婚約破棄しんぼ
私、クリニータは伯爵家の娘。今日の夜会でみんなに食べてもらうためにクッキーを焼きましたの。
その席には婚約者でもある王太子殿下もいらっしゃいます。普段王太子殿下は私を軽んじた感じが見られるので、ここで女の子らしい趣味を見せられるし、殿下の胃袋も捕まえられるので一石二鳥ですわ。
夜会に到着し、私は皿に盛り付けたクッキーを淑女らしくしずしずと歩きながら王太子殿下の席に運びました。そこには、王族や貴族の面々も座っておられました。そして、王太子殿下には公爵令嬢のサンドラさまがべったり貼り付いております。
でも私は婚約者。王太子殿下に手作りクッキーをうやうやしく差し出しました。
「殿下。私がこのクッキーを焼きましたの。どうか召し上がってください」
すると一堂静まり返って、辺りには失笑が漏れました。
そして王太子殿下は嫌らしく笑いました。
「クッキーだと? しかもキミの手作りだって? そんなものがこの高貴な口に合うわけがない」
その言葉に同席したかたがたは笑いだします。サンドラ嬢も気品ある姿で私を笑ったのです。
「まったく。貧乏伯爵家の娘はお買い物も知らないのかしら。こんな娘は殿下に相応しくありません」
「そうだな。親に言われてした婚約だがもうやめてしまおう。そして真の婚約者はサンドラ、キミだ」
「まあ。まだそこに伯爵の娘がいるのに可哀想ですわ」
「別によいだろう。それにしても君が買ってきたこのタルトタタンは旨い。まさに絶品だ」
「お聞きになりまして? クリニータ嬢。殿下はタルトタタンがお好みなの。まああなたにはそのクッキーがお似合いだわ」
そういうと、高貴なかたがたは声を上げてお笑いになりました。私は自分が拵えたクッキーが粗末に見えたうえに婚約破棄された悲しさも相まって泣き出しそうになってしまいました。
「王侯貴族のかたがたは滑稽だねぇ!!」
その時でした。後方から大きな声で貴族のかたがたをなじる声が聞こえてきたので、辺りは静まり返り、そちらに目を向けました。そこには新聞記者らしき若い男が椅子に座ってこちらを睨むように見ていたのです。
「なんだと貴様!」
その声に激怒した貴族のかたがたは、青筋を浮かしながらその男性に声をあげたのです。
「聞こえましたか。そりゃ失礼。独り言のつもりだったのですが」
「無礼な記者だ! どこの会社だ!」
「私はヤカマーオという都新聞のものですがね」
「都新聞のヤカマーオだな! さっそく会社に連絡してクビにしてやる!」
「お好きにどうぞ。それよりも市民は食べもしないクッキーの味を論ずる貴族のかたがたの記事を楽しみにしていることでしょう」
「な、なんだと?」
「婚約者が誠心誠意作ったクッキーも食べずに、売っているタルトタタンのほうが上だと決めつけ婚約破棄をした王太子殿下など誰も信用しないでしょう」
「ま、まあ! 私のタルトタタンをバカになさるの? 殿下! こんな民草、処刑してください!」
み、みんな怒り出してしまったわ。私のクッキーを庇ってくれているみたい。一体この新聞記者は何をしようとしているのかしら?
するとその新聞記者は私に近づいて、クッキーを掴んで口の中に放り込んだのです。
「サクサクサク。くー、うまい。適度な甘さとサクサク感。そしてたっぷり使われた新鮮なバターの風味。これは採れたての小麦粉、タマゴ、バターでしか出せない味だ」
そ、その通りだわ。私はその日に挽いた小麦粉を使い、自らの鶏小屋に走ってタマゴを拾い、近所の牧場からバターを分けてもらったの。全ては今日のおもてなしのために──。
そこに王太子殿下は叫んだのだ。
「そ、その程度で味が大きく変わるわけはない! この俺は毎日の美食に飽きている身だ。つまらぬクッキーなど食べたくはない!」
「ご高説は結構。まずは食べていただきましょう」
彼は私から皿を受けとると、貴族のかたがたにクッキーを振る舞った。
「こ、こんな不恰好なクッキーが旨いはずは──、サクサクサク……。こ、これは!」
「美味しい! はっ」
慌てて口を押さえるサンドラ嬢。みんな下を向いて黙ってしまった。
そこに新聞記者のヤカマーオさんは話し出す。
「みんな買ったものが上だと思っている。伯爵よりも公爵が上だと思うように。しかし真心がこもったクッキーのほうが、買ったタルトタタンよりも美味しいのです。ましてやこのクッキーは彼女が愛する人を思って作ったものなのだから間違いないのです」
す、すごい。この人は私作ったクッキーのほのかな香りを嗅いだだけで、私の苦労を分かってくれたのだわ。
しかしその時だった。
「ロージー! この愚か者め!!」
「お、俺の名前を……! 誰だ!」
ヤカマーオさんと共に、みんなそのほうに一斉に目を向ける。するとそこには、隣国の帝王が座っていたのだ。
「「「帝王ユージーン!!」」」
それは隣国、ビショ・クック・ラブ帝国のカイザー、ユージーン陛下だった。彼はヤカマーオさんのファーストネームをなぜか知っており、ヤカマーオさんに詰めよったのだ。
「ロージー。貴様にクッキーの味が分かるのか?」
「くっ。ユージーン! 当たり前だ! クッキーは焼き菓子の初歩だ!」
それにカイザーは高笑いをしたのちに、ヤカマーオさんを睨み付けた。
「貴様は致命的な失敗をした」
「な、なにがだ!」
「先ほどなんと言った。クッキーにどんな風味があると?」
「そ、それは、バターの……ハッ!」
ヤカマーオさんの顔がみるみる青くなる。それを見てカイザーはますます声を上げて笑った。
「どうやら気づいたようだな。普通のクッキーのバターの風味はそれほど強くない。バターの風味が強く感じるのは、バターの量が二倍以上入る『サブレー』のほうだ、たわけ! これはクッキーではない、サブレーなのだ! このような毛唐のあさましい焼き菓子ひとつの区別もつかぬようでは貴様の、革命を起こして余を倒すなどという言葉なぞただのたわごとだ! 愚か者! 出て行けィ!!」
そしてカイザーの高笑いがホールを包み込む。ヤカマーオさんは真っ青な顔のまま会場を出ていこうとしていた。
そこに私の後ろから声がした。
「クリニータ。サブレーをもう一つもらえるかな?」
そこには、罰の悪そうな顔をした王太子殿下がいたが、私は一礼するとヤカマーオさんの後を追っていた。
「ヤカマーオさん!」
私はヤカマーオさんに追い付いて、話しかけたのだ。
「ありがとう。あなたのお陰で私は名誉を回復することができたわ」
「そうかい。そりゃよかったな」
「あなたはただの新聞記者じゃないわ」
「いや。俺はクッキーとサブレーの違いにも気づかないただの新聞記者だよ……」
私はそんなことをいうヤカマーオさんにくっついてどこまでも歩いていった。
◇
それから数年後。
革命がおこって王制はなくなり、民衆による政治が始まりました。
その指導者の隣には、平民となった私、クリニータがいたのです。私の夫は帝国の皇子だったらしいのですが、そんなことは関係ありません。
私たちは、自分たちの力で自由と平和を勝ち取ったのです。やがてその自由の力は世界全土に広がっていきました。
そして夫とともに、帝国のカイザー・ユージーンに料理対決を挑むものの、何度も辛酸を舐め、最終的には和解し合うのは、また別のお話。