから続けた。

「一度実沙さんのアパートに戻ろう。着替えや必要な物を取っておいで。食料品も買い出ししなきゃ」

「ごめんなさい、ちょっとだけ考えさせて。昨夜から一度に色んな事がありすぎて」

実沙はコーヒーカップを両手に抱え、窓から外を眺めながら、すでに決まっている返事を心の中で繰り返す。素也はコーヒーをお代わりして、実沙の横顔を眺め続ける。

実沙はコーヒーカップをカウンターに置くと、コーヒーカップを見つめながらこう言った。

「父が私に、生きていればきっといい事があるって言ってたけど、本当だったみたい」

そういうと実沙は、ハンカチでそっと目頭を押さえた。実沙の表情が笑顔に変わるまで、素也は実沙を静かに見守った。


玄関の数字錠を施錠してMGに乗り込むと、ゆっくり山を下り、山岡市に向かった。車の中で二人は饒舌だった。素也は山荘の山のことを、将来買い取りたいと打ち明けた。

「近くに高圧線も通ってないし、携帯電話のアンテナも立ってない。そして森と良質な地下水、貴重な植物など手つかずの自然が残っている。もっと深くボーリングすれば温泉も出るだろう。会社の保養所を建てるのもいいし、温泉宿にしてもいい、その時は実沙さん、場末のバーを頼むよ」

「なんで私が温泉宿の女将じゃなくて場末のバーのママなのよ、ぼったくるわよ」

やはり実沙には笑顔が似合う。信号待ちで停まったまわりの車のドライバーが実沙を盗み見ている。

実沙のアパートに寄って、路肩に車を停めて、実沙が荷物を取ってくるのを待つ。回りを見回すが、不審な車は停まってないようだ。前方十メートル程に宅配便のトラックが停車している。二十メートル程後ろで、オートバイのチェーンが外れたのか、男がしゃがんで整備をしている。フルフェイスのヘルメットをかぶったままだ。

不審に思った素也は、ルームミラーで、その男から視線を外さない。男はスパナでボルトを締めているように見える。そのとき実沙が駆け寄ってきた。

トランクリッドを開き、旅行用のショルダーバッグを積み込む。オートバイの男の様子を伺うが、相変わらずだ。バイクの車種とナンバーを頭に入れる。山岡市ナンバーでオフロードタイプのヤマハ製だ。

MGに乗り込み、方向指示器を点滅させ、MGを発進させた。男はまったく動きを見せない。考えすぎかもしれないと自分に言い聞かせ、素也は市場に向かった。

卸向けの内場と一般客向けの外場に分かれている山岡市の中央卸売市場は、新鮮な魚介類や海苔、海藻などの海産物や畜産製品を安く手に入れることが出来る。外場はアジアの市場の雰囲気を真似ていることから、若者にも人気のあるスポットとなっている。巨大なドームの中、露店のように立ち並ぶ屋台を人込みに流されつつ、素也と実沙は買い物を楽しんだ。

海老や烏賊や蛤やサザエや帆立の貝柱、アサリ、カジキマグロの腹身を買い、韓国食材の屋台で焼肉用の肉と付けダレを買った。実沙が素也の腕を取り寄り添う。素也は実沙にお金を渡し会計を任せる。笑顔で値切る実沙に店員は「まいったなぁ」を繰り返す。

クーラーボックスに買い込んだ食料品を仕舞い、いつもの郊外のショッピングセンターに向かう。自然食品店のなじみの女店主は素也と実沙を交互に眺め、笑顔でため息をつく。無農薬の野菜と地元産のキノコ類、そして地鶏を一羽買い、鶏卵も一ダース買い込む。ショッピングセンターにまわり、マッカラン十二年のボトルを二本と御殿場高原ビールを缶で一箱買い込む。トランクにもう入りきらないので、ビール箱は助手席の足元に置かせてもらう。秋の夕日を左手に浴び、MGは山荘に向かった。


修報社社長室奥の部屋で松下は笑みを浮かべていた。長村と正木が宮部から試作機らしい物を盗み出すことに成功したからだ。

松下はその試作機に手を伸ばした。リアパネルのメインスイッチを入れ、モードダイアルを再生の位置を示す三角マークへ慎重に回した。冷却ファンが回り始めただけで、なにも起きないように見えた。しかしレンズから漏れる光に気づいた長村が、窓のブラインドを降ろし、社長室の照明を消した。

その瞬間、松下は部下がいることも忘れ大声を上げた。長村と正木も目の前の光景が信じられなかった。

松下は二人に向かって興奮気味に告げた。

「この前のアルテッツアの失敗は帳消しにしてやる」

正木はホッとした顔になった。が、長村の表情は変わらなかった。そして、長村は試作機を見つめながら冷静に言った。

「社長、水野にはまだ借りを返していません。奴からすべてを取り上げてやりましょう。その技術も信用も」

松下は、それを聞くと満足気にうなずいた。

長村はふと何かに気づいた表情になり、部屋を出て行った。しばらくして戻ってきた長村の手にハンディテスターが握られていた。立体像を投影中の試作機の電源ソケット部分に針を当てる。そして、試作機に合うACアダプターを探しに再び部屋を出て行った。


石畳のロータリーにMGを停め、素也は素早く降りると助手席側に廻り、助手席のドアを開けた。実沙がお礼と共にMGから降りる。そしてそのまま玄関に向かい数字錠を開錠した。実沙は数字を覚えるのは得意だ。なぜそんなに色々な数字を覚えられるのか聞いてみた。

「買った物の値段に引っ掛けるの。例えば今の数字だとちょうどカジキマグロの値段の半分」

「そうか、あの数字錠はカジキの半分か」

素也は感心した。実沙の頭の中にはいったいいくつの買い物のレシートが入っていることだろう。素也はまったく数字を覚えられない。忘れてはならない数字は携帯にメモを取っている。

MGに戻り、実沙は荷物を、素也は食料品を運んだ。台所で冷蔵庫に食料品を仕舞っている素也に

「何か手伝うわよ、エプロンも持ってきたの」

実沙が話しかける。素也は

「魚介類中心に焼けそうな物を適当に切り揃えてもらおうかな。鶏も切ってくれ。ちょっと多めでもかまわないよ。俺は外の準備をしてくる。夕飯は外で網焼きをしよう」

そう言うと、まな板や包丁や皿の場所を教える。外に出ていこうとした時、急に振り向き、

「お風呂が外にしかないんだ。中にシャワーは有るけど。どうする」

困った顔の素也を見て、実沙はこう言った。

「外がいいわ。楽しみなの」

素也は笑顔で出て行った。

素也は煉瓦製のバーベキューコンロに向かった。コンロは一辺が70センチ程の立方体で、アンティークレンガで組んである。上部から15センチぐらいの深さに陶器のコンロが埋め込んであり鉄製の蓋がしてある。側面が一面だけ鉄製のドアがついていて、開けると煉瓦で仕切られた物入れになっている。

コンロの中にはステンレスの網や、キッチンペーパやウエットティッシュ、紙皿、割りばし、グラスが数個、それに木炭や着火剤や火挟みなどが入っている。素也は天気のよい休日はほとんど外で食事を摂っていた。

バーベキューコンロは木製のベンチで囲まれていた。素也はコンロの蓋を取り、コンロの横のドアを開けると、木炭と古新聞紙、使用済みの割り箸の束と使い捨てライターを取り出し、新聞紙をロール状に長細く丸め、さらにとぐろを巻くように丸めた。そうやってテニスボール大に丸めた新聞紙を三個作り、コンロに置いて点火した。使用済みの割り箸を二十本程束から取り出すと、数本づつ折って火のついた新聞紙の上に順にのせる。その回りに木炭をキャンプファイヤーのマキのように高く積み上げた。池の横のログハウスから木炭を運んでコンロ下の物入れに補充しておく。

続けてジャグジーに行き煉瓦製の階段を登り、水で砂や埃を洗い流した。念入りに洗う。

庭からジャグジーの影になって見えない所に、一坪ほどタイルが張ってある。洗い場用だ。素也はそこをデッキブラシで磨いた。綺麗にお湯で流す。そして栓をしてお湯を入れた。夕日が山陰に沈み込み暗くなってきた。ログハウスに下り、大きいランプを二つ両手に下げて持ってくる。コンロの両側に少し離してランプを置き、灯を点した。

火のついた木炭を火挟みで崩し、さらに木炭を追加する。コンロの下部からうちわを取り出し、横からあおいだ。火が勢いよく燃え上がり、新聞紙が燃えた灰が風で飛ばされる。ステンレスの網をセットする。

MGの助手席の足元から缶ビールを持ってきて、箱を開け、十本ほどコンロに近い水路に冷やした。マッカランは一本コンロ脇のベンチに置いて置く。もう一本を持ってクラブハウスに入る。

実沙は魚介類や鶏の手羽やもも肉を大皿に盛りつけを終えていた。見事なものだった。冷蔵庫からラップに包んであるご飯を見つけておにぎりを握っていた。焼おにぎりにするらしい。

素也はマッカランと缶ビールの残りを食器棚に仕舞い、大皿を冷蔵庫に仕舞った。籐のバスケットに調味料や照焼用のタレとハケを数本を詰めておく。そして実沙に話しかけた。

「ちょうどトワイライトタイムだ。お風呂に入ろう」

「脱衣所も外なの」

実沙は笑って尋ねた。素也は洗面所に顔を向け実沙にこう言った。

「あそこで脱げばいいよ、石鹸やシャンプーは先にシャワールームで済ませてからおいで。サンダルはシャワールームに置いて有るから。ジャグジーに入るときはバスタオル巻いたままでいいから」

素也は洗面所のシャワールームから手桶にシャンプーとボディソープ、ボディブラシを突っ込み、寝室のクローゼットからバスローブを二着と大型のバスタオルを二枚取り出した。バスローブとバスタオルを一つづつ実沙に渡す。

