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第1章 PT社 Wednesday September 29

水野素也はその日朝早く目覚めた。眠りも浅かった。家の外に出ると、台風17号が南の海上を移動しているはずなのに比較的穏やかだ。とはいっても時折湿った重い突風が吹き抜ける。自宅にしている山荘から素也のオフィスまで車で40分弱かかる。

天気が崩れる前にオフィスに着くように、いつもより早めに山荘を出た。しかし、オフィスに近づくにつれ次第に風雨が激しくなる。最後の山越えでついにワイパーが役に立たなくなり、路肩にルノーを停めしばらく待った。

ワイパーをオフにする。

車外の音は雨音にかき消され、ウインドウを叩く豪雨で全く何も見えない。

道路を川と化す激しい雨量。

遠くで聞こえる雷鳴。

永遠のような時間。

誰もいない助手席。

何分ほど待ったことだろう、しだいに雨が弱まってきた。世界は明るさを取り戻す。

素也はワイパーをセットし、クラッチを踏み込みギアをローに入れる。ハンドブレーキをリリースすると、クラッチミートのみで静かに車を発進させ、徐々にアクセルを踏み込みオフィスへと向かった。

オフィスに着くとオフィス部分の二階へと続く階段の前に車を停めた。セキュリティシステムは解除してあるようだ。通りに面した大きな窓のロールカーテンは開いている。すでに誰かが出社しているようだ。

素也はセキュリティゲートを抜け、階段を二階へと駆け上がった。ポプラ材製の分厚いドアを開ける。すでにグラフィックデザイナーの宮部が出社していた。素也をちらっと見るなり一言。

「おはようございます、今日は早いですね、社長」

宮部が驚くのも無理はない、素也はいつも十時前に出社するが、今日はまだ八時なのだ。

「おはよう」

素也は返事をした後、笑顔でこう付け加えた。

「なんだ、また会社にハードディスク持ち込んでいるのか」

宮部は

「ちゃんと仕事してますよ」

そう言った後、疑わしそうな素也の顔に気づくと、あわてて追加した。

「帯域制限掛けてますって。それでもここの方が家の回線より二桁速いんですよ」

「ネットワークの業務外使用は普通の会社だと厳罰物だぞ」

素也が上着を脱ぎながら言うと

「処罰があるからこそ喜びがある」

宮部は他人事のように呟いた。

苦笑した素也はヒーターからカップを取り出し、ソーサーに乗せてポットからコーヒーを注ぐ。ソーサーの端をつまんだままデスクに戻り、端末のディスプレイの電源を入れる。素也のログインネームを打ち込み、眼で追えない程高速でパスワードをタイプする。

メールに一通り目を通している素也に宮部が声をかけた。

「そういえば今日の車は静かでしたね」

「ああ、MGは日比野ガレージにドック入りだ。今日は代車のルノー」

「どこかぶつけたのですか」

「ただの整備だよ」

「社長の整備はただじゃないと思いますが」

いつもの出社時はMGに積んであるバッテリーの充電とネットワーク接続のため、オフィスの真下のスペースまでMGを乗り入れるのだが、今朝はその必要が無いので通り沿いの階段下にルノーを停めたのだ。もちろんMGとルノーでは音の大きさもずいぶん違う。

オフィスはコンクリートの打ちっ放しの一階部分の上に総二階の高さを持つログハウスが乗っているので、計三階建ての高さを持つ。一階部分はビルトインの三台駐車可能な駐車場部分と、洗面所、シャワールーム、キッチンとテーブルが置かれた休憩室がレイアウトされたフロア部分からなっている。このフロア部分は窓のみでドアはなく、二階から階段を下りなければ入ることができない。

駐車場の隅には社用車の白いカローラワゴンが停まっている。外装は地味で単なる商用車に見えるが、フルタイムの四輪駆動方式を持ち、エンジンを最終型レビンの物に積み替え、そのパワーに合わせて足回りを固めてある。カローラのチューニングも日比野ガレージで行なっていた。吸排気系のライトチューンとコンピューターチューンを施し、駆動軸前後にリミテッドスリップデフを入れ、ダンパーをビルシュタイン製に変えてある。後部座席を前に倒せば荷室で仮眠を取ることが出来るこのワゴンを、素也は仕事の足のみならずトレッキングのカーゴとして重宝していた。

ログハウスの玄関は正面階段を登った二階にある。階段入り口にシリアルキーを入力するセキュリティゲートがあり、セキュリティゲートが作動しているときはそこで入力したシリアルキーが認証されないとオフィスに入る経路はない。内部からは非常用に添えつけられているはしごをバルコニーから下げれば外に出ることは可能だ。

認証用のシリアルキーは社員であればオフィスのサーバーから発行を受けられる。シリアルキーは定期的に変更されていた。素也が変更のリクエストを行っていたが、安全のため変更後12時間以上経たないと、新しいシリアルキーは受け付けられないようになっていた。新しいシリアルキーでの認証後、古いキーは自動的に使えなくなる。

セキュリティゲートの他に、窓や駐車場にも防犯センサーが備えつけられていて、センサーは警備会社に直結している。

ログハウスは一部ロフトがある他は吹き抜けのワンルームで、大きな南面窓をもつ開放感あふれる空間となっている。ロフトからはバルコニーに出ることが出来るドアがある。ログハウスはフィンランドから直輸入したカット済みのログのキットを使って組み上げてある。ログの幅は50センチメートル程だ。

屋根には京セラ製アモルファス太陽光発電システムが組み込んである。内部は三十坪程のワンルームで、南側にホールがあり、打ち合わせ用のデスクセットが二セット置いてある。北側には磨いた流木を組み合わせて作った二十人は座れそうな大きなテーブルがあり、そこにめいめいが端末を配置してデスクワークをしている。

部屋の北側の一角には、コンピューターサーバー群がラックに積層状に差し込まれていた。そのサーバー群を背に、宮部はまるで王宮を守る門番のようにエコーネス社製の椅子に座っていた。宮部の趣味の問題ではなく彼の背筋力の問題だ。国産の事務用チェアだと背もたれ部分の留め具が数ヶ月しか持たないのだ。

「MGは日比野でどこをいじっているのですか」

宮部は憎めない性格なのだが、心配性で詮索好きなのが玉にきずだ。

「エンジンのオーバーホールと増し締め。何ごともなければ今日上がるはずだ」

「五十万コースかー」

実は先週末のアルテッツアとのバトルでタイヤに偏摩耗によるフラットスポットが生じたため、タイヤ四本の交換と、足回りはアライメントのチェックとハイドラガスサスの車高調整、さらには、吸排気系のチューンとパーツ交換による徹底的な軽量化も頼んであり、その二倍以上は軽くかかっているはずだ。そんなことを話すと宮部に何を言い触らされるか分からないので素也は黙っていた。

そういう宮部はトヨタのメガクルーザーというはた迷惑な車に乗っている。大きすぎてオフィスの駐車場には置けないので、裏の空き地に周辺の駐車場の相場で二台分の駐車場代を払って停めているはずだ。

メガクルーザーから宮部が降りてくると、たいていの人間は驚いた後、あわてて何も見ていない振りをする。

九時前になって、明るい笑い声と共に女子社員の実沙と清美が出社してきた。素也と宮部に「おはようございます」と言ったとたんに会話の続きを再開する。素也の横を通り過ぎる二人の口調は速く、会話の内容はとても素也には聴き取れない。そしてそのまま一階のロッカールームへ降りていった。オフィスが一気に明るくなる。振り返ると、雲の切れ間から朝の日差しがオフィスのホール部分に差し込んでいた。


