第3章 設立五周年 Friday October 1
喉の渇きで素也は目が覚めた。机の上のマイセンの置き時計に目をやると、七時だった。久しぶりの熟睡で寝起きにもかかわらず素也の表情は明るい。筋肉痛も多少あるが、動きに支障を来すほどではない。むしろ心地よい痛みだ。
ポットの紅茶をカップに注ぎ、立て続けに二杯飲み干す。お盆を持ってキッチンに向かい、ポットとカップを手早く洗う。七分づきの米を二合手早くザルで研ぎ、電気炊飯器にセットして炊飯のスイッチを押す。
クラブハウスのすべての窓を開け、はたきをかけた後、Qちゃんの携帯を数秒間鳴らし、掃除モードを起動する。以前と変わらずQちゃんは楽しそうに掃除を開始した。
トレーニングウエアに着替え、着ていた物を洗濯機に放り込む。ジョギングシューズに履き替え、玄関から出てアプローチの道路を下り始める。最初は軽く、体が温まってきたら徐々にスピードを上げる。20分程下ったところで引き返し登り始める。登りになるとすぐに汗が出始め、体は大量の酸素を要求する。一気にロータリーまで駆け上がると、そのまま10分ほど空手の型を演武し、空手の型でもあるサンチンの呼吸法により呼吸を落ち着ける。その後、ストレッチでクールダウンする。
部屋に戻るとQちゃんは掃除を終え、充電器の上で待機していた。素也は「ごくろうさん」とQちゃんに声を掛け頭を軽く叩いた。キッチンに向かい、やかんにお湯を湧かす。途中で小型の片手鍋にお湯を移し、煮干しを三匹頭を取って鍋に放り込み煮立てる。ハサミを持って外に出て、裏の菜園から葱を根元から一本切ってくる。
豆腐と油揚げを切り、葱をみじん切りにしてまな板から直接片手鍋に入れる。煮立ったら弱火にして合わせ味噌を溶かし込み、卵を二つ冷蔵庫から取り出し割って入れる。しばらくして火を止め、ふたをして蒸らす。
炊飯器の炊き上がった米を丼に大盛りにして、残った分をラップの上に広げ熱を冷ます。炊飯器は内釜を水に付けておく。冷蔵庫から辛子明太子を一腹取り出し丼ご飯の上に乗せ、味噌汁を全部丼に移し、七味唐辛子をかけて丼飯と共にカウンターに運ぶ。30分程かけてゆっくりと朝食を味わう。食後にほうじ茶を煎れ、梅干しを齧る。
カウンターから立ち上がった素也は、まな板や鍋、丼と湯飲み、炊飯器の内釜を洗い、カウンターを拭く。ラップのご飯を包み、フリーザーに入れる。トイレを済ませた後シャワーを浴び、洗髪する。バスタオルを使い、ひげをそり、歯を磨き、髪をドライヤーで軽く乾かす。バスタオルとトレーニングウエアを洗濯機に突っ込み、全自動乾燥機付洗濯機のスイッチを入れる。
素裸のまま寝室に向かい、アンダーウエアを身に着けると、濃いベージュのチノパンツと綿の白いシャツを着て、芥子色の麻のジャケットを羽織り、左手首にオシアナスを巻き、札をクリップするタイプの財布と小銭入れにしているフィルムケース、カードケース、MGのキーと携帯を持ち、すべての窓枠にセロテープを張ると、玄関の数字錠をロックしてMGに乗り込んだ。
オフィスに着くと、前の道路に運送会社のトラックが横付けされていた。宮部の姿も見える。素也がMGを駐車場に停め、降りてトラックに近づく。
「大日工社から例の荷物届いてますよ」
宮部が素也に声をかけた。運転手が差し出す書類を確認し、受け取りのサインをした素也は荷台の方へ回り込む。そこでは助手が困った顔をして立っていた。素也に気付き声をかける。
「すみません、手伝ってもらえませんか、四人で持たないと階段は危ないと思います」
荷室を見渡すと、小学校の体育に使うような巻いてあるマットが四巻、あとは細長いダンボールが二箱だ。素也は宮部に声をかけると、書類をお尻のポケットに仕舞い、荷台に乗り込みマットを抱え上げた。外で待つ宮部の肩に乗せる。宮部は軽々と階段を上がり、ホールにマットを置いた。それを四回繰り返す。
素也はダンボール二つを荷台の端に寄せ、荷台から降りるとダンボールを両肩に担ぎ上げた。信じられない物を見るような目つきの運転手と助手に「ご苦労さん」と言うと、階段を駆け上がっていった。
運転手と助手は顔を見合わせて左右に首を振った。
素也は解放してあるドアを抜けオフィスに入り、ダンボールをホールのマットの側に置いた。ドアを閉め上着を脱ぐとデスクまで歩いて、椅子の背に掛けた。
実沙に「おはよう」といい、荷物の受け取りの書類を渡す。すぐにホールに向かい、宮部と一緒にマットの梱包を解き、ホールにマットを敷き詰めだした。
二人がマットを押していると全員が集まってきた。清美までやって来た。
「なになに、何の騒ぎ、私にも見せてよー」
興味深げに覗き込んで来る。そして実沙と小声で会話を交わすと
「なーんだ、今日の飲み会と関係ないの」
そう言って一階に降りていった。ケーキとお茶の時間らしい。
「今日の飲み会?」
素也が実沙の方を見上げ尋ねる。実沙はたちまち不機嫌な表情になり大きな声を出した。
「えー、設立五周年を祝う会のこと、ひょっとして忘れてるわけ」
書類を掴んだ両手を腰に当て、素也を見下ろす。近くにいたアルバイト達が思わず実沙から距離を取った。
実沙は花柄のワンピースに小さなブルーのカーディガンを羽織っていた。逆光を受け、少し開いた長い脚のラインが見事に浮かび上がる。
微妙な間の後、素也は思い出したように宮部に同意を求めた。
「忘れるわけないだろ、そんな大事なこと。なあ」