外に出るとジャグジーのそばのテーブルにバスタオルとバスローブを置き、ランプを一つ持ってきて近くの地面に置いた。裸になり衣服を畳んでテーブルに置く。ジャグジー横のタイルの上で身体を洗い、洗髪する。手桶でジャグジーのお湯を使う。バスタオルで髪の毛だけ拭いて、お湯に浸かる。まだ八分目程度までしかお湯は入ってなかった。素也はジャグジー裏のスイッチに手を伸ばし、気泡の量を最大にした。

そして、ぬるめのお湯がジャグジーからあふれ始めた頃、実沙がやってきた。足音に気づいた素也は反対側に顔を向けた。

実沙はバスタオルを巻いたままサンダルを脱いで階段を上がり、お湯に脚を入れた。ゆっくりと肩まで浸かるとバスタオルの合せを直しながら言った。

「本当に広いわね、いっぺんに十人ぐらい入れそう。湯船は丸いのね」

素也は頷いて、どんどん暗くなりつつある山岡市の方向に目をやったまま、

「ほら、あそこに市場のドームが見える、その横に見える高いビルが駅ビルだ。実沙さんのアパートはその影かな」

「ここからは見えないのね。と言うことは家からもここが見えないのね」

実沙は呟く。東の空に火星がひときわ明るい輝きを見せる。空が高い。素也は実沙に話す。

「いつでも好きなときに来ればいい」

実沙は静かに頷いた。素也はすぐ下の池に目をやると、

「あの池は地下水を汲み上げて貯めてあるんだ。夏は泳げるんだぜ」

「ワニはいない?」

「うん、ワニはいない。魚もいないけど魚釣り用のボートは有るよ」

「魚がいないのに?」

「うん、魚はいない。魚は魚屋で買えばいい。ボートを夏の暑い日に池に浮かべ、木陰で昼寝をするんだ。涼しいぜ」

「楽しそう」

「あのログハウスの中には、軽油の発電機付きポンプと、とても長いホースが入ってるんだ。山火事は怖いんだ。消せなかったら、車で火の中に突っ込むか、裏に降りる小径から逃げるかどちらかを選ばなけりゃならない」

「きっと消えるわよ。でも火災保険に入っていた方がよさそうね」

すっかり日は落ち、街を走る車のヘッドライトとテールランプが通りの形を浮かび上がらせる。実沙は振り向くとクラブハウスを見て小さな驚きの声を上げた。クラブハウスはライトアップされていた。軒下にセットされているライトが白い土壁とログを浮かび上がらせている。

「素敵」

実沙は呟くと、煉瓦に両ひじを乗せて後ろ向きに身体を伸ばす。その時、水流で緩んだバスタオルが実沙の身体から離れかかった。実沙はバスタオルを両手で押さえ、身体に引き寄せる。素也はその一連の動きから目を逸らすことができない。辛うじて視線を実沙の顔に移すと素也は言った。

「しまったな、バスタブもライトアップ出来るタイプのジャグジーにしておけばよかった」

実沙は素也の方に向き直り上目使いに素也を睨むと、両手で水面をサッと前に押した。お湯の固まりが素也の顔面に見事に命中する。両手で顔をぬぐい、目を開けた素也の目の前に実沙の笑顔があった。

素也は目に見えない力に導かれるように実沙を抱き寄せる。強く抱き締め身体中で実沙を感じる。圧倒的に押し寄せる満足感に自分が何を求め何に到達したのかに思い当たる。長い長い山道を登ってきたようだ。

抱き締めていた手をゆるめ、実沙を横抱きにすると少し持ち上げて引き寄せる。そして少しずつ実沙に包まれる。あたりはすっかり暗くなり、空を満天の星が覆っても二人は離れなかった。


東の空から少し欠けた月がゆっくりと顔を覗かせた頃、二人はお湯から出るとお互いをバスタオルで拭き合い、バスローブを着てコンロへと向かった。お湯は出し続けておいた。

素也が冷蔵庫から大皿と調味料を入れたバスケットを持ってくる。実沙はコンロの下から紙皿や割り箸を取り出し準備をする。缶ビールを水路から出し素也に渡す。お互いのタンブラーに同時にビールを注ぎ、二人はささやかに乾杯した。

月明かりと白壁、そしてランプとコンロの光に包まれて、好きな物を好きなように焼いて食べた。素也はビールを水のように飲み、実沙も素也が驚くほどの食欲を見せた。実沙は「生まれ変わったみたい」と言うと、水路から缶ビールを二本取り出し、一本を素也に下から放って渡した。そして食事が一息つくと、一人でジャグジーに数分間浸かりに行った。

ジャグジーから出ると、実沙はランプを抱えてクラブハウスのトイレに向かおうとした。素也が笑って

「ランプは必要ないよ、電気は勝手に点くから」

と言う。

「だましたのね」

と笑顔で実沙は言い、クラブハウスに向かった。

玄関に近づくと、玄関が光の中に浮かび上がる。ドアを開けると、玄関ホールの壁と床の境目が一斉に光った。キッチンを通って洗面所に向かうと、歩く方向を導くように床と壁の数センチの境目から順に灯りが漏れる。振り返ると、歩いた後は自動的に消えてゆく。実沙がトイレを済ませ、玄関から出てくるまで、すべての場所が自動的に必要な明るさに調光され続けた。

戻ると素也に「凄い仕掛けね」と話しかける。素也は「気に入った?」と笑顔を見せた後、立ち上がるとジャグジーのお湯を止めた後、コンロの下からグラスを二つ取り出し、水路でゆすいだ。マッカランの栓を抜きグラスに注ぎ、水路の水で二倍に薄める。割りばしで軽くステアし実沙に勧めた。実沙は一口飲むと「私には濃いわ」と呟き、水を少量つぎ足した。

紙皿と割り箸をコンロに突っ込み燃やした後、鉄製の蓋を閉め火を消した。ベンチから立ち上がるとグラスを手に芝生に移る。二つのランプを側に立て、芝生にバスタオルを敷き腰かけ無言でマッカランを飲む。自然に寄り添い、お互いの身体を優しく探り合う。風はほとんど吹いてない。

素也は実沙を仰向けに横にさせると、バスローブのひもを解き前をはだけた。どちらかというと広い肩幅、形の良い胸、細くくびれたウエスト、適度なフィットネスで締まった筋肉を薄く脂肪がおおう腹部、張り出した腰から伸びる張りのあるまっすぐな脚。

ランプの炎と月明かりに照らされた肢体を素也は眺め続ける。恥ずかしさに耐えきれず実沙が両手で顔をおおう。

素也は実沙の脚を広げその間に座り込むと、薄い体毛に指を絡める。そして実沙の腰を持ち上げると、実沙の身体に唇をつけた。隅々まで確認するように丁寧にくぼみに舌をのばし、突起を吸う。実沙が素也の頭に手を伸ばし、髪の毛をまさぐる。そして、素也を上に引き上げ、腰に脚を廻した。

素也は実沙にキスをしながらゆっくりと実沙の中に入っていった。静かに優しく動き始めた。そしてリズムを変えながら長い時間をかけて少しずつストロークのピッチを上げ続ける。

実沙は大切に大切に素也に翻弄された。素也に身体の自由を次第に奪われて、指先しか動かすことが出来ない。その姿勢のまま素也の底知れない体力を全身で味わう。何度も何度も素也に導かれる。

素也はまるで限界を感じさせないようにピッチを上げ続ける。そしてそれ以上ストロークのスピードが上がらないところでしばらく耐えた後、お互いを一気に解放させた。

ふと我にかえった実沙は、そのまま自分の上で眠ってしまいそうな素也を起こすと、バスローブを着せて、紐を締めてやり、素也の手を引いてクラブハウスに戻った。そして、そのままベッドに二人で倒れ込むと寄り添って眠りに就いた。


((扉タイトル))第5章 山荘Sunday October 3

素也が目覚めると八時過ぎだった。ベッドを見渡すが実沙はいない。バスローブのまま起き上がりキッチンに向かうと、実沙はお米を研いでいた。すでに着替えていて、メイクも終えている。

明るい茶色のウールのタートルネックのセーターにレザーの濃い茶色のタイトスカート、持参の薄いすみれ色のエプロンを着けている。髪の毛は相変わらず毛先がはねている。東の窓からの明るい光を受けて全身が輝いて見えた。朝、寝起きに最初に目にする光景としては十分すぎた。

立ち尽くす素也に気づくと、少しはにかんだ笑顔で「おはようございます」と話しかける。素也も笑顔で「おはよう」と答える。

「素也さん、台所の使い方教えて。朝御飯作りたいの」

素也は実沙を抱き締め軽くキスをした後、電磁調理器具の火力の調整、食器や鍋や調味料の場所を実沙に教えた。ついでにオーブンレンジと魚焼用の小型のグリルの使い方も教えた。

トイレに行き洗面を済ますと庭に出て昨夜の後片付けに取りかかる。空は雲がかかっている。風は湿り気を帯びている。昼過ぎから雨が降るかもしれない。

ランプを池の脇のログハウスに仕舞い、金網と皿を水路の水を汲み、芝生の上でざっと洗い、ジャグジーの栓を抜く。缶ビールの缶をゴミ袋に入れ、食べ残しは庭の隅に固めて置いた。鳥の餌だ。幸いこの山には野犬は住みついていない。

素也は餌を運びながら、番犬に狩猟犬でも飼おうかなと考えていた。実沙はどんな犬が好きなのだろう。そして、実沙と一緒に住むことを考えている自分に気づき苦笑する。

煉瓦のコンロは、横の通風口を閉じ上部を鉄の蓋で覆っておいたので火は消えていた。消し炭を一ヶ所に集めて、灰を掻き出し庭の隅に撒く。洗った網をコンロの中に仕舞い、鉄製の蓋を閉じた。

皿や調味料が入ったバスケット、飲み残しのマッカランやゴミを抱えクラブハウスに戻り、キッチンの勝手口から入り手早く片付けを終える。

寝室に戻って、バスローブを脱ぎ、アンダーウェアを持ってシャワールームに向かい、シャワーを軽く浴びた。バスタオルで身体を拭き、アンダーウェアを身に着け、寝室に戻る。クローゼットを開け、Tシャツの上にトレーナーを重ね着する。リーバイスの501を履き、バスローブやバスタオルを洗濯機に入れスイッチを入れる。