素也の仕事は表向きにはウェブデザイナーで通しているが、根っからのシステムエンジニアだった。地方の国立大学で物理学を学び、量子力学を専攻した素也はプログラマになりたくて大手電気会社に卒業後入社、設計部に配属となった。

ベンダーが開発した高価な設計ツールより性能のいい設計ツールを独力で開発してしまう素也を見て、ベンダーとのもたれ合いを続けたい当時の上司は、当時それ程重要視されていなかったネットワーク事業部に素也を追い払った。

そこでウェブデザインの基礎を学んだ素也は、ページを個別にデザインするのではなく、さまざまな環境、例えば使用ブラウザやそのバージョン、受け手の回線速度、受け手の時刻、その日のローカルな天気などを基に、ページを自分で作り出してしまうシステムに独力で取り組み、完成させた。

そして、その技術を採用してくれたクライアントの勧めもあり、五年前、素也が二十八歳の秋に独立したのだ。

ハイパーテキストを手順に沿った決まり事ではなく、まるで物語を紡ぐように受け手に語りかける素也のウェブデザインシステムは徐々に注目を浴び始めた。

コーヒーを飲みながらホールで簡単な朝の引き継ぎと打ち合わせを行う。社員は素也を含めてこの四人だけだ。

グラフィックデザイナーの宮部とは、素也の独立後しばらくしてからの付き合いだ。その頃素也が趣味で公開していた山岳写真や高山植物のウェブページに仕掛けられたシステムに興味を示し、ネットを介していろいろ質問してきたのが当時大学院生の宮部だった。同じ県に住んでいる偶然を素也は喜び、すぐにオフィスに遊びに来るように誘った。

雑居ビルの二階の狭い当時のオフィスで、素也は宮部のグラフィック関連の専門知識の高さに舌を巻いた。そして画像データベースのアイデアを聞き、そこにマイルストーンを曳いた。宮部は大学院を卒業するまでアルバイトとして働き、卒業後はいつ潰れるか分からない素也の会社の一人目の社員となった。そして宮部のコネクションを使い、彼の大学から優秀な学生が素也の会社にアルバイトに来るようになった。

宮部はプロレスラーといっても十二分に通用する巨躯を持つ。その体つきに似合わず優しく細やかな男だ。

宮部は素也の会社に数百テラバイトの容量を持つ画像データベースを構築している。ファイル名やキャプションやリンク元からの情報はもとより、画像データーを展開し複素空間への写像として認識するエンジンを持つそのデータベースは、全世界に数千人の有料個人会員と、数十社の契約法人会員を持つ。さまざまな検索オプションにより、ネットニューズやウェブから必要な画像の一覧や情報を取り寄せられるのだ。

素也は独立後しばらくは正当な報酬を得る知恵や実績もなく苦労したが、宮部が入社した後は、彼の画像データベースと素也のウェブシステムを連動させることにより成功し、クライアントは次第に増え続け、三年前から売り上げが前年比で倍増し始めた。急成長に乗り、事務に実沙を雇い、現在の場所にオフィスを構えた。

実沙は布巾でオフィス中のテーブルを拭いて回り、花瓶の水を換え、活けられた生花の剪定をしている。入社時の履歴書が正しいとすると一週間後の十月六日で29歳になるはずだ。二年半前に入社した。ショートカットで黒髪、くせ毛なのかいつも毛先が跳ねている。大きな黒い眼を持ち、笑顔が似合う女性だ。

三年ほど前、素也が公開している山岳写真や高山植物の写真のウェブページに実沙が訪れ、素也とメールを重ねた後、中央アルプスの駒ヶ岳に一緒に登る約束をしてからの付き合いである。

素也は実際に会うまで実沙が女性だとは知らなかった。ハンドルネームやメールの文面からは同世代の男性という雰囲気しか感じられなかったのだ。素也が「トレッキングを兼ね夏の高山植物を撮りに駒ヶ岳に行く」とメールに書いたところ「邪魔しないので勉強させて欲しい」と返事が来たのだ。駒ヶ岳インター側のペンションに前泊した素也は、朝十時にロープウェイ駅に向かった。


待ち合わせ場所の駒ヶ岳ロープウェイ駅で、目の前に現れた実沙を見た時の情景を素也は今でも忘れない。素也は自分がすぐわかるように、右腕に青いバンダナを巻いておくと事前に実沙に伝えておいた。実沙は素也を見つけると手を振りながら駆け寄ってきた。

回りの情景が一斉に色を失い、実沙の笑顔だけが素也の視界に浮かび上がる。素也は実沙から視線を外せない。心に直接触れる実沙の声。「素也さん」と尋ねる実沙に素也は一瞬我を失った。

そして、何かの間違いではないかと実沙に話しかけた。ネット上での「ミー坊」というハンドルネームと、会話の内容や言葉遣いから、てっきり同年代の男性だと思い込んでいたからである。

うろたえる素也を見て「騙していてゴメン」と言いつつも、実沙はその状況を楽しんでいた。学生以来久々のトレッキング、そして久々の異性との出会いだったのだ。

実沙は隣県出身で地元の国立大学を卒業後、中堅の金融機関に就職し、当時の支店長代理とすぐに結婚したが一年後に離婚している。素也と出会ったのは、実沙が心身共にずいぶん落ち込んだ後の立ち直りつつあった時期、実沙が二十五歳の夏の出来事だ。


駒ヶ岳ですっかり意気投合した二人は、毎日のようにメールを重ねた。その中で実沙が会計士の資格を取るため勉強中であることを知った素也は、合格したら素也の会社に入社することを条件に、奨学金の名目で実沙の学費を負担した。

翌年合格後入社した実沙は、今や事務全般を一手に引き受けている。素也の投資は充分に成功したといえるだろう。


実沙はオフィスを訪れるクライアントから非常に受けがいい。どんな難しそうな相手も笑顔で心を溶かしてしまうようだ。

宮部の話では「こんな小さな会社の受付嬢にしておくにはもったいない」と何度も引き抜きの話があるようだ。

そして去年、それまでバイトで働いていた清美を、大学卒業を機に正社員として採用した。清美は十代のうちの六年間をボストンで過ごした帰国子女だ。フリルやレースの服に身を包み、ハイティーンのように見える。

フワッとしたロングヘアーで、柔らかな感じを周囲に振りまいている。キュートな声質を持ち、天然と回りから言われるようにとてものんびりと動く。一見仕事ができそうには見えないのであるが、原稿の英訳や英文の翻訳を速く正確にこなす。

英語力が抜群なだけではなく、元々文才に長けているのだ。彼女がアルバイトを数人使うようになってから、素也は味気ない翻訳ソフトを棄てた。

彼女が書くコピーは他人を幸せにする何かを持っていた。社内での文章を起こす仕事や、英語圏のクライアントとの連絡を一手に引き受けていたが、徐々にコピーライターとしての仕事も入るようになってきた。

