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昆虫学者 柏木祐介の事件簿

冬の蝶

作者: 船田鏡介

気鋭の昆虫学者が数々の難事件に挑む!

柏木祐介の事件簿、シリーズ第一話。


紫外線を見、超音波を聞き取り、かすかな匂いやフェロモンを嗅ぎつける……。

昆虫こそが最高の捜査パートナーだった!


【登場人物/レギュラー】

 柏木祐介(三十四歳) 昆虫学者 東京大学応用昆虫研究室の准教授

 前園弘(三十二歳)  警視庁の鑑識官

 堂島健吾(四十五歳) 警視庁捜査一課の警部補


【登場人物/第一話】

 青嶋薫子(六十一歳) 被害者 デザイナー

 山倉肇(六十三歳)  青嶋の主治医

 蓮実武志(四十七歳) 舞台監督

 堀田浩二(二十七歳) マジシャン

 村上朋佳(三十四歳) アシスタントデザイナー

 若松孝太郎(六十五歳) 薫子の夫 不動産会社の経営者


   プロローグ


 これからご覧いただくのは、気鋭の昆虫学者、柏木祐介氏が解決した難事件の記録である。彼の本業は言うまでもなく昆虫の研究であり、犯罪の真相究明にこれほどの適性と才能を示すとは、当人も意外だったに違いない。

 最初の事件を解決した時は、これはたまたま昆虫が犯行に用いられたごく(まれ)な事例であり、警察の捜査に協力するのは一度限りの出来事だろうと彼も私も考えていた。ところが実際には、彼が解決した事件はすでに六件に及んでいるのである。

 柏木氏は研究者の本能に基づいて、それぞれの事件に関する克明なノートを残していたが、もとよりそれは断片的な覚え書きにすぎない。せっかくの興味深いエピソード、彼の見事な推理が世の人々に知られることなく埋もれてしまうのは重大な損失だと考えて、私は彼の活躍を文章にまとめることにした。

 ここに書かれた内容にはいささかの誇張も脚色も(ほどこ)されていないことを、改めて強調しておきたい。したがって、私が何者であるかはさほど重要ではない。それについては、この記録を最後まで読み通してくださった方にだけ、そっとお伝えすることにしよう。

 柏木氏の人となりや来歴については、個々の記録を通じて明らかになるだろう。ここでは彼の風貌を簡単に説明するだけに留めておくことにする。顔立ちは端正で、美男だと言っても構わないだろう。頭の回転は恐ろしく速いが、ユーモアのセンスもある。一七二センチの身長に対し、体重は六十キロそこそこで、いくぶん痩せている。ただし、頻繁にフィールドワークに出かけるので、脚力は強い。眼鏡はかけておらず、裸眼で左右とも視力一・五、体長一ミリ以下の種も多い寄生バチの研究にはうってつけだというのが自慢だ。色白だが日焼けに弱いのが弱点で、強い日差しを浴びると肌がすぐ真っ赤になってしまう。夏場の外出には日焼け止めと帽子が手放せない。

 趣味はチェスと音楽鑑賞、それからカプセルトイのコレクションだ。先日も、カレハカマキリの造形に一目(ひとめ)()れしたと言って、擬態(ぎたい)昆虫のカプセルトイ全五種を大人買いしていた……。

 前置きはこのくらいで十分だろう。彼の功績と才能が、一人でも多くの方々の知るところとなれば幸いである。


   冬の蝶


 二〇二三年一月二十八日、青山のイベントホールでは、春夏オートクチュールのファッションショーが行われていた。ブランド名は〈メゾン・カオルコ〉。一片の蝶の翅を身体に巻きつけたような斬新なデザインのドレスが観衆を魅了し、ファッション誌のライターや評論家の居並ぶ記者席では、次のようなささやきが交わされていた。

「しかし驚いたな。青嶋薫子、奇蹟のカムバックだ」

「ああ、心臓発作で活動を休止して二年か……。我々も観客も今回のショーには好意的だったがね、まさかこれほどの出来とは」

「六十一歳で、モチーフの蝶さながらの大変身ときた。さすがはファッション界の女帝。恐れ入ったね……」

「今期のコレクションは、メゾン・カオルコがダントツだな」

「ああ」

「お、いよいよフィナーレだ」

 管弦楽用にアレンジされたサティのジムノペディ第一番が流れる中、クロアゲハをモチーフにしたドレスを身に纏った青山薫子が、満面の笑みとともに観衆の前に進み出た時、風に弄ばれる枯葉のようなものがひらひらと舞い降りてきた。

 それは一匹の、黒いアゲハチョウだった。

「真冬に本物の蝶とはね。凝った演出をするじゃないか」

 頭上でちらつく黒い影に気づいた薫子は、スポットライトの光を右の掌でさえぎりながらいぶかしげにそれを見上げ、不意に表情をこわばらせた。

 蝶はなぜか執拗に薫子にまとわりつき、顔面蒼白となった彼女は周囲の目も忘れて、狂ったように両腕を振り回し始めた。すでにアゲハチョウの出現が演出ではないことは明らかで、困惑した観客のささやき声が次第に広まっていった。

蝶はひらりと薫子の手をかわすと、ふいに彼女の唇に留まった。と、蝶に生気を吸い尽くされたかのように、両腕がだらりと垂れ、彼女は白目を剝いて仰向けに倒れた。

 舞台袖に控えていたスタッフ達があわてて駆け寄って介抱したが反応はなく、薫子の持病の心臓病を心配してショーに同行していた主治医が、心臓発作による死亡を確認した。

 マスコミや世間が事件に好奇の目を向けたのは言うまでもない話だが、警察の調査結果を受けてテレビのワイドショーなどの報道は一気に過熱した。蝶の翅に猛毒のトリカブトの粉末が付着していたことが判明したのだ。


