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第2章 グラフェイズ Thursday September 30

日の出と共に目が覚めた素也は、ベッドサイドのフラスコの水を大量に飲み、トイレを済ませ、そのまま机に向かってQちゃんの改造案を練った。昨夜眠りに付く前にあらかた頭の中では出来上がっていたので、それを真っ直ぐに引き出してくるだけだった。以前Qちゃんを開発した時に素也が組んだ関数を思い出しながら、フローチャートを組み立てる。

一時間ほどで完成すると、昨夜洗濯しておいた洗濯機の中の衣類を手早く畳みクローゼットに仕舞う。バスタオルはシャワールーム横の戸棚に畳んで突っ込む。

そのままキッチンに向かい、ポットでお湯を湧かす。食パンを二枚トースターで軽く焼き、マーガリンとマスタードを塗り、昨日スライスしておいたチキンとレタスを挟んでサンドイッチを作った。パンの耳は切らない。

さらに二枚食パンを焼き同じようにサンドイッチを作る。こちらにはスライスチーズも挟んだ。フライパンでベーコンをカリカリに焼いて油を捨て、卵を二個落とし、しばらく焼いてふたを閉め火を消す。

沸いたお湯でティーポットとカップを温めた後、ティーポットにダージリンを入れ、お湯をたっぷり注ぐ。カウンターにサンドイッチとベーコンエッグと紅茶のポットを置き、昨日多めに切っておいたレタスも冷蔵庫から出し運んでくる。そして朝食に取りかかる。

鳥の声を聴きながら朝食をのんびりと済ませ、皿を食器洗浄器に突っ込んでスイッチを入れる。ティーポットとフライパンを手で洗った。フライパンは水気を飛ばし、油を引いておく。

洗面を済ませた素也は、アンダーウェアの上に白いシャツを着て、チノパンツを履き、その上に明るい紺の薄いジャケットを羽織るとQちゃんの改造案を内ポケットに突っ込み、山荘用の携帯の電源を入れマナーモードを解除し引き出しに仕舞った。

財布とカード入れとMGのキーを持つと、サンダルを革靴に履き替え、左手首にカシオのオシアナスを巻く。部屋の戸締まりを済ませ、すべての窓と窓枠にセロテープを貼っておく。侵入者の有無をチェックするためだ。

Qちゃんを抱え上げ、玄関前に停めてあるMGの助手席にQちゃんを乗せた。シートベルトを締めさせる。MGは昨日からオープンのままだった。

玄関の数字錠をセットし、大またでMGの運転席側に回り込む。そして運転席に乗り込みキーをイグニッションプラグに差し込みエンジンを起動させた。センターコンソールのアナログ時計に目をやるとちょうど九時だ。念のためオシアナスで時刻を確認する。車載コンピューターは昨日から動き続けている。

一分ほど待ちシートベルトを締めると、クラブハウスへのアプローチの道路を下り始めた。ミッションはサードホールドで、スムースに下ってゆく。

昨日スピンした砂のあるコーナーにさしかかると十分に速度を落として通過する。助手席のQちゃんは20キロ程の重量なので、さほど重さは感じない。国道を左折し農道に入った素也は、次第にスピードを上げ始めた。

路面のギャップをハイドラガスのサスペンションが拾い始める。その振動が腰に伝わり気持ちがいい。素也は昨日中断させられたMGのパフォーマンスチェックを再開した。

オフィスへのある羽鳥市へは、山岡市を通らずに、真っ直ぐに正三角形の一辺に沿って南東に向かう。しばらく農道を通り、一山越えるとオフィスのある羽鳥駅前に降りてくるのだ。

三割以上アップしたパワーは、フライホイールやカム回りの部品の軽量化と相まって、素晴らしい吹き上りを見せる。ボディも各部分で軽量化してある。日比野は現在乾燥重量で約1トンだと言っていた。ノーマルタイプより一割程軽くなっている。増し締めされたフレームは、わずかにあったきしみが消え、剛性感もアップしている。

ブラインドコーナーでは十分にスピードを落とし、見通しのいい区間では、目まぐるしいシフトアップ、ヒールトゥによる素早くスムーズなシフトダウンを駆使し、小振りなスポーツカーを操る。タイトなコーナーでは小刻みなカウンターを当て、熟知している舗装された林道を誰も追いつけないスピードで駆け登り、駆け下る。

登りも下りも重量配分のバランスはよく、登りではリアタイアに気持ちいいほどトラクションがかかる。下りでハードブレーキングを踏んでもフロントヘビーにならず、四輪にフラットに荷重が掛かるのでコントローラブルだ。

あっと言う間に羽鳥駅が眼下に見えてきた。駅前の急坂をセカンドギアでゆっくりと下る。エンジンブレーキで回転が上がったエンジンのエキゾーストノートが背中から悲しげに聞こえてくる。

駅前からオフィスへはメインストリートを徒歩で十分弱だ。メインストリートといっても、コンビニや喫茶店、スーパーや花屋が立ち並ぶこじんまりとした通りだ。街を歩く人々の失笑を受け、トップをオープンにしたままQちゃんを乗せていることを後悔し苦笑しながらオフィスへとMGを乗り入れる。MGを降り、充電用にコンセントをボンネット下にプラグインする。