キッチンに戻るとカウンターに朝御飯のおかずが並んでいた。シンクで手を洗い、米が炊けていることを確認すると、おひつに全部開けしゃもじで手早くほぐす。茶碗を二つ食器棚から出しご飯をよそう。おひつに布巾を掛け、ふたをしてしゃもじと共にカウンターに置く。実沙はお椀に味噌汁を注いでいた。分葱を一つかみづつお椀に入れる。

カウンターに並んで「頂きます」と言うと二人は食事に取りかかった。ご飯は素也が炊くより少しだけ柔らかい。味噌汁は、煮干しではなく鰹節でダシが取ってある。梅干しに、実沙が柔らかく焼上げた出汁巻き、キュウリの浅漬け、昨日買ったカジキの腹身の塩焼き。素也なら照焼きにするところだが、塩焼きも塩加減が良く美味しい。

素也はご飯を四杯お代わりした。実沙が二合炊いたご飯が綺麗に無くなった。実沙がコンロから味噌汁のお代わりを注いでくれる。

先に食べ終えた素也はお湯を湧かし、ほうじ茶を煎れた。実沙にも勧め、梅干しを噛りながらほうじ茶を飲む。今日は日曜日と二人で確認し、顔を見合わせて笑う。

「さあ、何をしようか。実沙さん」

「お任せのはずよ、素也さん。本当になんでもいいのよ」

「昼から雨になるかもしれない。ここでこのままのんびりしようか」

「『映画でも見に行かないか』なんて言ってたら、蹴っ飛ばすところだったわ」

実沙は笑顔を見せた。素也は立ち上がり食器を片付ける。立ち上がりかけた実沙を手で制して、食器洗浄器に食器を突っ込み、スイッチを入れる。

「実沙さん、昨日のジーンズに履き替えてくれないかな。ちょっと下まで散歩しよう」

実沙は頷くと荷物が置いてある寝室に向かった。素也はすべての窓を開け、埃を出し、ベットの毛布を窓から干す。携帯を取り出しQちゃんに電話を掛け掃除を開始させると、実沙と一緒にクラブハウスの外に出た。

裏に回り、山のふもとまで小径を降りる。所々で木の目立つところに赤いペンキが塗ってある。実沙にその目印を教える。人が一人通れる幅の路だ。毎年笹や木の枝を切ってやらないと、路が塞がれてしまう。

足元が悪いので実沙の手を引いて歩いた。二十分ほど歩くと、轍の付いた未舗装路に出た。

「ここまでが緊急用の小径。この道路を左に真っ直ぐ行くと国道に突き当たるんだ」

二人は振り返り来た路を登り始めた。途中で分岐を右に逸れ、舗装済みのクラブハウスへのアプローチの道路に出る。二人並んで手を取り合い、ゆっくりと登ってゆく。素也は顔にうっすらと汗をかく。が、実沙は涼しげだ。雑木林がトンネルのように舗装道路を覆っている。

「この辺り、あと一ヶ月もすれば紅葉が始まる。そうしたら綺麗だぜ」

素也は実沙に話しかける。実沙は回りを見渡しながら、素也の声を気持ちよさそうに聞いている。

クラブハウスに近づくと丸太で造った階段を池の方に降り、南向きの斜面に取りつけられた可動式の36枚のソーラーパネルを見せる。

「ここ、電柱無いだろ。実は電気が来ていないんだ。ここで発電しているんだ」

「雨の日や夜はどうするの」

「このソーラーパネルで発電した電気は、地下水を汲み上げる為だけに使われているんだ。実際に我々が使う電気は、汲み上げた水を放出し、タービンを回すことによって作り出しているんだ」

実沙はピンと来ないようだった。

「あの庭を流れる水路の水もその水なのね」

「ああ、タービンを回すために放水した水さ。その水は池に一旦溜まり、また地下に還ってゆくんだ。森で濾過されて」

「よく分からないんだけど、作りすぎた電気はどうするの」

「電気は貯めることが出来ないので捨てることになる。ただで捨てるのは勿体ないので、余った電気は温水タンクのお湯を沸かすのに使っているんだ」

そこまで話すと階段を上り始めた。階段はクラブハウスを通りすぎ、山頂近くまで続いていた。森の影にポンプ付きの発電用の大きなタンクと温水用の小さなタンクがあった。

「大きい方が上水と発電用のタンクだ。水は流れ続けているので冬でも凍らない。この一年でまだ電気が使えなくなったことは無い。まあ、もし、電気がなくてもそう困ることは無いけどね」

「ヘヤードライヤーが使えないと困るわ」

そう言うと、実沙は笑った。


クラブハウスに戻るとQちゃんは掃除を終えていた。おでこのランプが赤く光り、充電あることを示している。素也より先に実沙が「お疲れさん、Qちゃん」というと、頭の三本の毛をなでた。

素也はクラブハウスの中を案内した。実沙をホール中央に立たせ、隅のソファーを押してきて実沙の後ろに置いた。出窓下に取りつけてあるキャビネットの引き出しを開け、スイッチを操作する。天井から投射式プロジェクターと白いスクリーンが降りてきて、スクリーンにハイビジョン映像が映し出された。ドルビーサラウンドのスピーカーシステムは天井の梁に取りつけてあるが、梁の色に塗られ目立たないようになっていた。

ソファーの後ろに回り、実沙の後ろて背もたれに手を付いて素也は言った。

「実はこのシステムは宮部のプレゼントなんだ。ジャグジーを取りつけた翌日に、設置までしてもらったんだ」

素也が言うと、実沙は

「宮部君、張り切ったでしょうね。素也さんの為に働くのは彼の生きがいだから」

「なんだよ、急に」

「いいのいいの、鈍い人には何をいってもねえ」

素也は実沙を寝室に誘った。書架の横の開き戸に、大きなターンテーブルと真空管を自分で組んだアンプが鎮座していた。どちらも素也が学生の頃、暇にまかせて組み上げた物だ。そして、書架には古いLPが千枚近く並んでいる。素也が夜に酒を飲みながら聴くのはもっぱら寝室のステレオシステムの方だった。

ターンテーブルにおいてあるレコードに慎重に針を落とした。リアルな現実の音が壁に埋め込んであるタンノイのスピーカーから寝室中に響き渡る。MJQの「ジャンゴ」。ミルトジャクソンのビブラフォン曇りのない音を立てる。

実沙が眼を閉じて言った。

「素也さんらしくていい音ね。でも宮部君の選んだセットが気に入ったわ。ワイドショーや連ドラも見たいし」

素也は苦笑しながら言った。

「さあ、もうすぐお昼だ。何を食べようか」

「なんでもいいの。でも手伝うわ」

「じゃあパスタにするかい、こういうのはどうかな。お互いにソースを一種類ずつ作って分け合うというのは」

「そして、勝負するのね」

二人は吹き出しながら台所に向かった。大鍋を取り出し水を入れ、コンロに掛ける。実沙はエプロンをつけながら尋ねる。

「素也さん何を作るの」

素也は答える。

「昨日買ったアサリとトマトがあるからボンゴレにしようかな」

「私は内緒にしておこう」

実沙はそう言うと中腰で冷蔵庫を物色し始めた。そのエプロンの後ろ姿を見つめる素也の動きが止まる。実沙が振り向くと、素也はさりげなく視線を外した。その動きに気づいた実沙が、疑わしそうな表情で素也の眼を覗き込む。

素也は唐辛子とニンニクをみじん切りにするとフライパンで炒め、それにアサリを加え白ワインを振りかけると蓋をして蒸す。アサリの殻が空いた頃、潰したトマトを加えた。

実沙は、冷蔵庫の野菜入れからキノコ類をたっぷり取り出した。エノキ、シメジ、エリンギ、シイタケ。手早く中華なべで豚肉と炒め、大量にショウガをすり、コンソメと共に水に溶かした物を加える。しょうゆで味を整え、カタクリ粉でとろみを付ける。

二人のソースが出来上がった頃、沸いているお湯に塩を振り、五百グラム程麺を入れた。直径1ミリの太麺だ。実沙は簡単なサラダを作っている。素也は麺の茹で上がりをチェックし、茹で上がるとお湯を切りバターを絡め、二つの大皿に取り分けた。それぞれのソースを絡める。順にめいめいの小皿に取り分ける。素也はボンゴレロッソの皿に刻んだパセリを振りかける。実沙がキノコソースの皿に刻み海苔をのせた。カウンターに腰掛けると、二人で競うように食べ始めた。

「どうかしら」

「俺の勝ちだと言いたいところだが、実沙さんの方が美味いな」

「あら、素也さんの方が美味しいわよ、私のも捨てたもんじゃないけどね」

「すいぶん料理には性格が出るもんだね」

「そういわれるとそうかしら。で、私の性格は」

「慎重、繊細、だけど結構派手好き」

「当たっているのかしら。でも、悪くはないわ。あ、私にも言わせて。素也さんは、」

そこまで言うと、実沙はしばらく考え始めた。

食べる手は休めない。

「えーと、凝り性、力ずく、結構スケベ」

「実沙さん、料理とあんまり関係ないじゃん」

素也は心からの笑顔を見せた。

残さず食べ終え、素也は皿を食器洗浄器に入れスイッチを入れる。やかんに水を入れ、コンロに掛けた。

鍋を洗い、お湯が沸くとポットとカップを温めた後、ダージリンを淹れる。紅茶を飲み終えると、素也はカメラを構えるポーズをした。

「ちょっと撮らせてくれないか」

実沙はしばらく考えて

「化粧を直してくるわ」

と言うと化粧室に向かった。素也は寝室に戻り、クローゼット隅の防湿庫から、ニコンF3を二台取り出した。マウントキャップを外し、ニッコール35ミリをマウントする。しばらく迷ってから、タムロンの90ミリマクロをつかむ。旧タイプだ。もう一台にマウントする。

