シン・二級魔法少女☆荻ノ花真咲6
古本屋を巡るのが数少ない趣味の一つです。宝探しみたいでウキウキします。「ちょっと得したなあ」という気分を堪能するのが醍醐味です。無収入の今だからこそやめられません。風俗やギャンブルに比べれば屁みたいな出費でいくらでも時間が潰せるのです。ま、それはさて置いて。
「荻野君……?」
と人に呼ばれたのは何ヶ月振りかって話ですよ。ふとそれが自分のことだと気づくと、ブックオフの店員がツタヤのカードを手に、レジから探るような視線を向けている。そう言えばツタヤのカードって裏に署名欄があるんだっけ、と的外れな「あ~あ~あ~、なるほどね」という理解の色を見せると、若い女性店員が嬉しそうに笑った。
「やっぱり荻野君だ! すごい偶然! 6年振り? 痩せたよね~」
「……はあ」
6年振りというと高校生時代の知り合いか。目鼻立ちは整っているのに、どうにも目立たない感じの顔つき。茶髪じゃなければ結構地味な印象になるだろう。充実していたとは言い難い青春の記憶から彼女の顔を「検索するぞ、BIGLOBEストリーム!」しても一向に思い出せない。今に始まった話でもないが、どうも僕は人の顔と名前を覚えるのが苦手な上に忘れるのも早いのである。
「あの……ひょっとして、うちのこと覚えてない……? 二年の時も三年の時も同じクラスやったんやけど……」
ごめん。覚えてない。というかいわゆる“萌え系”とレッテルを貼られたマンガを買う時に限って知り合いがレジ打つとかマジで恥ずかしい……。途方に暮れていると、店員が取り繕うように苦笑を浮かべる。
「三津山。三津山愛子だよ、高校で同じクラスだった」
「……ああ!」
「やっと思い出してくれたんだ?」
特にこれという思い出はないが、そう言えばいたなあ、と思う。当時はクラスの中でも一、二を争う美人だった気がするが、目の前の彼女からはそういう華々しいものを感じない。まあ、お互いに老けたってことなのかもしれないが。急にかばんの中で暴れ出したこけしに気を取られていると、三津山がその低めの声を少しだけ上ずらせた。
「荻野君、どうしとるのかなって思ってた。同窓会にも来なかったし」
「や……知らなかった。同窓会?」
「道子から連絡なかったの?」
「まあ……連絡先は……知らない、お互いに」
「ひどい。フフ、相変わらず一匹狼なんだ」
「就職してから苦労したよ。おかげで少しマシになった」
「アハハ、そうだよね。荻野君、前はこういう風に喋ってくれる人やなかったもん」
それはそうだなと大した潤いもない学生時代を回想している間に袋詰めが終わり、受け取る際に互いの手がかすかに触れた。
「……荻野君、ここ、よく来るの?」
「まあ……無職になってから暇でね」
「そうなんだ……」
また来てねと囁き、彼女が手を離す。軽く頷いて外に出ると、こけしがかばんの中から「デレデレするにゃ」と不機嫌そうに呟いた。風属性の妖精様には窮屈だったか。
今はもう春。誰もいない海。光学迷彩で敵が隠れても私は見逃さない。……戦場はいつも人里離れた闇の中だった。彼らは、常に闇の中からこの世界への武力介入を開始する。
「今は狙い撃てないんでなあ……」
人間はちょっとしたくらやみをこわがる。なぜだろう。そこにこわいなにかがひそんでいる気がするからだ‥‥。こわいなにかとは‥‥自分の力では勝てないなにかだ‥‥。でもどうしてそんな心理がはたらくのだろうか‥‥。しだれ柳の下の闇におそろしい敵のいるのを‥‥。人間は知っているのかもしれない‥‥。一万年と二千年まえ“誰も見たことのない世界”の記憶がみゃくみゃくと現代人にまでうけつがれているのでは‥‥。
「圧倒させてもらうぜ!」