難点は、アルバイトを引き連れて十時と三時にたっぷり一時間近い休憩を取ることだ。しかも紅茶と菓子を欠かさない。もちろん経費でだ。


打ち合わせが終わり自席に着いた素也に、向かいのデスクから実沙が話しかける。

「今日の予定は」

実沙の名刺の肩書きは経理や事務ではなく、社長秘書になっているはずだ。

「午前中はトレーサー。午後はMGが上がるはずなので、三時前には日比野ガレージに行かなきゃ。そして直帰」

素也が言うと実沙は

「素也さん、仕事の予定を聞いてるのよ」

と言い、いたずらを諫めるような表情を見せた。素也を社長ではなく素也さんと呼ぶのは実沙だけだ。

「MGに乗ることはおれの仕事」

素也が呟くと、実沙はしばらく素也を睨んだ後、視線を端末に向けキーボードを叩き始めた。

素也がスケジューラーを更新すると、素也の午後の予定は「彼女と久しぶりの熱いデート」となっていた。


午前十時になり、早番のバイトがちらほらと出社してきた。宮部と清美がそれぞれ仕事の指示を与えている。素也もここ数ヶ月間取り組み中のプロジェクトに取りかかった。IPを用いた遠隔操作システムだ。

素也はオフィスの片隅に向かい端末の電源を入れた。そして、数メートル前方の奇妙な物体にリモートログインした。その物体は、素也がトレーサーと呼んでいる、上半身のみの人型のロボットで、無線LANによって遠隔操作を行える。素也はトレースアプリケーションを起動し、センサーまみれの両肩まである長い手袋に両手を差し入れる。

素也が両手を動かすと、前方のトレーサーの両手が全く同じように素也の動きをトレースする。トレーサーの目の前には、古いパソコンが寂しげに置かれていた。

トレーサーの両目に仕掛けられたステレオカメラの映像を再生するゴーグル型のヘッドマウントディスプレイを素也が被って、その立体映像を見ながら目の前の架空のパソコンのキーボードやマウスを操作してみる。

ヘッドマウントディスプレイには素也の視線の向きを感知するセンサーが付いていて、トレーサーの両目のカメラはその視線の向きにカメラを向け、オートフォーカスのピントを合わせる。素也の視野には5メートル先のトレーサーの視界が再現されている訳であるが、何を見るかは素也の視線によって決めることが出来るのだ。あまり視線を動かすと微妙な遅れが映像に生じるので、極力視線を固定しながら両手を動かす。

ここ最近はトレーサーがキーボードのキーを壊すことも、マウスを握りつぶすことも無くなった。

「もっと演算速度を上げる必要があるな」と呟きながら素也がヘッドマウントディスプレイを外すと、いつの間にか宮部が素也の横に立っていた。

「社長、私ならそんなまどろっこしいことせずに、直接パソコンをいじる思いますけどね」

素也はトレーサーを自慢げに見ると満足そうに言った。

「今日のタイピングは素晴らしかった。ファイルのエディットも自由自在だ」

「リモートログインすれば済むじゃないですか」

「じゃあ、こいつの相手がパソコンではなくて、離れて暮らす宮部の彼女だったら」

宮部はしばらく考えていたが

「俺ならそんな物、絶対に彼女の側に置かないね」

そう言い残すと大股で自席に戻っていった。

トレーサーの機械部分と動画記録再生システムなどのエレクトロニクス部分は、ライン用ロボットで世界一のシェアを誇る大日工社に製造を委託している。大日工社製の家庭用掃除機のシステム開発を素也が担当したことがあり、少々の無理が効くのだ。もちろん、動かすためのプログラムはすべて素也が組み込まなければならない。週末には両足が届くはずだ。

「大無しモト君、きょうはおへそ曲げなかったみたいね」

実沙が清美に話しかけるのが聞こえた。トレーサーはすでに命名式を終えているらしい。


素也は昼食を食べ終えると、午後の予定を手短に済ませ、オフィスを後にしてルノーに乗り込んだ。暖機もせずに車道に車を向けると、県庁所在地でもある山岡市にある日比野ガレージへ向けハンドルを切る。ルノースポールの深いストロークのサスペンションを味わいながら車線変更を繰り返す。

ただ、どんなに吸い付くようなコーナリングを見せる車でも、リアの収まりが悪い前輪駆動車は素也にとってスポーツカーではない。

ルームミラーに目をやった素也は、二台後ろに紺のアリストが見え隠れするのに気がづいた。しばらく無視して車を走らせるが、わざと素也に存在を知らせるように蛇行する。

ブロンズのスモークガラスに遮られ、ルームミラー越しでは車内の様子は伺えない。日比野ガレージに着いた素也は車を路肩に停め素早く降り、振り返ってアリストを見た。アリストは直前の交差点で右折して行くところだった。太いトレッドを持つ後輪が、かん高いスキール音を響かせる。素也は運転手とナビシートの男の顔を目に焼きつけた。間違いない、あのアルテッツアの男たちだった。

「懲りない奴等だ。そして相変わらず趣味が悪い」

そう呟いた素也は、遠ざかってゆくアリストのナンバーを記憶し、日比野ガレージに入っていった。


オフィスでは実沙が愚痴をこぼしていた。素也の携帯に電話したら素也の机の上で携帯が鳴ったのだ。

「もう、車のことになると仕事のこと忘れるんだから」

宮部が実沙に尋ねる

「何か急ぎの用」

「内容証明付の封書が修報社から来ているのだけど、開けていい物かどうか。先方も急いでいるかもしれないし」

修報社というのは、外資系の商社を親会社に持つ広告代理店で、ここ数年ウェブビジネスに特化しており、その分野では高いシェアを誇る。修報社は自社に足りない技術を開発したベンチャー企業を、次々にM&Aの名目で買い取り、グループ企業化している。松下という三十代の若い社長がその指揮を取っていた。ただこのところ、ウェブビジネスでは素也の会社の方が先進的で技術的にも優れているという評価が業界に定着しつつある。

宮部は

「ほっとけばいいって。そこ最近うるさいんだ。社長もいろいろ困っているみたいだ」

「いろいろって」

「目に見えない嫌がらせがあるらしいんだ。会社の財務を調査されたり、なにか社長の周辺をあら捜ししているみたいな」

「そういえば素也さん、最近よくこのオフィスの回りを点検しているみたい」

「実は、先月社長と二人で修報社に行って来たんだ」

「知ってたわ。で、なにを話したの」

「単なる顔合わせさ。もっとも先方はもっと話したいことがあったみたいだったけど」

アルバイトが資料を手に宮部の所に質問しに来たので、その話はそこで終わりとなった。宮部は質問に答えた後、腕を組み身を堅くして守るべき対象を頭に思い描いていた。


宮部が初めて素也のウェブサイトに訪れたときの衝撃は今でも忘れられない。


宮部は柔道の道場主である父の元、柔道少年として育った。恵まれた体格を武器に中学生の頃には県下で敵はおらず、特待生として県下有名私立高校に入学した。そして高校三年生の時にはインターハイ個人戦県代表に選ばれた。しかし時を前後して膝を故障し、受験勉強を開始、二浪の末に地元の国立大学の工学部に合格し、そのまま大学院に進んだ。

今は膝も治り、トレーニングも継続的に続けているため、まるでラグビーのフォワードのような均整の取れた体系を保っている。身長百九十センチメートル、体重百十キログラムで、日に焼けた精悍な顔を持つ。

