二枚目 『a fragile article』 【2】
【2】
以前から気になっていた、その事を、春は知らない。
どれくらい前からなのかといえば、声をかける半年前くらいからだ。
時々しか居酒屋に来なくて、いつも、一人で疲れた表情で飲み、帰る頃にはほろ酔いだけど寂しそうな表情を浮かべて帰っていく姿を何度も見ていた。声をかけるタイミングも、何を話せばいいのかも、その時の私には何も分からなかった。
だから、あの日、仕事の事で絡み酒をされたのは、チャンスだと思った。
知り合いから見たら、ニヤニヤした表情をしてからかわれそうなほどに、嬉しさが出ていたと思う。
チャンスがきたなら、掴むのが信条で、「うちで働かない?」の半分は冗談で言った言葉に、承諾してくれるとは思っていなかった。
たぶん、春も酔っていたのだろう。
そうでなければ、そんな誘いをうけるようなタイプではない。
かすかに染まった頬と熱をおびている瞳を見て、触れたくなったのを、理性でとどめたのを覚えている。
「まだ、肌寒い」
晴れた昼間の商店街で、隣を歩く春の髪を風が撫でていく。
「そうだね」
もう少し暖かくなった頃には、今の距離を縮める事はできているのだろうか。
「でも、外の空気って、いいですね」
「気分転換になるよね」
「……そうですね」
散歩をしている猫が通り過ぎながら、首輪のない黒猫が大きなあくびをしている。そのまま道の脇に行き、日溜まりでそのまま丸くなってうとうとし始めた。
それを見た春は、なるべく気配を消しながら、そーっとスマートフォンを取り出し、カメラ機能を軌道させて、レンズを猫に向けた。
猫はゆらりと尻尾を動かし、逃げる気配がない。もっと近づこうと急に距離をつめるように近寄ると、気配を感じた猫は、それ以上は許せないと逃げてしまう。
「あ!」
思わず微笑ましい気持ちになって、クスっと笑う。
「そのまま、撮ればよかったのに」
「……もっと、近づきたくなって」
残念そうにそう言う。
「そうだよね」
私は目を細めた。
なんだか、今の情景が私と春のように思えてしまった。言われたわけではないけど、欲を出して急に近づこうとすれば、今の猫のように逃げられてしまいそうな気がしている。だから、私は今だにこの距離感を壊す事ができずにいる。
「ゆっくり近づけばよかったのかな」
「気づかれないほど、ゆっくり近づいてしまえばいいのかも」
うすうす気づかれるのかもしれないこの気持ちを、気のせいだと上手く誘導してしまえば、傍に居続けて近寄る事ができそうだ。
全く気づかれたくないわけではない。
何時かは気づいてほしい気持ちである事に、変わりはないのだが、気づいてほしい時期は今ではない。
「気づいてほしいのは、ほしいけど…」
独り言に対して、いつもならすぐに質問してくる春が、それをしてこない。
聞こえていないわけではない。聞こえていないのならば、反応していないだろう。かすかに耳を動かし、目を細める事もしていないはずだ。
だから、これは、意図的に気づかないふりをしているだけ。
気づかないふりをしているだけという事は、心当たりがあってその事に対して、自分も聞き返されたくない事がある時の可能性も少なからず、ある。その数少ない可能性であった場合、もしかしたら、私の事を好きなのかもしれないなと感じている。
お読みいただきありがとうございます。
次回の更新は、来週、平日頃の更新になるかと思います。
しばらくお待ちください。