助手席からQちゃんを降ろし、そのまま抱えて開放されているセキュリティゲートを通り、階段を上り、オフィスの大型ドアを開けると、皆の目が素也に集中した。


Qちゃんを抱えた素也を見て実沙は、驚いた様子で話しかけた。

「おはようございます、素也さん。あらQちゃん、お久しぶり」

アルバイトの学生たちはもの珍しげにQちゃんを見ている。奥から宮部が歩いて来て素也に話しかける。

「社長、故障ですか」

そして、一段と迫力を増していたMGの排気音を思い出し宮部は苦笑しながら言った。

「MGの助手席で運んだんですか」

「そうだよ。たまには連れ出してやらないとな。これから機能追加だ」

素也はそう言ってから実沙の方を振り返り笑顔で話しかけた。

「実沙さん、会社の名義でいいからQちゃんに携帯を一台契約してやってくれ。着信時にイルミネーションが付く奴ならどれでもいいから」

実沙は

「しばらく見ないうちにずいぶんおませさんになったのね」

そう言い残し、昨日素也から預かっていた携帯を素也に渡し、ハンドバッグとフェイジングテクノロジ社の判子を持つと不満顔のまま出て行った。素也は携帯をチェックするが着信履歴は無い。机の上に携帯を滑らせる。

実沙が出て行ってからしばらくして、岬スタジオの店員の佳子がオフィスに入ってきた。素也が現像とスキャンニングを頼んでおいたフィルムとスキャンデーターが焼かれたDVDを近くにいたアルバイトに手渡す。オフィスから出るときに振り向いて素也を見た佳子に、素也は誰にも気づかれないようにそっと頷いた。


オフィスを羽鳥市に移してすぐ、素也はオフィスのそばにあった写真スタジオである岬スタジオに、山で撮った高山植物群の現像とプリント、それからコンピューターデーターへのスキャンニングを頼んだのだが、最初に担当したのが佳子だった。佳子は裏方なので、店先には出てこない。

その出来上がりを見て素也は唸った。ネガフィルムは色と露出補正に技術や感性が必要だ。色の選択というのは、一種の才能が必要だと素也は考えていた。素也の考えていた色に、プリントもスキャン後のデーターもピッタリと素也のイメージにはまっていたのだ。

その次の週も素也は岬スタジオにフィルムを持ち込んだ。店頭にいた店長に「先週仕上げてくれた店員にまたお願いしたいのだが」と言うと、大量にフィルムを持ち込んだ素也を店長は覚えていて、快諾してくれた。

そんなことがしばらく続いた後、でき上がりを受け取りに行った岬スタジオで、佳子に出会った。店長や店員が接客で出払っていて、素也がカウンターで待っていたら奥から出てきたのだ。

財布を取り出し、素也が渡した受け取り伝票に眼を通したとたん、佳子は顔を上げ素也の顔を見つめた。すぐに視線を落とし、現像済みのフィルムとプリントが入った袋を取り出したのだが、素也はこの女性が、今までフィルムを仕上げてくれていた店員だと直感した。

お釣りを受け取るとき

「失礼ですが、これを仕上げてくれた方ですね」

素也が尋ねると、緊張気味だった佳子の表情が笑顔ではじけた。そして嬉しそうに

「いつもありがとうございます。店長に褒められたんです。指名がつくなんて凄いなって。そして、素晴らしい写真を任せてもらって、もう嬉しくて」

佳子は一気にしゃべると、素也に笑顔を見せた。

アップにしている髪に、キュートな笑顔が似合う。小柄なことも有り、既婚者にもかかわらず学生の様な雰囲気の娘だった。旦那は確か高校の教師だったばずだ。

素也はお礼に食事に誘った。店が終わった後、食事をし、お酒を飲み、その足でホテルへ行った。どちらが誘ったわけではなく、もう予定に入っているかのような行動だった。写真を通じてすでに気持ちが通じていたのだ。それ以来、数えるほどだが、思い出したように関係を続けていた。


素也はデーターとポジフィルムを確認し、DVDケース内のメモに目を通した。そしてあたりを見渡し、実沙の不在を確かめてホッとしている自分に苦笑した。

素也は立ち上がると、フィルムを除湿装置が組み込まれたロッカーに仕舞った。そして、胸のポケットからQちゃんの改良案を取り出し、ジャケットを背もたれに掛けるとプログラムをコーディングし始める。素也の仕事が始まると、オフィス内の空気がピンと張り詰め、無駄話は影を潜める。

もともとQちゃんには掃除中に人間やペットが近づいてきたら回避するようなプログラムが組み込んである。目の部分からさまざまに角度を変え、連続的にレーザーでパルスを打ち、対象物に反射して還ってきた時間を統計的に計ることによって対象物との距離を算出しているシステムがある。

このQちゃんの開発元である大日工社がすでに量産していた自動車の車間追尾システムを流用したのだ。でもただ数値として認識するだけでその形状を意味のある物に並べ換え、形状を認識するのは素也の仕事だ。その結果、Qちゃんは壁や家具などの固定物と、動きのある物体を別々に感知することが出来る。その仕様を利用して、使用者でもある人間の方を振り向いて愛嬌を振りまくようにプログラミングされている。

素也は、Qちゃんが掃除用に持っている基本動作に加え、動く物体を感知したらその後を付け回すモードと、さらには感知した物体に最短距離で勢いを突けて激突するモードを組み込んだ。相手が動かない場合は激突しない。

基本的な動作はすでに掃除用にプログラムしてあるので、新たにモードを追加するだけで簡単に仕上がる。素也が机上で改良を追えた頃、実沙がオフィスに戻ってきた。

QちゃんにコンパイルしたプログラムをUSBケーブルでダウンロードする。携帯電話の充電器の電極を基板から直にはんだ付けして電源を供給し、充電器に実沙が契約してきた携帯をセットし、光センサーを取りつけると、発泡スチロールでパッケージした。

携帯のイルミネーションは素也の携帯からの着信のみ光るようにセットしてある。ワン切り業者に掃除を開始させられてはかなわないからだ。

その基板をソケット化してQちゃんの内部の空いたソケットに組み込み、メインスイッチを接続する。そして以前宮部が型を起こし、色を塗ったQちゃんの外装をかぶせてねじ止めする。

