ドミニク
ロシア連邦保安庁本部。
「同士ユーリは何をしているのだ! なんだあのアメリカへのだらしのない態度は!」
上級職員と思われる男が怒鳴った。
男は元KGBでユーリの同僚だったこともある。
ユーリの本当の姿を知らない程度の付き合いではある。
ユーリにそこまで仲の良い友人がいるのかは別として。
「ですが一部では最小限の犠牲で痛くもない腹を探られることもなくなったと評価する動きも……」
若い男が反論した。
FSB所属の分析官だった。
分析官が職分としての分析を遮って男が怒鳴った。
「馬鹿者が! 我らは強くあらねばならぬのだ! 下らぬ分析ではなく、軍事衛星へのハッキング事件を当たれ! 同士ユーリが手を引いた理由がわかるかもしれぬ。スペツナズを動員しろ!」
「はッ!」
男の有無を言わせぬ迫力に分析官はただ言うことを聞くことにした。
「それと敵はおそらくジェーンドゥ。アメリカの正体不明の部隊だ。CIAに潜伏させている逆スパイを動員しろ」
「はッ!」
こうして第二のバッドエンドシナリオの幕が切って落とされた。
◇
ロシア対外情報庁の工作員であるレイラ・ケレンスキーは大宮駅にいた。
レイラは日本人の血を引いている。
曾祖父はシベリア抑留者であり、日本へ帰ることのできなかった400人の一人である。
母はロシア系ユダヤ人。父は旧独立領の出身である。
いろいろな人種の特徴が現れており、どの人種であるかわからない外見をしているレイラだが、なぜかレイラには曾祖父の特徴が強く表れていた。
日本人と言われると地毛が細い銀髪のため、かなり無理があるものの、今時ハーフやクォーターは珍しくない。
他の外国人よりも自然に日本に溶け込んでいた。
そういう意味ではハーフなのに金髪坊主頭のヤンキーにしか見えない明人と同じだった。
今度の任務はアメリカ関連施設連続爆破事件の捜査と伊集院明人の懐柔。
正直苦手な仕事である。
これもレイラの日本人そっくりな外見的特徴と特殊技能を見込まれてのことだろう。
そう特殊技能だ。
日本人になりきらねばならない。
レイラは駅のトイレに入った。
そこで黒いウィッグを付け、支給された洋服に着替える。
それは明人の学校の制服だった。
次にメイクをする。
ファッションのためではない、日本人寄りの顔に整えるためのメイクだ。
トイレから出るころにはレイラは完全に日本人に紛れていた。
レイラは頭の中で用意されたプロフィールを暗唱する。
レイラ佐藤。日系アメリカ人。引っ越し前の住所は父の出身地のハワイ。父はITベンチャー勤務。母は専業主婦。宗教はカトリック。
日本には父の仕事の都合で引っ越してきた。
しばらくは祖父という設定になっている現地協力者の用意した家で生活。
最寄り駅は北浦和。
外国人の留学生の受け入れに積極的なロイヤルガーデンパレス高校に転校。
趣味は油絵。好きな画家はロートレック。
……あとで近所の県立美術館で傾向と対策を調べる必要がある。
県立美術館に行ってから、協力者の家に行こう。
そうレイラは判断し、京浜東北線のホームへ向かった。
北浦和はレイラの予想に反して、ごく普通の住宅街だった。
どうしても首都から公共交通機関で30分ほどの、国立大学と公立美術館が存在する場所には思えなかった。
だがそれはどうでもいい。
任務を果たすのが重要なのだ。
レイラが考えているとタイマーをセットしていたレイラの時計が鳴った。
定時連絡の時間だ。
今のスパイ組織は定時連絡などで縛ったりしない。
これはレイラの個人的な繋がりの定時連絡である。
レイラは駅前にある全世界に店舗を展開する喫茶店に入る。
かすかに北海道弁、それも浜言葉の訛りのある日本語でコーヒーを注文。
