SCENE38
いっぽ歩んでも、余剰な繁栄に彩られた都心のけむった夜空に星たちは見えなかった。さらにいっぽ進んでも変わりはない。大切なことを忘れてしまったかのように星たちは見えなかった。都心の高層ビル群は、まるでブラジルのセラードと呼ばれる草原地帯で、不気味で欲望に満ちた闇深い世界を根城とし、夜になると光りだす蟻塚のようだった。暗闇の中でワタシは、草原の美しきチーターのように息を潜め、獲物が現れるのを待っていた。
実際のチーターなら汗をかいたりしないだろうが、ワタシのひたいにはうっすらと汗が滲んでいた。息を整えながらスポーツタオルで汗を拭うあいだも、厳選された天然素材をふんだんに使用した室内に注意を払い、ワタシの瞳孔に深く刻まれた獲物が現れるその瞬間を待っていた。
ワタシたちは、六本木のグラントハイアットホテル内にある会員制の高級フィットネスクラブにいた。大半のメンバーが社会的地位の高い人間で占められるVIP御用達のフィットネスクラブだ。露巳代表ら「株式会社小さな人たち」の若いスタッフの一人が、密かにインストラクターとして働きはじめて1ヶ月ほど経過した頃、ワタシと春子さんは身分を偽り会員となった。 ──春子さんの話しによると、入会金150万円、月額料金40万円の都内屈指の高級フィットネスクラブだという── ワタシと春子さんは、お揃いのバイカラーデザインのブラトップとレギンス姿で、周りの男性客からの視線を感じつつ、あくまでもフィットネスが目的であるかのようにトレーニングに励んでいた。失われた左腕の代わりに右腕だけでトレーニングに精を出す春子さんの、雲透きの春の光のような笑顔とその姿がとても美しく眩しかった。
そうしてあたかも対比するように、大つぶの雨が、都心の汚れたアスファルトを黒く濡らしペトリコールの匂いが瘴気のように漂う情景が蘇ってきた。そう! さらに雨が強まる渋谷のモヤイ像の前で、陽葵ちゃんをかばったナナコちゃんが男に背中を刺されたときの記憶が……
グレースケール画像のようにすべてが灰色にみえた。まわりの人々の混乱とさらに強くなった雨が遠いむかしの記憶のように朧げなまま、黒く濡れたアスファルトにナナコちゃんは捨て猫のようにうずくまり、怯えた仔猫のような陽葵ちゃんが蒼白な表情で震えていた。ワタシは必死になってナナコちゃんに呼びかけ、駆けつけた警察官や救急隊への対応に追われ自分の呼吸さえ曖昧になった。すっかり濡れたナナコちゃんの背中に雨に混じってひろがりはじめた鮮明な赤い色だけが、ペトリコールの匂いとともに妙に現実的だった。アスファルトに落ちたナナコちゃんがかぶっていたDark brownの犬の丸い鼻と大きな垂れ耳が付いたベースボールキャップを拾うと、すっかり雨水を含んで重たくなっていた。ワタシは救急車の中で、ナナコちゃんの幼く細い手を握りprayerつづけた。
しかし、奇跡はおこらなかった。
夜中にワタシがひとりで嗚咽をはじめると、必ずシーちゃんが頬を舐めてくれた。その際、ワタシには心奥に深く刻んだことばがあった。
──自然界のなかで死ぬことは利他的なこと。
そう呟いた時だった。なんの前触れもなく、グレースケール画像のような灰色の情景の記憶から現実に戻れたのは……
明確な緊張感がフィットネスクラブ全体に張り詰め、さらにそばにいたショートカットがよく似合う若いインストラクターのぎこちない笑顔が、すべてを物語っていた。思わずワタシと春子さんは顔を見合わせた。息を潜めた草原の美しきチーターの眼前に、まさに獲物が現れようとしていた。




