虹色とかげ
第一章
いわゆるスリーBというものがある。バンドマン、バーテンダー、美容師。この職業の男は付き合っちゃイケナイという説だ。何故なら女タラシだから。何故女タラシなのか、それは女の方から寄って来るから。何故女はイケナイ男と承知で寄って来るのか。それは女も、そういう男と遊んでみたいと思っているからだ。
奨学金という名の借金を抱えた藤田 暁は、新卒で就職した会社をわずか四ヶ月で辞めてしまった。短い会社員生活は、今思えばもう少し上手くやりようがあったかも知れないが、あの時はとにかく毎日辛くて仕方なかった。あの生活が何年も続くなんて耐えられなかったのだ。 しかしその後の転職活動は思ったより上手く行かず、正直ショックだった。学生時代のバイトの面接も就活の内定も、順調にとれていたものだからもっと簡単に行くと思っていた。考えが甘かったのだろう。だがまあ、どれも自分のしたことだ、愚痴るわけにも行かないし後悔したところで何にもなりはしない。とりあえずバイトとしてウェイターを始めた。ホール業なら大学時代にもやっていたし、少しでも稼ぐ為にバーに換えた。そこでカクテルの作り方を教えて貰っていたのだ。
教えてくれているのはこの店のマスター、五十絡みの優しい男だった。ハスキーボイスで落ち着いた、大人の魅力を備えていると言えた。
「暁くん、マティーニ頂戴」
「いらっしゃいませ瞳さん、ただ今」
常連のアラサーキャリアウーマンがやって来た。女の身でありながら中小企業で課長を務める彼女は、ストレス発散にたまに暁を誘う。しかし今日は連れがいる。しかも男だ。けど部下かな、いい仲というわけではなさそうだけど、気に入っているようだ。それとも見せつけたいのか? 残念ながら、そんなの関係ないし、何とも思わない。身体の関係があろうとなかろうと、ただの客だ。
「マティーニお待たせしました」
よくバーテンは遊び人だとか言うが、そりゃあそうだろう。だって誘ってくるのは客の方なのだ。しかも暁を好きとかではない、彼女らが求めているのは後腐れない一夜の慰めだった。つまり遊び慣れた水商売の男と安全に、しかも安上がりに遊びたいだけなのだ、こっちは期待に応えているだけで深い意味なんてありゃしない。
もちろん若く美しい女ばかりではない。特に暁はまだ二十四だから、周りのほぼ全員が年上だったし、人妻も母親も中年も、独身の嫁き遅れもいた。だが多少の年齢や美醜、肉付きはそこまで気にならなかった。理由ははっきりしている。暁は甘やかしてくれる女が好きだったのだ。
サラリーマンを辞めてすぐに、学生時代からの彼女とは終わった。ぐずぐずと転職先を決められないでいたら見限られたのだった。向こうはしっかりと就職先で頑張っていたから、もどかしかったようだ。
この小さなバーで働き始めて半年、実は今の生活が結構気に入っている。早起きは苦手だし、シェイカーの練習も楽しかった。なんせマスターが魅力的だし。真剣に酒に向き合いながらさらりと客の相手をするマスターは、掴み所がなく、実にスマートな大人らしい大人だった。年上の客たちと話すのも刺激になり、会社員生活よりずっと楽しかった。そう、結果的には良かったのだ。
午前一時、閉店まで後一時間か。さて片付けよう。明日、いやもう今日か、日曜は定休日だ、のんびりするか。
今日は誰にも誘われなかったことにほっとしていた。もちろん面倒な時は断るだけなのだが、断りにくい時もある。揉め事はごめんだし。
「暁くん、たまには男二人で飲むか」
珍しくマスターが誘って来た。
「はあ、いいですよ……」
もう一人のバイトは圭太と言って今日は休みだった。数少ない身近にいる年下、現役大学生で、しかしバーテンとしては先輩だ。三人揃うと閉店後、そのまま店に残って飲みながら話すことは時々あったが、マスターと二人で外に出かけるのは初めてだ。
「オーナーはいいんですか?」
店のオーナーはいつも土曜に店に顔を出す。
「今日は来れないらしいから。ファミレスでいい?」
「いいですよ、俺もよく行きます。何時でも開いてるし何でもありますしね」
オーナーは四十過ぎの女性で、マスターの恋人だった。ごく普通の冴えない中年女性で、昼間パートで働いているらしかったが、少なくともおしゃれなバーにも渋いマスターにも、似合うとは言えない女だ。
店に顔を出しても事務室に引っ込んでいるか、はじっこの席で大人しくノンアルコールを舐めてるだけ、どうやら下戸らしい。口は出さずに店はマスターに任せているようだった。まあ人は良さそうだけども、わずかだが片足を引きずっているのもみっともなかった。
このマスターにあのダサいおばさんか、と最初は驚いたもんだ。
「酒はいいな。腹減った」
「俺も……」
オーダーを済ますと、ファミレスの大きな窓から派手なスーツと髪型をしたホストたちが集まっては騒いでいる様子が伺えた。
「ホストか、賑やかだね、若いよね。……暁くんは年齢の割には落ち着いてるよね。同じくらいだろ」
「はあ……。騒がしいのが苦手なだけで……」
もう一度窓を見やると、上の方で何かが動いた。
「あ、ヤモリ……」
ファミレスの大きな窓の端をチョロチョロと蠢く白い腹は、離れたホストたちを舐めるような格好で止まった。
「そう言えば、知ってる? ニホントカゲの子供って、しっぽが青いんだよ」
「トカゲ……? ですか?」
「うん、たまに高尾山とか行くんだけど、去年なんだけどさ、ちょっと色が変わったトカゲ見つけたからさ。調べたんだ、ほら」
マスターは携帯の写真を見せた。
「あ、本当だ……。しっぽだけ青いし、何かグラデーションかかってますね。これ子供なんですか」
「うん、ニホントカゲの幼体だって。珍しいらしいよ」
「はあ……山とか行くんですね」
「うん、マリが好きだからたまに。まあしんどいのは嫌だし、マリも足がああだから、ケーブルカーがない所は行かないよ。なかなか気持ちいいもんだよ」
「オーナーがね……」
確かに自然が好きそうだ。
「この青いトカゲは虹色とかげとも言って、スピリチュアル的に縁起いいらしいよ」
「はあ、そうですか……。確か蜘蛛もヤモリも縁起良かったですよね」
「スピリチュアルってのは懐が広いのさ」
何の話だ?
