母親と本気でぶつかり合った
8、母と本気でぶつかった果てに
「もう、いいっつ。」
光は、とうとう大声で叫んだ。
母は、予想通り、どうして仕事を辞めたの?お付き合いしていた人とはどうなったの?結婚するんじゃなかったの?新しい仕事は何をしているの?ちゃんと世間の人が知っている会社なんでしょうね?と、光を質問責めにし、散々な罵声を浴びせてきた。
「結局お母さんは私のことなんか考えてないじゃない。見てないじゃない。」
分かり合えない平行線の話を散々言い合った挙句の果てに、言ってしまった。こんな風に強い口調で言う事ではない。という意識はあった。でも、もう言い始めたら止まらなかった。
「いつだってそう。お母さんが大事なのは、お母さんの周りの人が褒めてくれる会社に勤めてる私なのよ。子供の時からずっとそうだった。お母さんにとって大事なのは、お母さんの自慢になるかどうかなのよ。私がどう思っているか。嬉しいとか悲しいとかなんて、どうでもいいのよ」
・・・言った。
・・・言いながら泣いてしまった。
・・・泣きながら言った。
光は、エッエッとしゃくり上げ続け、肩を上下させて、ハアハアと息をした。シーンとした空気を感じながら、顔を上げることをせずに下を向いたまま涙をボロボロとこぼし続けた。
母は、今まで見たこともない表情をして、
「光、光が、私に口ごたえをするなんて」
と、驚きながらも
「光、違うのよ。お母さんは、光のことを思って・・・」
そう言いながら、光の肩に手を伸ばしてきた。
「やめてよ」
と光は、母の手を振り払った。
そして、また、自分の手のひらの中に顔を埋めて、さらに泣き出した。
その時、
ピンポーン。
と、チャイムが聞こえた。泣いたままで一歩も動けないでいる光の代わりに母がドアを開けた。
「光ちゃん、大丈夫?」
入ってきたのは、裕子さんだった。
「健太から、おばさんが来ているようだから光ちゃんのところに行ってやってくれって連絡があったの、健太、今夜は仕事で来れなくて・・・。おばさん、ご無沙汰しております。」
裕子さんは、そう説明すると母に挨拶して
「さ、光ちゃん座ろう。」
と光の肩を抱いて、ソファーに座らせてくれた。
「頑張ったんだね。ちゃんと全部言えた?」
裕子さんは、優しく背中をさすりながら、聞いてくれた。
泣きながら頷く光の頭をよしよしと撫でて、
「うん、勇気を出したね。じゃあ、後は私にまかせてお風呂に入っておいで」
と、私を風呂場に送り出してくれた。正直言って、これは本当にありがたかった。泣きわめいてぐちゃぐちゃだったから、泣き止むなんて出来なかったし、何よりも母から離れたかった。だから、母がどんなふうに私を見ていたのか知らなかった。
バスルームから、シャワーの音が聞こえてきてから、裕子は、
「大丈夫ですか?」
と光の母親に声を掛けた。
光の母親は、奇妙なものを見るような目で娘が行った風呂場の方を見ていた。
「・・・見たことない。あんな光を私は、見たことがない。」
「光は、小さい頃から私に口ごたえをしたことはなかったわ。私を拒否したことはなかった。」
と、茫然とした様子で、光に拒絶され、宙に浮いたままの手をただじっと見つめている光の母親に裕子は、
「おばさん、落ち着いて」
と声を掛けた。
「裕子さん。光の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったわね。鼻も真っ赤だったし。ティッシュを渡してやらなきゃと思ったんだけれど、体が動かないかったの。せめて肩を抱いてやろうと思ったんだけど、拒絶されちゃったわ」
そう言うと、光の母親は、ソファーにへたり込んだ。
「おばさん・・・。」
「私も今の光みたいに、ちゃんと自分の本当の気持ちを言えば良かったのよね。」
そうつぶやくと、光の母親は、訥々と話し始めた。
光が生まれて間もなく、光の父親は、ある日突然、仕事に行けなくなってしまった。今思えば、突然ではなかったのだろうけど、仕事が上手くいかなくて、会社で辛い目に合っていたことに私は気付かなかったの。きっと今なら、心の病気とかパワハラとか傷ついた人に対する用語があるんだけれど、当時はそんなものはなくて、傷ついた人は理不尽に傷つけられるままだった。
