プロローグ
相沢唯緒は二つ下の後輩だ。
ツキガクで鬼風紀などと冗談みたいな呼称を持つ彼女が、本当に冗談で済まないと知ったのは一年前の春のことだった。
視界には雲ひとつない青空と太陽を遮り眩く陰る彼女の顔があった。
見上げる自分と見下ろす彼女、東堂良哉は相沢唯緒に完膚なきまでに叩きのめされていた。
ツキガクに一年通った身だ。鬼風紀の伝聞はある程度聞いていたし、実際に目の当たりにしたこともある。それでもなお、春日井戒理に、ましてや二年下の後輩、しかも女に負けないという自信があった。
格闘技を嗜んでいたわけではないが、東堂は篶倉市のアングラで流行っていたゲーム、「シュート・アウト」の猛者だ。
互いに金銭を賭け素手で勝敗を決する、勝者は賞金と名誉を総取りし敗者は嘲笑と屈辱を受けるというシンプルなゲーム。決闘罪が適応されるために当然の如く違法であり参加者はそういう意味で不良がメインだった。
相沢唯緒に付けられた黒星は、東堂の自信はお山の大将の己惚れだったのだと、そう自覚させられるに十分過ぎる結果だった。
汗一つ流さず、長い黒髪を靡かせて彼女が笑う。
「よぉ、まだ続けるか?」
勝ち誇る態度が癪に障り直ぐに立ち上がり再度挑む、続く結果はまるで先ほどの再現、都合三度に渡り東堂は地に伏せられた。
なおも余裕を崩さない彼女が本気でないのは明白で、東堂は歯噛みする他ない。
「在学生からの苦情をオレ的更生法典に則りぶっ飛ばした訳だが……東堂、進級してからの不登校の理由は何だ? イジメなら相手を言え瞬殺してやる。五月病なら歯を食いしばれ、撲殺してやる」
まだ殴るのか、という感想は叩きつけられた際の衝撃で言葉にはできなかった。
唯緒は東堂の呼吸が整うのを待つと学校を休む理由を聞きだし思考に耽る、時間にして三秒ほどだったと思う。
唯緒は東堂に視線を合し厳かに宣言した。
「その内容なら七発だ。毎日一発、二日で二発のローン返済と一括返済があるがどうする?」
「…ローン返済だと計十三発殴られるってことか?」
「応」
「……一括で頼む」
拳を鳴らす唯緒を前に、こんなのに目を付けられたらそら更生するだろう、と東堂は静かに苦笑した。
それが、東堂良哉が相沢唯緒という人物を知る最初の機会だった。
薄暗い部屋は鉄の臭いで充満していた。
市内のカラオケボックスの個室は詰め込んでも四、五人入るかという小さなもので、東堂はソファに腰を降ろしテーブルに足を投げ出していた。
部屋の隅から嗚咽が聞こえる。
隅には二組の人影があった。
一人は麻袋を頭から被せられ四本足の椅子に四肢を固定されている男性。
もう一人の男は拘束こそされていないが、明らかに憔悴していた。
涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔、荒い呼吸は忙しなく、東堂に向けられる縋がるような視線が鬱陶しい。
「ブラックマリア、ディフェンス失敗じゃな」
声は隣、鼠をいたぶる猫の愉悦を含んでいた。
亜麻色の髪をした女がけったくなく笑う。
男の前にはスペードのQ、対する女はクラブの7、余興として女が始めたゲームであるが詳しいルールを東堂は知らない。
「さて、それではペナルティを与えようかのお」
容赦なく放たれる一言に男の肩が大きく揺れ、視線が男の前にある黒塗りの山札に注がれる。
「もう許してくれ! 本当にもう、話せることは何もない、んだ」
必死の男の懇願に露出した肩を抱く女は首を傾げて答えた。
「妾の眼はそうは言うておらぬ、なにやらまだ隠しておるはずじゃ」
やれやれ、と疲れたように女が続ける。
「皮被りの状態では妾の魔眼の性能もガタ落ちよ。虚言か真実か、その程度の絞込みしか行えぬ、本当に面倒よな」
冷笑一つ、そして静まり返る個室の中で女はジッ、と男を見た。
「妾はペナルティ、と言った、何を呆けておるかさっさと捲れ」
有無を言わさぬ圧力に男は言葉を出せず震える指で山札のトップを取った。呪文のように呟く言葉、それは謝罪、「すまない、すまない」と泣きながら繰り返す男に、東堂はいいようの無い苛立ちを覚えた。