 東京大学応用昆虫研究室の准教授、柏木祐介がゼミの討論を終えて研究室に戻ると、彼のデスクの電話が鳴った。

「はい、柏木です」

 電話は代表電話の受付からで、警視庁から外線電話が入っているとのことだった。

「わかりました。とにかく回してください」

 回線が切り替わり、低音で響きの良い、中年男性の声が聞こえてきた。

「警視庁捜査一課で警部補をやっております、堂島健吾と申します。突然電話を差し上げたりして、申し訳ありません。驚かれたでしょう。それで、電話の用向きなんですが、青嶋薫子というデザイナーが急死した件はご存じでしょうか?」

「ええ、新聞やSNSで話題になっていますね。クロアゲハが唇に留まったら心臓発作を起こしたとか……」

「その通りです。どうやら犯人は蝶を思いのままに操って薫子を殺害したらしい」

「殺害?」

「ええ。被害者は心臓病を患っていましてね。その上、大の蝶嫌いだった。アトリエにモンシロチョウが舞い込んだくらいでも大騒ぎだったそうです。ですから、今回の心臓発作は何者かによって意図的に引き起こされたに違いない」

「なるほど……」

「そこで、気鋭の昆虫学者、柏木准教授にぜひとも助言をいただきたいと、こうしてご連絡させていただいたという次第です」

「僕でお役に立てるのなら、もちろん協力させていただきます。ですが、僕の専門は寄生バチで、蝶の生態にそれほど詳しいわけではありません」

「ええ、それは存じております。実は、柏木先生を推薦したのは、うちの鑑識の前園弘という者でして」

「前園って、あの薬学部の?」

「そうです。東大のチェスサークルでご一緒したとか」

「ええ、大学の団体対抗戦で優勝したんです。いやあ、懐かしいな。彼、元気でやっていますか?」

「なかなか有能で、皆に一目置かれていますよ。ただ、あやしげな毒薬を世界中から買い集めてましてね。取引相手がうさんくさい連中ばかりだから、しょっちゅう税関ともめるんですよ」

「ははは、彼らしいな」

「彼に今回の件で相談に乗ってくれそうな専門家に心当たりはないかと尋ねたところ、柏木先生ほどの適任者はどこにもいないということだったんです。昆虫学者としての知識だけでなく、比類のない〈読み〉の力も、捜査の助けになるに違いないとね」

「素人の僕にそんな……、彼の買いかぶりですよ」

「いえ、読みの組み立て方から、他の部員とは全く違っていたということでした。あいつはオタクですが、研究者としての目は確かだ。そこは信用しています。どうでしょう、ここは彼の顔を立てて、お引き受け願えませんか?」

 柏木は小考の後に答えた。

「わかりました。どれだけお役に立てるかわかりませんが、お手伝いさせていただきます」

「助かります! いやあ、有難い」

「いえ、お話をうかがっているうちに、僕も事件に興味がわいてきました。では明日」


 翌一月二十九日の昼過ぎ、柏木は東大弥生キャンパスの研究室を出て、千代田線根津駅から地下鉄を乗り継いで青山一丁目に着くと、青山通りを事件現場のイベントホールに向かって歩いた。昨夜来の雪まじりの雨はすでに上がっていたが、プラタナスの街路樹の骨ばかりの枝先からは、冬の昼下がりの日差しを受けた雫が時折したたり落ちていた。

「冬の蝶、か……」

 柏木は緩みかけたマフラーを巻き直しながらそうつぶやいた。

 ホールのエントランス前の道路には、屋根に回転灯を載せた捜査車両が二台停められていて、呆れるほどの人数の報道陣に取り囲まれていた。

 もっとも、これらの車両はいわば囮で、事件関係者は警察側が用意した車でホール裏手の搬入口から入場を済ませており、柏木もまた、手はず通りホールの裏手で待ち受けていた案内役の若手刑事に導かれて、誰にも気づかれることなくホールに入ることができた。

 甲田と名乗った若い刑事は、柏木を堂島がいる舞台に案内しながら、会場の造りを手短に説明した。

「こちらがスタッフとモデル達がいた楽屋、隣の小さいほうの部屋は青嶋薫子が控室として使っていました」

「彼女は一人で?」

「ええ、アシスタントデザイナーの村上朋佳が時々出入りしたそうですが、基本的には一人でいたようです」

 柏木が舞台袖に着いた時、堂島は照明の当たった舞台の中央で、現場検証のために集めた人々と言葉を交わしていた。四十五歳、空手二段の猛者で、身長一八〇センチ、体重八五キロの頑健な体躯の持ち主だ。

「ああ、柏木先生、お待ちしておりました。皆さん、こちらが東京大学応用昆虫研究室の柏木准教授です。ご承知のように今回の事件はアゲハチョウと重大な関係がありますので、専門家のご協力を仰ぐことに致しました」

 堂島は快活にそう言って柏木を招き入れると、順に関係者を紹介した。

「こちらが薫子さんの主治医の山倉さん」

 山倉は頭髪も口髭も銀色で、かなりの高齢に見えるが、実際には六十三歳だった。

「山倉肇です。よろしく」

「柏木祐介です」

「それから、チーフアシスタントの村上朋佳さん。今回のデザインやメイク関係のスタッフは薫子さんのカムバックのために急遽招集された方々ばかりで、以前から薫子さんをサポートしていたのは彼女だけです。勤続十三年のベテランだ」