キッチンに戻って、冷蔵庫からリバーサルフィルムをパッケージごと取り出す。コダックのエクタクロームだ。F3の裏蓋を開け、フィルムを装着する。


素也はメカニカルカメラのマニアだった。自然と古いカメラが防湿庫に増えていった。機械式のカメラの最大の魅力は、手に取ってみるとよく分かる。精密機械には心がこもっていて手に良く馴染む。コーティングされた金属は色褪せず、傷さえも風格となる。いつまでも新鮮なのだ。

最新のデジタルカメラが、買った瞬間から陳腐化していくのとは対照的だ。機械式のカメラは、程度良く保存すれば、ほぼ買った値段で転売できた。

宮部は自分が使っている一眼レフタイプの大型デジタルカメラの機能をよく素也に自慢した。しかし、素也はその最新式のカメラが一年後には二束三文の価値しかなくなることを知っていた。つまり、デジタルカメラはまだまだ完成品ではないということだ。車一台買えそうな値段であるにもかかわらずだ。

素也が古いメカニカルカメラにこだわるのには他にも訳があった。フィルムカメラであっても、最新式の一眼レフには素也は興味が無かった。あんな親切の押し売りの固まりのようなカメラを手にしたくはない。

電池や液晶モニタや撮影モードなど無くても、フィルムを巻きあげシャッターをチャージして、シャッターをレリーズすれば写真は撮れるのだ。

それに、山に登り、電池が使えない電子式カメラはただの重りだ。煩雑なコードや充電パック、画像を保存するメモリなどに気を使うことが素也には絶えられなかった。素也には低温の冬山で、湿原など多湿な場所で、単体で長時間活躍するカメラが必要なのだ。

さらには画質の問題がある。どんなにデジタルカメラの撮像素子が高性能になっても、光の波長と、撮像素子のピッチに起因する光の回折現象はいつまでもついて回る。

そして、デジタルカメラで撮られた絵は、カメラメーカー技術者の作ったプログラムによって補正された絵で、虚構の絵だ。例えば撮像素子の一画素にはRGBのうち一色分の情報しか無い。それを隣接する画素との演算により三色の情報へ水増ししているのだ。技術的な解析を得意とする素也にはそれらの仕掛けがよく分かっていた。本物に近づけるためにはどの様な複雑な演算が必要かを。

だが、皮肉にも演算処理をすればするほどオリジナルからは離れてゆく。それは素也にとって虚構の絵だった。

どんなに補正をしても、フィルムの乳剤の分子の一つ一つを直接光によって化学反応させる仕組みにはとうてい追いつけないであろう。気に入らないとすぐに撮り直せる利点があると言うが、被写体に対して、やり直しが効かない一瞬の勝負を見つめた方が潔い。

ただ、素也は宮部に古いカメラを勧めることもない。結局は使う側の好みであり、生き方の問題なのだ。

F3は20年近く生産を続けたニコンのロングセラー機だ。ジウジアーロデザインによるそのボディは頑強で耐久性が高い。電磁シャッターではあるが、60分の1秒であれば、電池がなくても機械式シャッターが切れる。

レンズの絞りに合わせてシャッタースピードを変え、適性露出値を決めてくれるAEがついているが、素也は使わない。被写体に合わせて勝手に露出を変えられると困るからだ。AEロックボタンや露出補正ダイヤルを使うぐらいなら、いいわけの効かないマニュアル露出を選ぶ。

ピントももちろんオートフォーカスではなく、ファインダースクリーンでピントを追い込むマニュアルフォーカスだ。オートフォーカスの方が、失敗が少なく、動きのある被写体には強い。だが、ただそれだけの事だと素也は思っていた。自分の指でスクリーンに被写体が合焦したときのカチンとした感覚が好きなのだ。その瞬間頭の中で被写体の立体像が形造られる。そのためのマニュアルフォーカスだった。それに、余分な機能は無い方が美しいと素也は思っている。

素也がデジタルに移行しない理由の一つに、ファインダーの問題があった。暗くて見にくいデジタルカメラ用のファインダーは撮っていて楽しくない。明るいレンズで明るいファインダースクリーンを覗いて、被写体に合象したときの感覚はとても気持ちがいい。頭の中の霧が晴れるようでもある。

素也が撮る写真はピントの芯がかっちりとクリアに決まっていた。視点を変えたら、画面の中で被写体と背景が位置を変えるように見える写真が素也は好きだった。


実沙が戻ってきた。実沙を撮るのは始めてだ。実沙もスナップ以外でじっくり撮られる経験は無いはずだ。

まず、実沙にF3を一台渡し、カメラの操作を教えながら、テーブル上の食器や果実、それからお互いを撮り合った。カメラを交換して、レンズの違いも教える。

最初ピントを合わせるのにとまどっていたが、すぐに慣れる。実沙はキウイを切り、タムロンで寄れるまで寄っていた。マクロレンズでもあるタムロンは、接写が出来る。実沙は、ファインダーに広がるキウイの断面の色合いに感動していた。飲み込みが早い。フィルムを数本使って、カメラとはどういうものか理解してもらう、カメラを意識させない表情をさせるためにカメラに慣れさせるのだ。

30分もすると、素也が実沙にカメラを向けても、構えることが無くなり表情が柔らかになってきた。実沙からカメラを取り上げ、自然に動いてもらい、実沙を追い始める。

明るい曇り、大理石の床がレフ板となり、柔らかな光が実沙を包む。窓枠の形のままのキャッチライトが長い睫毛に囲まれた瞳を輝かせる。黒髪が見事な光沢を放つ。ツンととがった鼻、少しだけ厚めの唇、歯並びのいい白い前歯が素也の立てるシャッター音に反応して形を変え続ける。

実沙は食器を食器棚に片付け、床に座り、廊下を歩く。ターンテーブルにLPを乗せ、針を降ろす。デスクに座り携帯のメールをチェックする。窓辺に立ち庭を眺める。ベッドに倒れ込み、素也を見上げる。ホールで壁にもたれて座り、脚を開いて投げ出す。

レンズの絞りは開放から少し絞り込み、逆光ではレフ板を当て、光量の足りないところは、カメラを固定して、ワイヤーレリーズケーブルを使う。偏光フィルターを使い、コントラストを上げる。

かすかな微笑み、もの憂げな表情、弾ける笑顔。カメラを変え、アングルを変え、ポーズや表情をリクエストしながら実沙を大事に撮り続けた。そして、実沙が形作る意識の断片を、素也は丁寧に拾い集める。

身体のラインと、背景の構図や抜けに気を使い、生き生きとした表情を現実世界から切り取り続ける。実沙の回りに配置されるインテリアを効果的に扱う。アンティークな小物で実沙をうずめて撮る。

フィルム交換中は実沙をリラックスさせるように気を遣う。撮影済みのフィルムは紙袋に入れておく。

ベッドでセーターを脱いでもらい、ブラも取り、シーツを身体に絡させて撮る。フィルムをネガのコダカラーに変える。単色系の肌表現になったからだ。多少露出をオーバー気味にセットする。

形の良い胸が様々に形を変え、綺麗な表情を引き立てる。バストトップはシーツに隠して撮らない。

素也が手を伸ばし、実沙の髪の毛をくしゃくしゃにする。寄って素也を見つめる悪戯っぽい笑顔を撮る。少し引いて、シーツを下から持ち上げる隠すことのできない魅力的なラインを撮る。

フィルムワンパッケージ撮りきると、カメラをデスクに置いた。ベッド上の実沙をシーツごと抱き締め、シーツに右手を突っ込みジーンズのボタンに手を掛ける。

「上手いのね、モデルさん落ちるのも当然ね」

実沙が素也の耳もとで囁く。瞳が潤んでいる。素也は実沙に長いキスをしてからこう言った。

「いや、撮っていてこんな気持ちになったのは始めてだ」

実沙は「また嘘ばっかり」と呟いたが、素也の言葉は事実だった。

実沙は素也の右手から腰を逃がすように動かしながら

「ねえ、今まで撮った後関係したことあるの、あの、ホテルシティ山岡のモデルさんとは寝たの?」

素也を攻める。素也はそれには答えずに、実沙の腰を引き寄せると、ジーンズのボタンを外し、ジッパーを下ろす。シーツを実沙の上半身に強く巻きつけ、左手でシーツをつかんで固定する。右手を後ろに回すと、シーツをまくりあげて、ジーンズとショーツを一緒に一気に引き下ろした。

実沙が小さな悲鳴を上げる。素也は実沙をうつ伏せにする。実沙の上半身をからめとっているシーツは緩めない。実沙はしばらく身体を動かして抵抗していたが、次第におとなしくなる。それから一時間近く素也は実沙の自由を奪い続けた。


微かな物音で素也は我にかえった。何かが走り去るリズム。

気がつくと夕暮れが近づいていた。日が落ちつつある。二人でそのままうとうとしてしまったようだ。汗が渇いて、素肌でいると寒いぐらいだ。素也は実沙に洗濯機から取り出したバスローブを渡した。自分も身に付ける。

シーツをベッドからはがし、乾燥機付き全自動洗濯機に入れ、スイッチを入れる。素也は庭に出てジャグジーをざっと洗うと栓をして、お湯を入れた。ジャグジーの回りのタイルもざっとデッキブラシでこする。遠くで雷鳴が聞こえるが、上空は雲の切れ間から紫色の空がのぞく。雷鳴の音に混じって、バイクの走り去る音が聞こえた。遠くから木霊が運んで来たのだろうか。素也は音の方に顔を向けしばらくデッキブラシを擦る手を止めた。


男はベッドに寄り添って眠る二人の姿を見た後、静かにクラブハウスから離れると、まだ明るさの残る裏の小径を駆け下った。空を飛ぶように獣のようなスピードで麓まで駆け下ると、停めてあったバイクに股がり国道へと戻っていった。


冷蔵庫を覗き、食料品をチェックする。ビールを数本持って庭に出て水路で冷やし、煉瓦のコンロに新聞紙と割り箸で火をおこす。昨夜の消し炭なので、すぐに良い火が起きる。大量に炭を足した。