風の力で砂浜の砂という砂を吹き上げる。数拍の間をおいて降り注ぐそれは、今回の敵――透明人間の姿を月下に浮かび上がらせた(侵略者たちのやたらとバリエーションに富んだ人材については深く考えないようにしている)。透明人間の姿が丸見えになったら透明人間ちゃう。人間や! 目・鼻・口に砂を詰まらせ悶絶する透明人間だったものをすかさず蹴り飛ばし、元いた場所へと送り返す。海の上で、彼は地上の星となった……。
「よぉーし「風はバイキングをつくった」ぞ!!」
「何を言うとるのじゃ貴様は」
「……別に何でもないです」
ここのところ、こけしの機嫌がイマイチ優れない。触らぬ神にたたりなしということで問い詰めたりはしていないが、僕が思うに妖精様にも「あの日」があるのだろう。ああ、それは異種族とは言っても異性には言い辛いわなと自己完結し、右手を差し出す。彼女がちょこんと掌の上に座ったのを確認し、帰路へとついた。手痛い出費だが、明日にでも高級な蜂蜜を買ってやろう。ついでに彼女が読んでいる昔の少女マンガの続きだな。
「……またあのおなごに会いに行くのか?」
「はい?」
こけしが問い詰めるような視線を向けているものの、素で誰のことを指しているのか一瞬わからなかった。それが昔の同級生だと気づき、ああ、と理解の声を漏らす。
「オレも少女マンガとか表紙が萌え萌えなマンガなんかを買うところを知人に見られたくないんで……」
「違う店に行くのか」
「まあ、こないだとは別の店で探しますよ」
「……ならばよい」
「はあ」
「……で、なんでまたここにきてるにょなー!」
カバンの中でボムみたいに暴れるこけし人形を左手で抑え込みつつ、右手でケータイを耳に当てる。無論のこと空気が読めない不機嫌なジーン(風妖精)と極々自然に会話するためですよ。
「えー、五軒回ったんスけどオルフェの3巻とエースの5巻、8巻だけどうしても売ってなくてですねえー」
「だからってここにくることはないにょ! 別のお店でよかったにょな!」
「もう、チャリの漕ぎ過ぎで尻が痛いっス……ここなら前回は売ってたし……」
「最初からそのつもりだったにょな! 道理で念入りにヒゲを剃ったり髪をセットしたり妙に浮かれていると思ったにょ!」
「……まあ、知ってる人に会うことになるかもなあ、と思い準備はしました」
幸いなことに、今日は三津山の出勤日ではないらしい。前々から探していたびんちょうタン(表紙も内容も萌え萌えなので、買うのは勇気が必要です)の二巻もゲッティングぅ~して意気揚々とレジに……。
「あ、荻野君!」
「……どうも」
想像してごらん。中年のおっさんがレジ打ってるのを確認してエロ本を片手に猛ダッシュした瞬間、バイトの若い姉ちゃんが「お客様、こちらへどうぞー」と隣のレジに回った光景を。まあ、つまり、そういう気分だった。ニコニコと営業スマイルを浮かべる三津山に捕まり、やむなく再び“知人には見られたくない趣味”に属する品物をごすっとレジカウンターに差し出す。あまりの間の悪さに冗談抜きで気が遠くなった。
「また来てくれたんだ。フフ、うちに会いに来てくれた?」
「……まあね」
むしろ避けていたのだという本音を隠蔽し、彼女の冗談に適当に付き合いながら会計を済ませる。何でもないような顔をしてても頭の中は真っ白ですよ。人は……同じ過ちを繰り返す……まったく! さすがに三津山は三津山で気まずいらしく、目を伏せ顔を真っ赤にしている有様だからもう本気で死にたくなる。この微妙な空気に耐えかねたのか、三津山がもごもごと口を開いた。
「あのね……荻野君、今度うちらのクラスだけで同窓会やるの知らんよね?」
「ああ」
「その、あの……」
「別にいいよ、気を使ってくれなくて。どのみち行かないし」
「そ、そうなんだ……。あ、でも、気が変わったら連絡して? ケータイとメルアド、ここに書いてるから」
「……ありがとう」