宮部はかかわり合いになりたくないといった表情で無視する。素也はこの場を取り繕うように、実沙の方を向き直って言った。
「そうだ、シティ山岡を一部屋頼む」
「やっぱり忘れてたんじゃない」
実沙はそう言い残すと、くるりと振り向いて自分の席に戻っていった。
素也はため息をついた後、宮部に話しかけた。
「最近怒りっぽいよな」
「最近忘れっぽいよな」
席に着いた実沙が素也の口調を真似て言った。アルバイトたちが爆笑する。宮部も声を上げて笑いながら、苦笑する素也の表情を盗み見た。
仕事のこととなると、何処から持ってきたのか分からないようなひらめきを見せ、また、自らを追い詰め、退路を絶ち、独力で最適なシステムを作り出す素也が、実沙の前ではすぐにばれる言い訳をし、怒られても嬉しそうにしている。まるで母親と少年のような立場を演ずる二人が宮部には羨ましく眩しかった。
実沙はウェブブラウザを開くとブックマークから、ホテルシティ山岡のウェブページを選んだ。素也が構築したウェブサイトだ。グラフィックデザインは宮部が仕上げている。
ワコムのスタイラスペンをタブレット上に滑らせると、ホテルの回転ドアが回り、ベルボーイが頭を下げる。フロントに近づくとフロントの若い女性が頭を下げた後、カレンダーが書いてある大きなノートを開く。今日の部分をペンでクリックすると、ノートがめくられ、部屋のタイプを選ぶページに変わる。
ツインルームをクリックすると、画面にはツインルームの部屋のドアが現れる。実沙がペンを滑らせるとドアが開き、実沙の視界は部屋の内部に入って行った。部屋を見回った後、OKボタンを押した実沙は、女性が差し出したゲストカードに会社名と住所と電話番号、そして素也の名前をタイプし、一人のところをチェックして、表示された値段を確認後予約ボタンをクリックし予約を終えた。
フロントの女性が微笑み手を振った。実沙はこの女性を知っている。素也のお気に入りのモデルだ。ここに使われている写真はすべて素也が撮ったはずだ。実沙はそのモデルに「ずいぶん写真映りがいいわね」と小声で話しかける。
素也はシングルルームには泊まらない。一度訳を聞いたことがあるが「狭いのは苦手」と素也は答えた。
「本当かしら」
と呟くと、実沙は素也の方を見た。
素也はトレーサーの「大無しモト君」に脚を取りつけ終えた所だった。トレーサーを苦労して立たせている。トレーサーの骨格むきだしの無骨な姿を見て、実沙は呟いた。
「ドラえもんの着ぐるみでも着せたらいいのに」
素也は早速トレーサーの頭部のメインスイッチを入れ、すでに完成していたプログラムの転送を行なった。アルバイトを一人呼び、ウエットスーツのようなトレーススーツを着てもらいフードを被せる、その上からゴーグル型のヘッドマウントディスプレイを被ってもらう。
トレーススーツはセンサーの固まりだが、通気のいい素材を用いてあるので、それほど暑くはないはずだ。トレーススーツのお尻からしっぽのように出ているケーブルを、ホスト側のパソコンのUSB端子に差し込むとアルバイトに立つように言って、トレーサー側にログイン後、転送しておいたトレースアプリケーションを起動した。
素也はアルバイトに両手を動かすように言った。おそるおそるといった感じで、アルバイトが右手を上げると、トレーサーもその動きを模倣する。指先までそっくりだ。徐々に上半身を中心に色々な動きをさせて、ほぼ満足する動きを確認する。
素也がアルバイトに歩くよう伝えた。アルバイトとトレーサーは同時に頷く。ゆっくり右足を上げ、足を降ろし、左足を上げるアルバイトに対して、トレーサーは右足を着地させた時点で前方に傾き、左脚の中途半端な動作で勢いがつき、体育マットをから飛び出し、倒れながら派手な音を立て壁に激突した。床と壁のログに傷がつく。
「大無しモト君、調子出てきたわね」
実沙が清美に話しかける。素也はトレースアプリケーションをコントロールCで止めると、もう何処が悪いか理解している顔で、猛然とプログラムを修正すると、コンパイル後トレーサーに転送、そしてトレースアプリケーションを再起動した。
午前中いっぱいかかって、とてもゆっくりではあるが、トレーサーは歩けるようになった。トレーススーツを脱いだ顔面汗びっしょりのアルバイトに礼を言い、昼食も摂らずに素也は可能性を追求し続ける。トレーサーはボディと四つの手足、頭部の六つのパーツからなっている。背骨こそ曲がらないが、手足、首は人間と同じ関節を持つ。
素也はこの半年の大部分を全身のトレースプログラムに注ぎ込んでいた。トレーサーの可動部分は産業用ロボットの汎用部品を流用しているので、そう高価なものではない。全身アクチュエーターの塊である。コンプレッサーは腰の部分にある。ただ素也は、衝撃には十分な耐性を持つように、大日工社に注文をつけていた。まず壊れないことがどんな場合でも素也の第一条件だった。
このトレーサーで一番コストがかかった部分は、トレーサーの骨に当たる所だ。すべての骨が、リチウムイオン充電池をカーボンファイバーでおおった構造で出来ている為だ。
内蔵している制御用コンピューターも市販のパソコンの流用である。ハードディスクだけは衝撃に強いフラッシュメモリーのシリコンディスクに交換している。
トレーサーはそれ自身一つのIPアドレスを持つコンピューターで、トレーススーツが有線で繋がったホストコンピューターとIPを用いて通信する。トレーサーもホストコンピューターも無線LANのボードが差してあり、二台のみのプライベートネットワークが組んであるのだ。