「村上です。よろしくお願い致します」

 村上朋佳は一礼して顔を上げると、しばらく柏木の目を見つめた。黒々としたロングヘアーに、日焼けした彫りの深い顔立ち。黒目勝ちの目と引き締まった口許が、意志の強さを感じさせる。

「舞台監督の蓮実さん。十五年以上、薫子さんのファッションショーの演出を手がけてこられました」

「どうも、蓮実です」

「こちらはマジシャンの堀田さん。薫子さんのアイデアで、ショーのインターバルでマジックを披露することになったそうです」

「堀田です」

 堀田浩二はふてくされた態度でしぶしぶ頭を下げた。二十七歳の新進マジシャンで、この場ではが最年少だった。

「刑事さん、この現場検証ってやつ、どのくらいかかるんですかね? 明日は福岡で仕事なんで、今日中に移動しないとまずいんですけど……」

「いや、そうお手間は取らせません。一通りの事実確認さえできれば十分なので」

 堀田は堂島の答えに納得した様子はなく、無言でトランプをもてあそび始めた。

「あとはあちらに……」

 堂島はそう言いながら中央の客席の方に向き直ると、苦り切った表情で彼らを見つめている初老の男性を指し示した。

「薫子さんの夫、若松孝太郎さんです。ご自身で別の会社を経営されていて、ショーの関係者ではありませんが、薫子さんのことを最もよくご存じなので、検証に参加していただいています」

「彼は昨日もこちらに?」

「ああ、ここに座っていた。始めから終わりまでだ」

 若松は腕組みをしたまま、いらだたしげに一言だけ答えた。リゾート開発を手がける不動産会社を運営しているが、強引な手法は非常に評判が悪い。身に着けているのは濃紺の地に極太のストライプが入ったダブルのスーツ。デザイナーの夫にこれほどふさわしくない服装も珍しい。青嶋と若松はどちらも三度目の結婚だったが、不仲なことは周知の事実だった。

「で、堂島さん、これは殺人事件なんですよね?」と、舞台監督の蓮実がしびれを切らしたように言った。

「まだ断定はできません」

 堂島はなだめるように答えたが、蓮実はさらに食い下がった。

「いやいや、彼女は心臓病で、しかもひどい蝶嫌いだった。彼女に蝶をけしかけて、発作を起こさせたやつが犯人に決まっている。で、ここに集められた我々がその容疑者ってわけだ」

「ああ、それなら僕は無関係ですね。薫子さんが蝶嫌いだなんて、まったく知らなかったんだから」

 同意を求めるように周囲を見まわした堀田に、蓮実は皮肉な笑いを向けた。

「気の毒だが、そうはいかないね。誰かに依頼された可能性がある。マジシャンなんだから、蝶を操るくらいわけないだろう。だいたい、ファッションショーにマジシャンが出るなんて、妙な話だ。出演が決まったのも急だったし……」

「言いがかりはやめてもらいたいね。僕を呼んだのが薫子さんだってことは、あんたも知ってるじゃないか!」

「ふん、こいつは俺を疑っているのさ。お前を薫子に紹介したのは俺だからな」

 若松が客席から蓮実をにらみつけながら言った。

「そんな、冗談じゃない」と、堀田が甲高い声で叫んだ。

「まあまあ、我々は事実確認を行なっているだけですから、どうかそのへんで」

 堂島が割って入ったところに、鑑識官の前園が、三角形に折ったパラフィン紙に入れた黒い揚羽蝶を運んできた。

「柏木先生、ご無沙汰しています」

「同じサークルにいた仲間じゃないか、先生はよしてくれ。堂島警部補にもお願いします。ゼミの学生だって、僕を先生なんて呼びませんよ」

「わかりました。では柏木さん、早速ですが、これが問題の蝶です」

 前園はそう言いながらピンセットを使って蝶を取り出し、小さな丸テーブルの上に敷かれたガラス板の上に置いた。通常のクロアゲハやカラスアゲハと比べるとやや小型で、後翅に白い斑点が帯状に並んでいる。

「死んでいるね。寒さにやられたか……」

「騒ぎが一段落した時、舞台の隅に落ちているのを捜査中の警官が見つけました」

「種類はお分かりですか?」と堂島が柏木に尋ねた。

「シロオビアゲハですね。雄だ。昨日メールしていただいた画像であたりはつけていたんですが、間違いありません」

「どんな蝶なんですか?」

「日本では南西諸島に生息している蝶です。沖縄の八重山諸島だと年中見かけるそうです。幼虫がシークワーサーの葉などを食べるので、害虫と見なされることも多いですね」

「シークワーサーか、沖縄らしいな」

「アゲハチョウの仲間は、幼虫が柑橘類の葉を食草とするものが多いんです。それで、沖縄だとシークワーサーが餌にされてしまう」

「なんにせよ、この季節でも比較的容易に入手できる蝶なんですね」

「ええ、今回この蝶が使われた第一の理由はそれでしょう」

「他の理由としては?」

「それはまだ何とも。この蝶は、雌に毒蝶のベニモンアゲハに擬態しているタイプと、擬態していない通常型と、二つのタイプが存在していることで有名なんですが、これは雄だし……。ところで前園君、翅からトリカブトが検出されたそうだけど、心臓発作との関係は?」