近づいて来た宮部に話しかける。

「これで追加モードと遠隔スイッチ組み込み完了」

宮部が

「社長、なにかあったんですか」

と聞いてきたので、小声で山荘近くでスピンした話と山荘への侵入があったことを告げる。そしてQちゃんの改造部分を解説した。

「最初の着信で動作、次の着信で停止。動作は現在三種類のモードがあり呼び出し時間でモードが決定する。最初の着信呼び出しが10秒以内だと、Qちゃんは掃除を開始する。今までの動作だ。10秒以上、20秒以内だと、Qちゃんは侵入者を追い続ける。20秒を超えると、アシモフのロボット三原則に逆らう」

「というと」

「センスした侵入者に最高スピードで激突する。どうだ宮部、ちょっと試しにやってみたいんだが」

宮部は、興味があるのか侵入者役を引き受けた。ホールに置かれたQちゃんの回りをまわるように指示される。皆が集まってくる。清美は一階に降りていった。お茶の時間らしい。

素也がQちゃんの携帯にダイヤルし、15秒程呼び出しする。着信メロディーは「オバケのQ太郎」になっていた。実沙が気を利かせて設定したようだ。

着信を止めるとすぐにQちゃんは宮部の後ろにくっつき、動き出す。宮部が止まると回りをこそこそと動き、宮部がQちゃんに近づいたらさっとよける。二人の動きを見ていると、ダンスを踊っているようで面白い。短い着信をさせてQちゃんを停止させる。

「次、激突モード行くぞ」

素也は宮部に声をかけ、時計を見ながら30秒ほど着信音を鳴らし止める。するとQちゃんは少し下がり、宮部との距離を5メートル程に離した後、加速して歩いている宮部を追うように曲線を描きつつ突っ込んでいった。宮部がQちゃんに向き直り両手で受け止めるが、予想以上の衝撃に驚きながらしりもちをつく。そしてQちゃんはまた5メートルの距離を取る為、バックする。

「動くな、動かないとぶつかってこない」

素也は宮部に叫んだ。宮部はその指示に従い、座り込んだまま動かない。Qちゃんは宮部の回りを等間隔を保ち、まわるように動き続ける。

追送モード、激突モードとも掃除の吸引動作は不要のはずだが、素也は最大パワーで吸引を行うようにセットした。吸引することによって、Qちゃんの安定度が増すと考えたからだ。

素也は「案外使えるな」と呟いた後、宮部に向き直るとこう言った。

「掃除しながら攻撃すると、迫力が違うな」

「社長、結構危ないですよ、こいつ」

宮部はズボンの尻を叩きながら起き上がると、笑顔で答えた。

「もう少し助走距離を伸ばすかな」

素也はそう呟くと、プログラムの修正に取りかかる。助走距離を7メートルに設定する。障害物がありその距離が撮れない場合は、曲線を描いて加速させる。これで衝撃は2割近くアップするはずだ。

Qちゃんは、直径60センチメートル、高さも同じだ。大型充電池と吸引用のモーターとファン、専用基板が組み込まれたボードが一体となってユニットを形成し、スカート下部に取りつけられている。重さのほとんどをそのユニットが占めている。そのユニットにそれぞれ独立に方向と回転を制御出来る四個の車輪が直結されている。

上半身はゴミを溜める部分のため空洞になっている。そのため、力学的に横転しないほど低重心だ。試作機なので採算を度外視してカーボンファイバーのフレームを使っているので、衝撃には十分すぎる強度を持っていた。


結局その日は夕方まで宮部とQちゃんの改造と実験を行った。プログラムを修正する毎にQちゃんのフラッシュメモリーにダウンロードを繰り返す。

まず掃除モードで認識した空間を掃除終了後も記憶させ、追跡、激突モードではそこから外には出ないようにした。侵入者がたとえドアから飛び出したとしても、ドアの周辺にQちゃんは留まる。物陰に隠れても、回り込んで攻撃するようにした。四方を物で囲んでも、Qちゃんは待機し続けた。宮部は捕まえて横転させようとしたが、素也は、相手が接近してきたら小刻みに方向を変えながら逃げて、距離を取り直した後、再度突っ込むようにプログラムを改良した。

満足した素也は、宮部にオフィスの施錠を頼み、実沙にスケジュールの確認をすると、Qちゃんを抱えオフィスを後にした。

素也がドアを出ると、オフィスの掃除をローテーションで担当しているアルバイト達から大げさな悲しみの声が聞こえた。

Qちゃんに助手席を奪われ、月曜日と木曜日の素也の空手の稽古の日は慣例となりつつあった山岡市までのドライブの期待が消え、実沙もふくれっ面を見せた。

アルバイトたちが宮部のまわりを取り囲み、今日の二人のやり取りについて質問を浴びせた。宮部は時には紙とペンを用いて、解りやすく解説する。宮部の説明後、質問者は決まって感心し納得した表情を浮かべる。

宮部のまわりにはいつも質問者が絶えない。そのまま雑談に移行する場合も多い。十時と三時のお茶の時間も宮部は一人でいることはまずない。

それに対して素也は、決まった時間に休憩を取ることもないし、思い出したようにポットのコーヒーを飲むが、その時話し相手になるのは実沙だけである。宮部と素也とは、早朝か皆が帰った後に親密な会話を交わす。あるいは週末に街に飲みに行ったときに。

オフィスでの素也はどことなく近寄り難い雰囲気を放っている。社長という立場もあるが、宮部がアルバイトに対して素也のシステムエンジニアとしての実力を褒めるちぎることもあり、素也に直接話しかけるアルバイトはまずいない。素也はその宮部の言動に気づいてなく、皆に疎んじられているのだろうと思い込んでいる。

実際仕事をしている素也は眠っているのかおきているのか解らない程ぼーっと遠くを見る目をしている事が多い。実際に眠っていることも珍しくない。そして、そのまま一日を追えることもあるし、ディスプレイに向かって一心にキーボードを叩くこともある。回りはそれをオフとオンと呼んで区別している。

