クリアベル ガーデン
ざあ、と風が吹いた。フードが外れ、現れた髪が流される。それを軽く抑えると、目の前に聳え立つ関所に足を向けた。
街に入るための列はそれほど長くなく、すぐに順番が回ってくる。次の人、声がかかってカウンターの前に進み出ると、きっちりと制服を着こんだ役人が座っていた。
背中に空色の翼が生えた彼は、一枚の紙を差し出した。
「必要事項の記入を」
同時に渡された羽根は目の前の翼と同色で、もしかしてこれは彼の羽根なのかな、とどうでもいいことを考えながら軸にインクを付ける。さらさらと慣れた手つきで空欄を埋めると、その紙とお金を役人に手渡した。
彼は手早く目を通し、通行料との差額を返してくる。そのまま手で出口を示され、思わず目を瞬いた。
「なにか質問でも?」
「此処は翼種の街、だよね?」
「それが?」
「私は人だよ?」
「……ああ、そういうことか。昔は駄目だったが、今は問題ない。次が閊えているから早く進んでくれ」
静かな声音で促され、釈然としない気持ちのまま先に進む。そして踏み入れた街の光景に、思わず息を呑んだ。
「いつから翼種は自分以外の種族を受け入れたんだろうね?」
『翼種』とは鳥の亜人のことで、背中に翼が生えている者もいれば、腕自体が翼になっている者もおり、手足が鈎爪になっている、いないなど統一されていない。身体の一部に鳥の特徴を持っていれば、全てひっくるめて翼種と呼ばれる。
翼種は全体的に数が少なく、確か総じて他種族との関わりを拒絶しているはずである。数度だけ旅をする翼種を見たことがあるが、彼等と交流したことはない。というより、関わることができなかったというほうが正しい。それほどまでに他種族を拒絶していたのだから。
しかし、目の前の光景はどういうことか。翼の腕を持つ翼種の女性と談笑しているのは人の男性だし、翼種の店主と値切り交渉で勝利を収めた商人の頭には犬の様な耳が生えている。
そのとき、丁度目の前を小さな少女が走り抜けた。猫の様な耳と尻尾を持つ少女は、厳つい顔をした翼種に近づいて徐に翼を引っ張る。さすがにそれは、と思ったが、男は怒るでもなく少女を持ち上げると肩に乗せた。きゃらきゃらと聞こえる少女の声には微塵も恐怖がなく、嬉しさのみが溢れていた。
もう、何がなんだかわからない。
「あははっ! 百面相だね、旅人さん」
後ろから聞こえた明るい声に振り返ると、落ち着いたこげ茶色の髪を二つに括った人間の少女がにっこりと笑っていた。
「この街、やっぱり不思議? わたしはずっとここにいるからよくわからないんだけど、来た人皆驚くんだもの!」
少女は後ろで手を組むと、くるりと回る。綺麗な笑みを浮かべ、そのまま後ろにとんとん、と下がった。
「でもね、これは奇跡が起こったからなのよ。すっごい、奇跡。知りたい? 旅人さんになら、ううん、旅人さんじゃなくても、此処から遠い土地に行ってくれる人になら教えてあげる。そして、このことを他の翼種に伝えて欲しいの」
「……じゃあ、お願いしようかな」
「そうこなくっちゃ!」
楽しそうに告げ、前を向いた少女はとん、と地面を蹴る。跳ねるように歩を進め、肩ごしに振り返った。
「奇跡の始まりはね、人間の少女がこの街に辿り着いたことからなのよ――」
閉じていた目を開けた私は、眠気を飛ばすように幾度か瞬きをした。
いつの間に、眠っていたのかな。憶えが……あれかな。うん、それならこんなにすっきりしているのも納得するし。でも、それならどうして私は――
「目が覚めたか?」
……誰?
