SCENE6
フラワーデザインの薄手の白いレースカーテンが、彩光によって折り重なるように花がひらく。すでに朝の陽光は十分な光を供給していた。お目覚めのシーちゃんが、ペットボウルの水を飲みはじめた。光の花がひらいたレースカーテンをあけると、暁光が神宮の森を赫く包み、後方に連なるビル群までも霞みながら赫く染めていた。赫く目覚めはじめた都心の街は、森羅万象すべてが地鳴りのように動きだしていた。
やわらかな間接照明の洗面台で、やや寝不足気味の顔を洗いながら、昨夜のことを思いだす。代々木にある「LIFEson」というイタリア料理店で、不意にワタシは誰かに見られているような気がした。アフリカの草原で草叢に身を隠し、じっとシマウマを狙うライオンのような殺気に満ちた視線だった。
遅れてやって来た同じサロンモデルのマユにワタシは、黒ぶちの伊達メガネをはずし何気ない様子を装い、ミミズの声ぐらいの小さな声で、 ──誰かに見られているかもしれない── と囁いた。
それからワタシは、読みかけのまま木製テーブルの上に置いていた村上春樹の新潮文庫『1Q84 BOOK1〈4月-6月〉前編 』のページを閉じて、お気に入りの赤い丸みのあるフォルムのハンドバッグにしまった。すると! 不思議なことに、つい今しがたまでワタシをとらえて離さなかった殺気に満ちたライオンのような視線が、突然切れた電話のように、きれいさっぱりワタシの感覚から消え去ったのだ。
──あれはなんだったのだろう、ちょうど『1Q84』を読んでいたから、あるいはワタシのなかでフィクション的な妄想が膨らみ、架空の視線を生み出してしまったのだろうか? 単なる妄想だったのかしら?
ふと、背後に視線を感じた。
やわらかな間接照明で明るい洗面台の鏡には、すっぴんで無防備なワタシの顔と、少しだけ体毛が照り映えたシーちゃんがおすわりをして、じっとワタシを見つめている姿が映っていた。シーちゃんは、早く朝ご飯が食べたいようだ。
──シーちゃん、ごめんなさい、すぐに用意するから、もうちょっと待ってて!
──それらは、単なる妄想ではなかったかもしれない──
シーちゃんに朝ご飯をあげて、ブラームスの交響曲第1番を聴きながら、ワタシもエッグトーストとサラダを食べた。こうしてクラッシック音楽を聴いていると、崇高な世界へ導かれこころが浄化されていく。それはワタシにとって大きなこころの恢復だった。iPhoneの Instagramを確認すると、DMのメールが1通届いていた。 ──ワタシは、モデル等の仕事依頼をDMで受け付けていた──
フラワーデザインのレースカーテンはより明るく花がひらいている。今日は午後から撮影があった。だがすぐにメールをひらくのを躊躇った。なぜなら、ガラステーブルの上に置いてある村上春樹の新潮文庫『1Q84 BOOK1〈4月-6月〉前編 』のページがひらいていたのだ。もちろん朝から読書はしていない。ワタシが無意識にひらいたのだろうか? でもそのような記憶はない。あるいはシーちゃんが、イタズラをしてページをひらいたのだろうか? それにしてはテーブルの上に置いた文庫本の位置はそのままだ……
ワタシは思い切ってメールをひらいた。内容はあるブランドの、モデルとしての撮影依頼のメールだった。しかしながら愕然となった。はじめての依頼主ではあったが、会社名が「株式会社小さな人たち」だったから……
ぬいぐるみのようなシーちゃんが、おすわりをしてワタシをじっと見つめている。ワタシもシーちゃんを見つめかえした。フラワーデザインのレースカーテンは、ますます明るく花がひらいて、ブラームスの交響曲はすでに第2番にかわっていた。
立ちあがって、光の花ひらくレースカーテンをあけると、すっかり昇った陽光が、大都会に浮かぶオアシスのような神宮の森を抱擁し、後方のビル群が、徒党を組んで反発するように乱反射していた。
窓から差しこむ陽光は、ワタシと見あげるシーちゃんをあたたかな眼差しで包んでくれた。すでにライトピンク色のカチューシャのブタの垂れ下がった大きな耳がビクんと跳ねあがり、テロ実行の合図は発せられている。ワタシはピンク色のテロリスト、急がなければならないのだ。
シーちゃんはおそらくすべてを理解し、ワタシをじっと見つめてくれた。もう躊躇わない。ワタシは依頼主に返信のメールを送った。
──この度は、モデル撮影のご依頼をいただきまして誠にありがとうございます、承りました、条件と予定日も問題ありません、それでは撮影当日、よろしくお願いいたします!
午後からのサロンモデルの撮影が予定通りに終了した。今夜もマユからLINEが届いて、落ち合う約束をしていた。陽が落ちた都心の街をひとりで歩くと、あらためて人間の多さにビックリする。地球誕生以来、こんなにも繁栄した生物はいなかったはずだ。あらゆるものが熱を帯びて上昇し、あらゆるものが夜の暗闇を否定し、あらゆるものが異様な光を放っていた。これが繁栄を謳歌する人間社会だった。
華やかなライトのウインドウに映るワタシは、なんだか他人のようにすましている。黒のベレー帽にベージュのトレンチコート、ふつうの少しオシャレな22歳の女の子だったけれど、ときおりすれ違う男も女も、ワタシの容姿に驚いて振り向いたりする。
高層ビル群の放つ明かりに色褪せけむった夜空から、星を見つけることはむずかしい。やはりこの街には、アミニズムは存在せず、唯物論(物質主義)が支配する世界だった。
「東急プラザ表参道原宿」屋上の緑溢れる「おもはらの森」の天空のスターバックスで、とりあえずコーヒーを飲みながらマユを待つ。まさかと思って上空を見あげると、けむった夜空に白い満月はひとつだけだった。
お店に着くなり、マユはコートも脱がずに高揚した表情で、InstagramのDMに届いたメールを見せてくれた。 ──マユもワタシと同様にInstagramでモデル等の仕事依頼を受け付けしていた── 驚いたことに、ワタシに届いたメールと同じ依頼主からのモデル撮影の依頼だった。
──MOMOE! この依頼主の「株式会社小さな人たち」なんだけど、英語だと「リトル・ピープル」よね
村上春樹の小説『1Q84』に登場する「リトル・ピープル」と同じ名前じゃない?
先日、ちょうどこのスターバックスで『1Q84』の話しに夢中になって、私たちいろいろ「リトル・ピープル」の話ししたわよね。
まさかとは思うけれど、それで2人にメールが届いたとは考えられない?
昨夜もMOMOEは、変な視線を感じたって言うし、私なんだか怖くなって、もう仕事の依頼は断ったんだけれどね!