「ありませんね。付着していた全量を経口摂取しても、致死量の十分の一にもならない。少しばかり吸い込んだところで、逆に強心剤になったくらいのものでしょう」

「トリカブトって薬になるのか? それも心臓の?」と堂島が意外そうに言った。

「ええ、漢方薬としてよく使われますよ」

「毒と薬は紙一重ってやつだな……」

「しかし、なぜトリカブトが蝶に? それも、毒にもならないほど微量の。もっとも、あのやり方で口に入る量なんて、どうせ高が知れている……」と、柏木は首を傾げながらつぶやいた。

「村上さん、蝶嫌いの薫子さんが、なぜ蝶をテーマに選んだんですかね?」

「それは私にはわかりません。でも、あくまでデザインですから、実際の蝶とは関係ないんじゃありませんか?」

「そういうものですか……」

「彼女、子供のころ蝶にさわって、鱗粉にかぶれたせいで苦手になったんだそうです。実物でなければ平気だったんじゃないですかね」と蓮実が言った。

「薫子さんはいつごろから心臓が悪かったんですか?」と柏木が山倉に尋ねた。

「心臓に先天性の小さな欠陥があって、若い頃から不整脈による動悸や息切れに悩まされていたらしい。悪化したのはこの十年。加齢とストレスのせいだろう」

「先生はいつから薫子さんの主治医を?」

「二年前の心臓手術の後、彼女がリハビリを始めた時からだよ。私はこの近くで内科クリニックを開いていたんだが、ちょうどその頃、長男に跡を継がせてね、自分は古馴染みの患者の往診に専念することにしたんだ。その古馴染みの一人が、彼女のことを相談してきたというわけさ」

「主治医として、彼女のカムバックをどう思われました?」

「もちろん反対したよ。デザイナーなんて、ショーが迫ってくれば徹夜が当たり前の激務だ。心臓疾患を抱えて耐えられるはずがない。村木さんのような優秀なスタッフがいるんだから、当初の予定通り、社長業に専念すればよかったんだ」

 堂島が若松に言った。

「話が戻りますが、堀田さんは若松さんの紹介でショーに参加したんですね?」

「ああ、()()と飯を食っていた時、インターバルで客の気分転換になりそうなアイデアがないかと言うから、展示会のイベントで受けが良かった堀田の話をしたんだ」

「なるほど……。堀田さん、念の為にうかがいますが、マジックで蝶を使うことはおありで?」

「使いませんね、生き物は扱いが大変なんです。おまけに、こんな季節に蝶だなんて……。とにかく、僕のパフォーマンスは全部動画サイトに上げてますから、確認するならそちらをどうぞ」

「そうそう、記録的な再生回数だそうですね。是非とも拝見しなくては。ところで、蓮実さん、堀田さんの出演は、薫子さんの発案でショーの直前に決まったということでしたね。段取りを変更したり、間に合わせるのが大変だったんではありませんか?」

「まあ、彼女の気まぐれはいつものことですから」

「なるほど、長年一緒に活動してこられたからこそ、対応できたわけですね」

「ああ、こいつらの関係は長いぞ。俺と()()の結婚期間よりずっと長い」

「長いと言ったって、年二回、ショーの演出を引き受けているだけだ」

「本当にそれだけならな……」

下種(げす)の勘繰りはやめてもらいたいね。若松さん、別居して五年にもなるのに、まだ未練が?」

「おい、俺を怒らせるなよ」

「どれだけ権力をお持ちか知らないが、刑事さんの前で人を脅すというのはねえ、あまり賢い振る舞いとは言えないんじゃないかな」

「くそ、こいつ……」

 若松が歯噛みしながら黙り込むと、堂島が柏木に声をかけた。

「柏木さん、そろそろ薫子さんの控室に行きましょうか。村上さん、申し訳ありませんが、我々と一緒に来ていただけますか? 当日の彼女の行動をチエックしておきたいんです。