情報工学を大学院で専攻し、学院生当時、少年相手の柔道の指導員と家庭教師で学費を捻出していた宮部は、ヘビーなネット中毒者でもあった。ネットに散在する綺麗で刺激的な画像は彼の視神経を大いに刺激した。

宮部は写真集や雑誌の写真には全く興味がなかった。写真を掲載しているウェブサイトもあまり覗かなかった。何を見ているかというと、alt.binaries系のネットニューズ中心だった。

自宅のアパートでローカルなニューズサーバーを常時立ち上げていたのだ。サーバーは接続回線から自動で世界中のニューズグループをダウンロード後、次々にバイナリデーターを切り出し保存していた。その頃、宮部の部屋は書き込み済みのDVDで溢れていた。

宮部は世界中に配信されているニューズグループの画像を毎日何千枚も見ていた。とは言っても、一枚づつ見ていたわけではない。詳細な解像度で画面表示させたナナオ製の32インチのモニターに、自作のアプリケーションで画像を一度に50枚のサムネイルを敷き詰めて表示させ、受信順に50枚ずつ一度に表示を切り替えさせていたのだ。

50枚を一つの絵のように全体的に眺め、気になった画像のみクリックでオリジナル画像を拡大表示させた。これは、世界中の名も無きカメラマンが撮った大量の写真群を先入観無しに受け入れる為だった。そして、短時間で数多くの画像を見ている内に、さまざまなことを考えた。

気に入って拡大表示させ保存する画像と、まったく見過ごしていく画像の差を。

何故脳は一度見て気に入った写真をずっと覚えていられるのだろう。

そして、コンピューターデーターの数値では全く違うのに、何故同じレンズ、同じカメラで撮られた絵を脳は関連付けられるのかを。

画像の分類や関連付けを自分の脳はどうやって行っているのかを。

答えの出ないまま宮部は苦しんだ。その仕組みが分かれば『見なくても』画像の分類が出来ると考えたのだ。

自分の視界を代行して画像を分類保存してくれる画像データベース。


そんなデータベースを構想中、宮部のサーバーが受信中のニューズグループの一つであるalt.binaries.pictures.fine-art.miscに流れた一枚の花の画像に、宮部は目を奪われた。投稿者から出典を聞き出し、たどり着いたのが素也のウェブサイトだった。

「信州駒ヶ岳ファンサイト」と名付けられたそのページは、宮部の目を覚ますのに充分な内容を持っていた。駒ヶ岳を斜め上から写した全景がトップページにあるグラフィック中心のそのサイトは、素也が開発中の物を含め、素也のウェブデザインシステムの実験室の様相を呈していた。

マウスの動きに反応して、グラフィックスがストレス無く切り替わり、登山道や稜線を辿ることが出来る。上を向いたり振り返ったり、視点を変えながらマウスの動きに追従して再生出来るのだ。高度や緯度、経度がリアルタイムに表示され、時刻の設定に応じて太陽や月や星までレンダリングされる。

尾根で周囲を見渡すと、中央アルプスの山並みが再現され、路傍にポインタを合わせると、そこは高山植物の一大図鑑となっていた。そしてクリックでポップアップ表示する写真こそ、宮部の探していた写真群であった。

マクロレンズでとられたその写真群は、植物図鑑に載っているような上からの平面写真とはまったく異なっていた。絶妙に配置された構図中で、花びらが自然光を受け透けて重なり、瑞々しさを発散している。花弁はあくまでクリアで、茎は刺のような毛に被われ、水滴が滴った葉は、葉脈を浮かび上がらせ、その向こうの深い青空に溶け込んでゆく。背景はさまざまな自然の色が溶け合うパレットとなっていた。

宮部は朝までその写真群から目を離すことが出来なかった。そこに存在するのは驚きというより、呼吸する度に、視神経を通じて全身に染み渡る穏やかな気持ちのいい世界だったのだ。

一枚一枚が精緻な絵のような写真群に感化され、宮部は高価な最新のデジタルカメラを用いて身近な植物を撮ってみたが、似たような絵は撮れても決して到達できない根本的な違いを感じるだけだった。謎が解けずに悔しがる少年のように、宮部は答えを求めて、ウェブマスターである素也にメールを書いた。すると素也からノータイムで「一度会いましょう」とのリプライが届いた。そしてその週末には素也が独りで立ち上げたばかりの会社の事務所で二人は顔を合わせていた。

その出会いは宮部の将来を決定づけることになった。


初めて顔を合わせた二人は、その対格差もあって、宮部の一方的なペースで会話は始まったのであるが、一時間もすると、素也の優しい笑顔と深い洞察力の前に、宮部は自分の身体が一回り体が小さくなったように感じた。

いつのまにか宮部は、初対面の素也に、誰にも話したことがない自分の画像データベースの構想を話し始めていた。

宮部の構想を素也は絶賛した。そして、卒業まででいいので是非ここで開発をしないかと宮部を誘った。二つ返事でオーケーした宮部は、卒業までの一年間アルバイト代を貰いながら、画像データベースの構築に取り組んだ。素也は宮部のフォローをしながら宮部から紹介されたアルバイトを使い、会社を軌道に乗せるよう奮闘した。

一年経たず、宮部の画像データベースはベータ版が完成した。その画像データベースは画像のGraphicと光の位相のPhaseを合わせて、GRAPHASEと命名された。その画像認識のエンジン部分は解析的に複素函数化され、宮部の博士論文に使われた。そして、宮部の大学院博士課程卒業と素也の会社への入社を待って、正式版としてネットに公開されたのだ。

それを期に素也は会社の社名を「フェイジングテクノロジ」へと変更した。


宮部は知っていた。完成した画像データベースのコアの部分部分には必ず素也の斬新な発想が埋め込まれていることを。

初対面で宮部の画像データベースの構想を聞いた素也は、瞬時に『ホログラフィー理論』に言及した。


一九四八年にハンガリーの物理学者デニス・ガボールによって発明されたホログラフィーとは、まず物体にレーザー光などの波長の位相が揃った光の束を当て、物体により散乱された物体光と、当てた参照光を干渉させ、その干渉縞をフィルムに記録する。この干渉縞が記録されたフィルムをホログラムと呼ぶ。そして、物体を取り除き、その縞模様しか写っていないホログラムを記録した場所に置き、フィルムに参照光を当てると、物体が有った空間に立体像が再現されるという現象を指す。


そして、素也はそのホログラムをどんなに細かく分割して光を当てても、解像度が落ちるだけで、全体像が変わらす再現されることを雑談のついでように語った。これがホログラフィー理論である。

その言葉を聞いた瞬間、宮部の中で明確なコンセプトが形作られた。


脳は視界をまったく違う形で保存している


その日から宮部の一日は、その具現化に費やされることとなった。行き詰まると素也がさりげなく問題点を指摘し、演算方法の簡潔な解を示した。

そして、ビットマップを色情報と明るさに分解し、フィルタリングを繰り返し、複素空間へ投影された形で分類保存することにより、宮部の構想した画像データベースは誕生した。そして、それらの演算の変換式を改良することにより、検索のスピードは確実に上がっていった。


そして現在、GRAPHASEの著作権はすべて宮部のものとして保護され、関連特許は二桁に達し、そのロイヤリティも会社へのサーバー使用料を引かれた状態で宮部の収入となっていた。それは入社四年後の今、宮部のサラリーの数倍にもなっていたし、今後も増えるはずだ。