モバイル端末をバッグから取り出す。
端末を起動し、フリーネットへ繋ぐ。
44マグナム。
実はジェーンの作ったフリーサイトである。
強固なセキュリティとあえてログを取らないという姿勢が、世界中のギークと秘密の多い工作員たちの社交の場として支持を集めている。
CIA工作員の作ったサイトで毎日、世界各国の工作員が秘密のコミュニケーションを取り合うというシュールな光景が繰り広げられていた。
レイラはチャットルームを探す。
いた。彼女だ。
ターニャ。
レイラの先生である。
とは言っても顔も素性も本名すら知らない。
わかるのは彼女が古いKGBの技術に精通しているということだけ。
そんなターニャにレイラは『学校』のカリキュラムにはない技術を教わっていた。
レイラが優秀と評されるのは現代スパイの技術に加えてKGB仕込みのオールドスパイの職人芸をも身につけているからだ。
レイラは彼女を心の底から尊敬している。
彼女もまた一番弟子として何かと彼女を気にかけてくれる。
この関係はもうかれこれ二年以上にもなっていた。
「お姉様。遅くなってすみません」
ターニャは自分自身のことをお姉様と呼ばせていた。
「別にいいのよ。日本はどう?」
「想像していたのとはずいぶん違います。アニメと自然と科学技術の国と聞いていたのですが……」
「そりゃ普通の人が住んでるところはそんなものよ。で? どう? 王子様は?」
「空港に着いてからまだ二時間です。彼との接触は明日以降です」
「んもーつまんない! ドミニクは少しくらい女の子を楽しみなさいよ!」
ドミニクとはレイラのハンドルネームである。
レイラから見たターニャの印象は……乙女。
旧KGB工作員なのだから40代後半より若いはずがないのだが、常にその言動は夢見る少女のようである。
異性にあまり興味のないレイラにはその姿は便宜上の姉ではなく、自由奔放な実の姉に様にも思えた。
「まあいいわ。それより気をつけてね。今の日本、それも埼玉は危険よ!」
「細心の注意を払います」
「うん。うんじゃね! とっておきを教えてあげる!」
「とっておき?」
「うん。困ったらこの番号に電話して」
レイラはその直後に表れた数字を記憶する。
こういう細かい記憶術までレイラはターニャから伝授されていた。
「これはどこの電話番号ですか?」
「……ジェーン様の電話番号だ」
「今……突然、男言葉になったようですが? それに『様』って?」
「い、いえなんでもないの! とにかく困ったらここに電話して!」
「いつもありがとう。お姉様」
「ドミニクのためならできることは何でもするわ! がんばってね!」
「はい」
そして30分ほど無駄話をしてレイラはチャットルームを後にした。
ターニャの言うことだ。
凄い相手に違いない!
レイラはそう思った。
◇
クレムリン。
ユーリの私室。
「我が弟子ドミニクよ……無事でいてくれ」
チャットを終了したユーリは目の中に入れても痛くない愛弟子の無事を神に祈った。
この年になり、実の娘より可愛い存在ができるとは思っていなかった。
ドミニクにはKGB工作員としての全てを叩き込んだ。
メイク、暗器、モールス信号、簡単な電子工作、拷問。
今では全て死に絶えた技術だ。
だが、アナログ故にいつの世でも使える技術だ。
ユーリもそれで何度も危機を乗り越えてきたのだ。
だから身の破滅を引き起こすかもしれないCIA工作員ジェーン・ドゥの緊急連絡先を教えたのだ。
素性がバレたら気持ち悪いと軽蔑もされるだろう。
だがそれでも良かった。
ドミニクの命には代えられない。
でも……万が一……
どんどん悪い方向へ考えが進んでいく。
心配だ!