札が捲られスートとナンバーをコールした、瞬間である。
隣の、拘束されていた男がガタン、と大きく痙攣した。
「……《百眼貴婦人》」
従者の遊びに付き合いきれなくなり、声を掛ける。女も応じた。
「余興も終いじゃ、とうとう事切れたようだしの」
その宣告を聞き男は咳を切ったように泣き崩れ床に顔を押し付けた。
「中々面白い具象だろう? 篶倉の具現師よ、これは妾が西欧諸国で活動していたおりに手に入れた物で、スートとナンバーに対応させた人体のパーツを破壊する、という玩具じゃ」
「……なん、なんだ、お前等は、一体何で、こんな」
「妾達のこともろくに知らずに嗅ぎまわっていたのかえ? いや、分からぬからこそ、ということか」
「俺はもう行くぞ、《戦血君》が落ちた、それだけ分かれば十分だ」
「妾としては《暴賢帝》か《斬切姫》か、どちらが《戦血君》を吸収したのか……そこまで知っておきたいところじゃが……」
仕方なし、と肩を竦めて《百眼貴婦人》は納得する。
「では、こやつも始末するとしようか」
「好きにしろ」
東堂はそれ以上言わず部屋を後にした。
「……東堂? 東堂良哉か?」
陰鬱な気分でロビーから外に出ようとすると声を掛けられた。忘れることの出来ないその声を聞き、無視するか一瞬迷う。
「……唯緒さん」
結局、振り向き挨拶を交わす。頭が二つ分以上小さいため見下ろす形だ、久しぶりに見る相沢唯緒は男っぽい私服を着込み露骨に眉根を寄せた。
「だから、二つも下の女に何で敬語を使う?」
「尊敬した相手に敬語を使わない理由はありません」
「お前は本当におかしな奴だ」
唯緒が笑うので東堂も釣られて相好を崩す。唯緒は暫らく東堂を見据え、意を決したように続けた。
「で、東堂、お前学校辞めてからはどうしているんだ?」
「……滞りなく、普通に生活していますよ」
「や、別にまた悪さしているとかそんなこと言っているんじゃねえぞ? ただうちの道場の連中に紹介してやってもいいと思っただけだ」
「神崎道場の、ですか?」
「おう、お前なら腕っ節も強いしみんなも気に入ると思うぜ?」
険しくなりそうな表情は、なんとか抑えることが出来たと思う。
「大丈夫ですよ、こう見えても本当に職にはありつけている」
「……疑っていたわけじゃねえが、いや、実際は疑っていたわけだが……マジで働いているのか」
感心している唯緒に申し訳なくなるが、さすがに、今の身の上で神崎道場に出向くことは出来そうにない。
「糞みてえな仕事ですよ、ただ、まあ自分の目標を達成するにはこれが一番早道そうだ」
「目標、ねえ。因みにどんなことなんだ?」
興味津々に尋ねてくる唯緒に、苦笑しながら東堂は口を開きかけ――閉じた。
「止めておきます、本当に笑っちまうようなものなんで」
「そうかい」唯緒もそれ以上は聞くこともなく「じゃ、これで」と東堂は会釈一つして唯緒から去った。
「本当に……笑っちまうよ」
個室での陰鬱な気分はいつの間にか消えていた。
「それにしても神崎道場、か」
篶倉市に存在する三大組織の一角、七十余名の紫紺級と一人の白銀位階からなる日本に置いても最高級の具現師集団。
唯緒は一般人であるため、純粋に東堂を気遣っての誘いであったのだろう。
だがその誘いはどうしても乗れなかった。
何故なら、東堂良哉は魔王である。
先月に起きた『大侵略』の裏で繰り広げられた九柱の魔王の心臓移植者の一人。
鉄槌の《魔王の心臓》移植者、《粉砕王》、それが東堂の綽名だった。
「唯緒さん、俺は本当に糞みたいな事をしているんだ、気遣われるような資格はないんですよ」
己を生かすために残りの八人の心臓を奪う、東堂が選んだのは修羅の道。
「……俺はこの世界をぶち壊したい、その為なら何だってやってやる」
東堂の独白は夜風に吸い込まれるように飲み込まれ、誰に届くことなく消え去った。
戴冠式参加者、残るは四柱……儀式は終盤に向かい静かに動きだそうとしていた。