転職して良かったと、絶対に言ってやるっつ‼
転職先の予期せぬ配属先に光は、悩み、従兄弟の健太兄の助言を求めるべく、健太兄の勤務する警察署の柔道教室を訪れた。そこで、光は、とにかく警備員をやってみようと決心をするのだった。
5.健太兄と道場
その週の水曜日。光は、小坂警察署の柔道場に来ていた。
ここは、健太兄が勤務する警察署の道場だ。警察署には柔・剣道の上位段者がいて地域の子供達にそれぞれの術科を教えている。光も小学校1年生から3つ年上の健太兄と一緒に地元の警察署の道場に通っていた。小学校の卒業と同時にやめてしまっていたのだが、前職を退職して落ち込んでいた光に
「お前、どうせ暇なんだろ。だったら、俺が勤務している警察署の子供柔道教室に来いよ。ちょうど、小学6年生の女の子がいるんだ。その子の稽古の相手になってやってくれよ」
と、声をかけてくれたのだった。特に断る理由もなかった光は、健太兄に誘われるまま、こうして道場に来ている。傷ついて人間不信になっていた光が、何とか心を死なせずにこられたのも、この道場で、子供達と無心に柔道ができたおかげだった。一生懸命に稽古に通ってくる子供達に接することは、何よりもの癒しになった。病院が同じ小坂市にあったのは、偶然にしては、出来過ぎだけれども、本当に健太兄には、感謝している。
光が、稽古の相手をしている小学校6年生の美咲は、身長150㎝で階級は、マイナス55㎏級だ。美咲は2年生の時からここに通っているそうだ。なかなか強いらしくて、小学生最後の大会で優勝したいと、一生懸命に練習している。光とペアになって半年くらいになるだろうか。今、光の道着の襟を両手でしっかりと掴んで、
「えいっつ。えいっつ。」
と気合の入った声を出して、打込み稽古をしている様子は、一人前の柔道家然とした雰囲気がある。子供だからって油断をしていたら、光なんか、あっという間に投げ飛ばされてしまう。光は、ちっとも強くないのだ。この後、乱取り稽古をして約1時間の稽古は終了となる。
「ありがとうございましたっつ。」
一列に正座して並んだ子供達が気持ちの良い挨拶をする。光は、子供達と向き合う形で先生の左側に座って、
「ありがとうございました。」
と子供達と同じように頭を下げた。そして、体を膝から右へ90度向きを変えて、先生に正対し、もう一度、
「ありがとうございました。」
と礼をした。先生の向こう側には従兄の谷 健太がいて、光と同じように先生に礼をしていた。
母親同士が姉妹である健太は、幼い時から、兄のような存在だった。健太兄になら、何でも相談できる。困った時の拠り所だ。
「で、どうなんだ?オペレーターの仕事は?」
健太兄が、聞いてくる。
稽古が終わって、光は、健太兄の家にお邪魔して、晩御飯をご馳走になっていた。奥さんの裕子さんには、あらかじめ話をしておいてくれていたらしく、裕子さんは、光の分も晩御飯を用意してくれていた。
鯛のお刺身・菜の花の辛子和え・新じゃがの煮っころがし・クコの実入り新玉ねぎの甘酢漬けで、3人で飲んだ後、
「はい、就職のお祝いです。」
と裕子さんが、綺麗なちらし寿司を出してくれて、新ワカメのお吸い物と一緒にいただいている。
「はああ~。美味しい。本当に美味しい。裕子さん、ありがとうございます。健太兄は、本当に幸せだよ。毎日、こんな美味しいご飯が食べられてさ。」
美味しさと裕子の心遣いに感激して泣きそうな光は、ひたすら、食べ続けていた。健太兄が結婚してから、稽古の帰りに何度かお邪魔しているが、裕子さんは、本当に料理が上手い。そして優しい。
「だろ、俺もそう思う。ちなみに、新じゃがの煮っころがしと新玉ねぎの甘酢漬けは、昨日のうちに俺が作っておいた。てか、お前、食ってばっかりだな?仕事どうなんだよ」
再び、健太兄が聞いてきた。
「煮っころがしも最高だよ。そう、仕事、仕事なんだよ。聞いてよ~」
と、光は、一気に話した。途中、黒田さんが、光が、柔道の経験者だから警備員に応募したと勘違いしている件は大ウケだった。
「何だそれ?すごい向こうにいいように勘違いされてるな?」
爆笑する健太兄を
「ちょっと茶化さないの。」
と、裕子さんはたしなめて、
「それで、光ちゃん、どうするの?そのままそこで働くの?」
心配した顔を光に向けてきた。
・・・裕子さんは、優しいな。本当のお姉ちゃんみたい。健太兄、裕子さんと結婚してくれて、ありがとう。光は、2人の優しさに感謝して、
「裕子さん、健太兄。私もどうしようかと思ってた。正直、今日は、話を聞いてもらって、相談したいって思ってたの、でもこうして、しっかりと聞いてもらいながら話したら、決心できた。私、警備員やってみる。もう就活をするのに疲れたっていうのもあるけど、いいように勘違いされてるのに乗っかってみるよ。」
と、しっかりと2人の目を見て言えた。2人とも真剣な顔で聞いてくれて、特に裕子さんは、心配と安堵の混じった表情で、うんうんと頷きながら聞いてくれた。
「分かった。改めて再就職おめでとう。しっかりやれよ。引き続き俺達は応援してるからな。」
健太兄が嬉しい言葉をくれる。
「ありがとうございます。こちらこそ、引き続きよろしくお願いします。」
光も頭を下げて2人に応えた。