本と一緒にビニール袋に詰められた便箋をぼんやり見ながら、記憶の中の三津山はこういう――何というか、他人に気を使うタイプの少女ではなかったよなと首を傾げる。6年という歳月は、人をこうも変えてしまうのかな……と感傷にひたることも許さぬこけしを宥めながら自転車を漕いだ。かつての通学路は、学生時代の面影と新しい顔とが半々に入り混じっている。
好き好き好き好き好きっ好き、愛してる。好き好き好き好き好きっ好き、一級さん。二級魔法少女がいるからにはその上に一級魔法少女というのがいるわけで、日本中の女の子達はその称号を目指して日々キルマークを積み重ねているのだそうだ。こうやって子供の競争心を煽り立てるやり口というのが気に入らないのだが、「競争があるから人は高みを目指す」という理屈がこの社会の真理の側面ではある。
「今夜でついに十勝か。ふふん、そろそろ一級魔法少女への昇級試験の受験資格が与えられる頃じゃのう」
「昇級試験ねえ……でもオレ、受けるつもりないですよ、そういうの」
「……まあ、貴様はそう答えるじゃろうなとは思うておった」
おや、と買ったばかりの超高級蜂蜜のビンを手に台所からこけしを見やった。「覇気がない」とか「向上心がない」とか罵られることを予想していたのだが、意外なことに彼女は畳の上にちょこんと正座したまま、上目遣いに穏やかな視線を返してくる。
「一つ屋根の下で一月を過ごしたのじゃぞ? いい加減、貴様の物の考え方くらいは少しなりと理解してきたつもりじゃ」
「……そういうもんスか」
「ふふん、女の勘は冴えておるでのう」
と言われれば、精神的には純然たる男子の僕には返しようがない。その逆に、僕は自分が思うほどコッコクェドゥースイナクシャータリアについて多くを知らないのだろうと思う。沈む夕日はどこかの国では昇る朝日だかんなァ~、ハハハ。俺ん家はな~! エンゲル係数がガ~っ! 上がってんだよ~! ……蜂蜜も高級品になると目ん玉飛び出るほど高いのね。
「そういえば貴様、あのおなごに文は送ったのか?」
「は?」
「昔の学友だったとかいうおなごじゃ、古本屋の」
「……ああ」
三津山のことか。蜂蜜の入った小皿を手渡して、ベタつく手を水で洗いながら答えた。
「メールならしてませんけど」
「何故じゃ!」
「ハナから誘われてない同窓会で、無職なんですよ……本当に行きたくない」
「……貴様、人の気持ちがわからない人間だと誰ぞに指摘されたことはないか?」
「MASAKIだけにMKY(マジで空気が読めない)と職場で何度も怒られました」
「じゃろうな……」
しかめっ面で蜂蜜を一舐めしてから、こけしがこの上なく苦々しい様子で三津山の連絡先が書かれた便箋を差し出す。
「行かぬなら行かぬで断りは入れるのじゃ。きっと待っておるぞ」
「はあ」
便箋を受け取ろうと濡れた手を拭いている間に、こけしが何事かをぼそっと呟いた。聞き取れなかったが、あえて気付かなかったことにした。
ゴールデンウィーク……。時はまさに世紀末、女神アテナの血を受け蘇った青銅聖闘士は最下級にも関わらず最上級の黄金聖闘士を凌駕することを意味する。その起源は遠く安土桃山時代に伝わったギリシアの兵法書『なんとなく、レアメタル』にあるという。しかしフェニックス一輝はそんな理屈の裏打ちもなしにただひたすら絶対無敵であることは言うまでもない。民明書房刊『毎日がカレー曜日』より。
「連休だからって……」
念のためにあらかじめ言っておく。ひがんでないよ。いつものように人里離れた「戦場まで何マイル?」と言わんばかりの大自然の中にいたのは侵略者だけではなかった。ここで詳細を語ることは敢えてしないが、まあ、若い男女が一組、いたのだ。普通なら誰もいないような山林の中に。こんなところで何をしていたのかは深く考えないで。……もう一度言う。ひがんでないよ。
「何やってるんです! そんなところで!」
