第88章 本格推理小説のすゝめ(1)
タクシーを降りてからどれくらい歩いたであろう。
山道を歩く3人の顔には等しく疲労の色が浮かんでいる。
正確に言うとすれば男性1人、女性1人と猫1匹。
男性と女性の額には玉のような汗が今にも零れ落ちそうに光っている。
タオルで拭った1秒後にはこの有り様だ。
一方、猫はというと、しばしば狭い場所の喩えとして取り沙汰されるその額には汗粒ひとつ見当たらない。
これは彼―この猫はオスである―が強靭なる体力を有しているからではなく、猫は足の裏以外に汗腺が存在しないという単なる生物学的特徴によるものなのである。
「まだ見えてきませんね」
「もうずいぶん歩いた気がするんだけど。エ・クレア君、あとどれくらいだい?」
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2日前、メールで飛び込んできた依頼。
手紙の宛先に存在しないペンフレンド。
少し風変わりなこの謎を解くために、今3人はこの山道の先にある弥生野邸へと足を運んでいる。
依頼人佐倉 桜の文通相手であり、今回の調査対象であるのは弥生野 空、23歳女性。
ここに来る前の下準備として、探偵たちはまず、桜が手紙を送っていた住所を調べた。
goolgleマップ上で弥生野邸であろう建物を見つけた彼らは唖然とした。
周りには建物をあらわす記号が全く見当たらない。
ただ、邸から延びる白く細い線が山の中を通り、駅の方へ延々と続いているだけだった。
「ポツンと一軒家」
青山スフレがポツンとそうつぶやいたことを、赤岩タルトは思い出していた。
そしてその2日後、こうして今、山道を登っているのだ。
RR探偵事務所から電車で30分揺られ、そこからタクシーに乗った。
タクシーは小さな駅から20分ほど走り、山間へと進む。
道路の幅も狭くなり、行き交う車もなくなった頃、前方に白く低い金属製の門が見えた。
タクシーの運転手はその門の前で車を停め、
「ここから先は弥生野家の敷地だよ。タクシーは入れないから歩くしかないね」
と、後部座席に並ぶ3人に向かって事も無げに言い放った。
「え?ここから歩くんですか?」
タクシーのダッシュボード上に取りつけられているカーナビの画面を、身を乗り出して覗き込みながら赤岩タルトが運転手に向かって問いかける。
現在地を示す赤い自車マークは目的地の弥生野邸から遠く離れていて、たとえこのまま車で進んだとしてもカップラーメン・・・いや、カップうどんが出来上がるまでの間には絶対に到着できないだろう。
いや。それどころか、到着までにはカップうどんを原料から作りあげることができるのではないだろうか、と赤岩タルトは思った。
ましてやその距離を徒歩で行くとなると・・・・
赤岩タルトと並んで座る他の2人も、「本気で言ってるんですか?冗談だと言って下さい」と運転手に目で訴えかけている。
「招待客だったら使用人がここまで迎えに来てるんだけど今日はいないようだね。お客さん、アポはとってるの?」
どうやら弥生野家は地元の名士らしい。
この運転手も職業柄、いろいろな噂を耳にしているようだ。
「すごい立派なお屋敷らしいよ。もちろん私は見たこと無いんだけどね」
と、運転手は言った。
先程アポイントメントの有無を聞かれたが、一応昨日電話を入れて面会の約束は取りつけていたのだった。
弥生野家に直接調査に出掛けることを決めた際、青山スフレは「所長!ここはやっぱり潜入捜査ですね。私はイチゴ(風味)のちりめん(じゃこ)問屋のご令嬢で、所長とエ・クレアさんはそのお付きの人。旅の途中で道に迷い、一夜の宿を求めて弥生野家に迷い込んだ・・・という設定でいきましょう!疑われたら、キュウリの輪切りを貼り付けたこの小さい茶筒を出して、『ひかえおろぉー』ってやって下さいね。はい、スケさん、カクさん!」と、妄言を吐いていたのだが、いつものように華麗にスルーされ、赤岩タルトの判断により、人探しをしている探偵だと名乗って、ごくごく常識的なコンタクトを電話で取った。
桜の話では、弥生野家の人間に“けんもほろろ”な対応をとられたとの事だったが、話し口調はお世辞にも愛想が良いとはいえないものの、意外とすんなりと訪問の了解は得られた。
門前払いも覚悟していた赤岩タルトだったが杞憂に終わったようだ。
人探しの“人”について詳細に聞かれることもなかったので、その事も赤岩タルトを安心させた。
一度、桜がその件で電話をしている。
