第一話「これが、僕の四角い世界」①
時は14世紀、1320年代のイングランド。
イングランド王エドワード二世の寵臣政治は終わりを告げ、今はわずか十五歳の若きエドワード三世が即位していた。しかし、国政の実権は、母であるイザベラ王太后と、その愛人ロジャー・モーティマーによる摂政体制が握っている。
中央政府の政治腐敗は深まるばかりで、そのしわ寄せが哀れな庶民に重くのしかかる。
人々が未来への希望を持てず、ただ息を潜めて生きるしかなかった、そんな世の五月──……。
肌寒い晩春の森を、白い影がゆっくりと通り過ぎて行く。
それは、厚みのある白い革のフードを目深に被った一人の男だった。フードから覗くのは老人のような白髪だが、その下の肉体は、老人とはかけ離れた若々しく、屈強なものだ。
丈夫そうだがボロボロの長袖から伸びる腕の皮膚は日差しに透けるように白く、この温かな森の中では不自然に残された残雪のようであったが、彼一番の特徴である白いフードを纏う事でその異様さは幾分か軽減されていた。
しかし背中には膨らんだ荷物袋、腰には二本のナイフを提げた姿は別の険しい雰囲気を纏っており、何も知らない旅人が薄暗い時分に彼に遭遇すれば、きっと魔物と間違えるだろう。
だから男は不必要に夜を歩かないことを心に決めている。移動は昼間のみだ。
ふと、男の真上を一羽の隼が地上を見下ろして過っていった。
隼の存在に気を取られた男は、一瞬だけ歩みを止めた。
「あれは、野生ではないな……」
あっという間に飛び去った隼に対し男はそんな感想を述べつつ、空にはもう何もないことを確認すると、男は再び静かに歩き始めた。
空から滑空した隼は間も無く、濃い緑のチュニックに身を包んだ青年アーサー・クロムウェルの左手に止まった。
彼は、待ち構えていたように逆の手でご褒美の餌を与え、隼の柔らかな羽毛の胸を優しく撫でた。
「お帰りノヴァ。でも、お土産は無いみたいだね」
ノヴァと呼ばれるメスの隼は、アーサーが少年の頃に父が唯一与えた贈り物だ。狩りは下手だが、飼い主にはとても良く懐いている。
折角空に放ったのに狩りをせず空中散歩だけで帰ってきたペットの様子にアーサーは少し残念に思いつつ、ノヴァの小さな頭に目隠しのフードを被せてしまった。
アーサーの本業は教区司祭だ。もう少しノヴァと触れ合いたかったが、仕事は朝から忙しい。
「アーサー様。そろそろミサの準備を」
司祭補助の教区書記ピーターに呼ばれ、アーサーはノヴァを預けると、周囲の墓場を越えてゴシック様式の教会へと入って行った。
教会の祭具室。
アーサーが下着姿で待っていると、ノヴァを飼育箱に仕舞い終えたピーターがやって来て、ミサ用の祭服を着せ始めた。
ピーターはテキパキと、長白衣のアルバ、帯のチングルム、肩にかけるストラを整え、最後に緑色のマント、キャズラを被せた。
伯爵令息でありながら庶子である、ただの優し気な青年に過ぎなかったアーサーは、一瞬にして威厳ある司祭へと姿を変えた。
朝のミサを終え、村人たちを見送るため普段着の礼服に着替えて戻ってくると、三人の女性がアーサーの方へとやって来た。
シスターの黒装束のマーガレットと、村娘のアリスとルーシーだ。
「アーサー様、今日もお疲れ様でした」
「おはようございます、マーガレットさん。今日も診療所をお願いします」
マーガレットは、教会の診療所の監理者だ。人手の少ない田舎の診療所を村人の世話人たちを使って切り回してくれる有難い存在だ。
「おはようございます、アーサー兄様」
ルーシーはアーサーを兄様と呼ぶ。彼女は孤児だが、薬草の知識を持つ診療所の働き手だ。
「おはようルーシー。今日は薬作りの作業なんだね。アリスは教会の方だっけ?」
「ええ、今日は養蜂施設の方。これから夏になれば蜂が騒がしくなるでしょ。今日も人が足りないって呼ばれたのよ。ね、アーサー様」
アリスは村の上役の娘で、賦役、お手伝いによく来てくれる。
賦役は善良な教区民としての義務であり、教会と村という共同体を守るための当然の役割だった。