私は、何も言わず布団の中から出てこない夫に最初は、何か病気なんじゃないかと心配して、いろいろと声をかけたのだけれど、何の返事も返ってこなくて、食欲はないみたいだけれど病気じゃなさそうだから、かける言葉もなくなってきて、そのまま放っておいた。いや、放っておくというより、夫にまで構っていられなかったの。だって、光はまだ4ヶ月になったばかりで、世話をするだけで精一杯だったし、夫の会社から何度も電話がかかってきて、すいません。すいません。と言っている間にだんだんお金もなくなってきて、どうしようもなくなって困っていたところに義母がやってきて、
「あんたが息子をこうしたんだ。自分は元々、結婚には反対だった」
とか、とにかく悪いのは全部私で、これ以上、私と一緒にいたら息子は死んでしまうから離婚してくれって言われて、その時の私は何も考えられることができなくて、言われるがままに離婚した。悲しいというよりもカーテンが閉まったままの薄暗い部屋に夫が布団をかぶったままいて、赤ちゃんの泣き声がして部屋はちっともきれいじゃなくて、たまに見かける鏡の中の自分は髪はボサボサで目の下にクマを作って一体誰?って感じで、
・・・この誰も幸せじゃない生活が終わるんだなって、義母の言う通りに離婚して実家に戻ってっていう日々を他人事のように感じていたの。
光と2人になると、赤ちゃんの光が成長していくスピードに振り回されて、やっぱり何も考えられなかった。とにかく光が可愛くて、光がいれば何も怖くないし何もいらなかった。私には光が全てだった。光が大きくなるにつれて、周りの人が、光はいい子だいい子だと褒めてくれるようになったわ。私自身は、勉強ができたり運動ができたり、人から何か特別に褒められたことがなかったから、嬉しかった。
光ちゃんは、おとなしくて素直だと褒められたら、大人しくて素直であることを光に求めた。勉強が出来て偉いねと言われたら、勉強ができることを求めた。どこかに義母の言葉が残っていて、夫のように、私のせいで光が悪くなってしまってはいけないと思っていたの。
「違ったのね。私は間違うから、私がいいと思っても悪くなってしまうから、他の人が良いって言うことを必死に探して、光に求めてた。そうしたら、光は悪くならないって思ってた。」
「おばさん・・・。」
裕子は、光の両親のことについて、健太からだいたいのことは、聞いていたが、改めて光の母親から聞くと、光の母親を毒親だとは、思えなくなった。その時、
「お母さん」
と声がした。いつの間にか光が風呂場から戻って来ていた。
「光、ごめんね。」
そう言うと光の母親は、泣きながら
「あの時、おばあちゃんにあんたはダメだから、お父さんと離婚しなさいって言われたときに、今の光みたいに全身の力で本当の気持ちを言えばよかったのよ。このままがいいって。ただパパが元気になるのを待ちたいって。
ごめんね。あの時、お母さん、全然、力が出なかったの。こうやって話すことも、声すらも出なかったのよ。どうしてかな。本当に全部全部、光に悪いことをしたね。そんなに嫌だったんだね。お母さんが本当にいいと思うのは、光が幸せに笑うことだよ。どうしたら光が幸せに笑えるのかは、お母さんは分からないけど、ごめんね」
力なくそう言う母親を光は、抱きしめていた。
母の傷ついた過去を私は知らなかった。自分の見栄や飾りじゃなく、私を父のようにしてはいけない、自分は間違うから、人の言う通りにしないといけないと、母なりに必死で正解を求めていたのだ。愛してくれていた。こんなにも私を愛してくれていたことが、もう十分に分かったから、私は大丈夫だ。
「お母さん。私もお母さんの気持ちを何も知らないでごめんね。でも大丈夫だよ。お母さんが間違ってたのは、お母さんの気持ちを言ってくれなかったことだよ。私は、お母さんの気持ちが分からなかったから苦しかったんだよ。苦しかったけど、お母さんのおかげで私には頑張る力がついたから、ちゃんと幸せだって笑えるよ。お母さんが私のことを大事に真剣に思ってくれてて、すごく幸せだよ」
そう言って笑うと
「涙でぐちゃぐちゃだよ」
と言って母も笑った。母も涙でぐちゃぐちゃだった。