いつの間にか実沙が近くに来ていた。火を起こす素也を見つめる。

ランプを池の脇のログハウスに取りに行き、両手に下げて戻り火を付け、コンロから数メートル離して置いた。素也は実沙に

「お風呂に入ろう。今日はこっちで洗えばいい。ちょっと待ってて、シャンプーやタオルを持ってくるから」

そう言うと、クラブハウスに向かった。実沙もついてきた。素也がシャンプーやトリートメント、ボディソープや洗顔フォームを手桶に突っ込み、バスタオルを洗濯機から二枚取り出してシャグジーの前に戻ると実沙はメイク用のポーチを持って立っていた。

近くのテーブルに手桶とタオル、実沙のポーチを置き、実沙に向き直ると実沙のバスローブのひもをほどく。後ろに回ってゆっくりとバスローブを脱がし、テーブルに置く。自分も裸になると、階段を上がりぬるめのお湯にそのまま浸かった。実沙も後を追う。

ちょうどその時、雲の切れ間から西の稜線に沈む太陽が姿を現し、山岡市の半分を赤く染め上げる。実沙が「綺麗、半分だけ陽が当たってる」と呟くと、素也の背中に胸を押しつけた。

「素也さん、さっき撮ったフィルム、どこに現像に出すの?」

後ろから素也を抱き締めながら尋ねる。

「岬スタジオに出すよ」

素也は何も考えずに答えた。

岬スタジオは山岡市に本社がある写真スタジオとカメラ販売を兼ねたDPEショップで、羽鳥市に支店がある。素也はその店のお得意様だった。そして、そこには佳子という店員がいて、その佳子は素也のガールフレンドの一人だった。

返事をしない実沙に素也は尋ねた。

「なぜそんなこと聞くんだ」

すると実沙は

「佳子さんがプリントしてくれるの?」

と言うと、素也の顔をのぞき込む。素也は返事に困った。


急ぎの時は、佳子がデーターを焼き込んだDVDをオフィスまで届けてくれることがある。その応対で実沙は佳子を知っているわけだが、今の質問は、佳子が素也にとってカメラ屋の店員以上の関係であると、実沙が気づいている事を物語っていた。

「もちろん佳子さんに頼むよ。大事な写真は他の店員には任せられないんだ」

素也が答える。実沙は素也の背中からゆっくりと胸を離しながら呟いた。

「大丈夫かしら」

「大丈夫だって。だって、他のモデルさんの写真もたくさん任せているんだぜ」

「私は素也さんの会社の社員よ。モデルじゃないわ。女同士だからこそわかることもあるのよ。やっぱり素也さんって鈍いのね」

実沙は横を向いた。素也はしばらく考えてから

「やっぱり佳子さんに頼むよ。それが彼女の仕事なんだ。大丈夫さ」

「変な気を使ってごめんなさい。これからもこういうこと色々あるでしょうし、あまり気にしないようにしなくちゃね」

実沙は横を向いたまま自分に言い聞かせるように呟くと、素也にはにかんだような笑顔を向けた。素也はその笑顔を見つめ返すことが出来なかった。


ゆっくりと身体を温めた二人は外に出て、お互いの体を洗いあった。指先を通じて直接気持ちが通じ合うようだ。お互いの体を覚え込むようにゆっくりと洗う。

実沙が素也の筋肉の盛り上がりに目を見張る。作られた筋肉ではなく、破壊され再生し続け、鍛え抜かれた凄みを持っていた。

素也も実沙のきめ細やかな張りのある素肌を優しく洗う。薄暮に照らされた肌は、その光と影の境目が美しい曲線を描く。

実沙はクレンジングクリームでメイクを落とし、素也は実沙の髪をシャンプーで丁寧に洗った。頭皮をゆっくりとマッサージする。実沙が「ちょっと痛いわ」と文句を言った。手桶で何度も髪をすすぎ、トリートメントを擦り込む。

実沙も素也を座らせ、後ろから優しく髪を洗った。実沙に洗髪される素也は、その心地よさに驚く。実沙は素也の頭のつぼを巧みに指で押した。

実沙は手桶で素也の髪の泡を流し、バスタオルで髪を軽く拭く。盛り上がった肩や腕の筋肉を揉み解そうとするが、指が筋肉に負けてしまう。

「こんなにマッチョだとは思わなかったわ」

そう言いながら実沙が素也の背中を撫でる。素也も実沙のシェイプアップされた身体に感心していた。

二人でもう一度お湯に浸かり、出た後バスタオルでお互いを優しく拭き合う。バスローブを着ると、キッチンに戻り、材料と調味料を運んだ。

冷蔵庫から市場で買っておいた肉の固まりを取り出した。骨付きの肉塊を1キロ程包丁で切り出し、さらに小さく切って一緒に買っておいたもみダレに付け込む。ハツやレバーも別の皿に付け込む。チシャの葉と辛子みそを皿に大量に盛る。実沙は手早くボウルにサラダを盛りつけ、鍋にモヤシと豆腐のスープを作った。

皿を大きなお盆でコンロ脇に運ぶと、スープの鍋をコンロの端に置いておく。水路から缶ビールを取り出しコンロ横のベンチに座り、二つのタンブラーに注ぐと無言で乾杯した。

炭は表面が白く灰になり、いい火が熾きていた。すぐに焼き始める。肉汁が網からしたたり、炭に落ち、その煙で燻される。チシャに取りみそを付けて食べた。実沙も大量にサラダを食べ、スープを飲んだ。


一時間程で食べ尽くした。実沙が自分の食欲にびっくりしている。

「胃に歯があるような感じ」

素也も自分の内蔵が音を立てて動いている様子を感じ散ることが出来る。そして、実沙と二人で過ごすと、自分の感覚がどんどん研ぎ澄まされて行く事に気づいた。

皿をキッチンペーパーで拭き、キッチンペーパーと紙皿と割りばしはコンロで燃やした。皿をお盆にのせ、キッチンに運び、食器洗浄器にセットしてスイッチをいれる。

もう一度二人でジャグジーに入って食事の汗を軽く流した。お湯を止め、栓を抜いておく。コンロにふたをして、炭火を消すと、二人で一つづつランプを持ってクラブハウスに向かった。

洗面所で歯を磨き、トイレを済ませて寝室に向かう。洗濯機から洗い上がったシーツを取り出して手に持つ。フットライトが二人の行き先を照らし、二人の後を追うように消える。デスクの上にランプを一つ置く。もう一つはベッドサイドに置いた。

素也はベッドの傍に立つと、軽々とマットレスを持ち上げシーツをセットした。ほぼ正方形のキングサイズのベッドは、マットレスが二つに別れている。なので二人で寝たとき、一人が寝返りを打っても相手に揺れが伝わらない。

素也がベッドメイクしている間、実沙は部屋の中を歩き回って、フットライトで遊んで。実沙を追うように光が進み、実沙が立ち止まると、実沙を追い越した後前後に揺らめきを見せる。歩きながら実沙が素也に尋ねた。

「部屋のライトはこれ以上明るくならないの」

素也は答える代わりに手を天井近くまで差し上げた。数秒その姿勢で待っていると、天井と壁の間が光り始め、どんどん明るくなっていった。手を降ろすとその明るさに固定される。もう一度手を上げると、今度はだんだん暗くなっていき最後は消えた。

「ほら、あそこに小さな赤い点が見えるだろう」

素也は囁いた。素也の指の先を実沙が眼で追うと、壁の一点が小さく赤く光っている。

「あそこがセンサーになっていて、LEDの光の遮断時間で明るさを変えることが出来るんだ」

実沙がさらに素也に尋ねた。

「じゃあ、このフットライトはどうやって消すの」

二人の近くの床と壁の間が、月夜に照らされる湖面のように揺らめきながら光っている。素也は実沙に近寄り、実沙を軽々と抱き上げると、ベッドに横たえ実沙のスリッパを脱がせた。素也もベッドに上がってからしばらくすると部屋はランプの灯りに照らされるだけとなった。素也は揺らめくランプの光りに輝く実沙の瞳を見つめた。

顔を寄せる素也を手で制した後、実沙は起き上がり、素也に覆い被さるとキスをしながら素也のバスローブの紐を解き、前をはだけた。そして、

「素也さん、動かないで」

と実沙は素也の耳元で囁き、自分もバスローブの紐を解くと素也の身体を愛撫し始めた。

素也は半分眠っているような精神状態で、心地のいい愛撫を身体中に受ける。実沙は手を使わずに、唇と舌だけで、素也の身体を上からくまなく愛撫する。実沙の下半身が素也の顔の上を何度も通り過ぎる。

素也の耳に口をつけ、囁くように素也に感想を尋ねる。素也は呻くだけで何も口にすることができない。そしてじらされ続けた後、ゆっくりと素也は実沙に包まれた。

実沙は自分で動き始めた。次第にペースを上げ、激しく収縮し素也は熱い物に包まれる。そしてしばらく休んだ後、また動き始める。素也は下から突き上げたくなる自分を意志の力で押さえ、耐えた。何度目かの、そして激しい実沙の収縮に合わせて、自分を開放する。

しばらく微睡んだ後、素也は下に敷いていたバスローブを床に放り投げた。実沙を毛布で包み込み、自分も別の毛布に包まると、寄り添って泥のように眠った。


((扉タイトル))第6章 クラッキングMonday October 4

目覚めると7時前だった。窓の外を見ると、霧雨がしんしんと降っている。実沙は隣で静かに寝息を立てていた。しばらく寝顔を見た後、そっとベッドから抜け出し床のバスローブを拾い、洗面所に向かった。

洗濯機にバスローブを突っ込み、トイレに行き、シャワーを浴びる。バスタオルを使い、トランクスと白いTシャツを着る。寝室に戻り昨日履いていたリーバイスを履いて左手首にオシアナスを巻く。

物音で実沙が目を覚ました。素也を見つけ、回りを見回し

「ここはどこ?」

柔らかな笑顔で尋ねる。はだけたバスローブや、髪の毛の寝癖までもが魅力的だ。素也は寝癖を撫で付けながら尋ねる。

「おはよう、良く眠れたかな」

実沙は頷いた。

「朝御飯はパンでいいよね。俺が作るよ。シャワーをあびてくればいい」

素也は言うと、キッチンに向かい、お湯を沸かした。昨日の皿を片付け、冷蔵庫からベーコン肉の固まりを取り出し、5ミリ程の厚さで切り始めた。パンナイフで食パンを手早く切り、オーブンを余熱しておく。

