3 モンスターがやってきた
重々しく開かれた玄関から、吹き抜けの広間を過ぎ、アーチ型にくり抜かれた白い壁をくぐり抜け、緋色の絨毯の敷かれた廊下を走って行く。
突き当たりの、チョコレート色の扉の向こうが応接室だ。あの向こうにお父さんと、阿部さん親子がまっているはず…。ボクは、息をきらせて応接室に飛び込んだ。
部屋に入ると、格子になった大きな窓の、磨かれたガラスから、夕方の陽の光が注ぎ込み、その逆光を受けた『サリーちゃんのパパ型』のシルエットと、その正面に並んだ2人の女性の後ろ姿見えた。ボクは、思わず「ま~りあちゃ~…」と叫びかけ、「ちゃ」の口の形のまま、しばし無言になる。
なぜなら、横に40人並べる、その漆塗りの樫の机のそのちょうど真ん中に座った彼女らのどちらの後ろ姿も、僕の憧れの『阿部まりあ』とは似ても似つかぬものだったからだ。
1人は、まだ良い。セミロングの髪に上品なパーマをあてたその後ろ姿からは、若き日の美智子様のような気品が漂っている。大人の女性だ。おそらく、これが父さんの恋人、静江さんだろう。
しかし、もう一人のあいつはどうだ? 僕と同じ年頃の、その女子高生の後ろ姿と言ったら、ボサボサの髪を乱暴に引っ付めて、後ろ姿から凶暴さが感じられる。…ていうか、この嫌な感じ、どこかで覚えがあるぞ。…どこだっけ?
首を傾げた時、どこからか、冬ソナのあのピアノのメロディーが流れ出した。
「やあ、お帰り蘭丸」
メロディーに合わせ、父さんが、ヨン様ばりの爽やかさでボクに笑いかける。それはいいとして、そのBGMは必要ないだろ?
「紹介しよう。この人が、新しくお前のお母さんになる、静江さんだ」
父さんの紹介で、セミロングの女性が立ち上がり、まりあちゃんに良く似た顔を僕に向けにっこり笑って頭を下げた。思わずうっとりしていると、父さんが隣の女子高生を指差してこう言った。
「そして、こちらが、その娘さんで、祥子さん…」
それは、僕が最も聞きたく名前だった…!
「ショーコー!?」
あまりのショックで、ボクはどっかの教壇の教祖の名前を口走っていた。
「誰が麻●だー!」
途端に、立ち上がり振り返った小原祥子の会心の一撃が、ボクの脳天にクリティカルヒットする。ボクの頭の中のお花畑が、みるみる崩壊し、目の前が、真っ暗になった。
なぜだ…なぜなんだ? なんで、阿部静江さんの娘が、よりによってアイツなんだ? 第一、アイツの名字は小原じゃないか? いったい、何がどうなってるんだ?
次に、目を開けた時、ボクはヴィサンチン様式の自分の部屋のベットの上に横たわっていた。ぼやけた視界の中に、心配そうにボクを覗くまりあちゃんの顔が見える。
「…まりあちゃん…来てくれたんだね」
ボクは、そう言って笑顔を浮かべた。が、徐々に視界がはっきりして来て、それが、まりあちゃんではなくて、まりあちゃんそっくりの静江さんだという事に気付く。
「蘭丸君、目が覚めたの?」
静江さんが、ホッとしたように言った時、小原祥子がにゅっと顔を覗かせた。ベット脇のスタンドの光を受け、眼鏡がぎらりと光る。
「モンスター!」
ボクは、驚いて飛び起きた。
「誰が、モンスターだーー!」
小原祥子の攻撃! …と、思って頭を竦めた所、
「おやめなさい!」
鈴の音のような美しい声で、静江さんが祥子を叱りつけた。
「だって…」
祥子は振り上げた手を降ろして、不満げに静江さんを見る。
「だってじゃ、ありません。あなたは、どうしてそんなに乱暴なの? ママはあなたをそんな風に育てた覚えはなくってよ!」
静江さんは、そう言って悲しそうな顔をした。祥子が頬を膨らます。
「本当に、乱暴な子でごめんなさいね。後で、よく言って聞かせておくから…」
静江さんは、そう言うとすっと立ち上がり、
「それじゃあ、ヨン様…じゃなくて、あなたのお父さんとお話があるから」
と、優しく言って部屋から出て行った。小原祥子もその後を追って出て行ったのだが、出て行きしなアイツはこんな事を言いやがった。
「あんた。阿部まりあが好きなのね」
