「障害児の親」になった日。
私と妻が明確に「障害児の親」になったのは、三男が産まれて一月もしない頃である。長男がいよいよASDと診断されたのは、その数年後だ。
三男は大阪での里帰り出産から程なく呼吸の異常が見つかり、救急車で大学病院に搬送された。当時2歳の次男が救急車を間近で見て無邪気にはしゃいでいたことを今でも覚えている。
医療費の支払のため救急車を追って大学病院まで行くことを指示され、公共の交通機関を乗り継ぎ、集中治療室に寝かされた三男と対面し、そもそもの目的のお会計については17時を回ったので翌日に仕切り直すよう指示され脱力し。
それから色々な手続きのためあちこち駆け回ったり、アカチャンホンポで母乳バッグを買って妻の母乳を三男に届けたり、有給休暇を取る分だけ残業して休日は広島と大阪を行ったり来たり、目まぐるしい日々が続いたが、この頃の記憶はあまり残っていない。長男と次男を連れて三男の面会に行った帰り、遠回りして寄った大阪駅のあたりで、電車の中から虹が見えたことだけ良く覚えている。
三男の入院からしばらくし、広島で残業をしていたところに妻から電話。近いうちに両親揃って大学病院に来るよう依頼されたと言う。妻は「そろそろ退院かな」と笑ったが、まあ、この手のパターンで明るい話にはなることは余りないんじゃないか。胸騒ぎを覚えながら、仕事のスケジュールを確認し、有給休暇を申請した。
当日は、複数の医師と看護士たちに囲まれ、三男の病状から説明を受けた。入院のきっかけとなった肺高血圧、大学病院で見つかった心室中隔欠損と一過性の白血病。そして、これら全てがダウン症の合併症であること。ダウン症の子供は総じて身体的にも知的にも発達が遅れ、この先も様々な病気を発症しやすいこと。
妻は本当に予期していなかったらしく、ひどく動揺した。泣いていたと思う。思うというのは、私も「いい話ではないだろうな」と身構えてはいたが、それでも平静ではいられず、頭が真っ白になっていたからだ。震える声で早口にまくしたてる形にはなったが将来の話をしていた分だけ、妻の方が早く状況を受け容れていた。
――産むべきではなかったのだろうかという後悔がちらつき、我が子に対してそんなことを考える親は本当のクズだと自己嫌悪し、だからといって気持ちを前向きに切り換えられもせず、ただただネガティヴな感情が渦を巻く。そんな思いさえ今となっては忘れかけているのは、多分いい事なのだろう。