突然降ってきた声の方向には、外套のようなものを羽織り、目深にフードを被った人がいた。それは顔の半分以上を覆っていて、口元以外何も見えない。男の人だということはわかるんだけど。それに、
「ここ、どこ……?」
声は何故か、久しぶりに出したかのように酷く擦れていた。喉が、痛い。
けほ、と咳をすると、男の人は戸惑ったように顔を背けた。
「そこの台に水がある」
男の人の顔の方向を辿ると、確かにコップと水の入った水差しが置いてあった。あれは、顔を背けたわけじゃなかったみたい。
ありがとうございます、と痛む喉でお礼をいい、ふかふかのベッドに手をつく。ぐ、と力をいれて身体が――一瞬だけ浮いて落ちた。
「……?」
「一週間近く眠っていたんだ、無理をするな」
一週間ってなんですか。いや、本当に。え、てことはベッドもずっと占領してたってことじゃ。
「ごめ、なさ……! すぐに――うわ!」
「危ない、」
ろくに動かない身体でベッドから降りようとしたからか、バランスを崩してベッドから落ちそうになる。目を瞑った瞬間、傾いた身体が何かに受け止められた。わたしを支えるそれは、柔らかかった。
「うで、……!?」
「っ、」
ぴくり、と動いて引き戻されそうなそれを咄嗟に掴む。自分の手はあまりに弱弱しかったけれど、男の人は腕の動きを止めてくれた。
自分の手の中のそれを、確かめるように撫でる。ふわりとした感触は――
「はね……?」
布の下から伸ばされた、鮮やかな森の色をした翼。その先には、鋭い鉤爪。
「このひと……」
「そろそろ、放してもらえるだろうか?」
「あ、」
知らない人に何をしていたんだろう。気まずくて手を退けると、男の人はわたしを腕で支えたまま枕を重ねた。そこにわたしを凭れかけさせ、台に手を伸ばす。鉤爪で器用にコップを掴み、わたしに差し出した。
「喉が渇いているだろう?」
飲め、とコップが口元に宛がわれる。直後に流し込まれた水は、瑞々しくてまるで生き返るようだった。
喉の渇きを認識してしまうと、ゆっくり流し込まれるそれがもどかしい。もっと、もっと欲しい。そう強請るように鉤爪に手を重ねると、一瞬だけ微かに震えたが、頑として速度をあげてくれなかった。
ようやく全部飲み終えたところで、コップが外される。そのまま手渡され、新たに水が注がれた。
「ん、んぐ、げほっ! ごほ!」
「ゆっくり飲めと言っている」
むせるわたしの上から呆れた声が降ってきて、コップが奪われる。そして、恐る恐るといった感じに腕で背中を擦られた。
息が整ってきたあたりで背中の熱が離れていく。それを目で追い、無意識に手を伸ばした。
「……」
上手く動かない手が、フードの端を掴む。男の人は無言のまま、けれどもわたしの行動を止めようとはしなかった。
「……やっぱり、翼種だったんですね」
フードの下から現れた、エメラルド色の髪。その両端、耳元から大きく伸びる深緑の羽。
「怖いか?」
男の人の髪と同色の瞳がわたしを真っ直ぐ見つめ、頬に鉤爪の背が触れた。
「この鉤爪が触れただけで、お前の皮膚は抉れる」
「……えっと、」
男の人の言葉に、わたしは戸惑う。それをみて、男の人は自嘲気味に笑った。
「怖くないわけがないな。馬鹿なことを訊いた、忘れてくれ」
そう告げて座っていた椅子から立ち上がり、男の人は背を向ける。遠ざかる姿を見て、徐に口を開いた。
「翼種は他の種族との関わりを拒絶する、といわれています。だから私は、翼種は自分以外の種族を嫌っているのだと思っていました。でも、貴方を見ているとそう思えないのです」
だって、嫌いなら助けようと思わないでしょう? そんなに、寂しそうに笑わないでしょう?
嫌いなら放っておけばいい、寂しいなら拒絶しなければいい。それなのに、どうして。
「翼種は何故、他の種族と関わろうとしないのですか?」
私の言葉に、男の人が立ち止る。少しして、吐息の様な声が聞こえた。
「翼種は、臆病で愚かなだけだ。全てを引き起こしたのは自分自身なのに」
静かでありながら吐き捨てられたそれは、憤りのようで、嘆きのようだった……その怒りは、悲しみは、どこに向けられているの?
そんなこと、わからない。わかるわけがない。だって、私は――
「翼種を、知らないです」
ぽつり、と呟いたそれに、男の人が肩ごしに振り返る。その瞳を見つめ、でも、と笑った。
「私が一週間も眠っていたというなら、倒れていた場所に放置しておけば勝手に死んでいたんです。それを、貴方は助けてくれました。だから、貴方のことなら、少しだけ解ります」
視線を外してベッドの下に足を下ろし、力が上手く入らない足で立ち上がる。直後、傾いた重心を支えきれずに前のめりに倒れた私は、やっぱりですね、と柔らかな羽に触れた。
「怖いとか、怖くないとか、そこまではまだだけど。貴方が優しいということだけは、知っているんですよ」
私は、自分の今の状態で立ち上がったら転ぶことを理解していた。だから、それで転んだとしてもそれは自業自得。それなのに、支えてくれたのはこの人が優しいから。
「……」
「私は思うんです」
身体の前に腕を出すようにして私を支えている男の人を見上げた。
「姿が違っても、言葉が通じなくても、互いが努力すればいつかは解り合うことができます。私と貴方は言葉が通じるのですから、もっと早く解り合えます。私は翼種のことが、貴方のことが知りたいです」
「知りたい、か」
「はい」
「そうか……じゃあ俺も、腹を括ろうか」
私の返事に一瞬だけ脅るような表情をした男の人は、次の瞬間には戻っていた。……見間違い、かな?