逃げ遅れたというか男の方に置き去りにされた女の前に立ちふさがり、巨大な猪に見えないこともない豚頭の牛――カトブレパスの鼻面に、ファンシーなデザインながらもやたらと丈夫な靴に覆われた爪先を叩きこむ。噴き出した鼻血に染まった右足を振りかぶり、第二撃。振り上げた右足を軸に空中で身体をひねり、左足での後ろ回し蹴りによる第三撃を浴びせたところで閃光。咄嗟に目をつむり、後ろを振り返る。
「おおっと、見ちゃいけない……ケガはないかい、お嬢さん」
「……あのおなごならとうの昔に逃げてしもうたぞ」
「そっスか……まあ、それでいいんスけどね……」
「しかし、あのおのことおなごはこんな人気のないところで何をしておったのじゃ?」
「え、えっと……その……昆虫採集っスかね……」
折角だからじっくり見ておけばよかったと密かに考えたりしつつ、こけしを手に夜空へと飛翔した。少し離れたところに猛スピードで車が山道を下っていく姿を目にし、ふとした疑念が湧く。
「……あれってひょっとして、野郎の方だけ車で逃げちゃったとか?」
「人間の恋人同士というのはそんなに薄情なものなのか?」
「はは……それはオレが教えてほしいくらいっスよ……ははははは!」
何度でも言う。ひがんでないよ。乾いた笑い声を上げつつ、さすがに心配になってきて山中に取り残された女の姿を捜した。闇の中で見た白い肌の記憶に邪な感情を呼び起こす頭を軽く叩くと、こけしが手の上でもぞもぞと小さな身体を動かす。ちょっとくすぐったいのでできればやめてほしいのだが、そんなことを言ってる場合でもない。
「もし貴様じゃったら……想うおなごを見捨てて逃げるのかのう……?」
「どうスかね。ま、そこまでして自分だけ生き延びようとは思えないでしょうけど」
それは別に僕が善良な人間、強い人間だからというわけではない。「何故、自分はこうして生き恥を晒しているのだろう」という後悔と向き合うのが怖いからだ。もう、「いっそ死んでいればよかったのに」と思い詰めたくないからだ。こけしと出会うまでの数ヶ月間に、眠れぬ夜が何度も続いた。それを繰り返すくらいなら、僕は多分、誰かを守って死ねたという自己満足のために命を捨てるだろう。
「のう……マサキ……わらわがもし……」
手の上でこけしが何か言い掛けたのだが、地上からの叫び声がそれをかき消した。逃げた男を指すであろう名前と、「死んじまえ」という呪詛の言葉。聞くに堪えない罵詈雑言。呆気に取られ、僕らは顔を見合わせる。
「えーと……人を眠らせる魔法とかあります?」
「ない」
「あんまり関わり合いたくないなあ……」
「殴って気絶させればよいのではないか?」
「……その力加減は自信ないんスけど」
まだ十代……というか下手すると中学生くらいではないかと思ったが、深入りしたくなくてこちらからは何も聞いていない。彼女とその友達? あれは友達なのか? まあ、彼女達を町中に送る決して短くない時間は、地獄以外の何物でもなかった。少女は暴れ、泣き出し、やっぱり暴れた。まあ、そのことについてはもう触れないことにしようと思う。
「……人間のおなごは皆ああなのか?」
「そうではないと信じたいっス……まあ、世の中あんなもんなのかもしれないスけどね……」
「ふむ……ようわかった。じゃから貴様らオタクは二次元のおなごにしか惹かれぬのじゃな」
「偏見っスよ! 少なくともオレは彼女たちを恋愛の対象とかそういう目では見てないんス! つーか別にいいでしょそんな話!」
「どうでもよくは……いや、まあ、貴様の女性観なぞどうでもよいのじゃがな! しかし、あの小娘のおかげですっかり遅くなってしもうたのう」
大阪からの長距離飛行ということもあったのだが、家の近くまで帰り着いた頃には深夜三時を回っていた。それならいっそ大阪勤務の弟の顔でも見るついでに観光しようかとも考えたのだが、こちとら毎日が日曜日のプー太郎である。何も、そんな迷惑なサプライズをわざわざ人の多い連休中に実行する必要はない。弟が勤める会社は今が一番忙しい時期でもあることだし。