 堂島は残りの人々の方に向き直って言葉を続けた。

「すみません。他の方々はもうしばらくこちらでお待ちください」

「どうぞご勝手に」

 若松が大げさに肩をすくめながら答えた。


 青嶋薫子が使っていた控室は六畳ほどの広さで、壁に取り付けられた大型の鏡の前に、幅約二メートルの机と革張りの黒い肘掛け椅子が置かれているだけだった。

机の上には使ったままの状態のメイク道具と、ストローの入った細長いジュース用のグラスが残されていて、薫子があわただしく舞台に出ていったことをうかがわせた。

「このグラスは昨日のまま?」と柏木は前園に尋ねた。

「いえ、レモンジュースが少し残っていたので成分を調べました。異物の混入はなし。ごく普通のジュースです」

「ジュースを出したのはあなたですね?」と堂島が村上に言った。

「ええ」

「薫子さんの注文で?」

「いいえ、喉が渇いていらっしゃるご様子でしたので、私の判断でお出ししました。レモンは疲労回復に効きますし。近くの喫茶店に出前をお願いしたんです」

「ジュースを出した後もここに?」

「いいえ、ドレスの着付けをお手伝いしたあと、私は先に舞台袖に戻っていました」

「そのままカーテンコールまで? 青嶋さんを呼びに行かなかったんですか?」

「ステージの進行はBGMでわかりますから。アップテンポの曲がフェードアウトしたらカーテンコールの合図です。そして、先生が登場すると、サティの曲が流れる」

「なるほど。それで、蝶が飛んでいるところはご覧になりましたか?」

「ええ、先生はひどく驚いたご様子でした」

「薫子さんが蝶嫌いだということは、あなたも?」

「はい、存じておりました。いつもの先生なら、蝶がいる舞台に残るはずがないんです。観客の前だったから、無理をなさったんだと思います」

「大喝采を浴びている最中でしたからね」

 柏木は悩まし気な表情で部屋の中を歩き回っていたが、やがて、靴先で机の脇の床をこすりながら言った。

「ここ、少しねばねばしますね。何かこぼしたのかな?」

「そこに置いてあった芳香剤のボトルを、先生が倒してしまったんです。しっかり拭き取ったつもりだったんですが、まだ残っていたんですね」

「芳香剤か……」

 柏木はその場にしゃがみこむと、右手の人差し指の先で芳香剤をこすり取って匂いを嗅いだ。

「甘い香りだな」

「こぼしたばかりの時は、匂いが大変でした」

「そうでしょうね。村木さん、香りの種類は覚えていらっしゃいますか?」

「ハイビスカスです」

「なるほど……」

 柏木は小さくうなずきながらそうつぶやいた。

「十三年間、薫子さんのアシスタントを務めてこられたとうかがいましたが」と、今度は堂島が村上に尋ねた。

「はい。愛媛から上京して専門学校を出た後、すぐお世話になりました」

「当時はまだ小さなブランドだったはずなんですが、社員の募集があったんですか?」

「いえ、学生の時アルバイトでショーのお手伝いをしていて、声をかけていただいたんです。卒業したらこちらに来るように、と」

「才能を見込まれたんですね」

「それはわかりませんが、とにかく色々と教えていただきました」

 堂島は村上への質問を終えると、柏木に声をかけた。

「柏木さん、他に何か気になることはおありですか? そろそろ舞台に戻ろうかと思うんですが」

「ええ。例の二人がもめているかもしれないし、これ以上待たせるのはまずそうだ」


「それにしても、涙を流す者が一人もいないんですからねえ」と、前園がため息まじりに言った。

 現場検証の後、堂島と前園、柏木の三人は、イベントホール近くの喫茶店に立ち寄ってコーヒーを飲んでいた。村上朋佳がジュースの出前を頼んだ店で、注文の電話が入った時刻も、ジュースを届けた時刻も、村上の証言と完全に一致していた。

 堂島はゆっくりとコーヒーを啜りながら言った。

「若松氏が言っていたよ。裸一貫で世界的ブランドを築いた人間に、良識だの人徳だの、そんなものを期待するほうがおかしい、とね。彼らは同類なのさ。」

「青嶋という旧姓を名乗ってましたけど、離婚はしていないんですよね?」と前園が言った。

「ああ。青嶋薫子は三度結婚しているが、仕事はずっと旧姓で通してきた。今回の結婚はお互い三度目で、入籍する時に離婚届も用意したそうだよ。相手が判を押した書類をそれぞれが持っている。財産分与は要求しないという覚書も交わしている。が、いつでも簡単に離婚できるとなると、かえってどちらでもよくなるってことらしい」

「さっきも一緒に食事したとか言ってましたね。おまけにショーのアドバイスまでしている」

「夫婦間のことは、他人にはわからないものさ。とにかく、若松氏の女性関係や会社の経営状況は、俺が洗っておく……。しかしまあ、蝶が唇に留まっただけで、心臓発作とはね」

 柏木がコーヒーカップを置いて言った。

「そうそう、それで、チェスクラブの後輩から聞かされた、蝶にまつわる江戸時代の怪死事件の話を思い出したんです。前園君、文学部の門脇佑馬を覚えているかい? 僕の一年下の」

「ええ、小説家になったんですよね。怪奇小説が人気だとか」

「一体どんな事件なんですか?」と堂島が尋ねた。

建部綾足(たけべあやたり)という人物が書いた『折々草(おりおりぐさ)』という随筆というか奇談集の中に、蝶に命を取られた男の話というのがあるそうなんです。

 あるところに、蝶と出くわすのが嫌さに、春先の晴れた日は家に引きこもるほどの、蝶嫌いの武士がいた。友人たちは蝶嫌いを治してやろうと一計を案じ、武士を雨の日に花見だと言って誘い出した。そして、酔いが回った彼を小部屋に入れ、三、四匹の蝶を放つとぴしゃりと戸を閉めてしまった」

「ショック療法にしても、少々趣味が悪すぎますね」

「まったくです。当然、部屋からは絶叫が聞こえ、逃げ惑う物音がする。が、しばらくすると、ぱたっと何の音もしなくなった。さて、これで蝶嫌いも治っただろうと悪友たちが中の様子をうかがうと、どうしたことか武士は息絶えていて、部屋に放った蝶も、彼の鼻の孔の中に入って死んでいた…… という話なんです」

「確かに奇談としか言いようがない話だ。しかし、実話なんですかね」

「作者は東北の人から聞いた実話だと記しているそうです」

「武士はショック死だとしても、蝶の死に方ときたらわけがわからない。昆虫学者として、合理的な説明はお持ちですか?」

「いいえ。蝶が暴れまわる人間の鼻の孔に入って死ぬなんて、とてもじゃないがあり得ない。お手上げです。話をしてくれた門脇君によると、江戸の奇談というのは、これこれこういうことがあったと、ただ事実と称する事柄を淡々と述べて、いきなりぷつりと終わるものが多いらしい。彼に言わせれば、その浮遊感のようなものが一種の魅力なんだそうです」

「ははは、すみません、私にはなんのことやら……」

「僕もです。とにかく変わっていたな、彼は。時代や洋の東西を問わず、あらゆる奇譚、怪談を読み漁っていたっけ」

「確かに不思議な人でしたね。僕、門脇さんの下宿に遊びにいったことがありますよ。アナログレコードのコレクションがすごかったな。キングクリムゾンのファーストアルバムを、その時初めて聴いたんです」