卵を4つボウルに割り、手早くかき混ぜる。フライパンにバターを少し落とし、コンロに掛ける。煙が立ち上ったのを確認してベーコンをフライパン一面に敷き詰めた。

パンをオーブンに入れる。ベーコンは自身から出た油でカリカリに揚がる。ベーコンを皿に取り出し、オムレツ用のフライパンを取り出すとバターを引いた。ボウルの卵を流し込む。固まらないうちにフライパンを傾け、ゆすって卵を巻き込み、半熟のオムレツを作った。

実沙がシャワー後バスローブのままキッチンに入って来ると申しわけなさそうに言った。

「ごめんなさい、全部させちゃって」

素也は笑顔で応えると、焼き上がったパンをオーブンから皿に取り出し、カウンターに運んだ。そしてベーコンとオムレツをカウンターに運び、野菜ジュースと牛乳の大瓶を冷蔵庫から持って来た。コップも四つ用意する。そして食後のコーヒー用にお湯を沸かした。実沙に「さあ、食べよう」と言うと、パンにバターを塗り出した。

素也がオムレツに縦にナイフを入れると、オムレツは自分の重みで綺麗に二つに割れた。フォークでベーコンと共に味わう。実沙は「美味しい」と何度も言う。パンでオムレツの皿を拭って綺麗にする。

素也はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、カウンターに運んだ。コーヒーを飲みながら

「今日はミーティングの日だったね。八時十五分にここを出れるかい」

と実沙に尋ねた。実沙があたりを見回して時計を探す。素也が左腕のオシアナスを示しながら「後三十分」と答えた。実沙は「大丈夫」と頷く。

素也はコーヒーを飲み終え、立ち上がりかける実沙を制し、皿やカップを食器洗浄器に突っ込みボタンを押した。オーブンの中皿を洗い、フライパンを洗ってコンロに掛けて水気を取り、油を引いておく。カウンターとキッチンの回りを布巾で拭き、布巾を洗って消毒液に浸し、絞らずに洗ったまな板の上に被せる。

実沙が感心して言った。

「私より手際がいいわ」

素也は

「このキッチンに慣れているだけだよ。実沙さんもすぐに慣れるって」

実沙は嬉しそうに微笑んだ。


実沙は八時十分に荷物をまとめ、身なりを整えて玄関に出てきた。素也は窓を施錠して、玄関の数字錠を掛け外に出た。玄関前のロータリーは、玄関の前だけ車止め用に屋根がついている。

MGのトランクリッドを開け傘を入れ、実沙のショルダーバッグを積みトランクリッドを閉めた。助手席のドアを開け実沙を座らせ静かにドアを閉める。運転席側に回り込み乗り込む。エンジンを掛けると、暖機もせずにゆっくりとMGを発進させた。

実沙が首を回して、雨に濡れるクラブハウスや庭、ジャグジーや池を名残惜しそうに見つめている。そして呟いた。

「本当に楽しかったわ」

素也はワイパーのスイッチに手を伸ばし、間欠ワイパーにセットしながら答えた。

「まだまだこれからさ」

実沙は視線をフロントガラスに向け、微かに頷いた。


オフィスに着き、一階の駐車場にMGを突っ込み、降りると助手席のドアを開け実沙を降ろす。コンセントをMGのボンネット下に差し込んだ。MGの後ろで待っている実沙に話し掛ける。

「今日の帰り、家まで送るから荷物は入れっぱなしでいいよ」

実沙は「あ、そうか、ありがとう」と言うと笑顔を見せた。


一緒にオフィスに入った二人を見て、宮部はポカンと口を開けた。がすぐに真顔に戻り、こう言った。

「社長、実沙さんおはようございます。実は今、我が社のサーバーへの不正アクセスが発生しています。以前もぽつぽつとは有ったのですが、こんなにまとまって攻撃されるのは初めてです」

素也が宮部の端末に近づいた。宮部が示すログを確認する。

「相手は特定出来るか」

「ハンガリーのセキュリティの緩いホストを踏み台にしてます。その管理者には通報済みです」

「そこがふさがっても、踏み台が変わるだけだな」

「はい、こちらの穴は塞いであるので、やはり根気よく通報し続けるのが第一かと」

「こちらのサーバーの処理能力はそのクラックでどれぐらい落ちているんだ」

「15%程かと思われます」

「30%を越えるようなら、セカンダリサーバーに切り替えてくれ」

素也は指示を出すと、自席に座り、端末の電源を入れ、ログを開いた。攻撃のパターンを割り出す。

素也はアメリカのサーバー代行会社で高性能大容量のサーバーを借り、オフィスのプライマリサーバーと全く同じ物を待機させてある。ハードウェアトラブルや、今回のような外部からの攻撃に備えているのだ。ただ、まだ実際に切り替えたことはない。

遠いアメリカにわざわざバックアップを置いたのは、バックアップは近くに保管しても仕方が無い事を知っているからだ。火事で一緒に燃えてしまうような物はバックアップと呼べない。

宮部が言った

「アタックが止まりました」

素也がシステムのステイタスを表示させると、アタックはピッタリと止んでいた。端末の時刻は九時ちょうどだった。

「しばらく様子を見よう」

素也は宮部に言った。宮部は「はい」と返事をする。いつのまにか清美が出社していた。実沙を見つけると

「実沙さーん、今日はどうしたの、いつもの電車にいなかったじゃん、社長に呼び出しくらったの、どーせたいしたことない用事だったんでしょ」

清美はあっけにとられる皆を見渡した。そしてこう付け加えた。

「さあ、ミーティングの時間でしょ」

三人が一斉に吹き出す。清美は肩をすくめた後、腕を組むと呟いた。

「また私に何か隠し事してる」


毎週月曜日の九時はミーティングの時間となっている。仕事の進み具合を素也に報告し、問題点を洗い出すのだ。アルバイトの配置もこの時に決められる。今日はサーバーへのアタック以外、特に問題点は見当たらなかった。各プロジェクトは順調に進んでいるようだ。

十時過ぎにミーティングは終わり、素也はメールに目を通す。アルバイトがちらほらと出社してくる。返事が必要なメールには返事を書いた。

そして、クライアントのサーバーの動作チェックにかかる。現在メンテナンス契約を交わしているのは約二十社だった。それぞれのサーバーにワンタイムパスワードを使いログインする。グラフィカルな動作チェック画面を立ち上げ、異常が無いかチェックする。それが終わると、もう正午だった。実沙に話しかける。

「お昼を食べに出よう。それから、一つお願いがあるんだ。トレーサーもQちゃんの様に携帯から電源をオンオフしたいんだ。Qちゃんのと同じのでいいから契約してくれないか」

実沙はカーディガンを羽織り、ハンドバッグを持って立ち上がると会社の印鑑をバッグに入れ

「Qちゃんと家族割引効くかしら」

と素也に真顔で尋ねる。二人で一緒に外に出た。雨は殆ど止んでいた。

素也はMGに戻りトランクリッドを開けると、クーラーボックスから撮影済みの未現像フィルムの入った布袋を取り出した。トランクを閉め、実沙と一緒に羽鳥駅の方に歩いた。

実沙に「蕎麦にしないか」と言うと、素也が月に数回利用する駅前の手打ち蕎麦の店に入った。美味しい蕎麦を打つこの店は昼食時はいつも混んでいたが、今日はまだカウンターに空きがあった。四人がけの席で相席になるよりはカウンターの方が広いし気楽だ。

カウンターに座ると、メニューを開き実沙に渡す。実沙が一緒に見ようとメニューを素也の方に差し出すと、素也は首を振った。

「いいんだ、もう決まっているから。週末ちょっと食べすぎたんで、あっさりしたものでいいんだ」

「なにか身体がおかしいの。食欲が凄くて」

「じゃあ、好きなだけ頼めよ。俺も食べるから。親子丼がお勧めだぜ」

そう言ってから店員を呼んだ。実沙に注文を促す。

「えーと、ざる蕎麦に野菜の天ぷらの盛り合わせ、それと親子丼をいただくわ」

「あ、ざる蕎麦は三人前にしてくれ。野菜の天ぷらも二人前だ。そして親子丼の大盛りも追加」

伝表に注文を書き込んでいた店員が顔を上げ二人を見る。そして伝票を書き終えると、注文を丁寧に復唱した。さらに厨房に注文を通す。回りの客が食べる手を止め二人を見た。実沙が小声で素也に言った。

「なにが『あっさりしたものでいいんだ』よ、皆に注目されちゃったじゃない」

地鶏と新鮮な鶏卵を使ったこの店の親子丼に素也は目が無かった。蕎麦も新蕎麦のようで、前回食べたときより明らかに香りが強い。計六枚のせいろがあっと言う間に片づいていく。食後に運ばれてきた蕎麦湯を飲み終えると二人で席を立った。素也は勘定を払いながら実沙に声を掛ける。

「じゃあ、携帯の契約を頼む。俺は岬スタジオに行ってくるよ」

二人は駅前のメインストリートを左右に別れた。


岬スタジオには数人の客がいた。七五三の記念写真の予約のようだ。店長は奥で熱心に子供の衣装を選んでいる客の相手をしている。数分待つと

「水野さん、お待たせしました」

と店長が声をかけてきた。素也はカウンターに行き、紙袋から未現像のフィルムを取り出し、ポジとネガに分ける。

「えーと、ポジが六本、ネガが六本の計十二本かな。ポジは現像とデーター処理、ネガは現像とデーター処理とプリントを頼む」

店長がメモを取り終えると「佳子さんいるかな」と小声で尋ねた。

「奥で飯食ってますよ、ネガは今日の夕方までには出来ます。ポジは水曜日の夕方ですね。プリントとスキャンニングは佳子がやりますわ」

店長は言うと、素也に受け取りを渡した。素也はフィルムを物色してから外に出た。オフィスに向かう。

オフィスに戻ると実沙はまだ戻っていなかった。宮部がハンガリーのホストの管理者からの返事があったことを素也に伝えた。

「穴はふさいだそうです。入り込んでいたのはブラジルかららしいのですが、ログが書き換えられていたそうで、詳しくは不明だそうです」

「そうか、ありがとう」

素也は返事をして、宮部に食事に行くように勧めた。そして今朝のクラッキングがどんな意味があるのかを考えたが、全く見当もつかなかった。

素也はカップにコーヒーを注ぎ、窓辺に立ったまま飲んだ。笑顔で辺りを見回しながら歩く実沙の姿を見つける。とても良い表情をしている。実沙もオフィスの窓に素也の姿を見つけると小さく手を振った。