どうした、と少し首を傾げた男の人に何も、と返し、あ、と口を開いた。
「私はリンシアといいます。リン、と呼んでください。貴方の名前を教えていただけますか?」
「……クリス」
「クリスさん、ですね」
「呼び捨てでいい。敬語もいらない――口調を偽ったままで、解り合えるのか?」
「……やっぱりわかります? でも、年上ですから……」
「慣れろ」
そう、少しだけ悪戯っぽく笑ったクリスさ…クリスは空いている鉤爪の背を差し出した。
「よろしく、リン」
「こちらこそ、よろしくお願いします……あの、敬語はこれから努力しま、するの……すみません。まだ無理です……」
これから努力します、と差し出されたそれに手を触れる。クリスの手は、もう震えていなかった。
閉じていた目を開けると、眠気を飛ばすように幾度か瞬きをした。初めは見慣れなかった天井も、この一年で当たり前のものになっていて。ベッドから降りると、タオルを持って玄関に向かった。
外の井戸から水を汲み上げ、桶に手を浸す。掬い上げたそれで顔を洗うと、横から置いておいたタオルを差し出された。
「ありがとう、グレン」
「やっぱ、クリスじゃないってわかるの?」
「だってクリスは持てないから」
「ははっ、そうだった」
顔を上げた先にいたのは、燃えるように真っ赤な翼をもつグレンだった。ぱたぱたと楽しそうに、背中の翼を揺らした彼は、私からタオルを取り上げた。
「クリスみたいに鉤爪を持つ翼種は、こういうもの持てないからね。人間の手を持つ僕としては鉤爪に憧れるけど、リンにタオルを渡せるならいいかも――あ、やべ。じゃ!」
唐突に手を振って飛んで行ってしまったグレンを目で追っていると、後ろから羽ばたきの音。振り返ると、丁度クリスが着地するところだった。最後の最後で失敗したのか、少しよろけた姿に思わず笑ってしまう。
「前から思ってたけど、クリスは着地が苦手なの?」
「……うるさい」
ふい、とそっぽを向いたクリスに、笑ったまま手を伸ばす。ちら、とそれをみたクリスは、いつものように少し身を屈めてくれた。
側頭から伸びる大きな羽に触れる。ふわりとした、空気が形を持ったような感触が気持ちいい。幾度か撫でるように手を動かし、ねえ、と何気なく問いかけた。
「前から思ってたんだけど」
色、薄くなった?
「……そうか?」
「うん。ここも、腕の翼も。今みたいな透明感のある色じゃなかったと思うの」
「……いつか、教える」
歯切れ悪く答えたクリスを見上げ、しばらく無言の後頷いた。
「私は、無理矢理聞きたいわけじゃないよ。だけど、教えてくれたら嬉しいな」
「時が来たら、な――…れ……きて……――」
「え、なに? 聞こえない」
クリスの呟きを、風が攫う。訊き返したけれど、クリスは静かに首を振った。
「気にするな」
「そう?」
「――リンは、グレンの方がよかったか?」
「……どうしたの、突然?」
いきなり変わった内容に戸惑う。動いたクリスの視線は、先程グレンが飛び立った方角を見ていた。
「グレンの手は、リンに触れることができる。それに、共に空を飛ぶこともできるだろう? 俺の鉤爪は傷つけることしかできないし、翼は腕だから、お前と共に飛べない」
「クリスは、一緒に飛びたいの?」
「……翼種にとっての空は特別なんだ。だから、そこに連れて行きたいと思ったのかもしれない」
自分でもよくわからないが、と空を仰いだクリスの羽が、光を通して綺麗に輝く。エメラルドの色をしたそれを、目を細めて見つめた。
「クリスが私に触れられなくても、一緒に空が飛べなくても、いいんだよ」
私の方を向いた綺麗なエメラルドと視線を絡めて、だって、と言葉を紡いだ。
「私はね、クリスの傍に居られればそれだけでいいんだから」
僅かに見開かれたそれから、逃げるように背を向ける。赤くなった頬を隠すように後ろで手を組み、前を向いたまま声をかけた。
「ほら、今日は少し遠くに行くんでしょ? はやく出かけなきゃ」
歩き出した私を追いかけるように、足音が近づいてくる。それに心が暖かくなる気がした。
「見つかって、しまったのね」
それは、悲しみに染まった声だった。
今日は、クリスと街の外に出かけていた。小さな丘の上、小さな花が咲き誇る花畑。そこで、昼食のパンと果実水でお腹を満たして、微睡んでいる時だった。
くん、と顔を上げたクリスが何かを探るように瞬き、立ち上がる。遠くに視線を投げ、小さく呟いた。
「――人間がきた」
そして、私を見下ろすと申し訳なさそうに告げた。
「人間は街に向かうかもしれない。俺は、それを伝えに行かなければ」
「うん、わかってる」
翼種が他種族を嫌いなわけではないのは、この二年間でよくわかった。でも、関わろうとは思わないみたい。その理由はまだ、わからないけど。だから、クリスが街に伝えに行くことを止めはしない。