素也にとって大事なのはみんながオフと呼んでいる遠くを見ているときの方だ。その時にシステムの構想が浮かび、そのアルゴリズムは形作られる。時には常軌を逸した発想が浮かび、手順無しに結論がひらめき、美しく洗練された解が脳裏に形を持って浮かび上がる。ほとんど眠っている状態で紡ぎ出されるそれらのアイデアを素也は記憶することに専念する。

そして、素也は実際にプログラムを書くことを他人任せにしない。宮部や清美が常に数人のアルバイトに仕事を分散するのに対して、素也のシステムは、すべて素也の言語で描かれる。宮部にアルバイトを使うように勧められたときの素也の答えは「自分でやった方が楽だ」の一言だった。


Qちゃんを抱え駐車場に向かった素也は、助手席にQちゃんを座らせシートベルトを掛けると、MGのトップを閉めた。運転席に回ってリアのアクリルのウインドウをファスナーで固定し、フロントウインドウ上部のフレームの左右の止め金を止めてトップを固定した。イグニッションキーを回してエンジンを始動させると、山岡市に向けてハンドルを切った。

一つ低めのギアでトルクバンドをキープし、背後から聞こえるMGサウンドを楽しむ。月曜日と木曜日は特に用事が無い限り、夜は空手の稽古に出かけることにしているのだ。


素也がオフィスを去り、アルバイト達が帰り支度を始めた頃、宮部は自分の開発中のシステムの改良に取りかかった。デスクの上に小型のデジタルカメラ程の大きさの試作機を置き、DCアダプターを介して電源を投入後、メインスイッチをオンにする。端末からUSBケーブルを介して、回路情報を試作機にダウンロードする。デスクの回りのライトを消した。端末のディスプレイの電源も切る。

試作機の側面に、コンパクトフラッシュメモリータイプのマイクロディスクを差し込み、試作機のモードダイアルを再生位置に回し、投影モードにした。試作機内部の冷却用のファンが回り出す。しばらくして試作機の前方に嵌め込まれたデジタルカメラでいうレンズに当たる部分から光が投影され、レンズの前方にきらめく立体像を結んだ。

それはホログラフィーのような全方位の像ではなく、額縁に入った一枚の絵の様だった。そして、その絵の登場人物を立体的に浮かび上がらせていた。さらにその立体的な絵は、ホログラフィーと決定的に違う部分があった。モノトーンのホログラフィーに対して、宮部の試作機が再生する立体像は、鮮やかに色付いていたのである。


宮部はGRAPHASE完成後、そのメインテナンスや改良を行いながら、そのエンジン部分を他の技術に転用できないかずっと考え続けていた。そして、ホログラフィー理論を応用していたその技術をそのまま使うことに思い当たった。

そう、宮部が目指したのは、光学機器を介して撮影された二次元画像が持つ光の情報から、立体像を再現させることにあった。

数年前、最初に宮部からその構想を聞いた素也は、驚き、即座にこう言った。

「宮部、これは写真の歴史を変える物になるぞ」

きょとんとしたまま返す言葉がない宮部に素也は続けた。

「想像してみるがいい、デジタルカメラとその再生エンジンが一体化したときのことを。あるいはデジタルビデオカメラでもいい。写したそばからすぐにスタンドアロンで立体像が再生可能なカメラを」

そして素也は不思議な言葉を口にした。

「うまくコンプレックスすれば無色の虚数の世界に、鮮やかな天然色を配色することが出来る」

しばらく考えていた宮部は、その言葉の意味に思い当たる。そして、興奮気味に何としても完成させることを素也に誓った。

「力を抜かないといい考えが浮かばないぞ」

素也は笑って答えた。


宮部は、GRAPHASEエンジンを専用回路化し高速化することによって、光学的に記録された二次元画像データーから、演算処理によりホログラムの干渉縞にあたる光の紋章を再現させることに今春成功した。その部分の論文は情報処理学会誌に先月掲載され、ネット上での論文の参照数はうなぎ登りであった。

宮部は現在、画像データーから立体像を作り出す試作機の調整を行っていた。マイクロディスクに保存された画像のデーターを読み出し、演算処理部分にプログラム可能な高速回路を駆動させることにより、解析的な複素演算を高速、並列に処理させた。現在一枚十秒程で、干渉縞を算出することが出来た。

その演算結果である架空の干渉縞を、高性能のビデオカードを介してハイビジョン用投影型プロジェクター用の液晶パネルに再現させる。そして、レーザー光を液晶パネルに当て、立体的な像を解像させた。

さらには元画像を液晶パネルに重ねて写し込み、可視光を同時に照射することにより、レーザー光により解像させられた立体像をスクリーンとして、そこに鮮やかな色彩を着色したのだ。それが素也の示唆したコンプレックスだった。

試作機のレンズ部分にはカールツァイス社製のレンズが嵌め込まれてある。素也が宮部に使うように勧めた物だった。素也が、ポジフィルムをスクリーンに投影させて見るためのスライドビュワーから外して持ってきたのだ。

交換後、実際に解像された立体像の違いに驚いた宮部に素也は

「虚数空間から誕生したイマジナリープレイヤーが、さらにリアル側に近づいただろ」

そう言って笑った。その時から二人はこの試作機をイマジナリープレイヤーと呼ぶようになった。


差別化とディスカウントで顧客を獲得する松下の手法でも取りこめない一定のクライアントを辿ると、必ずそこにフェイジングテクノロジ社の存在があった。その中でも、異彩を放っているのが宮部の構築した画像データベースGRAPHASEだった。