実沙がオフィスに戻ってきた。入れ換わりに宮部が昼食に出て行く。

「ただいま、はい、携帯」

素也に契約してきた携帯を手渡すと、小声で「ごちそうさまでした」と付け加えた。素也は笑顔で頷く。そして、さっそくオフィス奥のロッカーから光センサーと基板を取り出して、トレーサーのメイン電源を携帯の着信でオンオフ出来るように改良を始めた。

携帯を素也からの着信のみイルミネーションオンにして、充電器に固定してテープで止める。充電器のACアダプターを取り除き、電源コードを基板に半田付けした。センサーを取りつけパッケージにして、トレーサーの拡張ベイのソケットに差し込む。背中のメインスイッチからコードを引き込み、パッケージに接続した。素也は自分の携帯を取り出し、トレーサーの携帯の電話番号をメモリーさせた後、その番号に発信した。

「ワルキューレの騎行」が鳴り響き、トレーサーはメイン電源をオンにした。実沙の方を向いて「いい趣味だ」と笑った。実沙は「『ツァラトゥストラはかく語りき』とどちらにしょうか迷ったの」と答えた。

フラッシュロムによるソリッドステートディスクを使っているため、トレーサーの起動はとても早い。素也がデスクの端末からトレーサーにログインしてエラーがないかチェックする。そのあともう一度携帯を着信させ、トレーサーの電源オフを確認した。

その後の午後は、のんびりとウェブを見て回り、新しい技術が使われているようなサイトチェックをして過ごす。明らかに時代遅れのサイトは、リストに残し清美にメールをする。素也のウェブシステムの先進性を謳ったパンフレットに、清美が直筆の紹介文を付けて、郵送で送るためだ。

清美の直筆の文は好評だ。顧客の担当者を名指しで書かれている。一読すると、とてもシュレッダー行きにできない魅力がある。清美の文で新規顧客と契約出来たときは、契約高に応じて清美に逐次特別ボーナスを出していた。今年の清美への特別ボーナスの額は、清美の去年の年収をすでに越えていた。清美の文才を考えるとそれでも安いものだと素也は思っていた。

素也は実沙に修報社から提案されていた合併計画書に断りの返事を書くように頼んだ。実沙は二つ返事で引き受け、明日の出勤時に郵便局から内容証明付で送付すると素也に伝えた。

宮部は昼食から戻ってきてからずっと、社内用のネットワークサーバーを組み上げている。その図体に似合わず実に器用だ。宮部の半田付けした基板を見ると、素也はいつも自分でやる気をなくした。そして、備品や設備の調達は、もう宮部に任せっきりだった。

いつもの職場の光景だった。窓から差し込む光が傾き始め、赤く色づいてゆく。雲の切れ間が広がり、その切れ間から陽光が差し込む。素也は実沙に合図をすると、宮部に「後は頼む」と言い残してオフィスを出た。

MGの充電プラグを抜き、車載コンピューターとオフィスのコンピューターの同期をかける。それが済むとエンジンを掛け、バックで駐車場から出て階段横にMGを停めた。数分待つと実沙が降りてきた。MGに乗り込みドアを閉める。素也はMGを発車させた。

岬スタジオの駐車場にMGを停め、実沙に少し待つように言ってから素也は店に入った。昼間物色しておいたフィルムを二パック掴み、受け取りの伝票とともにカウンターに置く。店長が「ネガ分ですね」というと、紙袋をカウンターの後ろから取り出し、フィルムと共に大きな袋に入れた。会計を済ませ、MGに戻る途中に、DVDのケースと購入したフィルムを二パックを抜き出し、ジャケットのサイドポケットに仕舞う。

実沙に紙袋を渡し中身を見るように勧めた。実沙に話しかけながらMGを発進させる。

「それから、明後日実沙さん誕生日だろう、二人で会社を休まないか。実沙さん、もうずいぶん有休を取ってないはずだ。明日の夜からまた家に来ればいい。二人でパーティをしないか。それとも先約が有るの」

一気に素也が話すと、実沙はしばらく考え込んでからこう言った。

「嬉しいわ。実は今日別れるのも辛い程なの」

そう言うと、ギアをつかんでいる素也の左手をそっと撫でた。


実沙をアパートの前で降ろした後、素也は空手の道場に向かった。

あの後実沙は、自分の写真を一枚ずつ眺めた。とても気に入ったようだった。

「まるで自分じゃないみたい」

と何度も呟いた。素也にとってみればファインダー越しに見えたままだった。

準備もなく突然撮ったにしては上手く撮れていた。佳子のプリントのせいもあり、クリアさが際だっていた。プリントは全部実沙に渡した。

素也はポジの上がりも楽しみだった。アンティークなインテリアや暖炉や窓枠を写し込んだ物は、ポジの発色と共にドラマティックに実沙を引き立てていることだろう。

そんな事を考えているうちに素也は空手の道場に着いた。駐車場の隅にMGを停め、セキュリティロックを掛け玄関に向かう。

道場の玄関に入り、受付でクリーニングに出しておいた道着とバスタオルとフェイスタオルを受け取る。師範に会った素也は、練習生の名簿を見せてもらった。ケンの名は、石田賢となっていた。


ロッカールームで道着に着替える素也に、他の練習生が次々に「押忍」と声を掛ける。素也も気合いをこめて挨拶を返す。素也の目はケンを探していた。

板張りの道場に一礼後足を踏み入れ、神前に進み、正座して深く礼をする。しばらく黙想の後、再び深々と礼をする。十分程かけて、ストレッチで体をほぐす。体調はいいようだ。少年の部に回り、小学生の指導をする。小学生の健気な姿に自然と笑みがこぼれる。


清美は駅から自宅に向かう途中の石畳の長い坂を自転車に乗って下っていた。

小さな声で鼻歌を歌い、軽くブレーキを掛けながら自転車をバンクさせている。毎日通る路だった。通りは緩やかにカーブして、お洒落な街灯が人気のない街路を照らしている。両側は瀟洒な高級住宅が立ち並び、人を寄せつけない堅牢な塀が風の通り道となる。秋の湿った風が清美の背中を押していた。

風に揺らされる竹林がたてる音のような「ザァー」という音に気付いた清美が後ろを振り返ると、清美の視界一杯に、信じられない光景が飛び込んできた。石畳の道路一面を、銀色に輝く小さな玉の群れが、飛び跳ねながら自分に向かって来たのだ。

清美はいきなり自転車のハンドルを取られ横転した。悲鳴を上げ逃げ場も無く小さく身体を丸める清美に、容赦無く鉄の玉が激突する。頭を両腕で抱え込む清美。未知の恐怖が清美の身体と精神をすっぽりと包み込む。十数秒後、自分の耳元をかすめる音が次第に小さくなり、自転車のフレームを叩く玉の音が止む。

転倒時の肘の傷の痛みで我に還った清美は、身体を丸めたまま携帯を取り出すが、手が震えてボタンを上手く押すことが出来ない。


七時になり、道場では全体練習が開始された。移動基本と演武の型が始まり、素也は指導に回った。新人を中心に教える。新人の型と素也の型では、とても同じ演目に見えない。気合いと迫力、スピードと正確性、流れるような美しさ、素也の型は新人の教科書だった。

八時からの小休止で、素也はケンを探した。が、姿が見えない。ケンと同じ高校の後輩を捕まえ、ケンのことを聞いてみた。

「お母さんに不幸があったようで、今日は学校にも来ていませんでした」

後輩はそう答えた。素也は頷くと、思い出したようにケンの名前を後輩に聞いた。

「確か、犬飼涼だったはずです。リョウは涼しいです。ケンはあだ名です」

素也は後輩に礼を言った。後輩は「押忍」と言うと素也に背を向けた。さっき師範に見せてもらった名簿の石田堅とは違っている。ケンは道場と大会では偽名を使っていたことになる。


いつもケンが受けてくれるミット蹴りを省略し、素也は組手の受けを行なった。的確な指導をする素也には、組手の希望者が多い。一人ずつじっくりと教育的な組手で相手をする。

相手には胴とスーパーセーフを付けてもらう。素也は付けない。ポイントを外して受けるので、まったく効かないからだ。すべての打撃を弾き返す。そして、顔面への攻撃はしっかりと見切った。

同じような体格だと、パンチや蹴りの衝撃やスピードはそうたいして変わるものではない。今受けている練習生達の打撃でも、止まっている物に当てたときは結構な衝撃力を発揮するだろう。

動く物に的確に当てることは難しい。ということは、相手を動かさなければ良いことになる。正確には相手が動き出す前に当てるか、動き終えたところに当てるかだ。

素也が受けている練習生達と、ケンや素也クラスの打撃の違いはそこにある。まったく予備動作無しに最短距離で繰り出されるパンチ、相手の視界に対して左右にブレずに垂直に飛んでくるため、当たるまで反応出来ないパンチ、フェイントで相手の動きを止め、見えない角度から飛び込んでくる予期せぬ蹴り、放たれた後、軌跡を変え蛇のように伸びる蹴り、そして、攻撃が次の攻撃の予備動作になり、加速し続けるコンビネーション。そういう隠された鍵に気付いた者だけが、次のステップに進むことが出来るのだ。

そういうことを考えない一般の練習生の組手の相手をすることは、素也には退屈だった。なので、適度に打たせて、筋肉に衝撃を与え、鍛え上げることに専念した。そして、素也との組手を希望した女子練習生の相手もする。中高生やOLのリズムカルな打撃は、素也にとってマッサージのように気持ちが良かった。九時までに二十人程の組手の相手をして、そのあとクールダウンストレッチを施し、シャワーを浴びた。

