“ 正しい ”ということ
品行方正、清廉恪勤。
それが今の私を客観的に表す言葉。朝は規則正しく起床し、昼は己が勤めを黙々とこなし、そして夜はまた規則正しく眠りにつく。これこそがきっと、あの頃の私からは誰もが想像しえないであろう姿であり、周りの誰もが私に求めていた姿、なのだろう。
人には誰しも若かりし頃、なんてものがある。当然、私にもあった。愉しいことばかりにその身を委ね、時たま仕事をこなし、しかし長く続くこともなく。ただ腐っていくばかりの人生、ただ腐っていくばかりの私の身体、私のこころ。
いつしか日がな一日部屋に閉じこもり、何をするでもなく何かをする。
そうして特筆することもない時間の中を、ただ漠然と、ただ黙々と。
ただ、生きていた。
あれはそんな代わり映えしない日々の中の、ほんの気まぐれにすぎなかった――――。
とても気持ちの良い昼下がり。晴れているだとか、清々しい風が吹いているだとか、有り体に言えばそのようなもの。しかしどこか……いや、だからだろう。私の心はふと、外に出てみようというものを抱いていたことを、今でも確かに覚えている。気がつけば車を駆り、少しばかり遠い河川敷、過去に何度か足を運んだお気に入りの場所――――そこに添えられた遊歩道を、悠々自適に歩いていた。
整然と立ち並ぶ樹木。久方ぶりに目にするその青さが、とても気持ちの良いものを与えてくれる。見上げた空にまた悠々と浮かぶ雲すら今の私を映し出しているのではないかと、そんな錯覚を与えてくれる。
だが、そう歳を食っているわけでもないのだが、日ごろは全くと言っていいほどに使っていないわけであるから、この身体はすぐにも悲鳴を上げ始める。だから少しばかり、すぐ先のベンチに腰をかけて休息を取ることにした。
少々ぬるくなった水筒を手に、一つ大きなため息を漏らす。それはせらせらと下り行く川の水面、その小さなうねりと共に海へ海へと流れてゆく。なんとなく、そんな気がした。だからなんとなく、まるで己が身を案ずるように。或いは私も共に流れてゆきたい……そんな願望のようなものを乗せ、じっとその行く末を見つめていた。
なんとなく、そうしていたかった。
ふと、目に留まる。向こう岸の先、古ぼけてはいるが立派な平屋、その片隅。あまり広くも無い荒れた畑に佇む、腰をくの字に折り曲げた老婆の姿。かなりの老体なのだろう、ゆっくりと鍬を振り上げ、ゆっくりと降ろし、ひたすらに繰り返している。
ここは田舎であるから、特に珍しい風景というわけでもない。しかし何故か、そこから目を離すということをしなかった。大変そうだなとか、何を植えるつもりなのだろうかなどと考えながら、のんびりとそれを眺め続けた。
それから再び車を走らせるまでに、そう長くを要さなかった。
「こんにちは。精が出ますね」
確か、そんな言葉を口にした。
「あんたさんは、どこの誰だったかねぇ」
相手方もまた、そんなものを口にしたように思う。くの字に折り曲がった上体、そこから訝し気な顔を持ち上げる見ず知らずの老体に、私は何を想ったのだろう。何がしたかったのだろう。
良い事をしたかったわけではなく、何を企てていたわけでも決してない。これをどう表していいものかと頭を捻るならば、やはりただ、なんとなくなのだろうな。
そこから何がどう転んだのか……私は縁側に腰かける老婆を前に、せっせと畑を耕していた。
昔から若い者と話すよりも年寄連中との会話に良い華を咲かせる。私はそういう人間であるから、畑仕事をこなしながらも、ゆっくりと紡がれる老婆の言葉にじっと意識を傾けた。曰く、子供はとうの昔に皆独り立ち、連れ添った夫は天寿をまっとうし、もう長くこの平屋で一人、静かな余生を過ごしているとのこと。
こういった時に『子供さんと共に暮らしてはどうか』という言葉をかければ、往々にして『私はまだ元気であるから、なんの心配もいらない』などと返ってくる。だからこそ、私はそれを投げかける。するとやはり、老婆は腿を大袈裟にぱたんとはたきながら、似たような主張をした。
しわくちゃではあるが、とても良い顔だなと、そう思えた。
きっと私も同じものを浮かべていたのだろう。老婆はこちらをじいっと見やり、先ほどよりも良い顔をしていると、そんなことを言って笑っていた。
少しだけ、嬉しかった。
しかしまさか、その日の夕食を老婆と共にするなどとは考えてもいなかった。気まぐれに手伝っただけなのだからと一言目には断りを入れたものの、老婆のもてなしを無下に断る気には、どうしてもなれなかった。
いや、正直に言えば疲れ果てた身体と空っぽの胃袋を抱えたままで、家中を漂う懐かしい香りに抗うことなど出来なかっただけなのだが。更に言えば風呂まで借りた上、挙句は寝床まで借りてしまったのである。
見ず知らずの人間をここまで持て成してくれるなどそうあることではないし、何よりも、それをこう甘んじて受ける自分が居たということに、あの時の私は少々の驚きと、そして戸惑いを抱いていたような気がする。
あまり、覚えてはいないが……。
ただ、やはり嬉しかったように思う。長く独りで居ることに慣れていた、親族からも疎ましく思われていた私に。こんな人間に快く接してくれる者など居るはずも無いと、そう思っていた私に。見ず知らずの老婆が、赤の他人である老婆“ だけ ”が、くれたもの。
そんなものが、とても温かかった。
何よりも、嬉しかった。
