第90章 本格推理小説のすゝめ(3)
「ふう。なんとか間に合った」
やはりあんなに水をがぶ飲みしなければよかったと後悔しながら慌てて入った弥生野家のトイレ。
ほっと一安心かと思いきや、思いもかけぬ混乱に陥ることになった。
「・・・これは・・・トイレ・・・なのかな?」
目の前の床には白い大きなスリッパのような物体。
木の蓋が被されている。
おそるおそる蓋を持ち上げてみると、穴があいている。
穴の中は暗い。
何かがこの穴から這い出して来て、足首をつかまれて引きずり込まれる・・・などと言う想像は馬鹿げているとわかってはいたが、念のため、そう、万が一のために片手をドアに引っ掛けて体を支えながらそろりそろりと穴を覗き込んでみた。
もちろん、何も出て来はしなかった。
しかし、穴は深く暗く、底がどうなっているかを確認することはできなかった。
ふと思い出した。
あれはテレビだったか、それとも古い本だったか、確か昔のトイレは“ワシキトイレ”という、地球の日本から輸入してきたトイレを使っていたという話を聞いたことがあった。
今では日本でもジャペンでも“ヨウシキトイレ”がほとんどで、今どきの子どもは“ワシキトイレ”の使い方を知らなかったりするのだと。
自分もご多分に漏れずの現代っ子で、“ワシキトイレ”は『初めまして』だ・・・いや、このままではご多分には漏れずとも別の物が漏れてしまう・・・などと、慌ててスマホを取りだし、“ワシキトイレ”の使い方を検索した。
便利な世の中になったものだ。
ネット上には“ワシキトイレ”の正確な使い方が細かく書かれてあるサイトがたくさんあった。
そしてこれは“ワシキトイレ”の中でも特に“ボットンベンジョ”と呼ばれる太古の遺産だということもわかった。
こうして、無事に用を足し終えたのだ。
「さすが、由緒正しい旧家だけあるなあ」
トイレを出て、始めに案内された応接間の方に戻ろうとした時、廊下の奥から60代後半であろうと思われる、グラスコード付きのロイド眼鏡をかけた和装の男性が歩いてきた。
「おや。お客人。どうなされましたか」
身なりや口ぶりから、弥生野家の家族ではなく使用人の一人であろうことがみてとれた。
「すみません。ちょっとお手洗いをお借りしていました・・・ええと・・あなたは・・」
「わたくしはランド・スチュワードでございます」
「ら、らんどすちゅわーど?!」
「何かお困りの事がございましたら何なりとお申し付けください」
この純ジャペン風邸宅でその格好で?
猫探偵がつぶやいた言葉が頭の中に浮かんだ。
しかし、そんなツッコミを入れている暇はない。
ちょうどよかった、何かお困りの事がございますので何なりとお申し付けしましょうと、老齢紳士のランド・スチュワードに例の写真を見せた。
「この女性、弥生野空さんっていうんですけど、ご存知ないですか」
ランド・スチュワードは写真を受け取り、眼鏡を上に持ち上げてじっと見つめていたが、どうやら見覚えがないようだ。
「こちら弥生野の親族に、“空”という方はおられないと存じます」
~~~~~
廊下を進んでいた赤岩タルトと猫探偵は、再びパーラー・メイドを見かけて声をかけた。
「あの、メイドさん」
赤岩タルトの呼び声に、パーラー・メイドが振り返る。
猫探偵が、当主から屋敷内での調査の了承を得たことを報告する。
「そうですか。では、メイドは私パーラー・メイド以外にも、奥様のお世話係であるチェンバー・メイドと皿洗いのスカラリー・メイドがおりますので、私の事は田中とお呼びください」
「わかりました。では田中さん、早速ですが弥生野空さんというお名前を聞いたことはありませんか」
メイド多いな、と頭をよぎった赤岩タルトと猫探偵だったが、何食わぬ顔で話を続けた。
「空さんですか?いえ。この家にはそのようなお名前の方はいらっしゃいませんし、私個人でも空さんという知り合いはおりません」
「そうですか。ありがとうございました」
弥生野空については何の収穫もなかったが、2人の探偵は、弥生野家の人間が当主の浅比、当主の奥方の佐都、そして先程当主の話に出てきた娘の香澄とその兄の乃耶麻の4人だということ、そしてここ弥生野邸における部屋の配置について簡単な説明を受けた。
2人はメイドの田中と別れ、まずは娘の香澄に話を聞くべく廊下を進んでいった。
途中、トイレの前で話をしていた2人と合流する。
「今、こちらのランド・スチュワードさんにお話うかがっていたところなんですけど・・」