同様の機能を欲しがった松下は社員にコア部分の解析を命じ、同様のソフトウェアを開発するように命じた。

同機能の物が出来てしまえば、独自機能を追加することにより市場を掴み、他製品と抱き合わせることによりシェアを奪い、時には告訴に持ち込み、自社の技術として正当化させる自信があった。その松下のやり方が修報社を業界トップに押し上げたのだった。

しかし、今回は無理だった。同機能を実現するソフトウェアの開発の糸口さえ見つからないとの報告を受け、松下はフェイジングテクノロジ社を買収することに方針を変えた。しかしまったく相手にされぬままに今回の失態だ。松下は報告書を紫檀のテーブルに放り投げると、壁に無造作に止められたフェイジングテクノロジ社員四人の写真を睨み付けた。

しばらくして松下は立ち上がり、先月の情報処理学会誌を書架から取り出した。付箋が付いたページを開くと「二次元平面画像のホログラフィー化」と題された宮部の論文が現れた。あのGRAPHASEを構築した宮部が新たに開発中のモジュールについての先行論文だった。

それは松下が喉から手が出るほど欲しい技術だった。


実沙と清美が私服に着替え、一階から上がってきた。宮部はイマジナリープレイヤーの電源を切った。「お先に」と清美、「あとは宜しくね」と実沙が言うと、オフィスを出て行った。

イマジナリープレイヤーの存在はまだ素也と宮部の二人しか知らなかった。


道場に着いた素也は一番目立たない駐車場の奥にMGを停めた。盗難防止装置を兼ねるロックをキーのボタンで操作すると、バザードが二回点滅し、ロック施錠を告げた。例えばトップの幌をナイフで切ってドアのロックボタンを引き上げると、ホーンが断続的に30秒鳴り響く。街中に駐車する必要がある時は、さらにハンドルロックバーをセットした。外さない限りハンドルを回すことは出来ない。

道場の玄関に入り、ロッカールームで道着に着替える。他の練習生や師範が素也に挨拶の声を掛ける。


素也も笑顔で挨拶を返す。素也には五つ上の拓也という兄がいた。拓也は素也をとても可愛がり世話を焼いた。素也も拓也が好きで、何をするのも一緒だった。学校が休みの時は朝から晩までくっついていたし、一緒に遊び、一緒に眠った。素也は拓也のすることはなんでもやりたがったし、拓也の物は何でも手に入れたがった。

素也と違い学校の成績が芳しくなかった拓也は高校に入学すると地元のボクシングジムに通い出した。小学生の素也はいつも練習について行きジムの隅で見学した。素也が中学校に入る頃、拓也はプロテストに合格した。

成長期の素也もボクシングに打ち込み、拓也の練習メニューを自力でこなすようになり、自宅では拓也の指導を受けた。それだけでは次第にもの足りなくなってきた素也は、ボクシングの専門書を買い込み、独学でトレーニングを改良し、パンチのコンビネーションの研究を熱心に行った。

素也が高校生になると、拓也は六回戦に進んだ。素也は事前に拓也の対戦相手になりそうな選手の試合を見に行き、相手を分析した上、拓也に助言をするようになった。

拓也は素也という斬新な戦略を持つトレーナーを得たばかりか、次第に強さを増してゆく優秀なスパーリングパートナーを同時に得て東日本新人王を取り、日本ランキングに名を連ねた。

しかし、日本王座には手が届かず、数回の拳の骨折に見舞われた後、素也が大学に入った年に拓也は引退した。拓也の引退と共に素也はボクシングに対する興味を急速に失った。素也にとってボクシングは結局拓也の為だけのものだったのだ。

拓也は素也のボクシングの才能に気づいていたが、決してボクサーになることを勧めなかった。素也の中に様々な可能性を感じていたからである。

現在拓也は素也の実家に住み山小屋風のレストランを経営している。パスタとオムライスが評判の店だ。五歳の娘を筆頭に三女の父でもある。


空手の道場は山岡市の中心部より南へ徒歩十分程の所にあり、移転した高校の古い体育館を利用して運営されている。その道場は、伝統派空手の流れを汲まず、新興の流派に属していた。伝統派空手が寸止めのルールを採用しているのに対して、防具、グローブの着用を認め、直接の打撃を許すフルコンタクトルールを採用していた。流派の宗家は素也と同い年だ。若くして分家を十二家、四十二道場を持ち、毎年夏に宗家のある隣県で分家を集め、選手五百人規模のオープン大会を開催する。ここ数年、素也の手によるウェブデザインシステムの成果が表れ、練習生や道場数は急速に増えつつある。

素也が構築したこの流派のウェブサイトは、新規訪問者に対して最適な道場を紹介し、練習内容を綴った師範のブログを公開していた。既存の練習生にはサイトのIDが発行されており、練習生の希望に応じてダイエットに適したトレーニングメニューや、昇級昇段審査に向けたトレーニングメニューを提示している。さらには、各道場が競い合うようにそれぞれのコミュニティスペースを立体的に形成していた。

宗家と素也は、素也が独立する以前からの知り合いだった。素也の会社の初の、記念すべきクライアントとなった宗家は、素也のシステム開発の取材の為、直系の道場の一つである山岡市の道場を紹介した。五年前の事である。会社を設立したばかりの素也は取材とは別に、個人的に道場に入門を希望した。宗家は月謝は要らないと言ってきたが、素也はそれでは続かないからと断って、正規の入会金と月謝を払い稽古を始めた。

まだ軌道に乗らない仕事のストレスを発散するように、素也は空手に打ち込んだ。この道場は月謝制で、平日なら毎日でも通っていいことになっている。

素也は山岡市に住む宮部と、もう一人の事務担当の当時のアルバイトを家まで送るついでに、毎日のように道場に通いつめた。ボクシングの基礎があり、山歩きで高い心肺能力は備えているとはいえ、最初の数ヶ月は辛い稽古だった。