社員になって二年程経った頃、自分の収入が社長の素也より明らかに多いのを知り、評価を見直してくれと素也に相談したことがあった。すると素也は

「そのGRAPHASEの技術は誰がなんと言おうとお前の物だ。それと連動することによって俺のウェブデザインシステムが新しい意味を持ち、顧客が増える。胸を張って受け取れ。そしてしっかりメンテナンスをしてくれ」

そう宮部に言った。事実、そこから素也の会社は急成長したのだ。


日比野ガレージに着いた素也は、顔見知りの社長の嫁さんと挨拶を交わす。その後世間話をするが、もっはら素也がからかわれる立場だ。まるで自分の息子に話しかけるように、素也の結婚相手の心配をする。話が一段落するのを待ち、MGの整備が終わっているかを尋ねた。

一転、興味無さそうに「社長に聞いて」と言われた素也は、裏手の整備工場に向かった。そこでアイドリングされている素也の愛車である白いMGを見つける。社長の日比野がその姿を見つけ、素也に大またで近づきながら話しかけた。

「水野さん、さっき上がったよ。ベンチマークではネットで百六十馬力出てますよ」

MGのタイプFすなわちMGFはノーマル仕様で百二十馬力だ。MGFには、バルブの開閉タイミングを回転数によって可変にするハイパワーモデルも有るが、機構が複雑でチューニングに向いていない。しかもオイル漏れなどのトラブルを起こしやすい。

MGFは、乾燥重量一トンそこそこの車重と、ミッドシップレイアウトによるバランスのよさで、体感的にはノーマル仕様でも十分のパワーを持つ。絶対的な速さを比べたら国産の同一排気量のスポーツタイプの車より遅いだろう。が、圧倒的に違うのはそのスポーツマインドだ。何万キロ乗っても飽きることがない。

スパルタンな内装、雰囲気たっぷりのエンジンの始動感、図太くも上品な排気音、アクセルペダルを踏み込んだときの挙動、オンザレール感覚のハンドリング。素也はMGから日比野に、視線を移しながら答えた。

「お疲れさん、特に問題は無かったですか」

「これ以上ですと過給器をビルトインすることになりますが、ちょっとスペース的に苦しいね」

「ありがとう、もう充分だと思う」

素也は日比野から手渡された作業書に目を通す。クラッチとブレーキは昨年セミレーシングタイプの物に交換済みなので、今回のチューンアップはタイア交換に足回り調整、エンジンのオーバーホールに伴い、吸排気系の徹底したチューンとエンジンパーツの軽量化、剛性アップのための、シャーシ増し締めとボンネット内にタワーバー追加となっていた。ボディ各部の軽量化と相まって、スペック的には街を走るMGの中ではトップクラスだろう。

日比野はボンネットを開けてスペアタイヤ部分を占めるブラックボックスを顎で指して言った。

「このバラストがね。まあ、しょうがないけど」

「そのために軽量化してもらったんだから。あ、請求書は私書箱にね。この前みたいに会社だとまた皆につるし上げられるから」

「お互い苦労が絶えませんな」

事務所を窺いつつ苦笑する日比野に素也は代車のルノーのキーを返すと、すぐざまMGに乗り込んだ。計器類を確認しながら日比野に声を掛ける。

「走行距離が二百キロも増えてるよ」

「丁寧にチューニングしたもんで」

悪戯を見つかった少年のような笑顔で日比野は応えた。

シートベルトを締め、ハンドルに手をかけメーターを再度見つめる。アイドリングは一千回転弱で多少ばらつきがあるものの、不安はない。

そのままギアをローに入れ、車を発進させた素也は、クラッチを繋いだ瞬間、今までとは違うトルクの出方に驚いた。日比野がその様子を、意味有りげな笑みを浮かべ見つめている。シートから腰に伝わる力が鋭く太く、そして滑らかになっているのがすぐに体感できた。エキゾーストノートもさらに図太い。日比野に目で挨拶すると素也はMGを山荘に向けた。


走り出してすぐにセンターコンソール中央におさまっている車載コンピューターに手を伸ばした。メインスイッチをオンにすると、前面の液晶パネルが起動を知らせる。常駐プログラムを立ち上げ、認証プログラムのログイン待ち状態で止まった。ここまで電源を入れてから二十秒程。パネル前面には液晶パネルの他、USBとVGAの各ポート、そしてメインスイッチが配置してある。

日比野がバラストと呼んだボンネットに収まっている重しは、車載コンピューター用のバッテリーとノイズ対策を施した電源装置だ。ACインバーターを装備しているので電化製品を使うこともできる。それらをパッケージに固定し、スペアタイヤを外して取りつけてあるのだ。

トラックポインタ付のミニキーボードを助手席後方から取り出し、USBケーブルを液晶横のコネクタに差すと、ログイン後ジュークボックスとナビゲーションシステムを起動させた。キーボードを助手席に放り出す。

ジュークボックスは車載コンピューター内蔵の音楽データーをプレイヤーアプリケーションを通してランダムで掛け続けるプログラムだ。自分の好みのキーワード入力で、適当に選曲してもらうことも出来る。たまに外すのが楽しい。

ナビゲーションシステムは通常外付けのカラー液晶ディスプレイをVGA端子に差し込んで見るが、前面液晶パネルだけでも数値で現在の緯度と経度、進行方向を知ることが出来る。市販の地図データーにGPSハンディナビゲーションを連動させているのだ。


素也は国道を山荘に向けて走った。途中郊外の大型ショッピングセンターに寄り、切れかかった雑貨や調味料を買い込んだ。一旦車に戻り荷物を置き、リアトランクからクーラーボックスを取り出すと専門店街に向かった。専門店街には地元で採れた自然食品を扱っているテナントが入っていた。そのテナントに寄り、自分の母親ほどの年齢の店主と雑談を交わしながら数日分の食料品を選ぶ。レジでクーラーボックスに買い込んだ食料品を仕舞い、その上に氷をお店の製氷器からスコップで放り込む。

駐車場にクーラーボックスを抱えて戻る。MGのトランクを開けクーラーボックスを入れるとトランクを閉じた。そして再度車を山荘に向ける。

直線道路でのストップアンドゴーだけでもパワーアップは体感できた。三千回転で一度むずがるものの、そこからは一気に吹け上がるようだ。走行中に後ろに手を回して、リアのウインドーを固定しているファスナーを片手で開け、フロントウインドウ上の左右のフックを外し、片手でトップを跳ね上げオープンにする。

オープンにすると、二十キログラムほどの重さのあるトップが折り畳まれ、ミッドシップに配置されたエンジン上部に収まる。そのため低重心となるだけではなく重量配分も改善され、ピッチングは体感出来るほど減少する。


素也はオープンで走ることが好きだった。青い空、白い雲、緑の山の中を移動していく自分を感じとることが好きだった。台風一過の空は澄みきっていて、見慣れたはずのどの風景を見ても新鮮で瑞々しい。風と光の中で素也の精神は徐々に弛緩していった。


心地の良い風を受け、背後から聞こえるMGのエンジンノートとエキゾーストノートのハーモニーに包まれながら、素也は修報社の事を考えた。

松下は毎週のように、素也の会社との合併計画書を送ってくる。計画書の表題は「修報社グループへの誘い」とあるが、体のいい乗っ取りである。代表権は素也に無くなり、会社に帰属する特許と共にその技術は自由に使われる。買い取り額は時価総額に準ずるとあるが、素也の会社は未上場なので実際の株券の価値は誰にも解らないはずだ。素也は当然その提案を無視していた。

