SCENE28
すっかり陽が落ちた都心の街並みは、いつもの無鉄砲に昂たかぶる喧騒に満ちていた。皆が疑うことなく同じ方向を向き、立ちどまることも振りかえることもない異常な興奮に酔っている。高層ビル群は空高く散光を放ち、夜の狂騒が空まで揺らす。夜空は人間の吐き漏らす膨大な欲望に色褪せていた。あらゆるものが夜の暗闇を否定し、そこはアミニズムがいっさい存在しない唯物論(物質主義)の世界にみえた。 ──今夜のワタシは、ポニーテールに黒ぶちの伊達メガネ、ボーダーのニットに黒のフレアミニスカート── 合図のように、銀座和光の時計塔の正時を刻む鐘が高々と鳴り、銀座の煌びやかな雑踏のなかで色褪せた夏の夜空にまで響いた。
春子さんが左腕を失いながら命懸けで入手した顧客リスト。 ──未成年の少女専門の違法な会員制のデートクラブ(小学生などの児童をメインとする売春行為)は、高額な会員制のクラブとなっており、顧客には大物政治家、実業家、大手企業役員、医師、財閥の大立者、皇族に至るまで、著名な人物が多数名を連ねていると噂されていた。つまりもしこのデートクラブの顧客リストが公になると、日本社会がひっくり返ってしまうほど甚大じんだいな影響があるとみられていた── 夕暮れの赤みを帯びた舞浜のディズニーリゾート・オフィシャルホテルの一室で、露巳代表から、春子さんが左腕を失いながら顧客リストを入手したと知らされたとき、ナナコちゃんの死を誰よりも自分の責任だと重く感じていた春子さんの悲痛な叫びが、聴こえてくるようだった。
黒人のように縮れた髪に異様に発達した大きなひたいの下の小さなひとみを潤ませた露巳代表は、顧客リストを入念に調査した結果、間違いなく日本社会がひっくり返ってしまうほどの主要な人物が記載されていたが、ひとりだけ身元が不自然な男がいたと首をひねった。この顧客リストに名を連ねている連中は、皇族を筆頭にかなり社会的地位の高い人間ばかりだが、この中年男はあるIT企業のいち社員に過ぎないということだった。どうもほかの顧客との社会的な地位や金銭的な面で不釣り合いにみえた。もともと「ビック・ブラザー」の語源となったジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する人物「ビック・ブラザー」も架空とされているため、妙にこの身元が不自然な男が気になってしまう。やはりいちど接触して確かめてみる必要があるだろう。しかし、無理は禁物、もう春子さんのような犠牲を負ってまで深追いはしないでほしい。露巳代表は、子どものような小さな手でワタシの手をとると、美しい清澄な声でいった。
──MOMOE様! 春子さんはナナコさんの死を無駄にしたくないという思いがとても強くありました。それはMOMOE様も同じでしょう。その思いをわたしに止めることはできませんが、けっして無理はされませんように!
ノーネクタイでネイビー色のスーツ姿の中年男は、銀座中央通りの真新しいオフィスビルから──ヒートアイランド現象のため夜になっても異常な暑さ── 外へ出ると、両サイドに綿あめのような膨れた癖毛を残したまま滑らかに禿げあがった頭頂部を無造作に平手で3回叩き、
──まったく、やってられんなー
と白い手ぬぐいで首の汗を拭いながら呟いた。笑うと消えてしまいそうな細く突き刺すような眼であたりを注意深く見渡すと、そのまま白い手ぬぐいを首にかけ、銀座中央通りを歩き出した。すれ違う人々からはその髪型の特異さから敵意に近い好奇の目に晒されていたが、中年男は気にする様子もなく何やらブツブツと独り言をいいながら歩きつづけている。すると合図のように、銀座和光の時計塔の正時を刻む鐘が高々と鳴り、銀座の煌びやかな雑踏のなかで色褪せた夏の夜空にまで響いた。
中年男は、待ち合わせのために立ち並ぶ人々がいる、すでに閉店時間を過ぎた銀座三越の正面玄関のライオン像の前で、ひときわ存在感を示しながら立ちどまった。そうしてすぐに彼に向かって近づいていくワタシに気がつくと、ふたたび滑らかに禿げあがった頭頂部を無造作に平手で叩き、細く突き刺すような眼が消えてなくなった。中年男はワタシを認めて笑ったのであろう。
ワタシが軽く会釈をすると、中年男は異常に真剣な表情を回復させ細く突き刺すような視線で、ワタシの全身を一瞥した。
──鈴木さんでいらっしゃいますか?
ワタシの問いかけに、中年男は満足したようにふたたび細く突き刺すような眼をなくして頷いた。
──近くのホテルを予約してあるから、食事はルームサービスにさせてもらうよ、こう見えて忙しいものだから!
中年男はやや甲高い声でそういうと、ふたたび滑らかに禿げあがった頭頂部を無造作に平手で叩き歩き出した。華やかで煌びやかな夜の銀座中央通りは、溢れるばかりの輝かしさ、資本主義経済社会の繁栄を象徴する絢爛な世界だった。ワタシは、両サイドに綿あめのような膨れた癖毛を残したまま滑らかに禿げあがった頭頂部の中年男の一歩後ろを、慎重について歩きながら、膨大な欲望に色褪せたけむって曖昧な夜空を見あげた。やはりけむった夜空に星たちは見えなかった。