半年前に片手のトレースに成功した素也が、そのシステムを発展させ、全身のトレース
を試みているのだ。もしこのシステム、いわゆる「テレイグジスタンス」が実用化されたら、その用途は考えが及ばないほど多岐にわたるはずだ。
ボディにはジャイロスコープを備え、一秒間に一万回も重心の移動を検出している。両手両足には駆動制御用のエンジンと加速度センサーを持ち、頭部はステレオのステレオカメラが、トレーススーツ側のヘッドマウントディスプレイに内蔵された視線感知システムに反応し立体像を捕える。
トレーサーの動作の収束が思った以上に悪い。もっと早く動かして、滑らかな動作をさせるには、より精緻なフィードバック系の演算処理が必要になる。それを実現させるには許された演算回数では明らかに足りなかった。素也の目は遠くを見つめ、違う世界を旅しているようだ。
演算方法のキーさえ見つかれば、あとは勝手にトレーサーの方で成長してくれるだろうと感じていた。ボディの傾き情報に対して、腰と膝の足首の関節を中心に補正するのだが、その間に両手の動きも入るし、足も動かさなければならない。素也の頭の中はパンク寸前だった。
その飽和点で素也はひらめいた。現在の情報では遅いのだ。現在の動きから予測される近未来の情報を演算に使ってやる必要がある。それもずいぶん先の。
手足と頭に、決められた予測時間後の重心の位置と角速度、加速度を個別に算出してもらい、本体のボディはその値を元に、足や腰の関節で調整する。現在の状態のみを元に演算しているときより、解くべき式は減り、計算値も誤差なく収束してゆく。余った計算時間は、細かい補正演算に使うことが出来る。予測していない外部から衝撃に対しては、その後の動きで、可能な範囲で補正すればいいのだ。これは人間の場合も同じだろう。
オンの状態になった素也は、その修正に取りかかる。手足、頭の部分を個別に制御している回路に予測演算回路を追加する。ハードウェア回路をコンパイル後、回路情報をそれぞれのフラッシュロムにダウンロードする。
端末に向かい、キーボードに両手を乗せると、エディターを操り、本体のソフトウェアプログラムを修正する。ターミナル内をカーソルが飛び跳ね、複雑な修正が魔法のようなコマンドでみるみる仕上がってゆく。プログラムをコンパイルし、トレーサーに転送し直すことを繰り返す。
実際に修正されたプログラムを走らせると、トレーサーの動きは劇的に変わった。人間らしくなったのだ。動作が洗練さを増してきた。
手足と頭に要求する予測時間も変えてみる。コンマ7秒ぐらいが一番スムースな動きになるように素也は思えた。それより早い予測時間だと、ぎくしゃくした感じの動きになりる。逆に予測時間を遅らせていくと、次第に動きがとろくなり、ゆり戻しが出てくる。
トレーサーは成長する子供のようだった。片足を上げて立ち、しゃがんで起き上がり、ゆっくりした踊りも踊れるようになった。そこまでくると、疲れ気味のアルバイトにこう言った。
「お疲れさん。一度家に帰ってシャワーでも浴びてこいよ、宴会場で会おう」
素也は自らトレーススーツを着て、トレーサーを操り、問題点を洗い出した。トレーススーツを着たままメモを取ると、トレーサーも動作を真似、皆の笑いを誘う。
そうこうしている間に、定時退社時間である五時半が迫ってきた。今日は設立五周年を祝う会のため、全員一斉に退社することになるはずだ。祝う会は七時スタートらしいことを、アルバイト同士の会話から素也は知った。
自分の会社の行事とはいえ、仕事を中断されるのは辛い。幸い週末は空いているので、週末に仕上げることにした。こういう段階で開発のインターバルを取ると効率は著しく落ちるからだ。予想よりもトレーサーの成長の感触はいい。
素也はトレーサーをそのままにして、皆と一緒に会社を後にした。全員オフィスから出たことを確認し、セキュリティロックを掛ける。
清美と三人のアルバイトの女の子たちは宮部のメガクルーザーに乗って行くようだ。今日の会場は宮部のマンションから近いらしい。
宮部から素也も乗って行くように誘われたが、車内の様子を想像して笑顔で首を振った。
素也はMGを会社の駐車場に置いたままにして、JRの駅に歩いて向かった。会場をうろ覚えの素也は誰かに付いていくしかない。前方にアルバイトの学生達と談笑しながら歩いている実沙の姿を見つけると、駅に着くまでに追いつくように歩く速度を上げた。
ここちよい風が素也の背中から吹いてくる。歩道には競うように秋の花が咲き乱れていた。秋桜、桔梗、サルビア、ダリア、マリーゴールド。
花を見ながら歩いていた素也を、宮部のメガクルーザーが追い越してゆく。助手席から清美が「社長、お先にー」と言って手を振る。メガクルーザーと清美はまったく似合わない。清美に似合う車を考えてはみるものの、カボチャの馬車ぐらいしか思いつかなかった。
駅で皆に追いついた素也は携帯やスイカをタッチさせて改札を抜ける皆の後をつけるが、スイカを持って来て無いことに気づき、あわてて自動発券機に向かった。しかし毎日のように同じ電車に乗っているアルバイト達は、ほぼ立ち止まること無く時間ピッタリに電車に乗れるタイミングを熟知していた。