だからこそ、私は今でもあの時の行動に悔いは無いと思っている。
そう、思っている――――。
普段から夜更かしなどしないのだろう。老婆はあらかたの用事を済ませると、好きにくつろいで良いと残して早々に寝室へ姿を消した。私はというと、如何に好意だからとて自宅のように過ごせるはずもなく、まして久々の重労働を終えたあとであるから、当然のように客室へと足を運ぶ。
老婆の話に在った通り、かつてはそれなりに名の知れた家だったのだろう。古い平屋建ての木造ではあるが、値の張りそうな調度品がずらりと並べられているというわけでもないが、この家は外観以上に広く、とても立派であると感じさせる造りをしていた。だから私は少しばかり道に迷ってしまったが、疲れた身体に鞭を打ち、なんとか布団へと辿り着く事ができた。
汗を流し、小綺麗になった身体を受け止めてくれた布団の温もり。そのあまりの心地良さからすぐにもまどろみに包まれたのだが――――どうして、だろうかな。私の頭はなかなか眠りへ落ちることもなく、その日の出来事をなんとなく、あまり高くはない天井に漂わせていた。
まさか自分がこんな行動をとるなんてだとか、これも一期一会というものなのかな、だとか。或いは久々に笑い合えた相手が見ず知らずの老婆などと、不思議なこともあるものだなと。
ただずっとそんなことを浮かべては、一人静かに楽しんでいたように思う。確かに、楽しんでいたように思う。しかしもう明確には思い出せない。
もう、思い出すことなど――――。
早朝だったと、そう聞いている。
いつの間にか眠りに落ちていた私は、大きな物音で目を覚ました。鈍いような鋭いような、なんだかよくわからない……兎に角、嫌な音だった。何事かと身体を起こし、まだそう明るくも無い冷え切った廊下を歩いて進んだ。
その先。
つい数時間前、久方ぶりの一人ではない食事を愉しんだ場所。見ず知らずの老婆と温かな笑顔を並べ合っていた、そんな場所。夜の寒さに静まり返った床板の、その上に。
転がっていた。
薄暗い部屋の中、ひときわ目立つくらいものを流した老婆が転がっていたのだ。その時確かに老婆と目が合ったような、そんな記憶がある。怯えた目、助けを乞う目……今にも事切れてしまいそうな、そんなものばかりを感じさせる目。
次いで、強く見開かれた目を覚えている。それは興奮していたように思う。やはり明確に覚えているわけではないが……ただ、知っていた。その顔を、私は確かに知っていた。
“ こいつがやったのだ ”。
瞬間、それは声を荒げて飛びかかってきた。だから応戦した。世話になった恩人をよくも。その一心だったように思う。とても強く、激しい憤りを抱いていたように思う。
だから私は、応戦したのだ。
かろうじて覚えているのはそのくらいのこと。それだけのこと。
私に在るのは、たったのそれだけだった――――。
『仲間と強盗を企て老婆の家に上がり込み、老婆を殺害。しかし仲間割れを起こし、仲間さえをもその手にかけた』
そう、捉えられた。
男を手にかけたこと、それは紛れもない事実。正当防衛だという主張はすれど、一人の人間の命を奪ったこと……その罪から逃れるつもりは毛頭ない。
だが男と結託して強盗を働こうなど、老婆をこの手にかけたなどと、そんな事を認めるわけにはいかない。否定した。否定しつづけた。
しかし、そこに在るのは“ 真実 ”を訴え続ける私の証言と、あの場に残されていた“ 状況 ”だけだった。
貯金を切り崩すような生活をしていたこと。見ず知らずの裕福な老婆の家に上がり込んでいたこと。過去にその周囲で私の車が目撃されていたこと。老婆の家財が荒らされていたこと。おびただしい血を流す老婆が転がっていたこと。手にかけた男は旧知の間柄であったこと。
なにより、二人の血を帯びた農具に残されていた指紋。私だけの指紋。
状況が、状況だけが全てだった。
繰り返される質疑の言葉。たったの一度だけ顔を出した親からの『罪を認めて死ぬまで償え』という言葉。あつらえられた弁護士からの、それと似たような言葉。
諦めるつもりなどなかった。許せるはずもなかった。たとえ嘘でも認めて楽になろうなどと、つゆにも思わなかった。
思わなかった……はずだった。
折れてしまった。余りにも長く、そして余りにも独りだった。私にはもう、何も無かった。
もう、老婆はどこにも居なかった――――。
“ 正しい ”ということ。
誰かが、或いは己が決めたルールに従い、それを貫き通すということ。
数々の証拠を突きつけて来た検事も、弁護をしてくれた老人も、有罪を言い渡した裁判官も。
皆が皆それぞれのルールに則り、その正しさを主張する。
私もまた、その一人。
しかしその正しさの全てが相容れることなど無い。
“ それこそ ”が、“ それだけ ”が、この世の中で唯一の、正しいことなのだろう。
品行方正、清廉恪勤。
それが今の私を客観的に表す言葉。朝は規則正しく起床し、昼は己が勤めを黙々とこなし、そして夜はまた規則正しく眠りにつく。これこそがきっと、あの頃の私からは誰もが想像しえないであろう姿であり、周りの誰もが私に求めていた姿、なのだろう。
そうして特筆することもない時間の中を、ただ漠然と、ただ黙々と。
ただ、生きている。
この話もまた、一人の主張の一つに過ぎない
何を信じるか
それすら、人の数ほどに
だから世界はとても複雑で、とてもアレな感じ