しかし、素也のクライアントに対して修報社からディスカウントされた引き合いがしつこく入るようになり、新規クライアントを契約締結寸前に横取りされたケースも出てきた。そして、最近、オフィスの回りになにかいやな雰囲気が漂い始めている。先週末のアルテッツアとの一件も修報社絡みだとの確信が素也にはあった。送られてくる合併計画書もより具体的な書類になってきている。

修報社の本社は東京にあるが、それは形式的なもので、実際は山岡支社が本部である。先月半ばに素也と宮部は修報社の社長の松下と修報社の山岡支社で会っていた。松下の手段を選ばぬやり方に業を煮やした素也が、松下の招待に応じたのだ。

素也は一人で行くつもりでいたが、行き先を知った宮部は有無を言わさず素也についてきた。


三十代後半の社長の松下は、小柄で痩躯、鋭い神経質そうな目を持ち、冷酷な印象を持つ男だった。松下は社長室社員と紹介した部下を二人背後に従えていた。いずれも修報社の応接室の外で見かけた普通の社員とは全く異なる雰囲気を発散させていた。人気の無い通りですれ違いたくないタイプの男たちだ。松下が順に紹介した名前と顔を思い出す。加藤と島田と呼ばれていたはずだ。痩身で鋭い眼の方が加藤、丸刈りでワイシャツのボタンが弾けそうな方が島田だ。そこに素也につきまとうアリストの男たちを加える。素也は他人事のよう呟いた。

「さあ、どうしたものか」


修報社の社長室奥の部屋で、松下がフェイジングテクノロジ社の報告書を眺めていた。この部屋は社長室を通らなければ入れないので、殆どの社員はその存在を知らない。

小さな部屋ではあるが、落ち着いた調度品とシンプルなソファーセット。壁一面の書架には修報社と松下の勝利の歴史を彩る戦利品の数々、今後手に入れるべき物のファイル、オンラインに出来ないデーターを納めたサーバー。

松下は先月初めて会ったフェイジングテクノロジ社の男たちのことを思い出していた。社長室を隔て隣の会議室で瞬きもせず自分を見つめる男たち。

先週末、社長室長の長村と松下の運転手でもある正木から、素也の挑発に乗った挙げ句、車を全損させてしまったという報告を受けてから松下の機嫌はずっと悪かった。二人から状況を細かく聞き出した松下は、腹心二人が素也に全く子供扱いされたことに驚いた。


交渉力に長けた松下は、フェイジングテクノロジ社社長の素也を学生気分が抜けないベンチャー起業家だろうとたかをくくり、すぐに買収に応じ修報社の傘下に組み入れることが出来るだろうと考えていた。そして、説得の役立つように、他の社員が隠れてトラブル室と呼んでいる松下直属の社長室の社員のうち、法外な行為、主に暴力沙汰を得意とする加藤と島田を従え会見に臨んだ。

強面の二人は、松下が社長就任と同時にどこからか連れてきた松下子飼の社員で、その経歴や人脈は修報社の社員からでさえ恐れられていた。二人は、松下の命令を受けトラブルを解決したり、時にはトラブルを起こしたりするのが仕事だった。

自信を持って会見に臨んだ松下だったが、実際にフェイジングテクノロジ社の二人が会議室に入ってくると松下の様子は一変した。冷房が利いている室内にもかかわらず、松下はしきりにハンカチで汗を拭った。素也と宮部と会議室で差し向かい、二人の静かな迫力に圧倒されたのだ。背後で睨みを効かしている部下を順に紹介しても、二人の表情は全く変わらなかった。


一人はウエーブのかかった髪に自然な日焼けをした肌、穏やかな表情ではあるが、鋭い眼光は松下を捕えて放さない。身長こそ普通だが、チャコールグレイのスーツに隠された体型は強靭そうだ。シルエットからは分厚い胸板が伺える。そして、膝に置いた両手の拳はまるで堅い岩のように見えた。

もう一人は、とてもビジネスマンには見えない。総合格闘技の選手か、特殊部隊の教官のようだ。天井に届きそうな長身。

歩くと押しのけられた空気の流れを感じさせるような存在感を伝えてくる。

短く刈り揃えられ鋸の刃のように固められた頭髪と、薄い不精ひげが、精悍な表情を囲んでいる。白い開襟シャツに落ち着いた茶色のチノパンツに同色のジャケット、ノーネクタイだ。膝を掴んだ両手はグローブのようだ。加藤と島田を余裕たっぷりに見据えている。

屈強な二人の男を前にして、松下はまったく交渉のペースを失い、話題は世間話の域を出なかった。ようやく松下が持ちかけたM&Aの話を素也は全く無視し、続けて提案された業務提携の話を無下もなく断わり、会見後の接待の話も笑顔で黙殺した。

そして、二人は無言で席を立った。予備動作無しに一瞬で椅子から立ち上がる素也のスピードを目にした松下は、素也に掛ける言葉を飲み込んだ。


プライドを傷つけられた松下は、二人が帰ると直ちに社長室全員を会議室に集めた。松下の右腕である社長室長の長村に素也と宮部の身辺調査を命じ、松下直属の運転手である正木に、長村のフォローを命じた。そして、その他の社長室社員にフェイジングテクノロジ社の徹底的な調査を要求した。

会議室で宮部に挑発された島田は不満顔で松下に文句を言った。

「何故俺たちにあいつらをやらせてくれないんですか」

島田は短躯ではあるが、体重は百キロを越えている。牛を擬人化したような男だった。

「お前たちは面が割れている」

そう松下が言った後、手元のファイルから実沙と清美の写真を取り出し、テーブルの上を滑らせた。二枚の写真は島田の目の前で止まる。


会議室を出た後、島田が加藤に言った。

「社長、今回はずいぶんご執心だな。あんな小さな会社なのに長村室長まで駆り出すとは。正木は自慢の車まで出すみたいだぜ」

長村は紳士然としているが切れ者で、松下の信頼も厚かった。正木は車に乗っていれば幸せというタイプの男だ。

「余程欲しい物があるんだろう。我が儘だからな」

長身の方の男、加藤は鋭い眼を島田に向けるとそっけなく答えた。そしてさっき会議室で睨み付けていた二人の男達の顔を思い出していた。


迫力充分ではあるが分かりやすい宮部は置いておいても、つかみ所のない素也にかすかな違和感を加藤は感じていた。一筋縄では行かないのではないかと。

それから二週間後、加藤の懸念は素也を追った長村と正木の滑落事故という形で現実となった。


素也の山荘は、人里離れた山奥にある。毎日その山荘で過ごすのでそこが自宅に当たるわけだが、住民票ではオフィスが現住所になっている。住民登録していないので、宅配便も郵便も来ない。なにしろライフラインが来て無い。辛うじて携帯の電波が届くだけだ。

オフィスのある羽鳥市と日比野ガレージがある県庁所在地の山岡市と素也の山荘は、地図上では一辺が約20キロメートルの正三角形を形成する。羽鳥市と山岡市はJRの鉄道で八駅目、快速で18分の距離だ。山岡市から国道を30分ほど北上すると、見落としそうな場所に山荘に続く山道の入り口がある。そこから私有地の道路を山を反時計回りに半周するようにクネクネと登ると、素也の山荘に着くのだ。