「おっいいぞ、前園、お前も青春していたんじゃないか、オタク同士って感じはするが……」

「警部補、そのオタクっていうの、やめてください」

「別に馬鹿にしているわけじゃないぞ。何ていうか、『こだわりの強い人』ってくらいの意味だ。それはさておき、柏木さん、今回の事件をどうお考えですか?」

「そうですね……、僕の役割は、犯人がどうやって青嶋薫子の唇に蝶を留まらせたのか、その方法を明らかにすることですよね? それに関しては、もう少し詳しく調べれば、何とかなるんじゃないかと思っているんですが……」

「やはりフェロモンを使ったんですかね?」

「いえ、その可能性は低いと思います。蛾の仲間に関しては雄を引きつけるフェロモンが発見され、合成が実現しているものもありますが、シロスジアゲハで同じような作用をするフェロモンが見つかったという話は聞いていません。それにしても堂島さん、ずいぶん詳しいですね」

「小学生の頃、ジュニア版のファーブル昆虫記を読んだんですよ。その中にフェロモンの話が出てきたような」

「ああ、『オオクジャクヤママユの夜』ですね。あのくだりは本当に感動的だ」

「ええ。ひと夏かけて、昆虫記は全巻読みましたよ」

「警部補が昆虫好きだったなんて、ちょっと意外だなあ」と前園が言った。

「岐阜の山奥で育ったんだ。まわりは昆虫だらけ、意外でもなんでもないさ。それで、柏木さん、フェロモンではないとなると、どんな方法だとお考えで?」

「まだ具体的なことは何も……。ただ、すでに犯人が一度成功させているんですから、必ず答えがあるはずです」

「よろしくお願いします」

「それと、今回の事件で一番気になっているのは、あのトリカブトなんです。なんというか、あれは犯人からのメッセージなんじゃないかと」

「メッセージ、ですか?」

「ええ。蝶を操る方法だけでなく、そちらの謎も解きたいと思っているんですが……。堂島さん、あのイベントホール、もうしばらく現状のままにしておけませんか?」

「うーん、貸ホールだから向こうは嫌がるでしょうが、とにかく掛け合ってみます。期間はどのくらい必要ですか?」

「一週間、無理ならなんとか五日で」

 柏木はそう答えると、カップに残ったコーヒーを飲みほした。


 現場検証の翌々日の夜、柏木は自宅の書斎で机に向かっていた。背後の本棚には学術書がずらりと並んでいるが、ところどころに、カプセルトイの自販機で出したらしい土偶や仏像、昆虫などのフィギュアが飾られている。

 机の上には、蝶を操る様々なアイデアを走り書きしたレポート用紙が散乱していて、柏木の表情は冴えない。明日になれば、琉球大の研究チームに依頼しておいたシロオビアゲハが届くというのに、犯行を再現する方法は、まだ完成していない。ぶっつけ本番などもちろん論外で、予備実験を開始する期限が迫ってきていた。

 柏木は書きかけていたメモに大きな×印をつけると机を離れ、丸いサイボードの上のチェスボードをのぞき込んだ。アイデアが行き詰まった時は、気分転換にチェスのプロブレムを解くのが彼の習慣だった。

―白の(ピース)で取りになっているのはクイーン、ルーク、ナイトの三つ、向こうはクイーンとルークの二つで、クイーンにビショップの(ひも)がついている。忙しいのはこっちだ。クイーンを取りたいが、王手(チェック)でルークを取られてそのまま詰んでしまう。といって、ルークを先に取れば、クイーンを(ただ)取りされる。クイーンでルークを助けると、ルーク交換からのクイーンとビショップの攻撃が厳しい……。逆を考えろ。こちらが一手遅れているのなら、手を稼ぐ方法を見つければいい。逆か……、非擬態タイプが紫外線を反射しないということは、吸収するということだ。紫外線の反射は雄には無意味だが、吸収のほうはどうだ?

「ああ、そういうことか……」

 柏木はそうつぶやきながら微笑むと、ナイトを捨て駒にする一手を(はな)った。


 ホールの使用期限が切れる五日目の午後、柏木の要望で、再び青山のイベントホールで現場検証が行わることになった。柏木達が到着した時、前回と同様に、若松だけが客席に座り、他の者は舞台中央に集まっていた。

「ご多忙のところ、何度もご足労いただき恐縮です」

 型通りの堂島の挨拶に、若松がすかさず言い返した。

「まったく、やっと葬儀が片づいたと思ったら、また招集だ」

「すみません、僕が警部補にお願いしたんです。犯人がどうやって蝶を操ったのか、皆さんにご覧いただこうと思います」

「もう一度蝶を飛ばして、唇に留まらせて見せると?」

 若松は身を乗り出しながら柏木を見つめた。

「ええ、多分うまくいくと思います。では、皆さん、あの夜の配置についてください。青嶋さんの役は村上さんにお願いします。青嶋さんの控室にレモンジュース、メイク道具、ドレスを置いておきました。青嶋さんがやった通りに支度を整えて、舞台にお戻りください。デザインのスタッフの方、どなたか村上さんの着付けのお手伝いをお願いします」