「……あ」
「何じゃ?」
「いや、そういえば同窓会、今夜だったなと思って……ま、断ったんスけどね」
大型連休で里帰りする級友の出席を見込んだのだろうが、今日(正確には既に昨日だが)やることもあるまいに……という感じである。しかし幹事の小清水道子は、そんなものよりも昔の友人との楽しい時間を過ごすという“行き過ぎた友情”を周囲にも期待してくるタイプの女だった。……変わらんなあ。
「すまぬな……わらわが魔法少女に貴様を選んだばかりに……。魔法の力は、貴様を孤独にする……?」
「いえ、会費が八千円とかふざけたこと書いてたんで」
「貴様は……」
「そうまでして会いたい相手もいないんスよ。友達と呼べる人間とか皆無! わざわざ金出して、お互いに気まずい時間とか過ごしたくない! ははっ、嬉しいなあ、嬉しいなあ、オタクにゃ学友も、恋人もなんにもいませんでした!」
「……すまぬな。この問題に触れたわらわがまことに悪かった」
「あの……謝られると本気で辛くなるんで……ん?」
誰かが路上に倒れている、と思ってブレーキをかけた。ゴーグルを外して首にかけ、高度を下げつつ空から目を凝らす。街灯が、アスファルトの路上にうつぶせに倒れている――茶色の長髪、服装から判断して――若い女性を照らしていた。放置しておくわけにもいかないかと着地すると、狙い澄ましたようなタイミングで寝返りを打ち、彼女がその寝顔を見せる。見覚えのある顔と、初めて目にする表情を。
「三津山……?」
二十代半ばの女性が寝ゲロを垂れている光景というのは、中々見られるものではないと思う。更に言えば見なくてすむなら一生見ないでおきたかったし、見るべきものでもないし、見せるべきものでもないんじゃないか。饐えた臭いに堪え、作業用の手袋を外し、その汚れた頬に触れるとほんのり温かい。例の同窓会で酔い潰れたのだろう。そのままぺちぺちと頬を叩き、声をかける。
「えっと……起きろ?」
「……ちいとばかり愛想を振りまくとか、それなりに子供らしい演技をするとかしたらどうじゃ?」
「見た目は子供でも頭脳は大人っスからねえ……」
変身を解かないのは、僕はこの福岡市にいないことになっているからだ。三津山に「用事があって残念だけど同窓会には行けない」というメールを送っていたために、顔を突き合わせるのは若干気まずいのである。そうでなければ、これ絶好の恋愛フラグなのに……。や~の! こ~ゆ~のを自業自得っていうんですのね。ペルシャ、また一つお勉強しちゃいましたの~!
「……どうしましょう」
「おなごの家まで送るしかないのではないか?」
「このゲロまみれの女を抱っこして? マジで?」
躊躇していると三津山が小さく唸った。「ふりゅさいなあ~」とろれつの回らない舌で呟き、反対側に寝返りを打つ。長い髪がゲロにまみれる光景に「冗談じゃないぞ」と心中で毒づきながら、両手で上体を強引に起こした。びちゃっと手が汚物で濡れたのだが、皮肉なことに工事現場の汚い簡易便所で何度も用を済ませた経験が、僕を少しは逞しくしていたらしい。
「いいから起きて。家まで送るから」
「う~ゆぅ~……揺すんなぁで……気ぼちわりゅい……」
「住所は? しばらく寝てていいからどの辺なのか教えて」
「あははっ、なぁに~、このコぉ~。かわいい〜」
「ほら、抱っこ! 抱っこするから!」
「えぇ〜? お姫様抱っこ? 大丈夫〜?」
「他にやりようないでしょ! いやそもそも自分で歩いて!?」
「やだやだ、抱っこがいい!」
三津山が首に手を回す。くっさ! 女の汗は甘い匂いがする、とかいう表現をどの小説で読んだのだったか。残念ながら、腕の中の三津山からは酒と吐瀉物とが入り混じった何とも形容しがたい異臭が漂っているのだが。僕の小さな首にかじりついて酒とゲロ臭い息を吹きかける酔っ払いに住所を聞き出すと、こけしがケータイで地図を検索し、無言で目的地の方向を指差してから先導してくれた。妖精の声は人間には聞こえないそうだから、僕が独り言を喋っているように見えないよう、彼女は彼女なりに気を使ってくれたのだろう。
