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呪物新思想大系

せんせいウォッチャー

「貴方はやるべき事をやっていないんです。わかっていますか? 」


 甲高くもなく、かといって低く押し殺されているようなわけでもない。どちらかといえば耳触りの良い女声が彼の鼓膜を振動させる。

 投げかけられた言葉の趣旨もその意味合いもきちんと理解は出来ているのだが、言い訳も回答も持ち合わせていない彼は返答をしなかった。


 無遅刻無欠席にして、学校の中で学び記憶することで成績も学内上位に位置しているのだが、宿題、課題といわれるものの全てを提出せずに過ごしてきた2年数ヶ月。進路指導もたった一回の面談で終えて卒業を間近に控え、各教科の教員もいよいよ痺れが切れたのだろう。クラス担任の呼び出しは当然の結果だった。


『学業は校内だけで出来ること。家に戻れば彼は修行者として生きている』


 そのように家庭の事情的な回答を持っているのだが、それを言った所で理解を得られる可能性は低く、また理解を得ようという気持ちもない彼がそこにいる。

 家業は既に二代続いた看板屋。スクリーン印刷や電子的なPOP技術の進化で少なくなる仕事量の中でも頑なに仕事の流儀を変えない父親に、その腕と技量に惚れこんだ固定客は少なくなく生粋を地で行く職人肌。


『職人に学は不要、技量は盗んで高めるもの』


 職人気質を完全露出した信念は当然そこの子供として生まれた彼にも徹底伝承され、家すなわち修行の場という環境づくりの中、遊びの文化とか適切な友人環境に関しては人並み以下の義務教育期間を過ごすのだが、彼は学校という家庭外の空間を得、そこにあった習学という別次元と絵画とは異なる視界や文字から伝わってくる擬似世界に胸を高鳴らせ心を躍らせる事を覚える。


『高校に行きたい』


 優しかった母親がまだ甘えたりない時分に鬼籍に入った後、殆ど言う事の無かった数少ない我がまま。当然のように逆鱗に触れるのだろうと思っていた父親の反応が、不思議とすんなりで驚いたのは今でも新しい記憶だ。息子と言うより弟子として逆らう事無く14年のときを過ごして来た彼は少々の拍子抜けと、認めてくれたことを何かで返す必要性を思い、家庭は修行の場と決め仕事の手伝いを通じて父親の技術を盗むことに専念し、学びを持ち込むことを自ら断った。信念の結果として今日のこの日があり、それを受け入れる覚悟はあるつもりではいたが、その会話が彼女と面と向かってのものになることは想像していないことだったかも知れない。



 今、目の前にいる彼女は先生。


 学級担任は家庭の事情をある程度認知していることもあり、副担任と言う立場から教科教員が持つ不満の捌け口として彼女は選ばれたのだろう。彼はその前で教室に有るのと同じ座りの悪い木製の座面に深く腰掛け背筋を伸ばし、深妙な投げかけを真摯に受ける姿勢はしているのだが、視線が関与してしまう頭の位置だけは不思議と定まらない。


 目を合わせて返答を拒否するのは挑戦的すぎる。かと言ってうつむき加減では何か認めてしまって反省の念を示しているように思われるだろう。そう考えた彼はとりあえず彼女の額から上あたりに目線が飛ぶような首の角度を自然に選択していた。

 その姿は上の空のような呆けたようなものに見えたかもしれないが、敵意も反省もない状態であることを表現する現時点での最善の選択と考えていた。


 2年前の春、彼の高校生活がスタートした時。先生は華やかなフリルが付いた優しい生地のブラウスに可愛い膝小僧が印象的な短めのフレアスカートで中卒男子の羨望を浴びていた。ナイロンの光沢を抑えたナチュラルカラーのストッキングに包まれたその関節が上手に屈曲させた板バネのように躍動し、少しウエーブのかかった髪がふわりふわりと揺れる教壇は迷い込んだ異世界で垣間見る妖精のステージのように感じたものだった。

 迎えられると思っていなかった高校生活。二次成長を迎えた同級生達の成長曲線に驚きの視線を向けることはあったが、それ以上、事あるたびに彼女の姿を視線の端に追い続けている時間に言い知れぬ感情を覚え続けていることは、誰にも悟られることのない彼の楽しい時間だった。