クリスは飛ぶのが苦手なのか、幾度か腕の翼を羽ばたかせ、空へと舞いあがる。その背を目で追い、ふと視線をずらす。誰が来たの、と思った直後、口元を手で押さえた。
「――」
手も、声も、身体さえも。どこもかしこも震えていた。
ろくに整備されていない道を走る一台の馬車。遠いはずなのに、その横に描かれている家紋はとてもよく見えた。見慣れていて、そして二度とみるとは思っていなかったもの。
彷徨うように踏み出した足は止まらない。丘を下り、馬車の前に踊り出る。暴れる馬も、急停車した馬車も、何も気にならない。自分が死ぬかもしれないなんて、考えもしなかった。ただ、ある感情だけがぐるぐると渦巻いていて。だから。
「やっと見つけましたわ、義姉様!」
「リース……見つかって、しまったのね」
馬車から転がるように降りてきたリースに、悲しげに笑いかける。
「二年という月日は、短かったのかしら? それとも長い?」
「長いに決まっています! ずっと、ずっと……! 探していたんですからぁ!」
ぼろぼろと泣きながら飛びついてきたリースを受け止め、私よりも高いところにある頭を撫でる。
「少し、痩せた?」
「そんなことはどうでもいいです! っ、おねえさまぁ……!」
ぎゅう、と縋りつくリースの背中を軽く叩くと、ぐりぐりと肩に顔が押し付けられる。やっぱり、この子は昔から変わらない。そのままの状態で、リースの後ろに小さく笑いかけた。
「レーヴィ、久しぶりね」
「遅くなり申し訳ありません、リンシアお嬢様」
綺麗に執事服を纏ったレーヴィは優雅に礼をする。その姿が懐かしくて、目を細めた。
「義母様の様子はどう?」
「大分、お元気になられました」
「そう、よかった」
「よくないです!」
がばっ、と顔を上げたリースが叫ぶ。
「だって、義姉様をこんなところに追いやったのはお母様なのに!」
「そう、ね」
リースの言葉を遮り、でも、と視線を合わせた。
義母様を恨んだことがないといえば、嘘かもしれない。でも、今は――
「此処でよかったと、思っているの」
だって、あの人に逢えたのだから。
「私は、義母様に感謝しているのよ――ねえ、クリス」
背後から、荒っぽく羽ばたく音が聞こえる。私の腕の中で身を強張らせるリースをあやしながら、見つかっちゃった、と呟いた。
ずっと考えていた。どうして、翼種の皆が私を受け入れてくれたのか。それは、理解してしまえば簡単なこと。
「クリスが、あの街が私を受け入れてくれたのは、私が独りだったから。そうよね?」
人間を受け入れたんじゃない。『私』という個人だったから。でも、私は見つかってしまった。私は『独り』ではなくなってしまった。
無言の肯定に、溢れそうになった涙を堪えた。
「あの街にはもう、入れない?」
「……人は、人と暮らすべきだ」
「……うん」
震えそうな嗚咽を飲み下し、できるだけ平坦な声を出す。振り返ることは、できなかった。
「く、りす……わたしは「リン」
さよなら。
吹き荒れる風と、それをかき乱す音。煽られるように巻き上がった髪を視線で追い、空に浮かぶ翠を見つけて――
「……っ」
熱くなった目から涙が零れ落ちる。
「――!」
開いた口から声は、出なかった。
コンコン。
「――どうぞ」
太陽が沈み、闇が染め上げた時刻。宿に泊まっていた私は、突然聞こえた扉を叩く音にはっとして許可を出した。おずおずと顔を覘かせたのはリースで、安心させるように笑いかけた。
「どうしたの?」
「……」
部屋に入ってきたリースは無言のまま俯いている。長くなるかも、と判断すると、飲もうと思って準備していた紅茶をマグに注ぎ、テーブルにのせる。
「座りなさいな」
「……はい」
促されるままに椅子に座ったリースの前にもう一つマグを置き、腰掛ける。ゆっくりとそれを傾けていると、うろうろと視線を彷徨わせていたリースがぎゅっとスカートの裾を握りしめた。
「……ごめんなさい」
「うん?」
「私の所為、です……私が義姉様を見つけなければよかったのに……!」
両手で顔を覆ってしまったリースを静かに見下ろす。手に持つマグを置く音が、思ったより大きく響いた。
「リースが私を見つけなければ、と思ったことは事実」
「っ」
「でもね、それは言い訳。だって、私は『人間』だもの」
どれほど努力したって、翼種にはなれない。
ゆらゆらと揺れる蝋燭の火に手を翳し、ほのかに感じる暖かさに目を細めた。
「あの街の皆が受け入れてくれた『私』は『人間の私』じゃないの。クリスも言っていたでしょう? 『人は、人と暮らすべきだ』って」
火は暖かいけれど、実際に触れると火傷をしてしまう。皆と、クリスと過ごした温かい記憶もいつか、業火のように私の心を焼き尽くすのだろう。それも、いいかもしれない、とぼんやりと思った。
「皆と二年過ごしたけれど、翼種が他種族と関わることを恐れる理由はわからなかった。でも、関われないわけじゃないの」
