SCENE39
ついに、草原に息を潜めたチーターの眼前に獲物が現れた。獲物には予想通り連れがいた。二人のSPが見守るなか、前首相とその妻は厳選された天然素材をふんだんに使用したトレーニングジム内 ──緊迫した雰囲気のなか他の利用客は節度を保っていた── でおよそ1時間ほど汗を流したあと、事前の情報通り奥様だけがウッドデッキに囲まれた天然石作りのスイミングエリアに移動した。 ──二人のSPはそのまま前首相の警護を続けている──
事前に、スイムウェアに着替えていたワタシと春子さんは、ショートカットがよく似合うボーイッシュな「株式会社小さな人たち」の若いスタッフの千尋ちゃんをスイミングインストラクターとして帯同した。 ──「株式会社小さな人たち」はいうまでもなく女性だけの組織── プールサイドのリクライニングチェアに荷物を置いてから、若い千尋ちゃんの元気で可愛らしい掛け声のもと ──ワタシと春子さんはあたかも仲の良い友人同士のように明るく会話を交わしつつ── ストレッチをはじめた。
照明をセーブし光のグラデーションを演出したスイミングエリアに ──ワタシたちはこのスイミングエリアに白く透明な蜘蛛の糸を張りめぐらしていた── 前首相の奥様は、にぎやかなワタシたちを一瞥しながら入ってきた。ここまではすべて予定通り。しかもほかに客はいない。 ──これも千尋ちゃんの手配によるもの── 豊潤な髪をスイムキャップに押し込み、フィットネス水着を着用した奥様も、ワタシたちから少し離れたリクライニングチェアに大きめのスポーツタオルを置くと、ゆっくりとストレッチをはじめた。前首相と歳の差がある元モデルの奥様は、プロフィールによればまだ40代のはずだった。高身長で均整のとれたプロポーションは見事というほかない。
底がはっきり見える澄んだ水面が、グラデーションされたライトに陰影をつくっている。ショートカットのインストラクターの千尋ちゃんを先頭に泳ぎはじめたワタシたちを気にするように、前首相の奥様はちらちらとこちらに視線を向けた。とくに競泳選手のような若くボーイッシュな千尋ちゃんが気になる模様だ。やがて獲物がワタシたちの罠におびき出されるように、照明によってグラデーションされた水面を、均整のとれた柔軟な身体を使って元モデルの奥様も泳ぎだした。
しばらくしてから、タイミングを計ったように、照明をセーブし光のグラデーションを演出したプールの中央で、立ち止まった春子さんにショートカットの若くボーイッシュな千尋ちゃんが抱きついた。向き合った二人は、周りを憚ることなく唇を重ねる。濃厚なキスは長くつづいた。それから千尋ちゃんは、水面に直立したままの春子さんの濡れた長い髪を払いのけ、耳から白く浮き立つうなじへと愛撫をはじめた。
二人の様子に気づいた前首相の奥様は、驚いた様子で泳ぎを中断しその場に立ち竦んだ。やや薄暗いグラデーションされた水面の上で、美しく濃密に抱き合う二人に釘付けとなっている。
やがて千尋ちゃんは、立ち竦んだ前首相の奥様へと向き直り、プールの中をゆっくりと歩きながら近づいていった。視線を外すことなく奥様をじっと見つめ、深くお辞儀をし奥様の細く長い手をとった。
──奥様! とてもお美しいです!
躊躇うことなく千尋ちゃんは、そっと奥様のスイムキャップを取ると ──豊潤な長い髪が扇のように広がる── 赤く熟した果実のような唇に自分の唇を重ねた。一度は首を横に振った奥様だったが、ふたたび千尋ちゃんが唇を重ねるともう首を振ることはなかった。二人は陶酔したように、長く濃密なキスに没頭した。
白く透明な蜘蛛の糸は、前首相の奥様には見えない。なに不自由なく傲慢に生きる輩にはけっして見えない。なぜなら、白く透明な蜘蛛の糸は、弱きものの涙によって紡ぎだされたものだから……