 校舎の隅に据えられた生徒指導室。


 特別に用でもなければ生徒はおろか教員すらも近寄らない校舎の隅で、廊下を通る音などは皆無だ。西日の差し込む窓からは校外の景色は見えないが、運動部のヤケクソじみたかけ声が遠くグラウンドから窓越しに聞こえる。教室の統廃合で使われなくなった中古の机や椅子を持ち寄ってしつらえられている部屋なので、軽く身体を動かすだけでガタンガタンと安定しない椅子の足が床を叩く。

 視線は正面に座る先生の額から黒髪の輪郭を捉えつつ、とろけるような西日のまぶしさの中に放り込んでいた。結ってまとめた髪から悪戯に逸れたおくれ毛がキラキラと光の中に漂う様が彼の視界の中に踊り、それだけでもあの憧れの時を思い出させるには充分で動機の高鳴りを感じる。


 1年前に新任してきた短大卒の英語教師が校内男子を衝動を席巻した頃、彼女は髪を黒く戻し、まとめた。


 それは女性として華やかで可愛げがあれば許される時代から、自分なりの世代交代を感じた瞬間だったのだろうか?

 教鞭にもしっかりとした決意感が漂う強さが感じられるようになり、教壇が美や萌えを演出するステージから教員と生徒を隔てる崖のように変わり始めると、10代後半の単純で多感な男子たちは、新しい天然のアイドルに固執し、昨日の憧れは忘れてしまったかのように彼女の話題を発しなくなっていった。


 存在感を色でしか感じることが出来無い空気のように風に同調する軽やかでふわりとした素材のブラウスからフリルやリボンが無くなり、スクエアな印象を根付かせる鋭利にとがった襟が目立つシャツブラウスになった。歩くたびに落ち着かなく揺れていたスカートの裾もタイトに脚にまとわりつき、かわいらしい曲面の膝小僧は無粋な布地に隠される。

 教鞭に立つものとして光沢を抑えながらも脚の表面で存在感を誇張していたナチュラルストッキングは、人気商売ではないものの若さによって構成されるヒエラルキーのステップを踏み外した慙愧を読み取られないように黒いタイツに変わり、内包するものを暗幕の向こうに押し隠してしまった。



「ちょ…、話し聞いてる? 」


 瞬間のように感じていたが意外に長い間を取っていた事を、彼は彼女の言葉から感じ取ることが出来た。そしてやっぱり『上の空』に見える首の角度と視線を選択した彼の失敗を再認識するトーンを感じ、『うぁっ』っという気持ちの混濁が、ついうっかり視線を落とす行為に繋がってしまう。

 

 タイトスカートから伸びた彼女の脚が視線の中に飛び込んでくる。そしてそこから目が離せなくなる彼。


 ヴェールを連想させるその漆黒は、本人の思い描く(覆い隠す)役割をはるかに逸脱し、実像の中に強烈なインパクトを与えていた。ただ細い太いという形容上の容姿では表現できない柔らかでありながら心を刺激する曲線で構成された彼女の足を、これでもかと言うほどに輪郭線として強調し、背景の様々な色をいう色の最後の集約を思わせるかのごとくに際立たせていた。

 座面の低い生徒用の椅子に腰掛けた彼女の膝丈のスカートは弾力と張力に満ちた腰と尻によって裾の位置をなまめかしい膝上丈に変貌させている。垣間見える膝は大きく屈曲し、漆黒のナイロンを形作っている繊維と繊維の結合に隙間を作る。ちょっと考え違いの女子力を教職の身に不文律なモノと思ったトーンの表面を突き破るかのように、いやおうなしに彼女の本心であろう柔肌がヴェールから垣間見えるようになる。


 離せなくなった視線の先にある世界の中で、彼の脳裏は『あの時』の記憶に占拠されていた。


 彼が入学したての春。同じく新任だった彼女は早々に任された学年の副担任と言う職務をいかにしてこなすべきかの渦中において、生徒との距離感を著しく詰めてきた時期があった。具体的には休み時間や放課後、教室に滞留して他愛のない会話を誰彼となくしているような事なのだが、勉学と離れた時間を少なくとも憧れに抱くことの出来る美しい年上の女性と共有できる夢のような現実を男女問わず生徒の殆どが楽しんでいた。『輪の中に入る』の具現化。彼女が考える理想はほぼその通りになり、先生よりは友達にシフトしたその存在により、クラスはアイドルファンクラブにも似た、穏やかな秩序が維持された。