素也が切符を買って自動改札に駆け寄ると、向かいのホームに山岡市駅行きの快速電車が到着したところだった。素也は時刻表まで戻り次の快速電車の時間を確かめた。15分後だ。その電車でも、開催時刻の七時までは少し余裕がある。ホッとした素也は、降車客をやり過ごしてから自動改札を抜け、向かいのホームへの階段を昇った。
紅葉に彩られた旅行会社のポスターを眺めながら、誰もいない古い跨線橋を抜ける。秋の夕日が暗い通路中の空間を鮮やかに切り取り、宙に舞う埃を浮かび上がらせる。斜めに差し込む光線を横顔に受け、山岡市駅方面の電車が止まるホームへの階段をのんびり降りる素也の視線の先に、腕を組み唇を少し尖らせて素也を待っている実沙の姿があった。
秋とはいえ、熱の固まりようなものが空気中の所々に漂っている。その固まりを避け、電車を待つ。学校帰りの高校生の集団が喧噪と共に通りすぎる。
後ろに手を組み、ゆっくりと歩く実沙の後を素也は歩いた。実沙は身長が百六十五センチメートルぐらいだろうか。ハイヒールを履くと、ほとんど素也と眼の高さが変わらない。言葉を交わすこともなく、到着した電車に乗り込む。
山岡市に向かう快速電車は混んでいた。帰宅するサラリーマンやOL、週末の街に繰り出す若者、塾に向かう中学生。右手でつり革を掴み、光量を少しずつ減らしてゆく車窓を眺めつつ、素也は実沙と二人で電車に乗ったことがあったかどうか考えた。が、思い出すことが出来ない。
次の停車駅に着き、線路の切替ポイントで電車が大きく揺れる。実沙が素也の左腕を両手で掴み身体を支えた。そのまま実沙は宮部の話をした。
「宮部君よっぽど清美ちゃんが好きみたいね。さっきも助手席に乗せて嬉しそう」
素也は驚いた表情になった。そんなことは素也にとって初耳だったのだ。宮部は女性にもてる。自分よりもよっぽどもてると素也は思っていた。二人で飲みに行くと、スタッフやホステスから商売抜きの笑顔を引き出し、回りの客とはすぐに打ち解ける。誰に対しても同じ態度で接する宮部は、女子大生からスナックのママまで付き合いの守備範囲が広い。
素也にも数人はガールフレンドはいるが、数では宮部には全くかなわない。
第一、宮部の好みは終始一貫して、日本人離れしたプロポーションを持つモデル系のはずだ。事実、素也が数回引き合わされたガールフレンドはそういうタイプばかりだった。清美は頭の中こそ日本人離れしているが、スタイルはあまり日本人離れしていない。ちょっと独特な不思議な可愛さと少女の雰囲気を併せ持っている。
返事が出来ずに視線を彷徨わせている素也に気づいた実沙は呆れたように言った。
「気づいてなかったの、相変わらずにぶいのね」
相変わらずの意味を考えている素也に、実沙が追い打ちをかける。
「宮部君ももう三十過ぎたんだし、本気かもね。あ、そんなこといったら素也さん困っちゃうよね。ごめんなさい」
「実沙さんだって、もう二十九だろ、そろそろ本気を出さなきゃ」
素也がお返しをすると、電車は山岡市駅のホームに滑り込んだ。実沙が素也を睨み、素也の腕をゆっくり放しながら言った。
「まだ二十八歳です」
そして視線を外しながら小さな声でこう付け加えた。
「私はいいの、一回失敗してるし」
五年前の今日、素也は会社を登記した。
先月そのことに気づいた実沙が今日は金曜日ということもあり、素也に宴会の開催を提案した。話はとんとん拍子に決まり、場所は清美と女性アルバイトの意見で、個室になったいくつもの座敷を持ち、懐石風の料理が好評な寿司屋に決まった。
素也と宮部はよく連れだって飲みに出かけるが、アルバイト全員を誘って大々的に宴会を行なうのは初めてだった。会場の寿司屋は山岡市駅の南口のロータリーに面していた。アーケードづたいに行ける。素也は初めての店だった。
入り口で会社名を告げた素也は、店員に促されるまま階段を上った。二階の入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、座敷が並ぶ廊下を進んだ。店員が十二畳程の座敷の前で立ち止まり、素也に中に入るよう促した。スリッパを入り口で脱ぎ、座敷に上がる。
実沙はいつの間にかいなくなっていた。素也が姿を見せると、座敷は一瞬空気が揺れ、すぐに元に戻った。宮部達は先に到着していた。
生け花と掛け軸が飾ってある床の間を背にして素也は座布団に座った。まだ開始予定の時間まで10分以上ある。煙草を吸わない素也は手持ち無沙汰だった。頭の中からゆっくりとトレーサーを追い出す。
化粧室で化粧を直した実沙は、予約してある座敷へ向かった。もうほとんど揃っているらしく座布団の空きは数えるほどだ。上座に座らされた素也の隣の座布団は空席になっていた。皆が気を使った結果にもかかわらず、素也は実沙が隣に座ると、ほっとした笑顔を実沙に向けた。
素也の簡単な挨拶の後、宮部の乾杯の音頭でフェイジングテクノロジ社の創立五周年を祝う会がスタートした。アルバイトが順に挨拶に来て、実沙が素也に紹介した。アルバイトが恐縮しつつ、素也に両手でビールを注ぐ。素也がまわりを見渡す。人数を数えると、素也を含めて社員四人とアルバイト八人だ。
宮部は数人のアルバイトに囲まれ、先週の日曜日、素也が親父狩りに遭った時の事を、事細かく話し初めた。部屋中のアルバイトが宮部の方を向いた。ただ、宮部はその話の前半部分を知らない。コンビニでビールの銘柄で迷っていたからだ。しきりにその事を悔やんでいた。
