SCENE50
スターバックスGINZA SIX店を出ると、少しばかり冷たい空気が思い出のように頬を刺す。すっかり陽が落ちソフィスティケートされた銀座の街は、さらに煌びやかさが強調され貧困の影は薄く、あらゆる欲望の塊が渦巻いていた。やはり行き交う多くの人々から悲壮感は感じられない。
以前、同じ年のミホコと銀座の街を歩いた時のことを思い出す。彼女は早稲田大学の文学部の学生で、暇さえあれば呼吸をするように本を読む。その夜、ミホコと食事をしながら村上春樹の長編小説『1Q84』について語り合った。
──見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。
そう小説には書かれてあった。ふたりで紺碧色の蒼穹を見あげると白い満月はひとつであり、小説のようなふたつの白い月は浮かんでいなかった。銀座和光の時計塔が蒼大な宇宙に不変の時間を刻み、ワタシはひとつきりの現実の世界において前へと走りはじめたのだ。
その後ワタシは露巳代表に導かれ、「株式会社小さな人たち」と共に手探りで巨大な闇の力「ビック・ブラザー」に挑みはじめた。ふつうの若者が歩むはずの人生から大きく逸脱し、ふつうの生活もふつうの恋愛もふつうの友情も捨て去った。ピンク色のテロリストとして……
あらためてワタシは、けむった曖昧な都心の夜空を見あげた。高層ビル群はすべてをのみ込む巨大な山脈のように存在し、それはとても険峻な頂のようだった。しかしその頂きの一角に、果敢にも遥か遠方からの若い使者は剣を突き刺したのだ。
スターバックスで、マッシュヘアの鼻下長の男とワンレンロングヘアの顔の大きな女の若いカップルが話しをしていたように、前首相暗殺事件の真相は報道管制されたまま詳細がまったくわからなかった。一部で前首相を暗殺した犯人が、若干20歳ほどの若い女性であったという噂が、SNSなどを中心に、驚愕の事実として拡散しはじめてはいたのだが……
また報道管制される前の初期報道で、逃亡した犯人が複数人いたことが報じられていた。ワタシはかれらこそが、夕映えたシンデレラ城の正面広場において、グレーのパーカーのフードを脱ぎややはにかんだ遥か遠方からの若い使者を中心に手を繋いで回り出した七人の侏儒 ──《小さきものたち》と思われた── であると確信していた。きっとかれらが若い使者を援護し救出したのであろうと。なぜならあのとき、沈みゆく寂静たる落陽は、まるで己れの子を見守るようなやさしい眼差しを遥か遠方からの若い使者に投げかけていたのだから……
そうして、まさにそのときだった! ハッとなって咄嗟にワタシはまわりを見渡した。賑わう夜の銀座の喧騒にまぎれて、微かにトランペットの音色が聴こえてきたのだ。記憶の底にしまってあるとても大切なもの、確かにそれは以前聴いたことがある音色であった。どこか懐かしく清澄ですべてを美しいと愛した天使の歌声のような音色が……
ラーララララー
ふたたびワタシはまわりを見渡した。立ちどまったワタシを、すれ違う人びとが怪訝な顔で通りすぎる。ワタシは雑踏のなかを音色の聴こえる方へ向かって歩き出した。
ラーララララー
ラーララララー
少し歩くと、舗道にわずかな人垣ができていた。ひとりの女性らしき侏儒が、身体をくねらせながら夜空に向かってトランペットを吹いていた。黒いキャスケットをやや斜めにかぶった侏儒は、露巳代表と同じく異様に発達した大きなひたいが目立っていた。
ラーララララー
ラーララララー
ラーララララーララー
ラーララララー
ラーララララー
ラーララララーララー
なんとかなしく美しい曲であろう。ワタシは、以前、露巳代表が同じ曲を歌ったことを思い出した。あのときワタシは、玲瓏な美しい歌声に鳥肌がたち全身を震わせ一歩も動くことができなかった。頬に触れる空気そのものが、この世のすべてのかなしみを背負った優しさに包まれてゆくのを感じた。蒼い夜空に白く光る一等星からはるか宇宙全体が、森羅万象あらゆる自然界の生き物が、そして有象無象の人間が蔓延るるこの都心全体が、清浄な空気に包まれすべてが再生されゆくのを感じた。
演奏が終わり、一瞬の間のあと遠慮がちなささやかな拍手が起こった。立ちつくす人びとのなかには涙を浮かべている人もいたが戸惑いもあった。この世のものとは思えないほど、あまりにもかなしく美しい演奏だったため現実感が乏しかったのだ。 ──しかしながら、ここ銀座の通りを行き交うほとんどの人びとは、なんら興味も示さず通りすぎた── 女性らしき侏儒がかぶっていた黒いキャスケットを脱いで軽く頭を下げ、そのまま逆さまにして舗道に置くと、さっそく髪を綺麗にセットアップし白いCHANELのワンピースを着た若い女性が、しゃがみ込んでキャスケットの中に一枚お札を入れた。
──とても美しい曲です。なんという曲ですか?
女性らしき侏儒は頭を横に振った。
──ハハハ、曲名は知らないよ。だけど昔からあたいら侏儒の世界で伝わりつづける曲なんだ!
そしてワタシがそばに立ちつくしているのに気づくと、女性らしき侏儒は小さく頷き、ワタシをその発達した大きなひたいの下の小さな目で、確かめるように凝視した。
──あんた、あの無鉄砲な若い娘の仲間だね! あんたも娘と同じ目をしているからすぐにわかったよ。娘から頼まれたのさ。この電話を渡してくれと。
そういうと女性らしき侏儒は、古びたジャケットのポケットから、やや小型のスマートフォンを取り出した。ワタシがスマートフォンを受け取ると、女性らしき侏儒はさらにこういった。いつの間にかけむった曖昧な都心の夜空が蒼くなり、姿をあらわした白く光る一等星を見あげながら……
──あの若い娘は、あたいらと一緒だから!