そうして、朝、学校で見せたのと同じ邪悪な笑みを浮かべ、ニヤニヤしながら部屋を出て行った。ボクの全身に鳥肌が立った。
その日、夕食前、ボクは父さんの言い付けで小原祥子のために家の中を案内してやった。
制服姿のボクの隣を、同じく制服のまま、小原祥子はブスっとした顔で歩いている。何だその顔は。どうせ、僕の家は狭いさ! 悪かったな。
心の中で毒づきながら、ボクは夕日に赤く染まった中庭の倉庫を指差して言った。
「あれは、ボクのおばさまが存命中に建てた『プチ・トリアノン倉庫』だ。君も知っていると思うけど、フランス王妃マリーアントワネットのプチ・トリアノン宮殿のパクリ…じゃなくてレプリカさ。大きさも間取りも本物そっくりそのままだけど、中は倉庫になっていて、掃除道具とか、昔使っていた火鉢とか、七輪とか、畳みとかが収納されている」
「…」
ボクがこんなに親切に説明してやってるというのに、小原祥子は口を開けたまま返事もしない。まったく、なんでこんな奴の案内役を勤めなければいけないのか。ボクはだんだん腹が立ってきた。…本当なら、今、こうして僕の隣にいるのは、まりあちゃんだった筈だったのに…。
それにしても、気まずい。ボクは沈黙があんまり好きじゃないんだ。とりあえず、話題…話題…。…そうだ!
「あ…あのさ」
ボクはズボンに手を突っ込み、中から白いハンカチを取り出した。それは、今朝、小原祥子が、ボクに投げ付けた物だった。
「これ…」
ボクはそれを小原祥子の前に差し出した。すると、小原祥子の眼鏡がぎらりと光り、そのえも言われぬ迫力に、思わずボクは一歩後ろに下がった。
しかし、次の瞬間、小原祥子の口からは、思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「あ! そのハンカチあなたが拾ってくれたんだ。無くして困っていたのぉ」
そして、組んだ両手を頬に当て、無気味に体をくねらせる。一体、その行動は、なんなんだ? ボクはますます腹が立ってきて…。
「なんなんだ! その、無気味な態度は! ボクをバカにしてるのか?」
思わず、本音を吐いてしまう。
「無気味?」
小原祥子の動きがぴたりと止まった。
「そうさ! 大体、落としただって? ふざけるなよ。これは、君が今朝、その『岩石みたいな頭』でボクに頭付きをかました後、乱暴に投げ捨ててったやつじゃないか」
「『岩石みたいな頭』?」
小原祥子の肩がぴくりと動く。
「そうだよ、挌闘チャンピオンの娘か何だか知らないけど、凶暴なんだよ。なんで、あんな美しい女性から、君みたいなのが生まれたんだ…! 本当に、実の親子か?」
…しまった、言い過ぎた!
そう思った時には、既に遅かった。
僕の目の前には、デビルマンと化した小原祥子が、炎をバックに、眼鏡をギラギラさせ、拳を固く握りしめていた。
「ひ…ひいぃ…!」
逃げようとするが、腰がくだけて動けない。小原祥子が、拳を大きく振り上げた…と、その時…!
「祥子ちゃーん。蘭丸さーん」
ナイチンゲールのような声がして、後方のテラスから、白いイブニングドレスを着た静江さんが手招きしているのが見えた。
「夕御飯よー!」
「ちっ」
小原祥子が舌打ちして拳を収める。
…助かった…それにしても、あの人は、なんて美しいんだろう?
ボクがまりあちゃんそっくりの静江さんに見とれていると、
「あんた、やっぱり阿部まりあが好きなのね…」
後ろから、井戸の底から響いて来たような声がする。おそるおそる振り返ると、小原祥子が、例の、あの何か企んでいるような笑顔を浮かべている。呪だ。
「な…何をこんきょうに?」
狼狽のあまり、訳の分からない事を口走ると。
「あんたの普段の態度みてれば丸分かりよ。それに、だから、まりあそっくりのうちのママに見とれてるんでしょ?」
そう言って、小原祥子はにやりと笑った。図星だった。
「あわわわわわ」
思わずうろたえる僕に、小原祥子は信じられないような事を言った。
「なんなら、あんたとまりあがうまく行くよう、協力してあげてもよくってよ」
「え?」
ボクは、驚いて小原祥子の顔を見た。