SCENE71
濃さの増した群青色の夜空とライトアップされた時計塔のライトグリーンのコンストラストが新鮮だった。ややぼんやり見える白い文字盤はすでに16:57分を指している。視線を戻すと、人混みのなかこちらに向かって横断歩道を渡って来るミホコが、ワタシの姿を認めて微笑んだ。咄嗟にワタシは右手を胸の高さまであげて小さな合図を送った。
ミホコは早稲田大学大学院へ進学しロシア文学を専攻していた。あらためてなぜロシア文学なのかと尋ねると、彼女はカバンから1冊の古びた薄い文庫本を取り出し、ワタシの知らないあるロシアの小説家の名前を挙げた。ガルシンという名前だった。
──太宰治が傾倒した作家らしいんだけど、はじめてガルシンの短編『あかい花』を読んだとき、身体が震え目頭が熱くなるほど感動を覚えたの。こころが浄化されるように……
GINZA SIXの焼肉店「焼肉山水」の個室でミホコはそういうと、眼下の銀座中央通りをしずかに眺めた。この個室の解放的な一面窓から、クリスマスディスプレイ彩られた賑やかな夜の銀座の景観が跳びこんできた。
──ロシア文学を選んだ理由は、もちろんドストエフスキーやトルストイも関心があったけれど、ガルシンとの出会いが決定的だったと思う。どう? 30ページほどの短編だからMOMOEも読んでみる?
ミホコから手渡された古びた文庫本は、神西清訳のガルシン『あかい花』だった。現在書店におかれている同じ神西清訳の岩波文庫版のタイトルは、『紅い花』と漢字表記になっているらしく、ミホコは古本屋から見つけた掘り出しものだといった。
翌朝、さっそくワタシはベットの中で、シーちゃんの可愛らしい寝息を聴きながら『あかい花』を読了した。精神病院に入院している青年が、紅いケシの花をこの世の悪の権化と思いつめ、苦闘の果てに、ついにずたずたにちぎってもみつぶし硬く握ったまま死んでいく姿が描かれていた。ワタシはこの青年を一種のテロリストだと思った。まさに『あかい花』は、精神病患者でもあったガルシンのすべてを描き出した小説だった。