コンビニでビールを買い、素也の待つ公園に近づいた宮部の目に写ったのは、ワイヤーアクションのように宙を舞う男たちの姿だったらしい。宮部はいくぶん大げさに話す。それを聞いたアルバイト達が「ありえない」と爆笑する。
先週の日曜、素也と宮部は山岡市の駅南繁華街へ飲みに出かけた。宮部への素也の東京出張の報告を兼ねていた。日曜日なので半分以上の飲み屋は閉まっていたが、宮部は数軒穴場を知っていた。
二人で飲んだ後、宮部に誘われるまま公園の入り口に出ている屋台でラーメンを食べた。市民公園の水飲み場がら水道を引いているその屋台は、かなり昔風の中華そばを再現していた。縮れ麺に澄んだ醤油のスープ、薬味はメンマと薄いチャーシュー、海苔と刻み葱だった。二人は一気にラーメンを平らげた。
喉が渇いた宮部は近くのコンビニに缶ビールを買いに行き、素也は公園の奥へベンチを求めて歩き出した。その時、市民公園に隣接する駐車場に止まっているピックアップトラックの陰から、柄の悪い五人組の若者が素也を囲むように近づいてきたのだった。
素也は五人を観察した。一番左にいる鶏みたいなのが喧嘩っ早そうだ。赤い髪をとさかのように逆立てている。右から二人目の熊みたいな体格の髭面がリーダーだろう。後の三人はその熊の様子を伺うそぶりを見せる。その三人からはそれ程圧力を感じなかった。文字通り逃げ腰だ。素也は鶏と熊に神経を集中させる。
熊が素也を見据えて言った。
「おい、俺の財布知らないか、この辺りに落としたんだが」
ドスの効いた声だ。顔は笑っている。素也は何も聞こえなかったかのように、五人の方へ歩き続ける。続けて熊が畳みかけた。
「おい、お前だよ、聞こえんのか、お前拾ったんだろ、ちょっと調べさせてくれ」
相変わらず素也は歩き続ける。鶏が後ろ手に持っていた金属バットを肩に担ぎ上げ、素也に近づきながら言った。
「シカトかよ、てめえ」
もうすぐバットが素也に届く距離になる。素也は熊との距離を測った。そちらは4メートル程か。
素也は立ち止まった。鶏を一瞥し動きを止め、熊に向き直るとこう言った。
「誰かに頼まれたのか」
熊の表情がほんの一瞬変わった。しかし、素也に一歩近づくと暗い笑みを浮かべて凄んだ。
「おい、黙って財布を出すんだよ」
しばらく男たちは素也の出方をうかがった。熊との距離3メートル。素也は観念したようにジャケットの内ポケットに手を伸ばした。緊張が緩み、鶏が金属バットを肩から降ろす。その一瞬、素也は鶏の方へ左足を大きく踏み出し、深く膝を曲げ、体勢を低くすると、右ローキックを掬うように鶏の踝へ放った。インパクトの瞬間左膝をのばし、キックを跳ね上げる。鶏は足を跳ね上げられ、スローモーションのように宙に舞った。
蹴り出した右足を戻す反動で素也は熊に向かってサイドステップを踏んだ。熊との距離が一瞬で詰まる。そしてそのまま右足を熊の下腹に突き刺した。体重の載ったバックキックだ。熊はくの字になって後ろに飛び、後頭部から落ちるとそのまま回転してうつ伏せに地面に叩きつけられた。鶏も肩口から地面に落ちた後、倒れたまま左足首を押さえて呻いている。
素也はゆっくりと残りの三人の方へ歩き出すと「次は誰だ」と三人に尋ねた。三人は文字通り三方へ逃げ出した。自分が相手になるリスクを少しでも減らすためだった。
宮部が駆け寄ってきた。エビスの黒の缶ビールを素也に差し出しながらこう言った。
「社長、何で少しぐらい残しておいてくれないんですか」
実沙があきれながら「本当なの」と素也に尋ねる。素也も苦笑するしかない。素也は実沙に、鶏と熊がその後どんな目に遭ったかを説明した。宮部が二人をコンクリートの上に正座させ金属バットでこづきながら、いかに無謀な挑戦だったのかこんこんと説教したのだった。折れた足をかばい、片足で正座していた鶏は遂には声を上げて泣き出した。それを聞いた実沙は「とんだ災難ね」と決して素也に対してではない感想を漏らした。
清美は女性アルバイト三人に囲まれ、もっぱら食べることに専念しているようだ。テーブルの話題も料理の事だけだった。それはもう徹底していた。事前に注文してあったコースの料理だけではもの足らず、ひっきりなしにメニューを覗き、追加の注文を入れている。他のテーブルと違い、ここだけはテーブルの上の料理もテーブルを囲む客もカラフルで華やかだ。
時が進み、場が賑やかになるにつれ、素也と実沙もビールを注いで回り、それぞれのテーブルに取り込まれる。
素也はグラスを傾けながら、二人のアルバイトの会話を聞くとは無しに聞いていた。そのうちの一人は、今日トレーススーツを着て手伝ってくれた学生で、木村といった。木村は一旦自宅に戻り、着替えてきたのだ。そして会話の相手にこう言った。
「家を出掛けに、飲みに行くと言うと、同僚が急死してこれから通夜に向かうという母から散々厭味を言われてまいったよ」
二人のやりとりから、その急死した人は木村の母親の会社の同僚で、まだ四十八歳と若く、女手一つで二人の子を育て上げ、やっと子育てから開放された矢先の急死だったと素也は知った。
そして木村は
「その女性の子供は、PTでアルバイト経験があったんだって」
そう続けて話した。PTというのはフェイジングテクノロジ社の略称だ。母親同士で子供の話題になり、木村の母が息子の今のアルバイトのことを話題に出すと、たいそう驚いた様子で、私の子供もずいぶん前になるけど、その会社でアルバイトした経験があるのよと打ち明けたらしいのだ。