基本トレーニングで慣れない姿勢を長時間とらされ、繰り返し演武の型の練習をして、足腰が言うことを効かなくなってきてから、自由練習では練習生から自由組手の相手を次々に申し込まれた。

硬式空手と名乗っているように、顔面にスーパーセーフを付け、拳サポーター、足サポーターで手と足を保護しての、寸止め無しのフルコンタクトルールである。胴には薄いプロテクターをつけても良いことになっている。が、黒帯以上は慣習的に胴サポーターは付けない。

練習生が尊敬し慕う宗家に特別扱いされ、会社を経営しているという素也に、十代後半、二十代の黒帯連中が口には出さないが反感を持ち、潰してやろうと次々と稽古を挑んで来たのだ。

ボクシングのスパーリングとそう変わらないだろうとタカをくくっていた素也は、初めての組手でその蹴りの威力に驚いた。両手で受けているのもかかわらず、まともに食らうと一瞬衝撃で視界が白くなるのだ。視神経の血液が衝撃で片側に集められる為だ。彼らはその瞬間を狙って一気に攻め込んできた。

毎日ぼろぼろにやられ、打身や打撲、時には骨にヒビが入るような怪我をしたのにもかかわらず素也は半年以上休まず通い続けた。それは連続組手で左手首を剥離骨折するまで続いた。

そして、骨折による休養をきっかけに、余分な脂肪が削げ落ち引き締まっていた素也の身体は次第に厚みを増すようになっていった。本能が衝撃に強い体を作るため、体重の増加を命じたようでもあった。

入門から二年かけて65キログラムだった体が78キログラムまで増え続けた。その間素也は誰にも負けない回数、サンドバックやキックミットを蹴り続けた。

体重が増えたにもかかわらず素也の体型はそれほど太くなった印象は無い。密度が濃くなったかのようだ。

衝撃に強い体を作り上げた素也は、強い蹴りでも難なく受け止めることが出来るようになった。体重の乗った正拳をボディにまともに受けても、十分に跳ね返せる強靭な鎧を体にまとった。そして、素也の突きと蹴りの威力とスピードは文字どおり破壊的になっていった。

たまに道場に顔を出す宗家も、キックミットで受ける相手を宙に浮かせかねないミドルキックや、自由組手で見せる、突きと蹴りの流れるようなコンビネーションを見るとしきりに感心し、素也に一切の指導をしなくなった。


強い意志で強い体を作り上げ、その体は素也に自信を与えた。どんな相手と静対しても委縮しないようになり、素也の中にわずかに残っていた頼りなさは影を潜めた。


すぐにいなくなるお客さんだと思われていた素也は、まわりの意に反して次第に道場内でも認められていった。後輩に慕われ、師範には頼りにされた。仕事が忙しくなるにつれ道場に通う回数は減ったが、それでも週二回はかかさず通っている。


五年間稽古を続けた結果、黒帯と指導員の地位、そして昨年、本部でのオープン大会での一般有段の部の優勝トロフィーを獲得していた。今年の弐段への昇段試験では、素也の十人組手の為にわざわざ他道場から精鋭が集められたにもかかわらず、気合いの充実していた素也は、十連続KOの素也自身の初段昇段を上回る記録で昇段を決めた。

そして、現在道場内で、自由組手で素也に本気で挑んでくるのはケンだけだった。


素也は道場の雰囲気が好きだった。帯を締めたとたんに引き締まる精神、礼に始まり礼に終わる練習風景、塩を盛られた神前、武道の持つ歴史の重み。

板張りの道場に一礼後足を踏み入れ、神前に進み、正座して深く礼をする。一分間の黙想の後、再び礼をして立ち上がる。ストレッチで体をほぐし、股割りを充分に行う。その後、すでに始まっている少年の部で指導をする。

一般の部は七時より全体練習開始となっている。一時間、移動基本と演武の型を行う。素也は指導と実践を交互に行う。

一見型は地味なように思われがちだが、回りを取り囲んでいると想定した敵を多彩な技で連続して倒す演武は有段者が行うととても迫力のある物となる。みっちりと型の練習を行うと、それだけで息が上がり、足腰は悲鳴を上げる。

八時から小休止を挟み、自由練習が始まる。練習生は引き続き型を行ったり、二人ペアになってのミット蹴りや、お互い取り決めをしての約束組手を中心に行う。指導員や師範が個別に指導する。二割程度女性の練習生も混じっている。そして希望者のみ、硬式ルールでサポーターと胴とスーパーセーフを付け自由組手を行う。

小休止を終え、ミット蹴りの指導を行なっていた素也に「押忍」と声をかけ、まだ若く鋭い眼光を持つ長身の男が側に寄ってきた。ケンだった。三年ほど前に入門してきたケンは、次第に頭角を現し、その組手の実力で道場内での地位を獲得していった。身長百八十センチ程度、体重は素也と同じく八十キロ程度だろうか、去年から黒帯を締めている。初段だ。

今年の宗家主宰のオープン大会で、有段高校生の部で優勝していた。素也以外とは殆ど誰とも口を利かない、寡黙な十八歳だ。

ケンの高校の後輩の話では、ケンはこの道場以外にもキックボクシングのジムに通っているらしかった。プロ志向が強く、来春にもキックボクシングでのデビュー戦が組まれるようだ。

素也も「押忍」と返し「いっちょやるか」と自分に気合いを入れ立ち上がり、キックミットを手にした。一辺が60センチ平方ぐらいの正方形で、厚さ20センチ程のウレタンの詰まった革製のキックミットを前屈の姿勢で構えると、即座にケンの重い蹴りが飛んでくる。ケンの立位置を見ながら、キックミットを上段、中段、正面、サイドと構える位置を変えてやる。

