轟実(完)
実様
嘘を吐いたことを許してください。
私は主人と離縁をし此処へ帰ってきました。実を言えば、この腹の子は元の主人の子ではありません。嫁ぎ先の土地で、今までの人生の中で真に愛した方の子なのです。その事を知られてしまい、もう居る事が出来なくなったのです。また何処かへ旅立ちこの子と一緒に生きていくつもりです。この様な罪を繰返し、実さんに愛して貰えるような女ではありませんでしたが、くれた言葉が真実であったことは、十分に理解しました。ですが、私は実さんの人生が悲愴だと感じられません。傷も見当たりませんので舐め合う事は不可能です。私から見た実さんは竹を割ったように美しく、白く、何も汚れがありません。一緒に生きてしまったら、必死に自分を隠し恥じらっている姿を、忌々しく感じていく事になるでしょう。そして私は生まれつきの気の強さで、貴方の人生を壊してしまうと思うのです。
騙した形になってしまい、大変申し訳なく思います。御叱りや恨みを受けるのは覚悟上での事です。貴方が寝返りをうちましたので、此処で終わりにしたいと思います。体調にお気をつけて。
聡子
聡子は金を持ち出ていきました。
聡子が出た後、布団から抜けて卓上の手紙を読み切り、聡子の歩く畳の音を思い出していました。随分と雑で、母とはこうも違うものかと。
箪笥の一番下は、少し言うことを聞かなくなっていたので無理に引き出され、悲鳴を上げました。その音に手を止めた様子でしたが、金が見えたのでしょう、私が動かないのを確認してから焦らずに何度も引っ張り、開けた様です。
聡子は大事に風呂敷か何かにそれを隠し、鞄に入れたのだと思います。
その後この手紙を書きました。聡子の字は汚く、微塵にも申し訳の気持ちも感じ取れませんでした。早くこの家から逃れたかったのでしょう。私は寝返りなど打たずに、聡子に背を向けていたのですから、それも嘘です。始めは良心が僅かに傷み手紙を書こうと思い付いたものの、最後の方は私に手紙を書くことが面倒になったのだと思いました。どうせ私など何も感じないのだから、何を書いても意味などありはしないと思ったのでしょう。
聡子は嘘を最後まで通し、金を手に入れさっさとこの部屋を去りました。止めることは容易でしたが、声を掛けることが不粋と感じました。結局聡子のことは私も大して思っておらず、面倒に巻き込まれることを思えば、黙る事が一番だと考えたのです。私は金など要りはしないのですから。
聡子は昔から嘘を吐く時、にんまりそれは嬉しそうに笑う人間でした。私は聡子が笑って調理場に現れた時に、こうなることは予測していたのです。聡子は何かしらの事情を持って笑っていましたし、私は関わる事への恐怖で、最終的に自分から聡子の逃道を作りました。床に就き眠る振りをしたのです。そうすれば、聡子は間違いなく金を持って出ていってくれると考えたのです。金欲しさに私の所へ現れ、腹を見せれば私が御決まりのように先の台詞を言うことも聡子には分かっていたのかもしれません。そして私は聡子の思惑通りに聡子への同情を示し、聡子の引き締められた声に吸い寄せられ、一瞬普通の人間の様に恋に落ちたのです。ですが、そんなものはあっと言う間に私の気持ちからは抜けていってしまうのです。目の前の人間を他人様以外の何にもできないのです。ですが、金を持ち出された事については怒り狂う事が正しいのでしょうが、私には出来ませんでした。私が作った物ではないのだから、誰が使おうと私の知った事ではないのです。
金も愛も大変つまらないものです。身を粉にして手にいれるほどのものではありません。
私は思いました。やはり此処にいるべきなのだと。他人様に迷惑もかからず、己を犠牲にする必要も無く。全てを捨て、ようやっと此処まで来ました。私にとっては、この端から見た怠情が生きている証であります。落ちて何も無くなりましたが、そもそも私には持ち物など無いのですから、元の姿に戻っただけの事なのです。この湿った部屋でやっと真に一人で居ることを許されたのです。
私は聡子の手紙を細々に破り捨て、立ち上がり、庭へ出ました。霧雨が体を包む様にふわりふわり空中に舞っています。視界がぼやけ、歩くのも非常に億劫でなりませんが、何とか紫陽花の前に着き、座りました。聡子は、気付いたのでしょうか。あの目で紫陽花を見つめ、にんまりと笑ったのです。多分、理解した筈です。
両親は私が殺してしまったのです。
ある日、両親は急に旅館を止めました。誰も居なくなった旅館の一室で私に話をしました。
「土地を売り、何処か知らない土地へ行って二人でやり直す事にする。お前は精神だか頭の病院でこれからの人生を過ごしなさい。お前との親子の縁は切る。その為の金には苦労したが、母さんと二人で何とかし、そして決めた。実、私達はお前の為には生きられん。お前のような愚図よりも、猿と居る方が余程も気が楽だ。私達は、働かない人間とこれ以上寝食を共にすることは出来ない。」
これ程に饒舌な父は見たことがなく、私は言い返す事も出来ず、母を見ました。まさかと目で話をしましたが母はいつも通りに言いました。
「私の子がこの様な人間だった事が、残念でなりません。」
それだけ言うと、直ぐに立ち上がり、音も無く去ろうとしました。
私は母に必死にしがみついて泣きました。捨てないで欲しい、どうしたいいのか解らないと叫びながら。
「離しなさい、着物が汚れてしまうでしょう。全く...本当に価値の無い子ですね。」
母の言葉を聞き、積年の思いは一気に溢れだし、瞬く間に私の手は二度罪を犯しました。
そしてもう、その瞬間の二人の顔も思い出せないのです。私はその後、この紫陽花の傍に二人を埋め、絶えず庭を見つめているのです。荒れ果て、朽ちていくばかりの庭で紫陽花だけが咲き誇るので、二人が生きている時よりも近くに感じていました。彼処に確かに二人は居るのだと。
そして、私は呟くのです。
「貴方達は一体何を愛していたのですか。この世には神仏などありません。私の様な人間が出来たと言う事が何よりもの証明です。」