だからね、と諦めた顔で笑った。
「クリスは、『人間の私』と関わろうと思わなかったってこと」
これほど明らかなふられ方もない。どれだけクリスのことが好きでも、クリスは『人間の私』を受け入れてくれない。私が人である限り、決して繋がらない。
「リースは、それを教えてくれただけ。感謝しても、憎むことなんてない。もちろん、義母様もね」
その言葉にはっとしたリースが、薄く口を開く。それを遮るように続けた。
「今なら、義母様の気持ちがわかる気がするのよ」
ゆるりと閉じた瞼の裏に映る義母様。おぼろげな記憶の中の彼女は酷く辛そうな、泣きそうな顔をしていた。
「義母様は、怖かっただけ」
お父様は義母様を愛しているけれど、同じくらいお母様を愛していたから。
「私は、お母様によく似ているらしいの。この髪も瞳も、お母様から受け継いだ色だから」
金色の髪も、青色の瞳も、嫌いではないけれど。それを見るたび、義母様は辛かったのだと思う。義母様の髪色は、似ても似つかない焦げ茶色。
「義母様もね、解っていたのよ。お父様が私を構うのは娘だからで、もうお母様はいないんだって。でも、そう割り切れるものじゃなかったと思うの」
私を見るたび、もういないお母様を思い出して。お父様が私に笑いかけるたび、勝手に湧き上がる醜い感情に苦しんで。
「義母様が私を殺そうとしたとは思わない。それなら、あの日に飲んだのは睡眠薬なんかじゃなかったはず」
ただ、愛する人から私を離したかった。自分だけを見てもらいたかった。それだけのこと。
「こんな感情、昔は理解できなかった。でも、今ならわかる気がするの」
だから、と胸を押さえた。
「義母様を憎むことはできないわ。だって、私も同じ感情を知ってしまったから」
「……義姉様は、それを知らない方がよかったと思わないのですか?」
「どうして?」
「だって……そんなの辛いだけじゃないですか」
「そう、かもしれないわね」
でも、それだけじゃない。
「この感情は苦しいけど、クリスと過ごした日々は幸せだったんだから。それだけは否定させない」
強く見据えると、リースは俯いた。
「いつかは貴女も知ると思う――そろそろ、寝なさい」
明日も早いのでしょう、と告げると、小さく頷いたリースが立ち上がる。そのまま顔を上げて、ぽかんと口を開いた。
「リース? どうしたの?」
リースの視線を追って振り返る。窓の外に向かっているそれの先に見えたのは、燃えるような赤。
「っ、グレン!?」
ふらふらと危なっかしく舞う姿を見つけた瞬間、私は走り出していた。翼種は暗闇だと周りがよく見えないから、緊急の時以外は飛ばないのだと言ったのはグレンなのに。部屋を飛び出し、階段を駆け下りて宿から飛び出す。
「グレン! どうして此処にいるの!?」
「リン! やっと見つけた――うわ!」
急に方向を変えたために、バランスを崩したグレンが地面に落ちる。
地面にぶつかる鈍い音に急いで駆け寄ると、グレンは傷だらけだった。切り傷に打撲と、それは明らかに今落ちたものだけではない。
「なんで、夜に飛んで――」
「そんなことはどうでもいい!」
「いっ……!」
強く肩を掴まれる。思わず顔を歪めるとグレンはすまなそうに顔を歪めたが、それでも手を離そうとはしなかった。
「今から飛べばまだ間に合う! はやくしないと、クリスが――!」
時が、止まった気がした。
間に合うって、何に? クリスが、どうしたの?
「――義姉様!」
背後から聞こえてきたリースの声で、我に返る。グレンの腕を掴むと、どういうこと、と問いかけた。
「クリスに、何があったの?」
震える声で、ねえ、と詰め寄る。グレンはそれに答えず、私の手を振り払った。そのまま巻きつけるように強く私の身体を抱き上げると、翼を羽ばたかせた。
「説明なら飛びながらするから!」
ぐん、と空に引き上げられ、地面が遠ざかる。リースの声を引き離し、舞い上がった身体はどこかに向かって方向を変えた。
「……っ」
「ごめん、あまり前が見えてないんだ。荒っぽいけど、耐えて」
でも、絶対間に合わせるから。
右に、左に煽られるグレンに必死でしがみつく。あの街からここに辿り着くまでは蛇行した道が続いていて、ゆっくり走る馬車で二日かかった。いくら空を飛べるからといって、どれほど時間を短縮できるのだろう。ただでさえ疲れているうえに、前すらろくに見えないというのに。
「――クリスに、何があったの」
しばらくして、飛行がある程度安定したところで、口を開いた。
「翼種は夜だと目がきかないって言ったの、グレンでしょ」
「……なんていえばいいのか、」
しばらくしてぽつりと落ちてきた声は、重かった。辛抱強く続きを待っていると、遠くを見つめたまま小さな言葉が落ちてきた。
「正確には、まだクリスは何ともないよ。事が起こるのは夜明けだ」