素也は二人の話に割って入った。
「その亡くなった人の名前は分かるか」
急な質問に、木村は驚いて素也の方に向き直り膝を正すと
「いえ、そこまではちょっと覚えてません」
すまなそうに答えた。
「通夜の場所はわかるか」
「いえ、それも、そんなに遠くに行くような感じはしませんでしたが」
「死因は」
「昨夜十一時ごろ、激しく咳き込んだ時に肺の大動脈が破裂したそうです。呵血して一瞬だったようです」
木村はそう答えると、泣き出しそうな顔になった。
素也は片手でビール瓶を取り上げ、木村にビールを勧めながら話しかけた。
「悪いがお母さんにその人の名前を聞いてもらえないだろうか」
木村はなみなみとビールが注がれたコップをテーブルに置くと、携帯を手に立ち上がり、座敷を出て行った。
宮部がいつの間にか背後に寄ってきていた。
素也の耳元で尋ねる。
「社長、何かあったんですか」
素也は宮部に事情を説明した。話し終えた時に木村が座敷に戻ってきた。
「社長、犬飼明江さんという方だそうです。告別式は明日の朝十時、場所は喪主の娘さんの家だそうです」
素也は宮部と目を合わせた後、木村に礼を言った。しばらくして宮部が呟いた。
「俺、明日の葬儀に行って来ます。英子さん悲しんでるだろうな」
「そうか、じゃあ、花輪を会社名で頼む。領収書は実沙さんに廻してくれ」
と素也は言った。
犬飼さんと聞いて、思い出すのは一人しかいなかった。設立当初、宮部がアルバイトに来るようになって仕事が増え始め、電話応対と書類を作成してくれる人が必要になり、宮部が大学の研究室の後輩である犬飼英子を連れてきたのだ。
ジーパンが似合い、セミロングでサラサラの髪の毛、背が高く明るい娘だった。いつも着古した服を着ていたし、化粧気も全く無かったが、まだ開化してない魅力がふんだんに感じられる女性だった。
その頃経営はアルバイト代の支払いも困るような自転車操業だったが、素也のサラリーマン時代の貯金を取り崩して毎月毎月をなんとかしのいでいた。
路地裏の小さな三階建ての雑居ビルの二階で三人で働いていた光景は今でも懐かしく、昨日のことのように思い出すことが出来る。一階はコンビニエンスストアで、隣は小さな英会話学校で、国籍不明の不良外人がよく出入りしていた。三階は消費者金融だった。窓からは隣のビルの壁と、パチンコ屋のネオンしか見えなかった。
狭い廊下に出前の丼が並び、洗面所と給湯室は共用で、床には様々な吸い殻が落ちていた。
空手に行くついでに毎日のように二人を家まで送った。その頃まだチューンアップしていなかったカローラワゴンの後部座席を宮部が占領し、英子はいつも助手席に乗っていた。
皆が持ち寄ったCDを順に掛けたり、日没の時間に合わせて、遠回りして山に登ったり、英子が会社で淹れたお茶を、一つの水筒から分け合って飲んだりしたことをぼんやりと素也は思い出していた。助手席で、こぼさないように嬉しそうに水筒からお茶を注ぐ英子の姿が脳裏に浮かんだ。
眺めの良い場所に車を停めると、近くの岩に座り込み、動こうとしない英子。ボンネットに腰かけ、それを優しく見つめる宮部。稜線に沈む夕日に切り取られた長い影。とても楽しく、どこかせつない思い出だった。
確かに英子は母子家庭だった。英子の母親の顔を思い出そうとしたが、無理だった。英子を送り届けた素也に対して頭を下げている姿しか思い浮かばないのだ。
英子の家は古い木造の市営住宅だった。平屋で二世帯で一棟だったように思う。英子を送り届けたある日、玄関から英子の母親が現れた。玄関の引き戸の建付が悪いのに気づいた素也は、工具を手に車を降り玄関に入ると、建具を調整して引き戸の滑りを良くしてあげたことがあった。その時の記憶が素也の脳裏に甦る。
土間のたたきに自転車が二台並んでいた。土間の向こうに六畳ほどの座敷があり、布団の掛ってないコタツが目に入る。母親は素也にお茶を飲んでいくように誘ったが、素也は丁重に断った。土間に乾されていた英子の洗濯物から逃げるように素也は家の外に出た。
車に乗り込む素也。
雨ざらしの洗濯機。
すれ違う自転車に乗った少年。
素也の車が角を曲がって見えなくなるまで手を振り続ける英子。
そうだ、英子には確か中学生ぐらいの弟が居たはずだ。
モノクロームの記憶が素也の頭の中で次第に色を鮮明にさせてゆく。
自転車を押し、夕日を受けて黄金色に輝く少年の横顔を思い出して素也は愕然となった。その少年を知っていたのだ。
犬飼英子の弟はケンだった。
宮部にビールを勧められ素也は我にかえった。宮部の「何か気掛かりなことでも」の問いに軽く首を振る。その後、意を決して二人で立ち上がると、注文した料理を持て余している清美のテーブルに行き、後片づけに取りかかった。
清美と女性アルバイト三人は、淡々と食べ進む素也と宮部に声援を送る。清美は全部の料理を頼まないと気が済まないようだった。そして素也と宮部を横目で見ながらデザートを追加注文していた。
「社長、もっと飲んでよ」
シャーベットの盛り合わせを食べながら清美が素也にビールを勧めた。そして、アルバイトの女の子達にも注ぐように頼む。
「社長、強いのよ。でもあまり飲ませないで。説教が始まるから」
アルバイトの一人が
「えー聞きたいです。どんな話なんですか」
そう言いながら素也にビールを勧めると、その横で清美がしかめっ面をして低い声を出した。