「あの、僕はどうすればいいんですかね? あの時は出番が終わって、楽屋で片づけをしていただけなんですが」と、マジシャンの堀田が言った。

「ああ、失礼しました。では、舞台の袖か客席から様子をご覧いただけますか?」

 堀田は無言でうなずくと、若松の隣の席に向かった。

「村上さん、支度が整うまでにどのくらいかかりますか?」と柏木が村上朋佳に尋ねた。

「そうですね、十五分というところでしょうか」

「では、蓮実さん、十五分たったところでBGMを切るようご指示願います。ということで、村上さん、BGMがやんだら登場の合図です」

「わかりました」

 村上が控室に向かうと、柏木は堂島、前園とともに下手側の舞台袖に移動した。舞台袖の床には、柏木が大学の研究室から運んできた、幅三十センチ、高さ二十センチほどの保冷バッグが置かれていた。

「何が入っているんですか?」と堂島が尋ねた。

「シロオビアゲハです」

「アゲハ? 保冷バッグに?」

「保冷できるいうことは、保温もできるということなんです。使い捨てカイロが一緒に入れてあります」

 柏木はバッグの上部のファスナーを開けて、内部を堂島達に見せた。

「こんな風にネットを張っておけば、逃げ出さないし、取り出すのも簡単だ。ビニール管を通しておけば、窒息の心配もない」

「なるほど……」

 ネットの中にはシロオビアゲハの雄が三匹入っていた。

「琉球大の研究室から送ってもらって、二日間、僕の自宅で飼っていました。うん、どれも元気そうだ。幼虫や蛹の状態で運んでくれば、さらに長期間の飼育も可能でしょう。まあ、暖房代はかさみますが」

「季節外れの蝶が出現した謎は解けましたね」と堂島が言った。

「あとは、蝶がうまく動いてくれるかどうか……」

 前園の言葉に、柏木は自信ありげにうなずいた。


 軽快なBGMの音量が下がり始めると、柏木はシロオビアゲハを宙に放ち、舞台裏から花道の左下側に向かった。

 程なく村上朋佳が舞台奥に到着し、サティのジムノペディ第一番が静かに流れ始めた。舞台の大半の照明が消され、舞台中央を照らすスポットライトだけが残されている。人々が見守るなかで、蝶はひらひらと左右に揺れながら上昇し、ゆっくりと村上に近づいていった。

 舞台の中央は緩やかな上りのスロープになっていて、彼女が前進するにつれて、漆黒のドレスを纏った姿が、頭の先から徐々に人々の視界に入る仕掛けになっていた。

 蝶は村上の頭上数十センチのあたりをしばらく舞っていたが、やがてジムノペディのゆるやかな旋律とともに下降しながら正面にまわりこむと、ためらうことなくふわりと彼女の唇に留まった。

 村上朋佳は特に動揺した素振りも見せずに、右手の指先で難なく蝶をつかまえると、そっと自身の左肩に留まらせた。

「さすがは柏木先生、お見事です」と、彼女は穏やかな微笑みを浮かべながら言った。

 柏木は花道の下で蝶の動きを見守っていたが、成功を見届けると、花道に上って舞台に戻った。

「うまくいきましたね」と、柏木は堂島達に声をかけた。

「いやあ、大したものだ。柏木さん、いったいどうやったんですか?」と堂島が声を弾ませて尋ねた。

「まずは匂いです。着付けを手伝うスタッフの方にお願いして、ドレスの胸元のあたりにハイビスカスの香水をつけておきました。シロオビアゲハはハイビスカスの花の蜜を好むんです。蝶は甘い香りの香水によく反応するんですよ」

「すると、あのハイビスカスの芳香剤は……」

「薫子さんが香水の匂いに気づかないようにするためです。彼女はムスク系が好みだったそうですから、匂いに気づくと香水をつけ直してしまう心配があった。いずれにしても、匂いだけではアゲハを唇まで誘導することはできません。そこで、第二の手段がこれです」

 柏木はそう言いながらコートの内ポケットから懐中電灯のようなものを取り出すと、村上のほうに向けた。途端に、彼女の唇は鮮やかな青い蛍光を放った。

「UVライトです。僕は今、花道の下から村上さんの唇に紫外線を照射していました。通常のUVライトは紫外線だけでなく、紫の可視光線も出しているので、それをカットするフィルターをつけてあります。これなら客席で使っていても誰にも気づかれないでしょう。ちなみに、ライト本体もフィルターも市販品です。UVライトは血痕の検出にも使われているから、前園君に頼めばすごいものが借りられたでしょうが、民間人の手には入りませんからね。海外製で、説明書にサソリを見つけ出すという用途が載っていたのには笑いました。

 さて、シロオビアゲハの雌には、毒蝶のベニモンアゲハに擬態しているものとそうでないものと、二つのタイプが存在するんですが、雄はその非擬態タイプの雌の翅が紫外線を吸収して発する、青い蛍光色に惹かれるんです。この事実を指摘したのはうちの大学院の研究グループなんですが、論文のメインは、ベニモンアゲハへの擬態が、擬態タイプの翅が紫外線を反射することによって行われるということなんです。論文そのものは発表された時に読んでいたんですが、擬態のメカニズムに気を取られていて、非擬態タイプのほうが雄にもてる理由の方は覚えていませんでした。おかげでなかなか正解にたどり着けなくて、期限に間に合うかひやひやしました」

「それで、犯人は誰なんだ? もうわかっているんだろう?」と若松が言った。

「その件なんですが、まず、堂島警部補に確認しておかなくてはならないことがあります」

「何でしょう?」

「今回の蝶のデザインが薫子さんのものなのかどうかについては、堂島さんも疑念を抱いておられましたが、事件の発端が薫子さんの盗作だということになれば、警察としても調べますよね?」