「だからぁー、道子も由紀もわかってないわけよぉー。聞いてるのぉー?」
「聞いてるよ」
「仕事を辞める時のショックってゆうかぁー、敗北感ってゆーのぉ? あたしの気持ち、わかってくれんとよぉ。変な同情するってゆぅかぁー」
「ああ、同情が妙にわざとらしく聞こえたりするよね」
「わかってるじゃぁーん、えらい。お姉さんは嬉しい!」
「ま、こっちも被害妄想気味になってるんだろうけど……ん? 仕事、辞めたの?」
「あっはは、そぉでぇーす! あんなに憧れてた看護婦なのに、辞めて親の家に帰ってきちゃったぁー」
「看護師だったんだ」
「辞めちゃったんだけどねぇー」
「ふうん……」
親元に帰ってきて、近所でバイトを探してたらたまたま通っていた高校の近くに古本屋があったということだろう。六年ぶりの再会にはそういう経緯があったわけだと一人で納得していると、三津山がぷうっと赤い頬を膨らませる。
「なぁにぃ、感じ悪ーい。辞めた理由とか聞けばぁ~?」
「……ボクは、それ、あまり思い出したくないけど……君は違うの?」
「……つまんないのぉ」
わかったぞ‥‥‥! この人がみせた奇妙な行動――謎はすべて解けた!! つまり三津山は、こういう風に同窓会で旧友に絡んだ結果、大荒れして一人でぶっ倒れていたということなんだろう。やれやれ、酒癖が悪いとは知らなかった。
「てゆうかさぁ~、同窓会も集まり悪くてさぁ~」
「そりゃそうだよ、日が悪い」
「好きだったっていうか、ちょっと気になる男子がいてね? もしかしたらって少しは期待してたのに、やっぱ来ないし。道子とオーガは相変わらずラブラブだから余計にむかつくしぃ」
「へえ、まだ続いてるんだ」
卓球部部長の大河原の平べったくて白い顔と小清水の日焼けした逞しい顔を思い出し、宗方コーチばりに「ガキのときにほんもののあいてにめぐりあってしまうこともある!」とボケようかと思いつつも踏みとどまる。何に反応したのか前方を飛んでいたこけしが振り返り、なんとも形容しがたい表情を見せて再びそっぽを向いた。
「でね~、うちらの高校って結構レベル高いわけよぉ。えっへへ、自慢になっちゃったぁ~?」
「うん」
確かに僕らが卒業した高校はそこそこ偏差値の高い進学校ではあったが、校風が比較的自由なために遊んでばかりで成績を落とす人間が少なくなく、僕がまさにそのクチだった。それは学力別に分けられたクラス――通称“凡クラ”で一緒だった三津山も同様なわけで、彼女の表現には多少の語弊がある。過去を美化するという行為は、今の三津山にとって良いこととは思えないのだが……。
「それでみんなケッコーいぃ~とこに就職しててさぁ~」
「余計に自分が惨めな気持ちになった?」
「そ~ゆ~ことよぉ。あっはは、あんたはぁ、人の気持ちがわかる子や! きっと立派な大人になる!」
「……それはどうだろう」
現に、僕は四ヶ月間の失業手当交付も終え、貯金を食い潰しているだけのプー太郎だ。実はフリーターの三津山よりタチが悪い。思わず苦笑いを浮かべると、首にこめられた力がぐっと強まる。同時に、あれだけ騒いでいた酔っ払いが沈黙した。顔を覗き込もうとしたら押し殺した嗚咽が聞こえ、ヘタレな僕は反射的に視線を前方に引き戻した。絞り出される声が耳に痛い。
「うちはっ……ちゃんとした大人になれんかったんよ……!」
「……かもね」
気の利いた台詞の一つも言えれば良かったのだが、彼女の泣き顔すら直視できない僕がそんなウルトラCを披露できるはずもない。予期せぬ事態に困惑しつつ、かけるべき言葉を探す。積み重ねた努力、誰かの信頼、受けた恩義……それら全てを裏切るという行為は、それなりに重い。多分、彼女も僕と同じ壁に突き当たっているのだ。