「いいか、よく聞け。人間には二種類ある。一方は物事を悲観的に考え、もう一方は物事を楽観的に捉えるのだ」
そこまで言うと声の調子を元に戻し付け加えた。
「とかなんとか始まるのよ」
宮部も食べながら茶々を入れる。
「そうそう、そして最後は必ずつまらん駄洒落で終わるんだ」
女の子達が爆笑した。
「つまらんは余計だろ」
素也はそう言うと、英子とケンの事を忘れ楽しそうに笑った。
二人が料理を食べ尽くした頃、ちょうどいい時間になり、会はお開きになった。請求書を受け取り実沙に渡し、会社の口座から振り込んでもらうよう頼んだ。店の外に出た素也を宮部が二次会に誘う。実沙も付き合うようだ。
清美は行き先の店の名を聞いて不満な顔を見せていたが、実沙に誘われて結局着いて来た。他のアルバイト達は数人づつの固まりとなって、次々と夜の街に消えていった。
イパネマというジャズを流すショットバーの奥のテーブルで四人はささやかに乾杯し直した。金曜の夜らしく、カウンターは満席で、テーブルの空きも数えるほどだった。
落ち着いた間接照明が石造りのインテリアを照らし、カウンターの曲線の一部にもなっているグランドピアノの両脇にはJBLのパラゴン、ターンテーブルではウェスモンゴメリのブルースが回っていた。
素也と宮部はメーカーズマークをボトルで頼み、蝋の封印を解くとストレートで少しずつ飲み進んだ。実沙は白ワインをハーフボトルで、清美は、とても覚える気にならない長い名前のカクテルを頼んでいた。
イパネマは山岡市の駅からそう遠くないところにあり、宮部の家の駅南のマンションからは目と鼻の先だ。素也の泊まるホテルシティ山岡は線路を隔てた山岡市駅の北口にある。
イパネマは宮部のお気に入りの店だった。宮部の好きなバーボンが三十種類以上冷蔵庫に保存してある。素也はどちらかというとスコッチ派だった。四人の話は自然に修報社の方に向かう。
「修報社の件だが、先週の顔合わせでの感触から言うと、あまり相手は友好的に話を進めるつもりはなさそうだ。今のところ実害は無いが、注意するに越したことはない。何か不審なことがあったらすぐに俺に伝えて欲しい」
素也が切り出した。
「何か心配」
実沙は呟く。宮部は天井を睨んで考え込んでいる。口を尖らせて聞いていた清美が突然口を挟んだ。
「そんなことが起きていたの。ぜーんぜん知らなかったわ」
三人に非難めいた視線を浴びせてから続けた。
「でもその会社知ってるわ。社長が、えーと名前忘れたけどトカゲみたいな男で、同業他社と合併する度に社長の資産も増えていくって話よ。文字通り吸収合併ね」
宮部が声を出して笑いかけたが、表情を崩さない素也に気づき、笑い声を無理やり押し殺した。そんな宮部の様子を見た実沙がたまらず吹き出す。実沙を睨みながら素也は言った。
「そう心配しなくていいよ。取り越し苦労で終わればそれに越したことはないんだが。とりあえず、オフィスのセキュリティロックを今のシリアルキーから手の甲の血管のパターン認証に切り替えるつもりだ。指紋や声紋より判別性がいいらしい」
続けて素也は
「とにかく会社を売る気は無い。これはもうはっきりしている。その点は安心してくれ。今のところはもう少し様子見だな」
と言った。山荘への侵入が有ったことは宮部以外には伏せておくことにした。アルテッツアの一件はまだ誰にも話していない。
「さあ、いい方の話だ。来年から、社員が会社の未公開株を買えるようにするつもりだ。将来ストックオプションが行使出来る形も取れる。それから、アルバイトでいい人材がいたら、来年も一人か二人入社させよう。選考も頼む」
素也は一気に話すと「さあ、堅い話は終わろう」と笑顔で三人に声を掛けた。
宮部は細やかな気遣いを見せた。お酒のお代わりや料理の注文などをさりげなく三人に勧める。清美が洗面所に立つと、なるほど、心配そうにしているが、戻ってきても特に話しかけるわけではなく優しく見守っている。
宮部は素也の山荘に去年ジャグジー取りつけた時の話を、楽しそうに話しだした。バスタブの運搬と、土台への設置の手助けを宮部に頼んだのだ。その日は素也の山荘で二人で朝まで飲んだ。
宮部は実沙と清美に訴えた。
「あんな何もないところに住める社長が信じられない」
宮部は自分をネオンライトに吸い寄せられる蛍だと言った。三人は苦笑した。誰も宮部を蛍だとは思わないだろう。控えめに見てもミヤマ大クワガタだ。
実沙はジャグジーが山岡市を見下ろす斜面に据えつけられていると知って入りたがった。宮部は「猿や猪も入りにくるぞ」と実沙を脅した。
「実沙さんの趣味は温泉巡りだもんな」
宮部が言うと実沙は赤くなって
「違うわよ、私の趣味はフィットネスということになってるんだから、変なこと言い触らさないでよ」
すると清美が口を挟んだ。
「実沙さん、もう隠すことないって。毎月露天風呂巡りしている事皆知ってるんだから。社長、実沙さん猿となら一緒に入ったことあるって。だから大丈夫よ。社長のお風呂に入れてあげて」
「猿と入ったことなんて無いわよ。もう」
実沙はそう言うと横を向いた。が、すぐに三人に向き直り、数年前の秋、しし座流星群極大の日に入った野沢での露天風呂の話を始めた。テンペル・タットルすい星が、一六九九年と一八六六年に放出した塵が絶え間なく地球に降り注いだ、ここ数十年で最大級の流星雨の日のことだ。
