プロローグ 転生Ⅰ
目を覚ますとそこはなにもない空間だった。
天もなければ地もない。
温かさもなければ冷たさもない。
光も闇もない、そんな場所に私はいた。
「私はなぜ、ここにいる?」
不意にそんな哲学的な問いが心の中に浮かんだ。
その問いに答えるものがいる。
脳内に響く声。
それは女にしては低い声であったし、男にしては高すぎる声であった。
性別不詳のその声は自分が神であると名乗った。
「神だと? ふざけるな」
途端、怒りがわき上がる。
神は死んだ。
19世紀の哲学者、ニーチェが放った名言を引用するまでもない。
神など最初から存在しない。
人類が病巣を取り除くことで治療をほどこす術を見つけたとき、そこに神はいなかった。
人類が史上類を見ない大戦を繰り広げたとき、そこに神はいなかった。
人類が地球の外に出たとき、そこに神はいなかった。
人類がこの地上に現れて数十万年、中東に文明を築いてから数千年、その間、神はどこにいた?
神と呼ばれる超越者はなにをしていた?
この世界になにをもたらした?
答えはなにももたらしていない、だ。
神は人類になにも干渉しなかった。ただ無視をし、人間たちの愚行を見守っていただけだ。
そんな存在が急に現れ、自分が神だと名乗られても扱いに困るというものだ。
「神は死んだ。話しかけるな」
そう吐き捨てたかったが、それはできない。
神を自称する存在は語りかける。
「おまえは神が嫌いなのだな」
「嫌いだね」
「どこが嫌いなのだ?」
「こうやってずけずけと人の心に入ってくるところが嫌いだ」
それに――、と続ける。
「神は私を殺した。私は自分を殺したものに好意を抱くほど酔狂ではない」
「我がお前殺したのか?」
「違うのかね? なら謝るが」
「謝罪は無用」
「やはりお前が私を殺したのか」
思わず舌打ちをしてしまう。
記憶が濁流のように押し寄せる。
日本という国でサラリーマンをしていたときの記憶。
そこで馬車馬のように働いていた記憶。
そしてその会社で倒れた記憶。
過労死ではないはず。
私の体調管理は完璧であったし、生来、私の身体は頑健である。
先月受けた人間ドックでは、20代前半の肉体を維持していると医者に太鼓判を押されたものだ。
そんな私が突然死するはずなどない。
なにか超常的な力が働き、死をもたらしたとしか説明できない。
事実、その想像は間違っていなかった。
神を自称する存在はそれを認めた上で、なぜ、私を殺したか説明を始めた。
「神を憎むものよ、お前はいくつもの罪を犯した」
「ほう、どのような罪だ」
「7つの大罪だ。「暴食」「色欲」「強欲」「憤怒」「怠惰」「嫉妬」「傲慢」、お前はそのすべてに触れた罪人だ」
「かもしれないな」
暴食。私は美食家だ。その収入に応じて好きなものを好きなだけ食べていた。
もっとも肥え太るような豚食いはしなかったが。
色欲。それも人並みにある。
ただ、女房を養うのが面倒なので、その手の女に金を払って済ませていたが。
強欲でもある。
30代でそこそこの社会的地位を手に入れたのもその貪欲さのためだろう。
憤怒も経験した。
無能な上司、自堕落な部下、規律のない社会を常に憎んでいた。
怠惰でもある。
その憎むべき上司や部下の蒙を啓き、社会の変革を目指さなかった。ただ、唾棄し、見下すことしかしなかった。
嫉妬の感情もある。自分よりも無能な人間が要職に就いていると吐き気をおぼえる。
傲慢――については語るまでもないだろう。
つまり私はセム系一神教系的な原罪にすべて抵触していることになる。
しかし、それがなんだと言うのだ。
この世にそれらの罪を犯していない人間が何人いよう?
答えはゼロだ。
そのような人間はいない。
もしもそのようなものがいたとすれば、人間ではない。
私は傲慢な人間ではあるが、自分が悪人であると自覚していた。
まったく自覚のない人間、あるいは自覚していながら認めない人間よりも遙かにましであるはずだった。
そんな考えを巡らせていると、頭の中に拍手がこだまする。
それは神がした拍手であった。
「なぜ、拍手をする」
「お前のその高慢さが素晴らしいと思ったからだ」
「それは光栄だな」
「普通の人間はそこまでの境地に達することはできない。ましてや自分が死に、神と面会しているさなか、そんな態度にはでられない。もっと恐怖に怯えるか、あるいは媚びを売るか、二者択一になる。そんな中、お前は超然としている。大した『傲慢』だ」
「神にも太鼓判を押して貰える傲慢か、ならば傲慢に尋ねるが、神よ、どうして私を殺した? どうして私に話しかける。私が傲慢の権化ならば、そのまま地獄へ落とせばいいだろうに」
「なるほど、たしかにその方法も悪くない。しかし、お前のような傲慢な男には地獄さえぬるいとは思わないか?」
「さてね、地獄を見たことがないから分からない」
「ぬるいのだ。お前のような男には地獄さえ生ぬるい。だからお前には他の道を用意した」
「他の道? 地獄よりも苦しい場所があるのか?」
「ある」
「ほう、うかがいたいね」
「それは『転生』だ」
「転生だと?」
その言葉に鼻で笑ってしまう。
「なにがおかしいのだ?」
「おかしくもなる。七つの大罪というセム系一神教の言葉を使っておきながら、出てきた台詞が転生なのだからな。誰だって笑うさ」
転生は仏教徒の言葉だ。
と、私は言い切る。
「なるほど、たしかにそうかも知れない。しかし、我は神と呼ばれる存在だが、なにも神は唯一にして無二ではない。いたる場所に偏在するのだ」
「一神教原理主義者が聞いたら怒り狂いそうな言葉だな」
「しかし、事実だ。そして無数にいる神のひとりである我はお前をこの世界に存在させてはいけないと判断した。お前の居場所は別の次元にあると判断した」
「別の次元?」
「平たく言えば異世界だな」
「なるほど、本当に三文小説のような展開だな」
このご時世、webサイトを見れば無数に転がっているような事象が私の身に起きたらしい。
滑稽だ。思わず笑ってしまう。
ひとしきり笑うと神に問うた。
「つまり、私はお前の手によって殺され、別の世界に送られるのだな?」
「その通り」
「私はそこでなにをすればいいのだ?」
日本にいたときのように社畜でもしていればいいのかね?
そう尋ねるが、神は否定する。
「まさか、お前のような異才をそのような無駄遣いするものか」
神はそう言うと意外な言葉を発した。
「お前には独裁者になってもらう」
神がそう断言をした瞬間、あたりはまばゆい光に包まれる。
それが自分の肉体と魂が完全に地球から消え去る合図だと知ったのは、異世界に旅立ったあとであった。