「・・・ランド・スチュワード?」
「この純ジャペン風邸宅でその格好でかニャ?」
ランド・スチュワードは、「それではわたくしは職務に戻らせていただきます」と恭しくお辞儀をして、廊下を戻っていった。
~~~~~
3人は弥生野家の令嬢香澄の部屋を訪れた。
3人が手早く自己紹介をすると、“探偵”と聞いて少し委縮したのか、か細い声で答える香澄。
浅比の言う通り、年齢は20代前半と言ったところだが、顔は写真の弥生野空とは全くの別人だった。
髪をお団子にまとめて、浴衣のような軽い着物を着ている。
「あ、はい。どうぞ中へ」
3人は部屋に招き入れられる。
中は和室で、しかし若い女性らしく可愛らしい小物がたくさん飾ってあった。
「この『ポニュポニュプディング』のぬいぐるみ可愛いですねー。あ、『グッバイケティ』ちゃんのグッズもたくさん!『グッドまる丸』懐かしいなあ。ヨンリオお好きなんですねー」
「あなたもヨンリオファンなんですの?こっちにも『私の旋律』の限定品がありますのよ。ご覧になります?」
などと、若い2人の女性陣は早くも意気投合し、やいのやいのと騒いでいる。
香澄の緊張もほぐれたようだ。
「あの、すみません。ちょっとお聞きしたい事があるのですが」
赤岩タルトが遠慮がちに声をかけ、テーブルを挟んで3人は改めて香澄と向かい合って着席した。
「失礼しました。私が弥生野家長女の弥生野香澄です。で、探偵さんがどういったご用件で」
「はい。人を探しています。弥生野空さんというのですが」
「弥生野空・・ですか。いえ。知らないですわ」
赤岩タルトは胸ポケットからスマホを取りだし、例の写真を見せる。
香澄は赤岩タルトの手の方に首を傾け、スマホ画面を覗き込む。
香澄は束の間、何か考えるような素振りを見せたが、かぶりを振って、
「親戚や知人ではないと思いますわ」
と言った。
ここでも手掛かりは得られなさそうだ、と3人が思い始めた時、トントントン、と、襖の縁を軽くノックする音が聞こえた。
「香澄さん、入りますよ」
と言って入ってきたのは、すらっとした50代くらいの紬を身に付けた夫人。
この人物が当主の奥方である弥生野佐都であろう。
探偵たちはもちろん佐都にも話を聞いたが、結果は『右に同じ』であった。
~~~~~
香澄と佐都に礼を言い、3人は香澄の部屋をお暇した。
佐都が香澄の部屋に来てくれたおかげで、佐都の部屋を訪問する手間が省けた。
3人は弥生野家の人間でまだ顔を合わせていない最後の一人、弥生野乃耶麻の部屋へと急いだ。
ズンズンズンズン
「タルト所長、何か聞こえるニャンよ」
「ああ。僕にもかすかに聞こえる」
「でもこれって、音というより・・・振動?」
その重低音は乃耶麻の部屋の中から漏れてきているようだ。
赤岩タルトは乃耶麻の部屋の襖をノックして声をかけたが、応答はない。
「襖の上の欄間に隙間があるのニャ。オレっちがあそこから部屋の中に忍び込んでみるのニャ」
猫探偵が助走をつけ、赤岩タルトの肩を踏み台にして欄間に飛びつこうとしたその時、ガラッと襖が開いた。
猫探偵が驚いて出してしまった爪が、赤岩タルトの肩に深く食い込んでしまった。
「痛い痛い痛い痛い痛い!!!!」
赤岩タルトは悶絶し、猫探偵は平身低頭でペコペコ謝り倒している。
襖を開けたのは他ならぬ、弥生野乃耶麻。
上前身頃がアップルグリーンで下前身頃がカドミウムイエロー、そして後見頃がシュリンプピンクの法被を着て、手にはベースギターを抱えているが、もっとも目を引いたのは彼の髪型だ。
肩まで伸ばした長髪は、法被と同じ配色を施されていたのである。
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「♪HEY!YO!探偵SAN!YOUの名前は何と言う?要するにYOU何の用?SAY!」
ズンズンズンズン
弥生野乃耶麻は、屋敷をうろつく正体不明の3人組をすんなりと部屋に入れてくれたのだが、3人の自己紹介もろくすっぽ聞こうとせずにさっきからこの調子である。
ズンズンズンズンの重低音は乃耶麻の部屋で流されていたラップの音源だった。
「今、名前言いましたよね。赤岩タルトです。要件も先ほど言いましたけど、この人を探しているんです」
赤岩タルトは乃耶麻にもスマホを見せた。
「こんな姉ちゃん知らないNEー!」
3人は早々に乃耶麻の部屋から退散したのだった。