「えっと……でも、これからなればいいんじゃないの? その、一人前の大人ってやつに」
「……」
「だから、えっと……きっといつか、前に進める日が来ると思うよ」
「……ん」
何事かを言い掛け、三津山が黙る。「子供のくせに」とでも言おうとしたのだろうが、「それが……大人のやることかあっ!」と自制するだけの理性は残っていたらしい。今にして思えば、この時点で酔いはかなり醒めていたのだろうから、もう自分で歩かせれば良かった。……そんな判断もできなかったってことは、僕は自分で思う以上に舞い上がっていたんだなあ。
沈黙は金、雄弁は銀という諺がある。現代日本では一般に「男は黙って背中で語るもの」という意味で用いられるが、実際にこの言葉が古代ギリシアで生まれた時には銀の方が価値が高かったらしい。つまり本来は「へいへい、そこのシャイ☆ボ~イ、もじもじしないでガンガン自己主張しよー・ぜ」という意味なのだそうだ。うひょう、白人らしいエピソード。……まあどちらにせよ、黙って泣かれても延々と愚痴られても対応に困ることには変わりなかったって話なんだが。
三津山を家まで送って、その家族に見つかる前に急いで逃げ出してから、ようやく帰ってきた。変身を解いたらゲロも消えるのか? 汚れたまま? これまでの経験則だとアイドル衣装はセーフ、変身後に身に着けたゴーグル、マフラー、手袋なんかはアウトだな。というわけで、すっかり汚れた自前の赤いマフラーと手袋を風呂場にぶっ込み、変身を解除する。疲れた。シャワー浴びたい。でも深夜だから近所迷惑だな……。寝巻きに着替えて布団に潜り込むと、こけし人形がぺしっと背中を叩いた。
「変身するのにゃ」
「へ?」
「お話ししたいの」
「ふう……ナムコクロスカプコン」
何の意味もない掛け声で再びロリっ娘への変身を済ませ、妖精に戻ったこけしの方向に寝返りを打つ。
「のう」
「何スか?」
「あのおなごについて、どう思うておるのじゃ」
「どうって……」
三津山か。まあ、学生時代もまともに会話した記憶はないが……。
「同病、相憐れむってヤツですかね……。オレもあんな風に悩んでた時期はあったんで」
「ふうん……」
「彼女が偏差値の高い高校に通ってたって言ってたの聞いてました?」
「うむ」
「そこに行き着くまでに小中学校で優等生やってた人間は、大なり小なり『周りの期待に応えたい』って価値観が身に染み付いてるんス。オレだって例外じゃないし、彼女もきっとそうでしょう」
「ン……わからんでもない話じゃが」
「だから、どんなに『人間は一人で生きていける』と突っ張ってみてもこたえるんですよ。親しい人達に心配をかけているだけの状況が辛くて、そんな自分が情けなくて、どんどん気持ちが重くなって……。多分、彼女も同じようなこと考えてるんだろうなって」
「……マサキ」
「はい?」
「今でも、辛いか?」
いつになく真剣な声に、ちょこんと隣に座っているこけしの姿を見やる。視線は抱えた膝の隙間からあらぬ方へと抜けているが、先端の尖った耳が僕の返答を静かに待っていた。
「今は、やれることがありますから。コッコさんが生きる意味をくれたから、平気ですよ」
「……まことか?」
「コッコさんがいてくれて本当に――」
僕の記憶はそこでぷっつりと途切れている。完全に寝落ちした。夕方になってコードギアスを見ながらケータイを確認すると、誰のアドレスと間違えたのか、三津山から「昨日はありがとう。嬉しかった」という旨のメールが届いていた。まあ、同窓会で楽しいこともあったようで何より。
24歳、無職。ついでに彼女いない歴24年のキモオタ。そんな僕でも胸を張って生きていていいんだって、自分で自分に言い聞かせたかったために、選んだ道にも意味はあったのだと今は思う――。




