ふたりは、不器用
『憎いのだろう。嫌いなのだろう。だったら潰してしまえばいい。潰して無くしてしまえばいい――大丈夫だ、無くしてから気づく大切なものなど、一つもない』
無くしてしまうようなものが、大切であるはずがない。
ルーミア・セルヴィアソンは『エマ・サヘルはペリュトンに取り憑かれている』と表現していたけれど、今の彼女を見ると、その表現は正鵠を射ているとしかいいようがなかった。
ペリュトンの声は頭に直接響く。
心を徹底的にうってくる。
耳をふさいでも、耳を削ぎ落としても、その声を聞かないという選択肢はない。
『言えばいい。あいつを潰せと。それで全ては終わる』
「〜〜っ!!」
エマは両耳を両手でふさぎながら、しゃがみこんだ。
そんな事をしても、ペリュトンの声はかき消せない。
命令。
潰せと、言え。
少し前の彼女であれば、こんな葛藤もなく『潰せ』と命令できただろう。
実際、彼女は一度一つ目の団長を潰すことに成功している。
それはあまりにも感情的で、激情的で、到底理性というものは感じられない命令だったけれど。
それでも彼女は一度命令をしている。
癇癪をおこした子供のように命令している。
問題があるとすれば、その後のことだろう。
不楽の感情論を無視した――分からないからこそ発生した質問。
『どうして、迷っているのかな――』
それが彼女を動揺させた。
感性のないものの質問が、本人も気づいていなかった感性を揺らしたというのはなんだかおかしな事ではある。
ともかく、それは彼女の心を揺さぶった。
いや、それだけならば、これだけの動揺はなかったかもしれない。
揺さぶられはしたけれど『所詮はゾンビのたわ言』だと割り切れたのかもしれない。
彼女をここまで動揺させたのはやはり――。
涙目のエマは、自身の頬に触れる。
まだ温かい血が、指に触れる。
私はね。
お前が幸せだったらそれでいいんだ。
だから、もっと笑っておくれよ。
それだけで、私はいいんだ。
「……できない」
『ん?』
ペリュトンは首を捻った。
なにを言っているのか分からない、という風だった。
『なにを言っている。エマ・サヘル?』
「できない……言えない……私には、ムリ……」
エマは震える体をそのままに、しゃがみこんで、震える声で言った。
涙をこぼしながら言った。
涙は目を囲う鱗の隙間を縫い、足元に落ちていく。
一つ目の団長から視線を外し、ペリュトンはしゃがみこんでいるエマの方を見た。
『できない、か。ふむ。確かに今のお前からは恨み辛みのような負の感情はあまり感じられない。動揺しているな、エマ・サヘル』
「……」
『そうかそうか。ならばそれでいい。無理強いをするつもりはない』
ペリュトンは頭を少しさげて、エマの頬をさすった。
エマは少しだけ視界を上げる。
視界には倒れている一つ目の団長と、その奥、入り口に立ったままの不楽――そして、団長の上を飛んでいるペリュトンの姿が映った。
『言われなくとも、俺たちは潰すさ』
ペリュトンが落下した。
ぐしゃり。
ぐしゃり。ぐしゃり。
ぐしゃり。ぐしゃり。
五回。肉が潰れる音。
それは生々しく、彼女の耳に届いた。
***
ダモクレスの剣。なんて言葉が存在する。
王座の上に設置された、髪の毛一本で吊られた刀剣。
転じて身の回りの危険や、一触即発の事態をさす言葉だ。
一つ目の団長の頭上で飛んでいた五匹のペリュトンは、そういう意味では、髪の毛一本で吊られた刀剣のようなものだった。
ダモクレスの剣ならぬ、ペリュトンの蹄というべきか。
ともかくそれは、一つ目の団長の元に落下した。
その衝撃で汚水の王冠は断続的に姿を見せ、大雨のように落ちる飛沫は、視界を悪くする。
『別にどちらでも構わなかった』
『お前が好きな相手を憎んでいるのは知っていた』
『お前が愛してくれている人を嫌っているのは知っていた』
『あまりにも滑稽で、ひどい笑い話だと、知っていた』
『だから俺たちにとっては、どちらでもよかった』
『餌に釣られても、釣られなくとも』
『謝っても、謝らなくとも』
『許そうとも、許さなくとも』
『お前の手で潰そうとも、潰さなくとも』
『そこには必ず負はあることは分かっていた』
『ああ、エマ・サヘル』
『俺はお前にはな――不幸になって欲しかったんだ』
「だ……う……?」
絞りだすような声――しぼりカスのような声。
なにかは言っている。
なにかは言っているけれど、なにを言っているのかは分からない。
黒かった髪は一瞬にして白くなった。
顔もなにもかも白くなった。
目の焦点はあっていない。
なにもかもが、見えていなさそうだった。
『はち切れたか。ふん、まあいい。お前からはもう充分に負は貰った』
体になだれ込んでくる負の感情に、ペリュトンは顔を歪め、羽ばたいた。
汚水の水面に波紋がたつ。
エマの目はそれを追おうとさえしない。
その目には悲しみが色濃くうつっている。
『上の街はそろそろ自壊する頃だろう。俺はそれを見なくてはならない。さらばだ、エマ・サヘル。蛇の娘。お前と過ごした数日はつまらなくはなかったぞ。願わくは、これからの人生も、何ら代わり映えのなく辛く、惨めで、不幸であり続け――』
「ふざけたこと、言ってんじゃあねえぞ」
