崩拳
「中本警視監! やめたまえ! やめ! やめええええ!」
悲鳴が響いた。
中本が男の顔目がけてビンタする。
小柄な女性のビンタなのにヘビー級のボクサーの渾身のフックを食らったかのように男の体が崩れ落ちる。
その場には何十人という警官が居たが誰も被害者を助けようとはしなかった。
あるものは下を向き、あるものは目を輝かせている。
すでに壇上には何人もの犠牲者が山積みにされていた。
中本は汚職を表沙汰にはしない。
逮捕などさせない。
だが殴る。
心が折れるまで殴る。
それは幹部も例外ではない。
「ひいいいいッ!」
「クイーンテックからの1000万円の資金提供……この重さをわかっていますか?」
「ひいッ! 誰もが貰ってへぐあッ!」
中本の頭突きが男の顔にめり込む。
「ひいいいッ! おかあちゃん!」
まだまだ中本による粛正は続いた。
そもそも埼玉の治安がここまで悪化したのには訳がある。
何年も前から埼玉県警は堕落していた。
ヤクザやクイーンテックなどからの度重なる接待に賄賂。
幹部の捜査妨害からの現場部隊の負傷の状態化。
そのような状態では当然のように現場も根腐れをする。
その結果がかつてのメキシコでもあった市民と警察との対立構造と警官のマフィア化である。
酒井もかつては堕落していた側である。
その頃の酒井は他の幹部と同じく金と出世にしか興味が無かった。
だが機動隊による立てこもり事件から改心(?)した酒井はずっと心の中で暖めていたある計画を実行に移した。
それは埼玉県警の浄化作戦。
それは簡単だ。
公然と正義を唱え、自らそれを本気で信じている人間をトップに据えればいい。
そうすれば志を持った人間の声が大きくなる。
そして悪党は震えながら眠れぬ夜を過ごすのだ。
正義感があり、権力側におらず、そして権力と戦う武器がある。
中本はうってつけの人材だったのだ。
中本は今タコ殴りにした幹部の胸倉を掴みながら優しい顔で微笑んだ。
「みなさんぼさっとしてないで、持ち場へ向かってください」
「い、イエスマム!」
逆らったら殺される。
あるものは中本への恐怖から必死になり、あるものは子どもの頃憧れていた正義の味方になることが出来ると喜んだ。
そして少数の紳士は踏みつけにされながら汚い言葉でなじって欲しいという夢を胸に抱いた。
◇
無理矢理の三人乗りで藤巻のバイクが走っていた。
バイクは藤巻の完全な私物。
通学にも使っている無改造のホンダ。
値段と維持費特にエンジンの故障率の低さで選んだものである。
学生の懐具合などそんなもんである。
アルバイトの給料の振り込み用口座に振り込まれていた「シーアイエー *5000000」には絶対に手をつけたくない。
明人がトラブルに巻き込まれるのを目の当たりにしたからだ。
さらに言えば、CIAから突然送られてきたセンチュリオンのカードなど怖くて使えない。
明らかに学生の持ち物ではないとそう藤巻は判断している。
親の借金で苦労した藤巻は金銭感覚だけはしっかりしているのだ。
藤巻がそんなことを考えているとレイラが背中越しに話しかけてきた。
「あ、アナタが伊集院明人の相棒のサラマンダーなのか?」
「自分で名乗ったわけじゃねえんだけどな……そう呼ばれてるらしいな」
すると明香里が不思議そうに聞いてくる。
「え? サラマンダー? ロリキングとかシスコンヤンキーじゃなくて?」
「誰が言った!? 長岡あとで教えろ!」
「えー無理」
そう言いながらも長岡明香里は笑った。
どうやら藤巻はようやく安心できる居場所を見つけたらしい。
表情も去年とは大違いだ。
伊集院明人。
通称番長。
かつて暴虐の限りを働いた藤巻を入学初日に撃破。
そのついでに暴走族「火蜥蜴」と暴力団「藤堂組」を壊滅させた学園の有名人。
その動向に全生徒が注目していたが、特に悪事をすることもなく穏やかに学生生活を送っている。
脇腹に大きな傷あり。
そこまで思い出して明香里は考えた。
新聞部。
新聞部とは言っても所詮は学校に管理されたクラブ活動だ。
学校の行事や地域のイベントの記事を書くだけだ。
そもそもそれ以外の話題など存在しない。
ところが伊集院明人はみんなが知りたがっている情報だ。
しかも学校の中の話題である。
たまには面白いことを書いたって罰は当らない。
とは言っても、これまで明香里も何度か取材を申し込んだが断られている。
ガードが堅いのだ。
そう言う意味ではこれはチャンスだ。
チャンスに違いないのだ。
明香里は初めてのスクープへの期待で今犯罪に巻き込まれたという事実を忘れていた。
……忘れてしまったのだ。
急にバイクが止まった。
信号だろうか?