国道から山荘に向かう分岐に着いた素也は「この先私有地に付き立入禁止」と朱書きしてある看板の横にMGを停めた。

一度車を降り、トランクからゲージを取り出すと、すべてのタイヤのトレッドと空気圧をチェックして再度MGに乗り込んだ。

ここから山荘まで登りで二キロメートル、短いがMGのパフォーマンスをチェックするには充分だ。三千回転ほどでクラッチを一気に繋ぐと、一瞬のホイルスピンの後リアタイヤが路面を掴み、け飛ばされるようにMGは発進した。七千回転まで引っ張りセカンドにシフトする。さらにフルアクセルを与えるとあっと言う間に最初のゆるい左コーナーが迫ってくる。

加速しきれていないのでエンジンブレーキのみで減速し、ハーフアクセルでコーナーのクリップポイントをかすめ、アクセルペダルを微妙に踏み込むと、荷重が抜けロールしていた後輪が沈み込み、車体にトラクションがかかる。修正舵を切りつつ、斜めに直線を立ち上がり、サードにシフトアップ。

ゆるい右高速コーナーをフルアクセルで抜け、タイトな左コーナーのアプローチでフルブレーキングしながらギアをニュートラルでクラッチを繋ぎ踵でアクセルを煽りさらにセカンドにシフトダウンする。ステアリングを切り込み、アクセルペダルをべた踏みする。

回転を合わせて繋がれたクラッチは、ストレス無くクランクシャフトに動力を伝え、リアタイヤが路面を噛み、MGは獲物に飛びかかる姿勢でフル加速に移った瞬間、リアが激しくスライドし、素也の頭上の景色が回転する。

コントロール不能に陥った素也は衝撃に備えMGの運転席で身を固くしていた。何もすることが出来なかった。カウンターを当てたにもかかわらずスピン状態のMGは回転しながら短いストレートに沿って数十メートル滑って次の右コーナーに突っ込んでいった。

幸運なことに、コースアウトした右コーナーはちょうど路肩の土砂が側溝を埋めていて、さらに土砂の傾斜に乗り上げることにより衝撃のショックが吸収された。

シートベルトを外し、外に出てMGの後部に回り込むとアンダースポイラーが砂に乗り上げ、右のマフラーは泥で埋まっていた。が、車体の損傷はなさそうだ。

歩いて滑ったコーナーに戻ると、なるほど、大量に砂が撒いてあった。しかも、アスファルトと同じ色に見えるよう、スプレーによる装色がなされていた。タイトなコーナーの為、それほどスピードが出ていなかったのと、滑った場所が登りだったので助かったが、素也の表情は厳しい物になっていた。


木の枝で、マフラーの泥を丁寧に取り除き、MGを再スタートさせた素也は注意深く回りを見回しながら、ゆっくりとMGを進めた。人の気配は無い。五分ほど登ると山荘が見えてきた。

道路の終点は石畳のロータリーになっていて、そのロータリ横にクラブハウスが立っている。クラブハウスの玄関部分は屋根がロータリーに突き出している。素也はその屋根の下にMGを停めると、ロータリーとクラブハウス周辺を丹念にチェックした。

クラブハウスは建坪四十坪程の平屋の建物で、石組みの土台に、ログと白壁を組み合わせてある。玄関を入るとすぐに暖炉付のメインのホールがあり、右手に広い水回りと奥にプライベートルームがあるシンプルな作りだった。

数年前にゴルフ場開発が頓挫し、開発用のアプローチの山道と、建設中のクラブハウスだけが残された。素也はそのクラブハウスを借財人から借受け、自費で改装して去年の春から住んでいる。

開発再開か用地転売の時は出て行かなければならないが、その兆しは今のところ無かった。もし将来、フェイジングテクノロジ社の株式が公開されたら、ここを敷地ごと買い取るつもりだ。

シリンダー錠を信用していない素也は、玄関の閂にかけられた数字の書かれたボタンを押し込む方式の錠前を外すと玄関を開けた。この数字錠は、シンプルながら錠前師でも簡単に開けることは不可能だ。それに、暗くても指で探って数字を押し、ロックを解除することが出来る。

大理石の床のホールにそのまま靴で入り、キッチンを抜け、スライドドアを開け、書架とベットと机のみ置かれた寝室にしているプライベートルームに入る。クローゼットを開け中を覗き、窓を確認する。すると掛け金式のロックが外れている。

誰かがこの部屋に入って、何かをしていったのだ。


素也は無くなっている物がないか見て回った。貴重品は置いてないが、時計や食器、無造作に置いてあるアンティークのアクセサリーはそれなりに高価な物だ。何も無くなってはいなかった。室内も荒らされた様子は全く無いので被害届を出すことも出来ない。が、素也はすべての物が微妙に場所を変えているような感覚に陥った。

素也はクラブハウスのすべての窓を開け、充電機の上で微笑んでいるなつかしいアニメの主人公に似たオバケ型の掃除機のスイッチを入れ、掃除機に向かって声をかけた。

「連れていかれなくて良かったな、Qちゃん」

そして、背中のメインスイッチを入れた。

この掃除機は、電機大手の大日工社が開発中の試作機だ。大日工社は一昨年、その動作と外観を非公式に外部に公募しコンペティションを開催した。素也は仕事の予定を空けると、試作機を借受け、猛然と開発を行なった。そして、応募したプログラミングが優勝したため、試作機を譲り受けたのだ。コンペティションの賞品は、全自動掃除機の製品用プログラム独占開発権だった。

他の応募者が掃除のスピードや正確さを競う中、素也のプログラムは明らかに他の応募者とは趣が異なっていた。使用者を楽しませることに主眼をおいたそのプログラムは、カオス理論を応用し随所に予想を裏切る動きを盛り込んだ。動作はダイナミックで、たまに考え込んだり、首を振ったり、円を描いたり、同じ部屋でも二度と同じ経路は取らないようにした。

愛敬のあるその風貌と共にその動作は審査員の注目を一手に集めた。もっとも宮部は、優勝の要因が掃除機をQちゃんの外観に改造した自分の力だと回りに自慢げに話していた。

Qちゃんはまず時計回りに部屋の壁に沿って一周し、その空間を認識する。このときドアを開けているとそのまま外に出ていって家の周りを回り出すので注意しなければならない。キッチンと寝室を回って元の充電器まで帰ってきたQちゃんはしばらく掃除のルートを考えた後、家具を避けるため誇らしげにターンしながら掃除を開始した。

充電式のためコードはなく、そのスカートの下は、ブラシが回転し、ハイパワーで埃や砂を吸引する。排気は十分吸塵されてから後頭部のメッシュの部分から排出される。Qちゃんが掃除をする様子を見ながらしばらく考えていた素也は、この掃除機を侵入者に応対させる案を思いついた。侵入者に向かって立ち向かう笑顔のQちゃんを想像していたら、素也の気分は次第に明るくなっていった。


ライフラインが来て無いこのクラブハウスを素也は半年を掛けて整備した。まずボーリング屋を雇って井戸を掘り、地下水を組み上げるポンプを取りつけた。回りに人口物は無く自然の森林なので、雨水が土に染み込み、濾過された良質の天然水の水脈がすぐに見つかった。