自分も“弥生野 空”を探している事を電話口で明かしてしまうと、訪問すら受け入れてもらえなくなるおそれがあった。
訪問の日時を伝えた後、弥生野家の人物はこう言った。
「申し訳ありませんが、当日お出迎えは出来ませんので、入口の門をお開けになって、そのまま屋敷の方へお越し下さい。内側に閂がかかっておりますが、門は低いですので上から手を伸ばしていただければ簡単に外せます。入った後は元通りに門を閉めて閂をかけていただくようお願いいたします」
この時はまだ、弥生野家の立地条件について知らなかった赤岩タルトは、お出迎えなんて大げさだなと思いながら、この人物の話を聞き流していた。
まさか、その“入口の門”とやらが、邸からこんなにも遠く離れているだなんて思いもよらなかったのである。
今日ここに来て運転手から弥生野家についての話を聞き、“お出迎え”の意味と、それを一見愛想が悪く聞こえる四角四面な口調で告げた男性がおそらく“弥生野さん”ではなく、弥生野家の使用人であろうという事を赤岩タルトは理解した。
“地元の名士”であるがゆえに、人探しに困っている人間をそう無下に扱うことはできなかったのかもしれない。
一応は話を聞いてくれそうなので、ここはうまくやらないといけないぞ、と赤岩タルトは気を引きしめた。
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「まだもうちょっと歩かないといけないみたいニャ。だけど、ここスマホ使えてよかったニャ。電波は安定してるのニャ」
猫探偵エ・クレアが、肉球でも操れる“にゃんこ仕様”のスマホを片手に、先程の赤岩タルトの質問に答える。
進む山道は弥生野家の車が快適に通れるように舗装がしてあり、いわゆる“山登り”といった厳しいものではなかったが、だらだらと続く上り坂に、3人の体力は徐々にすり減らされていく。
道の両側には木が生い茂り、直射日光を避けられたことは幸いだが、3人の体内にあった水分は、いまやその多くが目に見えない気体となり山の清々しい空気中に放出されている。
「の・・・喉が渇きました」
「ウニャ~。水筒持ってくればよかったのニャ~」
「こんなに歩かされるとは思ってもいなかったからねぇ」
その時、3人の前方に大きな箱のような物が見えてきた。
「あれ、何でしょうか」
周りをショッキングピンクで塗りたくられた、高さ180cmくらいの直方体が、自然豊かな山道の端で異様な存在感を放っている。
しかし、駆け寄っていち早くその正体を突き止めようとする者はいなかった。
直方体の箱は進行方向にあるのだ。
わざわざ残り少ない体力を削って、好奇心が満たされるまでの時間をたった数秒短縮する気が起ころうはずもない。
一歩一歩ゆっくりと近づくにつれて、道に向かって立っている箱の前面が見えてくる。
「あれは自動販売機なのニャ!!!!」
「え?こんな所にかい?」
「ここ、弥生野家の敷地内ですよね?」
いぶかしがる3人だが、背に腹は代えられない。
渡りに船、と一気に色めきたった。
「助かったのニャ!所長!もう喉がパサパサなのニャ!」
「買いましょう!私も限界です!!」
「うん!お金は持ってる!買おう!!」
3人は、先程までの足取りが嘘であったかのように、我先にと自動販売機へと駆け寄った。
そして、自動販売機のラインナップを眺めたが・・・・
あつあつお汁粉 780イィエン
コトコト煮込んだコンポタ 855イィエン
カレーは飲み物だ 980イィエン
粉だらけきなこもち 470イィエン
水(5Lペット) 1500イィエン
「ニャンでやねん!!!!」
「・・・どれにしようか」
「・・・どれにしましょうか」
「あ、『カレーは飲み物だ』は“つめた~い”のランプがついているな。僕はこれにするよ」
「余計喉が渇くのでは?・・・私は水の5Lペットボトルにします」
「5Lの飲料水ペットボトル初めて見たのニャ。荷物になるニャ。仕方ニャい。オレっちはコンポタを冷まして飲むのニャ」
「ていうか、値段設定狂ってない?」
「山小屋並みですね」
猫探偵は無言でコーンポタージュ缶を振り回している。
冷ましているようだ。
3人は各々確保した飲料を補給しながら、再び山道を歩きはじめる。
猫探偵がぴょんと飛び越え、中から閂を外して入ったあの門からしばらくは、今回の調査の作戦などを話しながら和気あいあいと歩いていたのだが、今ではもうほとんど会話もなくなった。
重苦しい空気が、さきほどまでさわやかな木陰を作っていたはずの木々を、暗い影を落とす鬱蒼とした森へと降格させた。