蹴る側もスピード重視、威力重視、連打とリズムを変えて蹴り続ける。

片側五十本、両足蹴ったら交代して、それを2セット行なった。ケンの蹴りは重い。ミットを突き抜けて直接体に衝撃が来る。打撃のポイントを奥に置いている。試合で点を取る蹴りではなく、相手にダメージを与える蹴りだ。キックミットをサイド奥深くに構えると、長い足を生かしたムエタイ風のしなる蹴りを折り交ぜてくる。上段まわし蹴りの威力だけなら間違いなく素也より強いだろう。

周りの練習生が足を止めて豪快な音を立て続ける素也とケンの蹴りを注視する。

「ますます強くなってきたな、上段だと倒されそうだ」

素也はケンに笑顔を向ける。

「まだまだですよ」

ケンは無表情で一言返す。

そのまま自由組手に入る。素也は他の練習生や黒帯とも組手を行なう。胸を貸し、打撃を受けてやる。これも重要な筋力トレーニングになっている。なにしろ打撃を受ける毎に力を入れ続けてなければならない。そして破壊され再生される筋肉細胞がさらに衝撃に強い身体を作り上げてくれる。実力のある相手に対しては、手足による受けをしっかり行ない、鋭く攻撃する。

ケンは素也以外とはめったに組手をしない。以前は行なっていたが、手を抜くことがうまくないので、ケンが強くなると共に、相手をする方が申し込まなくなってきたのだ。

素也でさえ、最近のケンの上達ぶりには舌を巻く。組手の相手をしたときに、少し気を抜いただけで、受け身一方の体制を取り続けなければならない時さえある。

素也が他の練習生と組手をしている間、ケンは素也の動きを睨み付けるように確認しながら、黙々とウエイトトレーニングに励んでいた。素也の体が空くと、すぐにやってきた。

「お願いします」

素也に声をかけ、一礼する。素也はスーパーセーフを外すと、息を整える間ケンに待ってもらい、そのあと近くにいた師範に立ち会いを頼んだ。フェイスタオルで汗を拭き取り、深呼吸するうちに身体中に気合いが漲ってくる。

再びスーパーセーフを付け、ケンと開始線に対峙する。互いに礼をし、構えて、師範の「始め」の掛け声で組手を始める。

通常の組手では、技が決まると審判が「やめ」と号令をかけ選手を分ける。開始線に立たせて技有りの宣告を行ない「始め」と再開の号令を掛ける。だが、素也とケンの場合はお互いの了解の上「やめ」なしに連続して組手を行なった。ポイントも採らない。2分の時間だけ計ってもらう。30秒の休憩を挟み、5ラウンド行なう。ケンの提案に素也が乗ったのだ。


絶対に負けない気迫を持てと道場主である師範はことあるごとに口にするが、素也はそんな物は信じていない。自由組手は肉体を駆使した創造性の勝負だ。どれだけ技のひらめきを持ち、自分の呼吸や筋肉を支配し、どこまで冷静さを保てるかが勝負の分かれ目になる。相手を倒すのではなく、自分を試すのだ。

この日の素也はケンに終始押されっぱなしだった。ムエタイ張りで高くアップライトに構えるケンは、打降ろしの左右のストレート、これも打降ろしのローキック、接近戦では、首相撲の膝で素也を責めたてる。

足にサポーターを付けているとはいえ、容赦のない蹴りが素也のわき腹を襲い、膝蹴りが鳩尾に打ち込まれ、骨が軋み、息が詰まる。顔面への攻撃はスーパーセーフを付けてはいるが、まともに受けると脳震盪を起こしかねないため、素也はケンの頭部への攻撃を慎重にかわし続けた。

慎重でさえいれば、頭部へのハイキックはすべて受けることが出来る。蹴りはパンチほど瞬間的にスピードが出ない上、軌跡が長いので、見極めやすいのだ。ハイキックを貰うのは、いいパンチを頭部に受けその衝撃が残っている時間に集中する。なので極力頭部へはパンチを受けないようにしなければならない。

ボディへの攻撃はスウェイバックでかわしたり、前に出て潰したりした。はた目にはケンの一方的な攻撃に見えるが。

素也は的確に受けながらフェイントを織りませ時折鋭いカウンターをヒットさせる。

4ラウンドを凌ぎきった素也は、最終ラウンド一分過ぎ、大きくフットワークを使い始めると、流れるようなコンビネーションを見せ始めた。

打撃で痛めつけられた筋肉が覚醒して、リズムに乗って圧倒的な打撃を開始する。素也の連続攻撃は見る物に高揚感を与える。道場中の視線が素也に集中する。そのコンビネーションは意表をつき攻撃は迅く止まらない。

素也は相手の攻撃をトリガーにしてコンビネーションを組み立てる。それは素也にとって考えるというより、拾い集めるという感覚に近い。脳裏にイメージとして近未来の連続写真のような物が同時に浮かぶのだ。それを一瞬で組み立て、再現することに素也は集中する。見事な、あるいは危ういシンコペーションに乗って、高速のコンビネーションがケンを襲う。

攻撃している間は鋭く、時には蛇のように暗く細い目つきをするケンが、素也のラッシュに合わせて、その目が見開かれる。ケンは素也の打撃を次第に受けきれなくなる自分を楽しんでいるようでもあった。少なくとも素也にはそう見えた。

素也のラッシュは相手がダメージを受けるまでか、素也の筋肉中の酸素が燃やし尽くされるまで続く。

そして、どんどん打撃の力を加算していくかのような素也の連続攻撃の前に、相手は受けきれなくなり、ついには膝をつくのだ。この日は違った。ケンは持ちこたえた。そして、ラウンド終了直前のケンの右ストレートに合わせて、満を持して素也が放ったダッキングからの左ローキック、左のダブルフック、右のミドルキック、左の前蹴りからハイキックへのスイッチ、そして体重を乗せきった右の返しのストレート。