それにしてはブレーキが急だった。
明香里は藤巻を見る。
藤巻は前を見据えていた。
バイクの前、数メートル先には男が立ってた。
藤巻がゆっくりと口を開いた。
まるでレイラや明香里をなだめるように。
「おい。バイク運転できるか?」
明香里が意味がわからないと首を捻る中、レイラが答えた。
「ああ。できる」
「じゃあ、このままこの道……17号を真っ直ぐ走ってロサンゼルス方面へ逃げろ」
「お前は……?」
「食い止める」
そう言うと藤巻はバイクから降りた。
二人の女子は藤巻とは縁もゆかりもない。
放っておけばいい。
それは藤巻はわかっていた。
だが、藤巻のプライドがそれを許さなかった。
藤巻は誓ったのだ。
伊集院明人と今度こそ正しいことをすると。
「レイラだ」
「あ?」
「私の名前だ」
「ああ覚えておく」
すでにレイラは席を移りハンドルを握っていた。
明香里は胸の中にもやもやとしたいやな予感がしたが、それが何かということに結論を出す前にレイラがバイクを発進した。
◇
「伊集院明人の仲間だな?」
それは若い男だった。
年齢は20代。
就職活動中の学生御用達ブランドの背広風のズボンにワイシャツ。
ネクタイはしていない。
男は普通すぎて逆に気持ちの悪い格好をしていた。
「ああ」
「まあ……お前でもいい。ついて来て貰おうか」
「てめえ何モンだ?」
「見りゃわかるだろ? お前らの敵さ」
おどけた口調とは違い、男が放つ殺気に藤巻は呑まれそうになっていた。
藤巻は徒手格闘の技術を持っていない。
CQCもCQKC《近接ナイフ術》も言葉さえ知らない。
あくまで不良の喧嘩で戦うしかなかった。
藤巻は男に飛び込んだ。
先手必勝。
それはどの戦いでも絶対だからだ。
藤巻は素人特有の大振りの右フックを放った。
効率的な体の使い方などどうでもいい。
とにかく殴るのだ。
びりびりとした衝撃が拳に伝わった。
当った!
もう一発!
今度は逆。左で殴る。
コンビネーションがどうとかは考えない。
空いてる方で殴ればいい。
だが、本能のままに左を叩きつけようとした藤巻が見たもの。
それは男の腕に当った藤巻の拳。
カットされた!
男が拳を握り、藤巻の顔へ目がけて真っ直ぐに拳を突き出す。
藤巻はそれを異常なほどの動体視力でかわす。
男が笑った気がした。
次の瞬間、藤巻の足に衝撃が走った。
「……蹴りだと!」
藤巻の無防備な足に下段蹴り、いわゆるローキックが炸裂した。
膝からの衝撃で太ももの肉が揺れ、衝撃が体の芯を通る。
フックを放つ途中で無理に体を捻った藤巻の体が蹴りによって、ついにバランスを崩して倒れた。
男の拳はフェイントだったのだ。
「目はいいようだが完全に素人だな。こんな蹴りをまともに食らうとはな……」
藤巻の足が体重の圧力から解放された瞬間、一気に痙攣する。
筋肉が無理に収縮し、関節が折りたたまれる。
まるで自分の足でないようだった。
だが、まるで生まれたての子牛のように足を震わせながら、それでも藤巻は立ち上がる。
千鳥足でよろけながら近づこうとする。
だが足が言うことをきかず、前に進むことができない。。
それでも男へ必死に向かっていた。
藤巻は心だけは折れていなかった。
「……オラァッ! まだ俺は戦えるぜ!」
「根性はあるようだな……良い闘争心だ! だがなこれで終わりだ」
男が藤巻の腹へ飛び込み一気に間合いを詰めた。
兄貴と同じ動き!
藤巻は拳に備えて集中する。
それはなんの変哲も無い中段の拳だった。
軌道を変化させてやればいい。
藤巻は経験から知っていた。
明人がやっていたように手を真っ直ぐ差し込む。
これで拳の軌道を逸らすことができるはずだ。
兄貴の上段もこれでなんとかなった!
それで良かった……はずだった。
差し込んだ腕がはじかれる。
そして拳は藤巻の体の中央を打ち抜いた。
内臓が揺れ、藤巻の体が吹き飛んだ。
藤巻はそのままアスファルトへ叩きつけられる。
衝撃で圧縮された空気をはき出しながら藤巻は気絶した。
「どうだ俺の崩拳? 痛えだろ?」
そう言うと満足そうに笑った男が携帯電話を取り出す。
そしてあの男へ電話をかけた。
それはクイーンテックの会長にして豪華客船のオーナー。
「あー陸です。蔡先生。伊集院明人の仲間を捕まえた。予定とは違うけどいいですよね?」
そして事件は動き出す。