地下水の汚染を防ぐため、生活排水はバクテリアで有機分解を行うバイオタイプの浄化槽で処理し、綺麗な水のみ地上に還した。生ゴミは鳥や小動物の餌になったし、その他のゴミは吸塵装置付の焼却炉で燃やした。

小型のソーラーパネルを36枚、山の斜面にマトリクス型に取りつけた。それぞれのパネルは、自力で黄道を追いかけ上下左右に角度を変える。太陽が出ているときはインバーターを介して交流電力をポンプに供給する。

ポンプは地下水を井戸から汲み上げ、山頂近くの大きなタンクに溜める。

そして、そのタンクの水を必要な分だけ排出することにより水位差を利用して小型のタービンを回し電力を作り出している。排出した水は上水にも使われ、その残りの水はクラブハウス脇を素也が掘り起こして石を敷き詰めた水路に沿って蛇行し、斜面下に設けた人口の池に溜まり、あふれた水から森に還ってゆく。

太陽光発電と水力発電の連携により、年間通じて電力の遮断が起きないよう素也は慎重にシステムの設計をした。太陽光が遮断されても、タンクに水がある限り電力の遮断は起きない仕掛けだ。

が、夜の間も暖炉で暖を取り、ランプの灯りを楽しむ素也にとって、電気はさほど重要ではない。現在大幅にシステムの発電する電力量が素也の使用量を上回っている。ただ、破綻しないシステムを作り出し、自ら試すことは素也のライフワークなのだ。


素也は玄関を空け、MGのトランクリッドを開き、クーラーボックスを取り出すと、缶ビールの六本パックをクラブハウスのキッチンの横を流れる水路に浸した。残りの食料品を大型の業務用冷蔵庫に詰め、古い消費期限切れの食品がないかチェックした。

雑貨をそれぞれの場所にストックした後、オフィスと連絡を取ろうとして携帯を探し、オフィスに置いてきたことに思い当たった。苦笑しつつ寝室の机の引き出しに置いてあるプライベート用途の携帯を取り出す。オフィスの実沙に電話して携帯を預かってくれるよう頼んだ。

何か急用があればこの番号に頼むと言い残し、携帯を切り、ふと気になって発信履歴に目を通す。すると今日の昼過ぎに一件の発信履歴があった。番号を見ると相手も携帯のようた。この携帯の番号はすでに何者かに知られているようだ。素也は携帯を寝室の机の上に置いた。

シャツとズボンを脱ぎ下着姿になった素也は、キッチンの勝手口を開け外に出た。水路を隔て野晒しになっている煉瓦造りのジャグジーの階段を登り、バスタブを洗い出した。埃や砂を流すだけなので洗剤は使わない。洗い終えると十人はいっぺんに入れそうなジャグジーにお湯を入れ始める。

キッチンに戻り、オーブンを加熱しておき、冷蔵庫から小振りのチキンを一羽取り出すと、腹部に野菜やスパイスを詰め込み、全面に塩を軽く擦り込み、オーブンに入れて焼き始める。醤油とみりんと酒と砂糖で照焼き風のソースを作り、アスパラやレタス、トマトを切り分けボウルに盛り冷蔵庫に仕舞う。

シャワー室に行きボディシャンプーで汗を落として、洗顔後洗髪する。バスタオルで頭を拭き、そのバスタオルを腰に巻いてキッチンに戻り、オーブンを開け、ソースをハケでチキンに塗り、弱火で焼き直す。

ランプに灯を入れて回り、外に出ると、缶ビールを三本水路から取り出し、ジャグジー脇に携帯用ランプと共に置き、お湯を止める。お湯の温度を確かめ、手桶で水路の水を入れてぬるめに調整した後、バスタオルを近くの木の枝に掛け、ジャグジーに体を腰まで浸す。ジャグジー外側の煉瓦を一個くりぬいた内部に設置してあるスイッチで気泡とジェット水流の勢いを調節する。そして、缶ビールを手に取るとプルトップを開け、一本目のビールを一気に飲み干す。

残りのビールはのんびりと口に運んだ。

日が落ちたばかりの紫から蒼にグラデュェーションしていく空、眼下に見え始めた山岡市の信号や街の灯や行き交う自動車のライトを眺め続けた。しんしんと音を立てて暗くなってゆく背後の森林の声を聞きながら、さまざまに色を変えながら暗くなってゆく世界にしばらく体を浸す。


すっかり暗くなった後、ジャグジーの栓を抜いてから立ち上がり、バスタオルで体を拭いた後ランプを手にキッチンに戻った素也はまず寝室に行き、トランクスとTシャツを身に着けた。

キッチンに戻り、シャワールーム横の全自動乾燥機付洗濯機に今日着ていた服とバスタオルを突っ込み、スイッチを入れる。

冷蔵庫からラップしてある米を取り出し、電子レンジで温めた。オーブンからチキンを出し、ボウルに盛った生野菜と共にキッチンのカウンターに並べ、夕食に取りかかった。

ウエストに余分な脂肪が付いてないため着やせして見える素也は一見華奢に見えるが、鍛え抜かれた筋肉を身にまとっている。身長百七十三センチメートル、体重は七八キログラム前後といったところだ。胸囲は軽く1メートルを超えている。

基礎代謝が高く、胃腸も丈夫なため、旺盛な食欲を示す。週末の山歩きと、足しげく通う空手の道場のトレーニングによって、三十三歳になった今でも体型は研ぎ澄まされ、筋肉のカットは鋭い。

食事を終え、一息ついた素也は、後片づけに取りかかった。オーブンの皿を洗い、残ったチキンをスライスしてタッパーに詰める。食器を食器洗浄器に突っ込み、スイッチを入れる。

カウンターを拭き、クリスタルのショットグラスにスコッチのグレンフィディックをなみなみと注ぎ、フラスコに蛇口から地下水を注いだ。グラスとフラスコをお盆に乗せ、寝室に戻る。机の上の携帯をマナーモードにする。

窓を開け放ち、寝室をランプの光で満たし、スコッチを啜りながら読みかけの翻訳小説に取りかかる。時折フラスコの水を口に運ぶ。もう少し寒くなってきたら暖炉の前がこの時間の素也の定位置となる。


十一時前に眠くなった素也は洗面所に向かった。素也の動きを先回りするように、足元が照らされる。床と壁の間が数センチ空いていて、その奥に設置されたセンサーが素也を捕え、センサー横の白色LEDが順に点くようになっているのだ。柔らかい間接照明のフットライトはまるで素也が懐中電灯を照らしているかのような揺らぎを見せる。

歯を磨きトイレで排尿し部屋に戻る。すると、振動音が聞こえてきた。机の上の携帯が細かく振動している。携帯を手に取ると、画面に今日の昼の発信履歴にあった番号が浮かんでいた。しばらく携帯を睨んでいた素也は、通話ボタンを静かに押した。

素也は無言で相手の出方を伺った。しかし、相手も無言だ。が、確かに相手の気配は感じられる。誰かが電話の向こうにいる事が形となって素也にははっきりと理解出来る。

突然電話は切れ、話し中の電子音が静かな部屋の中に鳴り響く。電話を切ってその音を部屋から追い出した素也は、しばらく考えてから携帯の電源を切り、ランプの炎を吹き消すとベットに横になった。今夜も浅い眠りになりそうだ。

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