SCENE25
AM7:00
頬に生温かいものを感じた。目をあけるとシーちゃんがピンク色の舌をちょっとだけ出したまま、吸い込まれそうな大きなひとみでじっとワタシを見つめている。フッとワタシは微笑んで、シーちゃんのふさふさの毛におおわれた頭を撫でた。シーちゃんはいつもワタシを見守ってくれている。シーちゃん、ありがとう!
どのくらい寝ていたのだろう。嗚咽をしているうちに眠ってしまったようだ。生成色で統一されたワンルームマンションの遮光カーテンが彩光によって明るくなっている。iPhoneの画面の時刻はAM7:00を表示していた。シーちゃんはすっかりお腹を空かせているようだ。起きあがってカーテンをあけると、いちめん曖昧な薄青い空が広がり諂曲模様のような都心のなかで明治神宮の森の向こうに、今朝も照り映えた高層ビル群が栄耀のシンボルのように建ち並んでいた。それらは大きな視点から眺めれば、なにも変わらないつもの景色に過ぎなかったが、すぐにワタシにはグレースケール画像のようにすべてが灰色に変わってみえた。
シャビーローチェストの上に置いてあるWoodWickのアロマキャンドルが暖炉のようにパチパチと癒しの音を奏かなでる。音楽プレーヤーをオンにしてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴きながら、シーちゃんの朝ご飯の用意をはじめた。ステンレス製の容器にドライフードを入れその上にウェットフードをのせ、陶器の茶碗に犬用のミルクをそそぐ。シーちゃんは行儀良くおすわりをしたままじっと待っている。その天使のような健気な表情に、ふたたびワタシはフッと微笑んだ。
──シーちゃん、お待たせしました! さあどうぞ召しあがれ!
シーちゃんが夢中になって食べているあいだに、ワタシも自分の朝ご飯の用意をはじめる。さほど食欲はなかったけれど、ぐっすり眠ったおかげでようやく疲れはとれたようだ。ワタシはバターを塗ったトーストを口にしながら、新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』の冒頭ページを開く。辻井伸行のピアノがラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のクライマックスの第3楽章を奏でていた。その音色に合わせるようにワタシはprayerのために口誦した。
──よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる──
AM9:00
曖昧な薄青い空が広がり、新緑の明治神宮の森の向こうには、蜃気楼のように朧げな高層ビル群が繁栄のシンボルのように建ち並ぶ。 ──人類が滅んだ後あるいは数万年先、地球の地面を掘ったとき、恐竜の化石、三葉虫やアンモナイトの化石などよりも、アスファルトで覆われたたくさんの道路網や巨大なビル群などの大都市跡。そして土に還ることのない金属やプラスチック類や化学物質等々、たくさんの人類の痕跡が残されているだろうが── それらの文明のシンボルを眺めながら、しかしこの繁栄のために犠牲になった人々へ思いを巡らせずにはいられなかった。胸が締めつけられる思いとともに……
ワタシの足元では、ピンク色の舌をちょっとだけ出したシーちゃんも、巨大な墓廟のような都心の風景を眺めていた。
──シーちゃん、お散歩に行こうか!
AM10:00
快晴の曖昧な薄青い空のもと、ZOZOで買ったの黒のバスケットハットをかぶり、明治神宮外苑をシーちゃんとお散歩。風もなく気温も上昇しとても暖かいが思ったよりも人が多い。やっぱりシーちゃんは、いつものようにまっすぐに歩いてくれずあちこち匂いを嗅いでばかりいる。久しぶりに豊潤な樹々の緑に包まれて気持ちはいい。アミニズム ──自然界のすべての事象に霊魂や精神が宿るという信仰のこと── を否定しないワタシは、自然にとけこむことを望んでいる。シーちゃんもほんとうに楽しそうでワタシも嬉しい。
人類以外の生命は、たんたんと死を受け入れ当たり前のことだと認識している。けっして死をおそれたりはしない。死ぬことは利他的なことであり、それによって地球上の生命は約38億年ものあいだそのいのちを繋いできたのだ。しかしながら人間は、ロゴス(論理、言葉、思想)の力によって自然を、客観化し、外化し、相対化したと生物学者の福岡伸一はいっていた。ロゴスの作用の1番の成果こそ遺伝子の掟から逃れたこと ──遺伝子の掟とは、端的にいえば「産めよ増やせよ」── であり、人間はロゴスの力によって遺伝子の命令を相対化し、種の保存よりも個の価値に重きをおけたというのだが……
しかし人間は必ずや自然からのリベンジを受け、自然の声に耳を傾けなければならない日が遠からず訪れるだろう。しかもそのときの自然の中心にこそ、目の前でくんくん匂いを嗅いでいるシーちゃんがピンク色の舌をちょっとだけ出し、そのくもりのないまなこで人間の前に立ちはだかるのではないだろうか。
PM12:00
お昼の時間に春子さんからLINEが届いた。あの日以来春子さんは、ずっとワタシのことを気にかけ心配してくれていた。 ──福岡伸一の『生命海流』朝日出版社の本を勧めてくれたのも春子さんだった── 夕飯にタイのマッサマンカレーを作ってくれるという。ワタシはすぐにOKの返信をした。夜中にひとりでワタシが嗚咽をはじめると、必ずシーちゃんが頬を舐めてくれた。 ──自然界のなかで死ぬことは利他的なこと── だと、なんとか自分にいい聞かせながら、あの日以来、深淵な後悔の思いからすべてがグレースケール画像のように灰色の世界に覆われぬけ出せないでいたのだ。
──シーちゃん! 春子さんが晩ご飯にマッサマンカレーを作ってくれるそうよ、楽しみね!