微かに雪化粧を始めた露天風呂で、朝まで流星雨を見上げていた夜のことを「時空を越えた体験」だったと話す。その夜実沙はお風呂の中でのぼせかかり、フラフラしながら客室まで帰ったようだ。素也はその様子を想像したのか、優しい笑顔を実沙に向けた。
そして素也は自分自身のその夜のことを思い出していた。ヒーターを最強にして、トップを解放したMGを駆り、大昔から降ってきた数え切れない程の流星雨の中、明け方まで山道を駆け抜けていた夢のような夜のことを。
突然自分の世界に入り込んだ素也に、三人は呆れつつもしばらくの間暖かい視線を向け続けた。素也はふと現実の世界に還ってくると、何ごともなかったかのようにグラスを空けた。
時間はあっと言う間に過ぎ、ふと気づくと十一時を回っていた。素也は立ち上がって伝票を探すが、すでに宮部が右手に握り締めていた。素也は何も言わなかった。
素也は、宮部が勘定を払うのを店の外で待った。店から出てきた宮部に清美を頼み、実沙をアパートまで送っていくことにした。別れ際、宮部に後で家で飲み直さないかと誘われたが、素也は断った。
歩き始めてすぐ実沙が話しかける。
「何で断ったの、飲み足りないでしょ」
素也は宮部のマンションの部屋の様子を思い出しながらこう言った。
「宮部の部屋にいると、まるでディスカウントショップの家電コーナーにいるような気分になるんだ」
実沙のアパートは山岡市駅の北、徒歩十五分程度のところにある。住宅地の中の小さな二階建てのアパートだ。
火照った体にちょうどいい夜風を受けながら、雑踏の中を歩き、山岡市駅のコンコースを通り、電車の音を聞き、ホテルとオフィスが林立する駅北を抜ける。次第に静けさを取り戻す街を月明かりに照らされ二人で歩いた。思い出したように時折言葉を交わすが、アパートが近づくにつれ、言葉は意味を失う。
アパートが見える交差点に着いた。車で送った時に別れる場所だ。素也は実沙の部屋に上がったことは無いし、寄っていくように誘われたことも無かった。実沙の顔が素也の視界の端で僅かに悲しそうにゆがむ。
「お疲れさま」
素也が声をかけると、実沙は笑顔で
「ありがとうございました、おやすみなさい」
と言い残して背を向ける。実沙の背から視線を外して振り返った素也は、路肩に駐車中の車の中で携帯のイルミネーションが光るのが見えた。紺のアリストだ。後をつけられていたらしい。
反射的に実沙を追いかけ、手を伸ばして腕をつかんだ素也は、小さく「キャッ」と叫んで驚く実沙を引き寄せ、青の信号を渡り対向車線に出て、駅に戻るタクシーを止める。
乗り込んで山岡市駅と運転手に告げ、リアウインドウを見ると、アリストはUターンしようとしているが、交差点は車の流れが絶えず、なかなか発進出来ない。
少しほっとして実沙の方を向いた素也は、実沙の視線でまだ腕をつかんでいることに気づき申しわけなさそうにそっと放した。実沙はつかまれていた部分に片手を当てる。痣になったかもしれない。素也の手はそれほどこわばっていた。
タクシーはすぐに山岡市駅の北口に着いた。運転手に千円札を渡し外に出た素也はホテルシティ山岡に向かいながら実沙に事情を話した。
実沙のアパートを彼らに確認させる気は無い。そして、こんなことに実沙を巻き込むわけには行かないのだ。素也の頭の中は静かな怒りに満ちていた。
ホテルの玄関は深夜にもかかわらず人の流れが絶えなかった。回転ドアを通ると、ベルボーイが深々と頭を下げる。荷物を持っていないのが申しわけないぐらいだった。そこかしこにざわめきが残るロビーを通って二人は一直線にフロントに向かった。
ホテルのフロント係は素也の顔見知りのマネージャーだった。近づいてきた素也に笑顔を向け、隣の実沙に気づくとほんの一瞬だけ驚いた表情をしたが、何ごともなかったかのように素也に目礼をして
「いらっしゃいませ、水野様、お待ち申しておりました」
そう丁寧に言うと、宿泊カードを差し出した。
クライアントの接待の後、あるいは宮部と街で飲んだ後など、決まってこのホテルを利用する素也は、ほとんどの従業員から顔と名前を知られている。
素也はペンを持ち、カードに住所と名前を記入しながらマネージャーに尋ねた。
「もう一部屋追加できないだろうか」
マネージャーはカウンター下の宿泊台帳を開き、しばらく考えた末残念そうに言った。
「あいにく本日は満室でございます」
そして素早く振り向くと、後ろの棚からルームキーを引き抜きカウンターの上に差し出した。
「十五階の一五〇七号室でございます。こちらの手違いでご希望と異なる部屋となりましたが、差額は頂きません」
マネージャーはそう言うと、申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
素也はキーを手にとり、しばらく何かを言いたそうに立っていたが、実沙に背中をつねられると、弾かれたようにエレベーターに向かった。
エレベーターのドアが閉まると実沙が口を開いた。
「素也さん、なに照れてるの、いい歳して」
最上階のボタンを押した素也は実沙にルームキーを見せる。
「だってこれスイートだぜ」
素也は去年、このホテルの全室の写真を撮り、バーチャルな宿泊体験が可能なウェブ予約システムを設計したのだ。自分で作り出したシステムは細部まですぐに思い出すことが出来る。素也は一五〇七号室の部屋の様子を思い浮かべていた。
実沙は増えていく階数表示の数字を睨みながらこう言った。
「つまり、このホテルは素也さんに、たっぷり貸しを作ったってわけだ」