「夜明け……」
空を仰ぐと、明るいとはいえない月が孤独に佇んでいる。あの月が沈んで、太陽が顔を出すまで。それまでに、どれほどの時間があるのだろう、どれほどの時間しかないのだろう。
「――嬉しかったんだ」
「……あ、ごめん。聞いてなかった」
唐突な声に慌てて見上げたグレンの表情は、嬉しさと悲しさと苦しみをごちゃまぜにしたような、よくわからないもので。それは私に向けたものというよりは、独り言のようだった。
「僕達は、他種族と関わらない。それは、生きるためなんだ」
「生きる、ため?」
「ずっと昔の、本当か嘘かもわからない言い伝え。いや、内容はどうであれ、本当なんだけど。だからさ、僕はこう思っていたわけだ。『翼種以外の種族とは、関わろうとも思わない』」
「……」
「だけど、今は違うよ」
前だけを向いていた視線が、一瞬だけ下に落ちる。それは、とても優しい目をしていた。
「関わるとか、関わらないとか、そういうことじゃない。知らないうちに仲良くなって、その人のことがもっと知りたくなって、もっと自分のことを知って欲しくなって。翼種とか、人間とか、そんなものは関係ない。他種族と関わらないことで僕達は生きてきたけど、結局、閉鎖的なそれは死んでいることと変わらないんだ。触れ合うことは怖いことなんかじゃないって、全部リンが教えてくれたんだよ。それを知れたことが、すごく嬉しい。クリスも、ううん、僕達の誰よりも強く思ってる」
「でも、クリスは」
「人は人の中に、ってやつ? あれは本心だけど、本心じゃないんだ。矛盾してるけど、どっちも本当。精一杯の優しさ、だと思う」
今からぶち壊しにいくんだけどね、とグレンは楽しそうに声をあげて笑った。
「街の皆はリンを大切に思ってるけど、クリスを優先したんだ。『リンを人の中に戻してほしい』って願いを。だから、今回のことは僕の独断。だって、そんなの納得いかない、納得しちゃいけない。これは二人の問題だから。クリスが勝手に決めて、押し付けちゃいけないんだ」
リンは、知るべきだよ。
「僕達が、翼種が怖れているものを。そして、全てを受け入れてほしい。できるなら」
縋るようにきつく締められた腕の中で、祈りの様な声が聞こえた。
「翼種の精一杯の愛を、信じて」
月が沈もうとする、少し前。
「本当に間に合いそう……」
徐々に近づいてくる街に呆然とし、直後にがくん、と落ちた身体に悲鳴を上げた。
「きゃあっ!?」
「っ、……ごめ、」
ばさばさと不規則な羽ばたきが聞こえ、グレンが何とか体勢を整える。それでも、下がっていく高度を戻すことはできなかった。当たり前だろう、だって、一日近く飛び続けているのだから。でも、それが悔しいのかグレンは忌々しげに舌打ちをした。
「もう少し――!」
苦しそうなそれを、私は見ていることしかできなかった。だって、私は何もしていない。何の力にもなれない。グレンを苦しめているのは、私だから。
グレンの集中を乱さないように、心の中で頑張れと唱える。何度も唱えて、体勢が崩れるたびに漏れそうになる悲鳴を飲み込んで。
「着いた! ――あ」
夜明け前に響き渡るグレンの大声。直後、集中が途切れたグレンの翼が風を掴み損ねた。あ、落ちる。
でも、墜落した先は硬い地面じゃなかった。
「――最後の最後で締まらねえなあ」
まあ、それがグレンだな、と豪快な笑い声がして、それに追従するようにそこかしこから笑い声が聞こえる。無意識に閉じていた目を開けたそこには、街の皆がいた。
「え、あれ? どういうこと?」
ぽかんとしている私の横で、目を白黒しているグレン。それをみた皆は、受け止めた私とグレンを地面に下ろした。
「グレンの考えてることくらい、わかるって」
「私たちもね、リンちゃんのことは大切に思ってるの」
「ほら、ここまで頑張ったんでしょ。速く行きなさい」
「この道を真っ直ぐ行ったところに、クリスはいるから」
「急いで」
もうすぐ夜明けだよ、と背中を押される。
「此処から先は、リンだけだ」
悔いを残さないで。
それに小さく頷き、皆にお礼を言う。そして疲れ切ったグレンの声に勇気づけられるように、足を踏み出した。小さい一歩は、次第に大きくなって。走り出した足は、息が切れても止まらない。
「はっ、はっ、……」
木々の間にある小さい道をひたすら駆ける。走り続けたその先に、人影。頭部に見える大きな羽に、涙が出そうになった。
「――っ、クリス!」
「……リン、どうして」
薄暗い世界で、クリスの身体が小さく震える。振り返ったクリスの表情は、見えなかった。
「何故、此処に……グレンか」
吐き出された声は冷たくて、突き放されているように感じる。でも、脅えてしまいそうなそれに唇を噛みしめて、一歩近づいた。もう、時間がない。
「クリス、教えて欲しい」
翼種は、何を怖れているの?