バスタオルとフェイスタオル、道着を受付でクリーニングに出し、素也は道場に一礼して外に出た。MGまで歩くと、セキュリティロックを解除し、ドアを開け乗り込む。身体のどの部分も痛みは無い。筋肉は心地よい疲れに包まれていた。


実沙のアパートを見下ろす位置に立っている山岡総合病院の非常階段の踊り場に二人の男がかがみ込んでいた。修報社社長室の加藤と島田だった。焦点距離600ミリの大口径望遠レンズを三脚に立て、実沙の部屋に向けている。デジタル一眼レフカメラの為、実際の焦点距離は千ミリ近い。赤外線透過フィルターを装着しているので、レースのカーテン越しの部屋の様子が、モノクロイメージではあるが、手に取るようにわかる。

「今夜はこのままずっとここか。おい、そろそろ風呂から出る頃じゃないのか」

長身の方の男、加藤が退屈そうに小声で言った。ペンライトで照らしたファイルをゆっくりとめくる。そこには盗撮された実沙の裸身が写っていた。

「もうすぐだろう。今風呂場の電気が消えた。さっきの長村さんの電話では、水野がここに来る可能性があるらしい。そしたら面白い写真が撮れそうだ」

ファインダーをのぞきながら島田が答える。加藤がペンライトを消し、実沙の調査ファイルを閉じながら言った。

「長村さん達は今夜か。俺なら、見張るような真似はせずに、水野と宮部を直接叩きのめしてからオフィスに乗り込むがな。あいつら、ちょろいくせに生意気そうな面しやがって。思い出しただけでもむかつくぜ」

「まあそう興奮するな加藤、社長命令だ。お前に長村さんのような細かい策略は練れないだろう。俺たちが出来るのは、届け出られない大金を持っているとガセネタを噛ませてガキを仕向けるか、軽トラック一杯のパチンコ玉を集めたり、ばらまいたりすることくらいだ」

加藤が黙り込む。五人に囲まれても平然と眉一つ動かさない素也を思い出していた。あの程度の連中なら、たとえ何人掛かりでも結果は同じだろう。加藤の脳裏にそれほど素也の一瞬の動きは鮮烈に映った。

返事をしない加藤を確認するように島田はファインダーから目を離し付け加えた。

「だがな、社長はずいぶんその写真を見て喜んでいたぞ。もっとも写真だけではもの足らず、実物を欲しがっているようだったが」

加藤の返事をあきらめ、島田はファインダーを再度覗き込み続けた。

「しかしパチンコ玉とはよく考えたな、加藤。酒井の方は今度はどうやっていたぶってやろうか」

加藤は答えない。しばらく無言が続いた後、島田が急に声のトーンを上げた。

「お、出てきた出てきた。それにしてもいい女だ。何枚撮っても飽きないせ。ちっくしょう、今度は俺が興奮してきやがった、今夜水野が来なかったら替わりに俺が行ってやるか」

島田が歪んだ笑みを作り、ケーブルリレーズのボタンを押し、風呂上がりの実沙の無防備な姿を記録する。

加藤はファイルを足元に放り出すと、尻のポケットから革製の棒状の物を取り出した。砂がぎっしり詰まった30センチ程の細長い革袋、直径は4センチ程か、グリップの部分にはリストバンドが付いていた。加藤の武器でもあるブラックジャックだ。

「そいつは面白そうだ、その時は俺も起こしてくれ。こいつにもたまには女の感触を味合わせてやらないとな」

加藤はブラックジャックの感触を確かめるようにさすったあと、二三度軽く手の平を叩く。そして暗い笑みを浮かべるとそのまま後ろに倒れ込んだ。

「今日の夜は長そうだ。少し寝る」

加藤はそう言い残すと、ブラックジャックを枕にしてコンクリートの上で仮眠の体勢に入った。

その非常階段の踊り場の上階で、黒い革つなぎの男が剥き出しのコンクリートに寝そべっていた。片耳をコンクリートに押しつけ、身じろぎ一つしなかった。


素也はシートベルトを締めようとして、ジャケットのサイドポケットにDVDが入っていることを思い出した。取り出して、ケースを開くと、佳子のメモが挟んであった。ルームランプを点け目を通す。


週末連絡くれなかった理由が解ったわ。

もう終わりなの?一度電話して


佳子との週末の約束をすっかり忘れていた素也は携帯を取り出すと、佳子の番号を発信した。佳子は彼女なりに気を遣っているのか、彼女から素也に電話やメールをすることは今までなかった。岬スタジオで話すか、メモで連絡を取っていた。素也も既婚者である佳子の携帯にメールしたことはない。なので、素也が電話したときにもし佳子が話が出来ない状態ならば、電話に出てすぐに切ることになっている。が、今日は切れなかった。

「佳子、すまない」

素也が無言の相手に向かって話しかける。しばらく間が空いてから、佳子のかすれた声が聞こえた。たぶんずっと泣いていたのだろう。

「いつかこうなると思っていたわ」

素也は何も言えなかった。そして、受話器の奥で小さな声が聞こえた。

「もう一度だけ、今から逢って」


ファインダーをのぞきながら、時折リモコンのレリーズボタンを押していた島田は、上階の踊り場の手すりにぶら下がって降りてくる男にまったく気づかなかった。ゆっくりと下半身が降りてきて、右足が後ろに引かれ、そのまま島田のこめかみに振り下ろされる。

声を上げる間もなく昏倒した島田と望遠レンズが装着された三脚が共になぎ倒された。凄まじい音に加藤は跳ね起きた。瞬時に右手にブラックジャックを構えるが敵が全く特定出来ない。中腰であたりを素早く見回す加藤の正面に、黒ずくめの革ツナギの男がどこからともなく降り立った。

暴力沙汰に慣れ、いつもは相手をたたきのめす過程を楽しむ余裕のある加藤が、目前の相手を前にして、こみ上げる恐怖と戦っていた。前足である左足をつま先立ちさせ、両手を体側に自然に垂らした男。そこには攻め入る隙が全く見いだせなかった。

加藤はフェイントを交え、ブラックジャックによる一撃を与えるチャンスを待った。ぎっしり詰まった砂が与える鈍い衝撃は、一撃で相手の戦闘能力を奪うのに十分のはずだ。相手は武器を手にしていない。加藤にとって永遠のような短い時間が過ぎて行く。


勝負は一瞬でついた。

相手の左前蹴りを感じた加藤は右手のブラックジャックでその足をなぎ払おうとした。相手の脛に相当なダメージを与えるはずだった。しかし、相手の左足は振り払われたブラックジャックの寸前で消えたように見えた。次の瞬間、加藤の鳩尾に男の左足がめり込む。そしてその体勢のまま渇いた音を立てて相手の右足がコンクリートを蹴った。加藤が見たのはそこまでだった。後頭部に強烈な打撃を受け、加藤は前のめりに倒れる。凄まじい勢いで男が右回し蹴りを放ったのだ。

酸素を求めて時折痙攣する加藤の横で、革つなぎの男はカメラとレンズをコンクリートの床に何度も叩きつける。物音に気付いた病院職員だろうか、内部から非常ドアに駆け寄る音が聞こえてきた。男は素早く実沙のファイルを掴み、音もなく非常階段を降りていった。


素也は佳子のマンション近くのコンビニに車を走らせた。駐車場に乗り入れ店内を見ると、雑誌売り場で立ち読みをしている佳子が目に入った。深く帽子を被って顔を隠している。佳子もすぐに素也のMGに気がつき、雑誌を棚に戻し、一旦奥の冷蔵庫に向かいレジで支払いを済ませ、店から出てきた。MGの助手席に向かい、ドアを開け乗り込む。素也は何も言わずMGをバックさせ、駐車場を後にした。高速道路の山岡南インター一帯のホテル街に向かう。

佳子は思ったより落ち着いていた。もう涙も見せていない。助手席の窓から、車側を流れる景色を眺めている。

ウイークディなのでホテル街は閑散としていた。新築の明るいホテルを見つけ、MGを乗り入れる。そこは、ガレージと部屋が一体になっているモーターホテルタイプで、部屋毎に別棟になっていた。空いているガレージにMGを突っ込むと、自動的にガレージのシャッターが降りる。部屋にはまったく仕切りが無く、駐車中の車からガラス張りのシャワールーム、ソファに小さなテーブル、そしてベッドが見えた。部屋は吹き抜けで天井は無く、そのまま屋根裏の傾きが見える。床は陶器のタイル張りだった。素也が無言で車を降りると、佳子もペットボトルが二本入ったコンビニの袋を手に助手席から降りてきた。


長村は素也の山荘にいる正木を呼び出した。

「今ラブホの部屋に入った。今度は別の女だ。野郎、いい気なもんだぜ。これからあと二時間は大丈夫だろう。そっちはどうだ」

「例の携帯を手に入れました。不用心な事にこの前と同じ場所にありました。これから計画通り羽鳥に向かうところです」

「分かった、野郎のオフィスで合流する。あの峠を通るなら今度は落ちるなよ。なあに、今度はこっちの番だ」

長村は笑って電話を切ると、アリストを素也のオフィスに向けた。


お互い無言のまま二人でシャワーを浴び身体を洗い合う。身体をざっと拭くと二人は真っ直ぐにベッドに向った。佳子は少しの時間も惜しむように、小さな身体を無言で素也にぶつけてきた。素也は佳子の気持ちを考え、考える余裕を与えないように荒々しく佳子を扱った。素也の腕の中で様々に形を変えられ、固定され、開放され、また折り畳まれる白く小さな身体。

佳子は途中から泣き出した。最初は声を殺して。そして次第に顔に当てた枕から声が漏れ始め、遂には子供に還ったように大声で泣き出した。素也はそれを無視して、ストイックに佳子を攻め続けた。身体中の白い球体を強い手で揉みしだかれ、休みなく振動を与えられる佳子。それは佳子の身体中から水分という水分を一滴残らず絞り採り尽くすように長く長く続いた。

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