 ゴールデンウイークも過ぎ、感じられる風向きの変化に汗ばむ日もあった陽光のまぶしいある日。机を空間分移動し、椅子を円形に配置した車座の中で彼女はいつものように生徒たちと他愛のない談笑に花を咲かせていた。

 彼はその輪の中に入ることを自ら拒否していた一人だったが、それは人との交流に慣れていないことによる苦手意識が先行したものであって、入りきれない外輪の中の一人で居ることを欠かすことはなかった。視線が合ってしまうと話題の中に入れられてしまう恐れを避けて先生の斜め後ろからそのすべてを視界の中で愛でる。


 少しオーバーかなと思えるリアクションが日光でブロンドのように輝くウエーブの髪の毛を躍らせる。軽い素材のスカートの裾が南よりの風にユラユラとなびき、清楚なストッキングのナイロンにキラキラと陽光を反射させている。みずみずしい果実と濃いミルクの混ざり合ったような芳香が開け放った窓から流れてくる空気に色を添えたように流れ、同世代の女子では視覚しようのない、ふっくらとした隆起のたおやかな胸の曲線などのすべてが生徒達の心拍数をいやがおうにも上昇させ、生徒一同のテンションは上がり続けていた。


 異様なテンションの上昇からひとりの男子生徒が嬌声と共に先生に襲い掛かるようなそぶりの道化を演じた時。その瞬間は訪れた。


 充分な安全マージンを思考の中では保有していながら、おどけに対処するおどけの切り返しを演じた先生は、ちゃんと聞き取れば真剣さの感じされない叫び声と共に四肢の関節をギュッと屈曲させ、可愛らしいおびえのポーズを作って見せた。

 座面の端が経年変化でかるくささくれ立ちはじめた生徒用の椅子。グイっと屈曲させた膝の裏側でふくらはぎの一端がその部分に強く触れた刹那、ささくれの幾本かに完成度高く編み上げられたナイロンの繊維が引き攣れ、破断した数本と乱れた規則性が柔和な稜線を描くふくらはぎの上に鎖線を作り上げていく。鎖線はパウダリーなナイロンの表皮を無残に引き裂いて、大人の女の肉感をしたためた淫猥な色に変化させていく。傾きかけた陽光がナイロンと素肌のコントラストを妖艶に引き出し、魔道への導きのような妖しい世界を感じさせる。


「あ……んっ 」

 巨大なノイズとなった嬌声や笑い声の中に、彼は聞こえるはずのない声を聞きとめた様な気がした。それは、なまめかしさを抑えてはいるが控えめにグロスの光沢を備えた唇の動きだったのかもしれない。

 表情や視線、態度に見せないようにしながらも明らかに気に留めているそぶりが普段と微妙に異なる様相から見て取る事が出来てしまう彼のほうが、彼女より増して起きている事態への狼狽を感じる。彼女が何気なく時計に目を送り、「あっ、ごめんねー」と中座のそぶりを見せ始めたことに本人よりも安堵の気持ちを感じた彼は、見つからないように足早に立去るふくらはぎから目を話すことが出来なかった。

 身嗜みと言う題目に隠れるように演出される美しくファウンデーションする脚もとのファッション。その容貌の変化により露わとなった女性の肉は、彼の脳内で彼女を装飾した繊維すべてを剥ぎ取り、柔らかで角張った部分の一つもない曲線のみで構成された裸身を創造させた。


 脳表の海を漂うように揺れる憬れの裸婦像が実像の視野を遮り、訪れる内腿への衝撃。


 それは痛みのようなものではなく、内側から引っ張られているような引きつり感を伴い、股間に人に見られてはいけない欲情の証を噴出している時の肉体変化。

 彼はすでに生徒達の興味を失っていた先生が立去った廊下へのドアに向かい、急ぎ足で廊下を駆け抜けた。

 個室のドアを閉じ股間に目を落とす。慌てていたときには感じなかった湿った感触を下着に感じると同時に、目に入ってきた股間のシミを絶望的に眺めるが、次の瞬間、人気の居ない個室の中で過去に感じたことのないような快感の波に襲われへたりこんでしまった。