一瞬の内にビートに乗って繰り出された七連打のコンビネーションをケンは見事に受け、凌ぎきった。フィニッシュの右ストレートはケンの両腕のガードを弾き飛ばし、ケンに尻もちをつかせるほどの威力を見せたが、素也にも、もはや余力が残っていなかった。

そして、そのまま組手は終了した。素也はケンの満足気なかすかな笑みをスーパーセーフ越しに一瞬かいま見たような気がした。

開始線に戻り、一礼後ケンと握手する。

「俺の負けだ」

手を握ったまま素也はケンに、顔を寄せて呟く。

「まだまだですよ」

ケンは手を振りほどきながら、ささやくように呟き素也に背を向ける。ケンの後ろ姿を肩で息をしながら素也は見つめる。


九時となり、一度全員で整列、正座後、神前に礼を行ない解散となる。希望者は自由練習を十時まで続けてよいことになっている。素也は九時半頃まで軽いウエイトトレーニングとクールダウンを行った。道場に一礼してロッカーを開けてバスタオルを掴みシャワー室に向かう。

軽くシャワーを終え、ロッカー前で着替えた素也は帯とサポーターをロッカーにしまい施錠する。道場受付に行きバスタオルとフェイスタオル、道着をクリーニングに頼む。道場に目をやるとケンがサンドバックを叩きながら、素也に鋭い目を向けていた。軽く片手を上げて挨拶しながらケンから視線を外す。玄関から外に出る。

MGに向かい、セキュリティロックをイグニッションキーでリリースし乗り込む。エンジンを掛け、ドアを閉めシートに深く掛け直し、シートベルトに手を伸ばすと身体中の力を入れた部分に激痛が走る。顔をしかめつつ、ゆっくりとMGを発進させ山荘へと向かう。途中、行きつけの中華料理店に寄って、ビールの誘惑に耐えつつタンメンの大盛りを頼む。夜十時過ぎにもかかわらず結構混んでいる。

カウンターの端に座った素也は、主人の調理を眺める。大量の野菜を切り、イカ、エビ、豚肉を炒めた中華鍋に切った野菜を入れ、油と強い火力でさらに炒める。スープを入れ大量の水蒸気と芳ばしい香りが上がる。

平行して太麺を二玉茹で、丼に塩味のスープを入れ、茹でた麺を丁寧になじませながら丼に入れる。その上から炒めた具を乗せる。

通常大盛りは一玉半なのだが、いつからか素也への大盛りは二玉になっていた。運ばれてきた大きく分厚い丼を引き寄せ、タンメンを食べ始めると、素也はケンの意志について考えだした。


あの強くなろうという意志、組手中素也に向ける強靭な意志、ストイックに自己を鍛える意思、それはどこから来ているのか考える。ケンの入門当初、ケンは真っ直ぐに素也の所へ組手の相手を頼みに来た。まるで素也を始めから知っていたかのように。

名前を尋ねた素也にケンは「ケンです」と言った。いぶかり「ケンジ、ケンタ」と尋ねる素也にケンは「ケンだけですよ」とそっぽを向きつつそっけなく応えた。その横顔は素也の頭の奥のどこかを刺激する物があった。

素也はケンを知っているという思いに駆られた。確かに見覚えがあるのだが、それがどこで見たことがあるのかは解らない。たまたま街ですれ違っただけかもしれない。

先月の宗家主催のオープン大会、今まで腕試しに参加してくる他流派の選手に優勝をさらわれることの多かった高校生組手の部でケンは底を見せない強さと危なげない試合巧者ぶりを同時に見せて初出場で優勝した。直系の道場からの優勝者が出たことを宗家は喜んだ。

無謀な捨て身の攻撃に出る選手が目立つ中、相手が見せる隙を冷静に観察するようなケンの戦いぶりが素也の心に残った。


今年の一般有段の部の優勝者より強いだろうというのが宗家や素也を含め、参加者、観戦者の意見だった。昨年の一般有段の部は素也が圧倒的に制していた。素也は今年は出場を辞退している。

タンメンを食べ終え、中華料理屋の主人に代金を払う。店の前に停めてあったMGに乗り込み、再度山荘を目指す。

めっきり交通量の減った夜の国道を進み、アプローチの山道を登りクラブハウスの前のロータリーに車を停める。昨日スピンしたコーナーはスピードを落とした。車から降り、灯の点いた玄関に進むと、数字錠を解除した。玄関を開け、自動的に点く照明に導かれるように中に入る。

思い出したように振り返ると車に戻り、Qちゃんを助手席から運び入れ、充電器と共にセットする。イグニッションキーのボタンでMGをロックしてから玄関の扉を閉める。寝室で靴を脱ぎ、サンダルに履き替える。そして、窓のセロテープをチェックする。不自然な箇所は見当たらなかった。

満腹感でアルコールへの欲求が薄れた素也は、ショートパンツとTシャツに着替えると、ズボンをハンガーに掛け、その他に着ていた物を洗濯機に突っ込む。やかんでお湯を沸かし、ティーポットにダージリンの葉を入れお湯を注いだ。ポットとカップをお盆に乗せて寝室に運び、歯を磨き洗面を済ませると、トイレを済ませベッドに腰をかけた。

紅茶を一杯飲み、読みかけの翻訳小説を開くが、なかなかページが進まない。佳子のメモを思い出し、携帯を手にとり時間を確かめ、佳子に電話を入れる。しばらく佳子の他愛も無い話を聞いてやる。佳子の甘え上手な声を聞いていると、心地よい疲れと眠気が素也を襲った。そのままベットに横になり、毛布を被りながら、適当に相づちを打ち優しい言葉を掛ける。

佳子に誘われるまま週末に逢う約束をして通話を終えると、数を数える間もなく深い眠りに落ちる。

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