掴まれた。
捨て台詞をはいて、曲がり角から飛び去ろうとしていたペリュトンの喉元を、未だに大雨のように落ちている飛沫の向こうから伸びてきた腕が掴んだ。
その腕は筋骨隆々で、なによりも巨大で、ペリュトンの喉元を掴む五本の指は丸太のように太かった。
『なにが……』
汚水の雨はやむ。
視界不良は解消される。
雨の向こうからは、誰もが見上げるような巨体が、一つしかない巨大な目で、ペリュトンの顔を修羅のような形相で睨んでいた。
まさか。
ありえない。
ペリュトンはもがきながら思う。
確かに潰れた音もあったし、叩きつけた衝撃もあったはずだ。
それなのにどうしてこいつは立っている。生きている。
その答えはすぐに分かった。
修羅のような形相の一つ目の団長の肩越しに見える曲がり角の入り口に、あの男の姿がなかったのだ。
負のない男の姿が、ない。
ペリュトンは視線を下ろす。
五体のペリュトンが汚水に沈んでいた。
どれも頭だったり胸だったりが潰されるか捻られていて、どう見ても倒されていた。
その中心で、唯一立っている白髪混じりの男――不楽のだらりと垂らした両手は赤くぬれていた。
理解した。
五匹の強大なペリュトンが一つ目の団長の元に落下したとき、ようやくその男は動きだしたのだと理解した。
――ギリギリまで動いていた様子はなかった。
――ともするとこいつは、この一瞬で五匹全員をねじ伏せたということか。
「数がいたから厄介だった。守る方も、倒す方も。だから、個々が強くなったぐらいじゃあ、僕には勝てないよ」
喉元を掴まれているペリュトンを一瞥することなく、不楽は言う。
自身に満ち溢れた――というより、事実のみを語っているような口調だった。
もし自分の方が弱かったとしても、同じように語っただろう。
僕の方が弱い、勝ち目はないよ。と、対戦ゲームをやっているような気軽さで答えただろう。
だからこそ、その言葉はなによりも雄弁で、嘘偽りのない言葉だった。
「ふざけたことを言うなよ……」
ペリュトンの喉元を掴む手の力は増す。
指がペリュトンの喉に食い込む。
怒りに身を任せているようでもあった。
怒り――負の感情。
負を啜り、負に悦ぶ奇っ怪なるものであるペリュトンにとってそれは喜ばしいものであるはずだった。
しかしペリュトンはそれに、怯えていた。
柄にもなく、負に、恐怖した。
「どうしてエマが不幸せにならないといけない。どうしてエマが幸せになってはいけない。あの子はもう充分に痛みを知った。苦しみを知った。悲しみを知った。知りすぎるぐらい、知ってしまった。これ以上お前は、彼女になにを望むつもりだ……」
『……そうだな』
ペリュトンは怯えを隠しながら言う。
喉を締められようとも関係のない声で、口元を歪めながら言う。
『そのまま衰弱死でもしてくれたら、最高だな』
「そうか。なら、お前が潰れろ」
ぐちゃっ。と音がした。
ぶっとい腕は、ペリュトンの頭をぶち抜いた。
ペリュトンは一度汚水に体をぶつけ跳ね、壁にぶつかり、壁に亀裂をはしらせる。
「あの子は幸せになっていいんだ。お前程度が、邪魔をすんじゃねえ」
***
おおきく振りかぶって、掴んでいるものを、思いっきりぶん殴る。
それだけの事をして、一つ目の団長は崩れ落ちた。
巨体は汚水に沈んだ。
一歩も動けない。汚いと分かっていても、それから逃げることも出来ない。
「まいったな、これは……」
一つ目の団長は呟く。
その声もさっきまでに比べると、いやに弱々しかった。
火事場の馬鹿力も長くは続かない。
疲れ果てている。このまま眠ってしまいそうなぐらいに――眠って、そのまま二度と目覚めそうもないぐらいに。
と、そこで。
意識が落ちかけていた彼の体に、なにか温かいものがしだれかかった。
温かい。
汚水で冷えた体に、人肌ぐらいのぬくもりは、ありがたい以外に言うことはない。
「団長……」
それは、エマだった。
一つ目の団長は力を振り絞って、エマのいるであろう方向を向いた。
彼女は上半身を一つ目の団長の体にのせるようにして、寄りかかっていた。
両腕で顔を隠すようにして寄りかかっていたけれど、団長の視点――下からは、その爬虫類のような目からこぼれる涙はよく見えた。
反対側が透けてみえる、透き通った綺麗な涙だった。
「……ごめんなさい」
彼女は、泣いていた。
わんわんと涙をこぼしながら、泣いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「え……?」
一つ目の団長の大きな目が点になった。
なっても未だ大きいのは変わりないけれど。
「ま、待てエマ。どうして謝る。謝らないでくれ泣かないでくれ。謝らないといけないのは私なんだ、な、頼むよ?」
一つ目の団長は慌てたふうに言う。
しかしエマの涙も謝る言葉も止まることはなかった。
団長の優しい反論も、止まらなかった。
取り残された部外者である不楽は、そんな二人をなんともない風に眺めていたりしたけれど、もしもここにルーミアがいたとしたならば、きっとこんな風に思いながら呆れていたりしたのだろう。
――ああ、なんて不器用なんだろう。この二人は。
とか。
自分のことを棚に置いて、思ったりしたのだろう。