 ヴェールの向こうに垣間見える肌の色は、あの日から何も変わっていないように思えた。


 ただそのヴェールがナチュラルで人目を気にすることのない色から、人目をはばかっている様でありながら、実は稜線輪郭をことさらに強調し、妖艶な漆黒に覆われていると言う事実、現実を直視する形になったと言うこと。

 彼女が髪を黒くし、服飾が変化していくさまを追い続けながら、学び舎にもたらすものが、華やかさから息苦しいほどの葛藤になっても、何人もの男子生徒の口から出てくる先生の名前が、人気投票のように少数派になっていっても、変わらず見続けていた彼の脳裏の中で、そのタイツに包まれた脚は10数年の生涯をかけて見続けてきた女と言う性の証であり、性という観点における慰めの対象であり、思いの丈であった。


 落とした視線を戻さない彼に反省の意を感じ取ろうとしていた彼女は、異なる感情の高まりを直感で感じ始めていた。


 身の危険を感じるほどではないにしても、その感情の高まりはストレートに受け入れてあげる準備が出来ていないものであることを思考の中でめぐらせる彼女。西日の傾きが大きくなり、照明器具の間接的な照度がないと教室の角は影に黒く覆われてしまうような時間。そんな時間をすごく長く感じるような思い。強いものではないが恐怖感のような感情が脳裏に浮かび、伸ばした背筋の威厳は保ちつつも関節の萎縮を禁じることは出来なくなっていた。


 静かな生徒指導室。黒いナイロン繊維の規則性が木部のささくれに乱される『じりりっ』という音が小さく響く。あわてて膝を伸ばしたふくらはぎからすっと伸びた糸が、夕暮れの最期の灯火の中にキラッと光った。


「いやっ……」


 鼓膜を揺さぶる小さな囁きに我に帰った彼は視線を上げる。そこには、はにかみと少しの私憤が入り混じった彼女のうつむき顔。


 長いのか短いのかわからない時間を経て、二人の目線は互いを認知するようになった。

 そして先生と生徒は就学指導という立場での必要な会話と言葉の応酬を重ねその部屋をあとにした。




 数日後。彼は自宅の作業場で練習用のボードに向かって一心不乱に絵をしたためていた。


 その絵は看板という個別的な商品をどうするとかいったものではなく、抽象的な背景の中に想念をぶつけ描いたような世界が広がっていた。看板というよりも絵画の領域においたほうが評価の対象になるかもしれないそれの中心には、漆黒の裸婦嬢。

 漆黒でありながら光の方向から幾重にもグラデーションのあるトーンで彩られたそれは、さながら無駄や隙間の存在しない光沢のある繊維に包まれた女体そのものであり、隆起や陥没に至るすべての曲線において官能的で妖艶でありながら、博愛を感じさせる恥じらいなき躍動感に満ち満ちていた。


 桃源郷を思わせる背景の一部に手を入れながら、ふと背後に存在と視線を感じることに彼は気付く。

 めったなことでは笑った姿を見たことのない父親が、軽く口元を笑みの方向にゆがめながら立っている姿がそこにあった。


「で、その女は抱いたのか?」


 驚くほど直球の質問の投げかけだったが、心を決めている彼はすでに動じなくなっていた。『まだ』であることを首を振って示す。


「だ……ろうな 」

黒いグラデーションに彩られた柔和でエロティックなカーブの連続で構成された部分を、じっと見つめながらつぶやく父親。

「お前、まだナイロンに恋してやがる」

そうひとりしきり言い放つと、背中を揺らし声に出して「くっく」と笑い始める。


「学校。よかったじゃねぇか」

去り際、肩に手を置いて父親は彼に言う。



『思春の季節に見たものが、必ずお前の筆の糧になるんだよ』 


 口数は少ないがきわめて重要なキーワードだけを残す父親が、そう言ったように思えた彼は、今までの不思議の解決と、これから現在程度の思考では持ちきれないほど広がり続けるであろう自分の世界を思い、深く息を吸い込んだ。


 ペンキと溶剤の香りに混ざり、鼻腔の奥で記憶している果実とミルクの甘酸っぱい芳香が海馬をびりびりと刺激する錯覚に捉われた。



『きょうは眠らない。いや、眠れないな』


 喚起のために設けられた天窓からやさしい光を差し込んでくる下弦の月に向かって、彼はぽつんとつぶやいた。





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