「当然です。自宅からアトリエまで徹底的に調べますよ。若松さん、その際はご協力願います」

「ああ、構わんさ。別にあれと同居していたわけでもないしな」と、若松が答えた。

 柏木は村上のほうに向き直ると、穏やかに声をかけた。

「と言うことです。村上さん、いかがでしょう、そろそろ真相をお話しいただけませんか?」

「わかりました。すべてお話しします」

村上朋佳は微笑みを浮かべたまま答えた。

「ええ? そんな……」

 前園は拍子抜けしたような声を上げると、村上と柏木の顔を交互に見つめた。

「もともと、村上さんは自分の犯行を隠すつもりがなかったんだよ」と柏木は言った。

「彼女の望みは青嶋薫子が自分のデザインを盗んだ事実を明るみに出すことだけだった。蝶を操る方法さえわかってしまえば、村上さんが犯人であることは明らかだ。ドレスにハイビスカスの香水をつけたり、芳香剤をこぼしたりできるのは彼女だけだからね。レモンジュースを出したのも、蛍光物質を含んだ口紅を確実につけさせるためだろう。控室のメイク道具の中に、口紅は一種類しかなかった」

「それで、トリカブトを蝶の翅に付着させたのは、何のためだったんですか? 犯人からのメッセージではないかとおっしゃってましたが」と堂島が尋ねた。

「あれは蝶で薫子さんを殺害できなかった場合のリカバリー策だったんだと思います。蝶をまとわりつかせて彼女の蝶嫌いを衆目にさらすことはできても、心臓発作を確実に引き起こせるわけではない。薫子さんが無事だった時は、トリカブトを使って毒殺する計画だったんでしょう。ただ、そうなると人々の関心が蝶からそれてしまう。そこで、トリカブトのついた蝶が必要だった。村上さんはそのような蝶を何匹か用意しておいて、その中で一番元気の良かったものに薫子さんを襲わせた。そして、彼女を毒殺しなければならなくなったら、残りの蝶を遺体の近くに残しておくつもりだった。同じ毒が検出されれば、殺害の動機に蝶が関係していることは明らかだ。いかがですか、村上さん」

「はい、おっしゃる通りです」

「そうか、毒殺の必要がなくなったから、かえってトリカブトを付着させた意図がわかりにくくなっていたのか……。さすが、見事な推理だ」と堂島が言った。

「それにしても、なぜ、殺人まで犯す必要があったんですか? あれは自分のデザインだと青嶋薫子を告発すれば、それで十分だったように思えるんですが」

 前園の言葉を耳にした途端、村上朋佳の表情が凍りついた。薫子から受けた恫喝の記憶がフラッシュバックしたのだと見てとると、柏木はすばやく話を引き取って答えた。

「盗作を立証できるような証拠があったら、村上さんも訴えを起こしていたと思うよ。しかし、決定的な証拠は青嶋薫子のところにしかなかった」

 柏木は村上の方を振り返って言った。

「ところで村上さん、一つお聞きしたいことがあるんですが」

「何でしょう?」

「青嶋さんの盗作というのは、今回が初めてだったんですか?」

「あの人のデザインのためのアイデアを出せと言われるのはいつものことでした。別に、それは構わないんです。でも、今回は違いました。あの人は私に、メゾン・カオルコの後継者の名に恥じない、オリジナルのデザインをするようにと言ったんです……」

「ところが、あなたがデザインを完成させると、彼女は突然引退を撤回し、あなたのデザインを盗んだ」

「はい」

「まったく、後継者にすると言っておきながら、なんて真似を! 長年尽くしてくれた弟子にすることかね」と、堂島が苦々しげに言った。

「村上さん、あなたは芸術家なんですね。芸術家にとっては、作品がすべてだ。あなたは芸術家として、青嶋薫子が許せなかった……。それと、記念すべきデビュー作品のモチーフに選ぶくらいだ、アゲハチョウには特別な愛着をお持ちなんでしょう」

「私の実家は、レモンの栽培をしているんです。アゲハチョウって、幼虫がレモンや蜜柑の葉を食べてしまうから、農家にとっては困り者なんですが、羽化して自由に飛びまわれるようになると、やっぱり綺麗だなって、そう思うんです」

 村上朋佳は遠い彼方を見つめているかのような目をして答えた。

「では、後のことは警察におまかせします。ああそうだ」

 柏木は再び村上のほうに向き直って言葉を続けた。

「村上さん、そのドレス、ご自身がフィナーレで着るためにデザインされたんでしょうね?」

「ええ」

「よくお似合いですよ。やはり、それはあなたにこそふさわしい」

「ありがとうございます」

 肩に蝶を留まらせたまま、村上朋佳は晴れやかに微笑んだ。


昆虫学者 柏木祐介の事件簿 シリーズ第一期、全六話を連続リリースします。週一回程度のペースを予定(第二話は6月12日公開予定)。第一期完結時には、第一話冒頭と第六話末尾にプロローグとエピローグを付しますので、そちらもお読みいただけたら幸いです。

『昆虫鑑識官ファーブル』というコミックスの存在を知ったのは、本シリーズ六作品の初稿を書き上げた後でした。本作品が『昆虫鑑識官ファーブル』から一切の影響を受けていないことを明記しておきたいと思います。ただし、昆虫の習性を利用して謎を解くという発想の先駆的作品として、ここに敬意を表させていただきます。 ―鏡介

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― 新着の感想 ―
次も楽しみにしています。頑張ってください!!
[良い点] 堂々としていたからか、犯人の村上さんが魅力的に見えました。 [一言] 昆虫の性質をヒントとして謎を解く極上本格ミステリー。 短編なのに大満足の内容でした!
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