「……あいつ、何を考えてる?」
クリスは腹立たしげな声音で悪態を吐いて、諦めたように溜息を吐いた。
「グレンだけの手引きで、リンが此処に来られるわけがない。他の奴らも、許したんだろう」
それなら、話さないわけにはいかないか、と独り言のように呟いた。
「――昔、空に焦がれた人間がいた」
人間は、来る日も来る日も、空を舞いたいと願い続けた。雨に降られても、風に飛ばされても、雪で凍えても、ひたすらに祈りを捧げた。その愚かともいえる姿を見続けた神は、いつしかその人間の願いを叶えてたいと思うようになった。
神は人間の前に現れると、こう告げた。『お前が生涯その祈りを忘れないのなら、翼を授けよう』と。そして、人間は翼を手に入れた。願い続けた翼に、人間は喜んだ。けれど、それは唐突に終わりを迎えた。
人間が、他の人間を愛してしまったから
翼を願った人間は、地上に住まう人間を愛してしまった。空への祈りを、忘れてしまった。永遠のはずの願いが、数年も経たずに破られた。それに怒り狂った神は、人間に告げた。
お前が焦がれているのは空ではなかったのか
お前の祈りは、その程度だったというのか
お前は、わたしとの誓いを破った
その翼は、空を舞うためのものだ
空以外に焦がれた者に、その翼は相応しくない
神は、自らが与えた翼をもつ者が空以外に焦がれることを嫌った。そして、考え付く。
お前が空以外に焦がれるというのなら
お前が空以外を愛するというのなら
その前に、仕舞い込んでしまおう
わたしの創った、宝箱の中に
神の言葉の後、人間は自分の身体が異常に冷たいことに気付いた。冷たさの原因を探して振り向いた人間の翼は、氷の結晶のように固まっていた。結晶は次第に広がり、やがて人間を飲み込む。人間が立っていたそこには、全てが結晶でできた樹が生えていた。
「――神が創り上げた宝箱の名前は、〝永遠の箱庭〟」
夜明けの光が森に差し込む。隙間から飛び込んだそれは、クリスの周囲を鮮やかに照らした。
「……っ」
目の前の光景に、言葉を失う。透明の中に一滴の色を落としたような結晶樹。それが林立する光景は、透明色を基調としているからか、数多な色でありながら違和感はない。
そんなとき、パキン、と音が聞こえた。
「どこまでが空事で、どこからが本当か。誰も知らない言い伝え。けれど、最後だけは、真実だ」
空以外に焦がれた者は、生きられない。
「うそっ……そんなの、」
信じたくなくて、確かめるように見たクリスの翼は、所々が宝石のように硬くなっていた。
「結晶化する前に、翼から色が抜け始める。次第に翼が硬直し始め、最後には優雅に飛ぶことすらできなくなるんだ――翼種でありながら空を舞うことができない姿を、死に逝く俺を、リンに見られたくなかった」
でも、もういい、と告げたクリスの翼は森のような深緑だったのに、今はほとんど透明で。それに、着地が下手だったんじゃない。飛ぶのが苦手だったんじゃない。クリスは、飛べなくなっていたんだ。
広げられたクリスの翼が結晶化していく。
「翼種が他種族と関わろうとしないのは、これが理由だ。好いた相手が翼種以外であれば、俺達は結晶化してしまうから。だけど」
パキン、パキン。羽の先から変質していくそれを見て、彼は笑っていた。
「後悔は、していないんだ」
「どう、して」
ようやく出た声は、頼りないほどに擦れていた。
「だって、死んじゃうのに……!」
「そんなの関係ない」
ゆっくりと近づいてきたクリスが、徐に手をあげる。結晶化が始まった鈎爪が頬を滑った。
「リンに出会えた。同じ時を過ごすことができた。一時でも、お前を愛することができた。それだけで、十分だ」
耳元で、音がする。パキン、パキン。クリスが、冷たくなっていく。
「リン」
涙で歪んだ視界に映る、穏やかな顔。冷やりとしたものが目元を拭った。
「俺に、誰かを愛することを教えてくれてありがとう」
その顔があまりにも綺麗で、未練なんてないと物語っていて。
「――でよ」
「なんだ?」
「ふざけないでって言ったの!」
その全てに満足しているような声が、気にくわない。俯いていた顔をきっと上げると、クリスの胸元を掴んで叫んだ。
「愛せてよかったとか! 死ぬのがどうでもいいとか! そんな簡単に言わないでよ! 自分だけだと思わないでよ!」
後から後から溢れてくる涙が頬を伝っていく。胸元の手は、いつの間にか縋るように震えていた。
「勝手に、自己完結しないで。私の気持ちも考えてよ……!」
目を見開いているクリスに倒れ込むようにして抱きつく。異常に低い体温が、じわりと浸透してくるのがわかった。
「離れろ、リン! お前まで――!」
鉤爪ゆえに引き剥がせないクリスが焦った声で怒鳴る。でも、私は顔を押し付けたまま首を振った。絶対に、離れない。
パキン、と身体の中から音が聞こえた気がした。
「リン!」
「文句、言ってやるんだから」
小さな言の葉は、思った以上に大きく響いた。離れないように、感覚の無くなり始めた腕に力を込める。そして、クリスを見上げて不敵に笑った。
「此処が神様の創った宝箱なら、いつかは神様に会えるってことでしょ? そうしたら、直談判するの。私からクリスを奪うなんて、百年どころか永遠に許さないんだから」
「……ふっ」
唖然とした表情の後に小さく噴き出したクリスは、そうか、と目を細めた。
「本当に、いいのか?」
「いいも何も、私の我儘よ。クリスの我儘は却下だけど」