ユーリは頭を抱えた。
◇
喫茶店を出たレイラは予定通り美術館へ向かう。
駅からすぐの場所に美術館はあった。
レイラは中に入り、受付に行く。
入館料は無料、特別展は200円との事だった。
レイラはどうしようかと思ったが、先ほど飲んだコーヒーより安いので素直に払うことにした。
施設は大きいというのに人の姿がない。
何かあったのだろうか?
レイラは首をかしげた。
(美術館は常にそのような状態なのだがレイラはそのことを知らない)
すると同じ制服を着た女子生徒がレイラの先にいるのが見えた。
女子生徒は印象派の作品をじっと見つめていた。
レイラは特に気にも止めず、女生徒の後ろを通り過ぎた。
レイラにとっては作品の傾向がわかればいいだけだ。
作品の鑑賞をするつもりはなかった。
フロアの作品の分析が終わり、別のフロアに移動しようと思ったときだった。
フロアに女性の叫び声が響いた。
驚いたレイラが振り向くと二人組の男たちが先ほどの女子生徒につかみかかっていた。
レイラにはそれが、女子生徒を無理矢理どこかに連れ去ろうとしていたように思えた。
この場合、どうするべきか?
工作員であれば無視して関わり合いにならないように立ち去るのが正解だ。
だが、レイラは10代の少女であり、まだ幼く、正義を信じており、理想を胸に抱いていた。
レイラは男たちに飛びかかっていってしまったのだ。
レイラは制服のポケットから8センチほどの何の変哲もない鉄の棒を取り出す。
ヤワラスティック。
空手家が考案した護身用具である。
これ一本で、叩く、極める、押さえるなどの様々な動作が可能である。
ターニャが日本国内ではナイフを携帯しない方が良いと言っていた。
他の国より武器に対する規制が強いからとのことだ。
それを信じたレイラはこの武器を携帯していたのだ。
使い方は見た目通り簡単である。
主観的にはナイフとメリケンサックの中間くらいの感覚で使う。
レイラは鉄の棒の中央を握る。
これが重要なのだ。
まずは、女生徒の手を掴む男の顔の中央下部鼻の下、いわゆる人中に棒を突き刺す。
急所を突かれた男が顔を押さえうずくまる。
レイラの存在に気づいたもう一人の男が背中に手を回す。
レイラはこの意味を知っていた。
チャイニーズマフィアだ!
男は背中から長細い金属の板を取り出す。
それは剣だった。
背中に剣を隠し持っていたのだ。
男は躊躇なくレイラに剣を振り下ろす。
レイラはそこまで予想していた。
まず、剣を持った男の腕に棒を突き刺すように当て、勢いが緩んだ男の手を逆の手で絡め取りながら引き、重心を崩す。
それと同時に半歩男の懐に入り容赦なく棒を突き刺す。
小指側の握りから突き出た棒が鎖骨に突き刺さった。
ぼきりという音がするがレイラは手を止めない。
棒を握った手を下におろしたレイラは、膝を曲げタメを作ってから拳を振り上げる。
男のアゴに親指側から突き出た棒が突き刺さった。
手の両側を使い、変幻自在の攻撃を可能にする。
それがこの武器の利点なのだ。
男が後ろに吹き飛んだ。
レイラは時間を稼げたと思い女生徒の方を見る。
女生徒は明らかに怯えていた。
だがそんなことに構っている暇はない。
逃げるべきだ。
幸い近くに警官の詰め所(交番)があったのを覚えている。
彼女を詰め所に運んだら逃げればいい。
レイラは無理矢理女生徒の手を掴みぶっきらぼうに言った。
「逃げるぞ」
「あ、はい!」
女生徒は我に返ったようにそう言った。
このときレイラの頭の中には疑問がわいていた。
なぜチャイニーズマフィアがどうみても一般人の女性を拉致しようとした?
なにか秘密があるのか?
だがいくら考えても答えは出なかった。
これが十人のヒロインの一人と、三人の真シナリオのヒロインの一人が出会った瞬間だった。