「三人ともいつもありがとう。みんなのおかげで僕も教会の仕事を頑張れるよ」
アーサーの素直な感謝に誰もが尊敬の笑みを返した。
そんな和やかな会話を断ち切るように、不機嫌そうな男の声が響いた。
「おやおや、ミサが終わったのに若い者たちが仕事もせずに集まって楽しそうだな」
紺色の外套を纏った恰幅の良いトーマスが、妻のヘレナと従者を伴って歩み寄る。
トーマス・バートン。彼はペンストレイト領の官僚で、この荘園、アッシュワース村の代官だ。実質的な村の最高権力者であり、そしてアーサーの「教育係」という名の監視役でもあった。
(ああ、またいつものお説教タイムだ……)
この権威的な男を前にアーサーの胃がキリキリと痛む。毎朝この男の顔を見るたびに、自分があのクロムウェル家から送り込まれた『人質』であることを思い出させられるのだ。
気を引き締めろアーサー。嫌な顔一つ見せるな。笑顔で丁寧に、あくまで司祭として振舞え、と自分に言い聞かせてトーマスに挨拶をする。
「トーマスさん。おはようございます」
アーサーが笑顔で会釈すると、女性たちはそそくさとアーサーの側から離れ、アーサーは一人で彼と向き合った。
「ふん。相変わらず、庶子上がりの司祭殿は、愛想だけはいい」
トーマスはそう吐き捨て、アーサーの素顔を見下ろした。
「だが、その笑顔は、お前の後ろ盾がいかに弱いかを知っているからだろうな。聞くところによると、今日のミサは『感謝と共同体』の説教だったそうだが、我がペンストレイト領主に属する教区とは言え、自分の主家であるクロムウェル家への感謝に触れることは無いのは君の立場的に気が引けてしまうせいかな?」
アーサーの笑顔が、わずかに凍りつく。毎日のように、トーマスは些細なことでアーサーの権威を削ごうとする。
「トーマスさん。神の前で、特定の領主の利害を説くことはできません。教区民全員の信仰心を守るのが、私の務めです」
「それがお前の務めか……物は言いようだな。教会の権利(パトローネ権)を守るためだけに人質同然に送り込まれた身で、ずいぶん立派な物言いをするようになったもんだ」
と、トーマスは妻と従者の前で、あえてアーサーの最も触れられたくない核心を突きつけた。
そして周囲にはまだ帰っていない村人たちが居り、少なくない視線が二人のやり取りを遠巻きに見続けていた。
この男はいつもそうだ。何かと人目のある場所で突っかかって来てはアーサーの権威を削ごうとする。
(くそ。このまま引き下がれば、村人たちの前で教会の威厳が失われる。しかし、ここで反抗すれば、領主を通してより強い圧力がかかる……)
アーサーは一瞬、全身の力が抜けるのを感じたが、すぐに司祭としての顔を取り戻した。
「私がこうやって司祭として成り立ってるのは、トーマス先生を始めとした村の皆様のご指導があってのことです。いつも有難うございます」
トーマスが自分の師であることを強調して礼を述べると、彼は分かりやすく上機嫌になった。
「そうかそうか。良い心がけだ。これからも村を支える神の子として頑張りなさい。……ところで老司祭長のジャイルズ殿は、今朝もミサに来られなかったが、夜間の容態はどうなっている? そろそろ代わりの者に頼むべきではないかな?」
「ご心配いただきありがとうございます。彼は目に見える場にはなかなか姿を現せませんが、彼の意向を確認し周囲と連携を取りつつ私が代理実行者として励ませて頂いております。司祭長も常にこの村の安寧を祈っており、私の優先事項です」
そう言ってアーサーは深く一礼する。それは司祭としての敬意ではなく、人質としての諦念にも似ていた。
「まあいい。私も暇ではないからもう帰る。しかし、いつまでもそんな不安定な体制が通ると思わないことだな」
トーマスはそんなアーサーの様子に満足そうに鼻を鳴らし、妻と腕を組み、教会から去っていった。 その後ろ姿を見送りながら、アーサーは誰もいない方に顔を向け、小さく息をこぼした。
その吐息は、これから始まる長い一日が、まるでこの一瞬に凝縮されているようだった。