「だな……じゃあ、これはどうだ?」
楽しそうな光を浮かべたエメラルドは、悪乗りするように口角をあげた。
「なに……っ!?」
硬い何かが擦れる音がして、背後から圧迫感。もう温かさなんてほとんどないはずなのに、熱が伝わるような不思議な感覚に言葉が出ない。
「っ!?」
「くく……ははっ!」
あまりにも予想通りだったのだろうか、首元に埋められたそこから聞こえる笑い声。直接耳に吹き込まれたそれに、背筋がぞわりとして顔が熱くなった。
「クリス!」
「一回くらい抱き締めさせろ。傷つけそうだから我慢してたんだよ」
でも、もういいだろう、と強く力が籠められる。鉤爪が当たらないように腕だけに力を込めるとか、変なところが器用だ。でも、嫌じゃない。
結晶化した翼に包まれて、僅かに残っていた体温も消えていく。だけど、怖くはなかった。だって、
「リン」
秘め事のように囁かれた声に顔を上げる。絡まったエメラルドの中に自分を見つけて、私の青にも彼が映っているのかな、と思う。
硝子が割れるような澄んだ音は、すぐそこまで迫っている。もう、温度は感じない。でも、いいの。
「愛してる」
だって、過去じゃない。私は、クリスと一緒に生きるんだもの。ずっと、この場所で。
「――」
私の返事はクリスに飲み込まれる。幸せすぎて、涙が零れていった。これが最初で、最後の――
「――これで、クリスとリンシアのお話はお終い」
話し終えた少女は、小道を進む足を止めずに言った。その後ろをついていきながら、私は静かに問う。
「本当に? それで終わり?」
自分が死ぬとわかっていても、想いを抑えきれなかった翼種のクリス。
残される未来より、クリスと共に結晶化することを選んだ人間のリンシア。
互いに想い合っていたのに、許されなかった愛。それでも、繋いだ手を離そうとはしなかった。死が、二人を別つことはなかった。
でも、と思う。どれほど幸せな終わりであっても、結局は悲劇だ。互いを選んだ二人は、死んでしまったのだから。
けれど、少女は振り返らずに答えた。
「そうよ、二人のお話はお終い」
「……二人?」
引っかかった少女の言葉を繰り返すと、少女は踵を軸にくるりと回った。顔に浮かべられたそれは、微笑み。
「だって、この先は私達の物語だもの」
りぃん、と遠くで音が聞こえる。硬い何かが擦れあうような、澄んだ音。
「この先よ」
前を向いた少女は、迷いのない足取りで進む。
りぃん、りぃん。ゆっくりと、けれども確実に音が近づいてくる。そしてそれは、唐突に途切れた。
「これが……!」
「全部、翼種だよ」
視界いっぱいに映る結晶樹。十や二十では到底数えきれないほどのそれは、光を浴びてきらきらと輝いていた。はじめに言われなければ、生前が翼種だとは信じられなかっただろう。
「永遠の箱庭……!」
言い伝えの信憑性は解らないが、神の宝箱というのは理解できた。それほどまでに完成された美しさ。
そんな私の感嘆を聞いて、少女は「今はね」と小さく跳ねた。
「今は違うんだよ、旅人さん」
そのまま軽やかに駆けていく少女を目で追う。少女が向かったのは、一本の結晶樹だった。他の結晶樹と一ヶ所だけが異なるそれは、薄らとした翠色。
「――ぁ」
りぃん、りぃん。
ざあ、と吹いた風に合わせるように、枝を覆い尽くすほどに茂る葉が一斉に音を奏でる。他の結晶樹にはない葉は、まるで金のように一際輝く。
その前に立っている男女の二人組の、男の方に少女は飛びついた。男は慣れたように少女を受け止める。衝撃で男の背中に生えている燃えるような翼が揺れた。
「貴方は、」
「――これが、奇跡なの」
男に抱きついたまま、首だけ振り返った少女は心底嬉しそうに笑った。
そして広がる、太陽のような翼
「っ!?」
いままで、少女の背中に翼はなかった。それが意味すること。
「君は、翼種と人の間に生まれたの……?」
「――本当に、奇跡なんだよ」
答えたのは、男だった。愛おしそうに少女を見つめていた真っ赤な瞳が私を映す。
「他種族を愛した翼種は結晶化する。それは変わらない事実だけど。この樹の下で愛を誓った翼種だけは、結晶化しないんだ」
理由は解らないんだけどね、と続けた男の後を引き受けたのは、傍に居るこげ茶色の髪をした女だった。
「私は、義姉様達の願いが叶ったのだと思います」
それほどまでに、互いを愛していましたから。
そうして樹を見上げた女は、愛おしそうに葉に触れる。男はそんな女を引き寄せると、少女と一緒に抱きしめた。
「クリスも、リンも、いなくなってしまったけど。二人は数えきれないくらいの幸せをくれたんだ。僕等だけじゃない、翼種の皆にね」
その言葉に、この街に入った時の光景を思い出す。誰もが、幸せそうに笑みを浮かべていた――ああ、これは確かに、
「奇跡だ」
「でしょ?」
嬉しそうに少女は告げる。そして、あ、と声を上げた。
「旅人さんに伝えるの、忘れてた」
そして両手と翼を、大きく広げた。
「此処ではもう、翼種は結晶化に脅えなくていいの。翼種は、許されたんだよ!」
りぃん、と葉が鳴る。ガラスを打ち鳴らしたような、澄んだ音。連鎖的に響くそれは、鈴のようにも聞こえた。
「だから、ここは永遠の箱庭じゃない」
ここはね、
「祝福の鐘が鳴る庭っていうんだよ!」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。