「スピリチュアルに興味あるんですか?」
「いや別に……。マリはちょっとあるみたいだな。ほら事務室にも神棚あるだろ。験担ぎだな。料理来たよ、食べようか」
食事があらかた済むと、マスターが話し始めた。
「なあ暁くん、大分仕事にも慣れたよね。お客さんの評判もいいし、カクテルの勉強もよくしてるし、良くやってくれてるよ」
「はあ、どうも……」
「特に女性客に人気だよね、可愛いんだろうね」
「はあ、まあ……若いってだけでしょうけど」
「この仕事、向いてると思うよ。まあ、女性だろうと男性だろうと、バーテンってのはうまい酒と居心地のいいひと時を提供することが大事なんだよね」
「ええ……はい」
「お客さまには平等に接しないとね」
言葉を選んでいるようだが、つまり度々客と深い仲になることが気になったってことかな……?
「ま、これからもよろしくね」
「はい……」
しばらくして解散した。この時間交通手段はないため、マスターは原付、暁も徒歩圏内に住んでいた。夜明け前の駅前は暗く、閑散としている。
……なんとなく、注意されたらしいことは分かったが、どうもぴんと来なかった。確かに女性客の相手のほうが得意と言えたが、何も毎週のように手を出しているわけじゃないけど、な……。女に気をつけろってことかな……。
休みの間、暁はついマスターに言われたことを考えた。今まで、あそこで働き始めてから半年の間に何人寝たかな……。一回限りもいれば、何度か続いている女もいるが、誰にも連絡先は教えていないし、何も貰っていない。せいぜいホテル代の半分を払おうとしても受け取って貰えなかったとか、一杯奢って貰ったとか、その程度だ。
まあ確かに、今まで何もなかったからと言って、これからも何もないとは限らないか……。少しいい気になってたのかな……? しかし、マスターはどこまで把握しているんだ?
洗濯していると、実家から宅配便が届いた。米とかレトルトとか乾麺等の食料品で、一年に二回ほど届く定期便だった。先週誕生日だったから。いつもながら色気のないプレゼントだ。
幼い頃、父の浮気により両親は離婚しており、出て行った母の顔はあまり覚えていない。
再婚でできた義母はずっとよそよそしいままではあったが、悪い人ではないし、生まれた妹もいい子だった。別に二人とも好きでも嫌いでもない。家庭は平和だったが、白々としていた。父も暁には必要以上話しかけなかった。それは母に似ているせいらしかった。
父は、自分の浮気のせいで見捨てられたのにも関わらず、子供を置いて出て行かれたことは許せないそうだ。
そんな家庭で、自分一人が余計な存在であることは間違いなかった。大学入学をきっかけに一人暮らしをするに当たっては家族は大賛成で、奨学金を自分で返す条件で、卒業まで生活支援はして貰った。それから実家には一度も帰っていない、帰って来いとも言われなかった。たまにメールするだけで用は足りた。早速荷物ありがとうとメールしておいた。後は正月にメールするだけで義理は果たすことになる。お互いに。
いつか本当の母親が迎えに来るのではないかという淡い夢は成長するにつれ薄まって行き、代わりに甘やかしてくれる女が好きなマザコン男の出来上がりというわけだ。そう、自分でもマザコンだと自覚していた。
だがそれは大した問題ではない。だって自分は母親のぬくもりを知らないのだし、ストレスを抱えながら現代社会に生きる女たちが求めるものと、今の自分が望むそれが合致しているのだから、ウィンウィンってやつだ。
あの会社員生活を思うと、女たちの欲求も無理もないと思えた。
かといって自分はホストでも風俗でもヒモでもない、誰でもいいわけでもない。物欲しそうな目で俺を誘う女たちを片っ端から喰っているわけでもない、女たちの機嫌を無理に取ろうとは思わない。指名も同伴も関係ないただのバーテンだから。ちょっといい雰囲気になり、余裕があれば付き合ってやってもいい、その程度だった。特に泣き言をぐちゃぐちゃ言う女はごめんだし、暁から誘うこともなかった。中にはちょっと太ったらフラれた、とか言う女もいたっけ。最後まですることなく、添い寝で終わったんだった。
バーテンとしては客の愚痴は聞くし励ましもするが、ベッドでは喜んで甘やかしてくれる女がいい。小遣いやプレゼントをくれたがる女もいるが、暁は何も受け取らないようにしていた。奨学金は自力で返済できるし、何か貰ってしまうと後が面倒そうだし、いささかプライドもあったか。
それよりも俺に抱かれて悦んで、ひと時を楽しんで、俺を抱き締めて欲しかった。大抵の女たちは望み通り可愛がってくれた。だがそれだけだ。それでいい。これまで一人の女に執着することはなかった。
学生時代の彼女だけは……いや、俺を捨てた女のことなど、考えても仕方ない。
もうとっくに終わったことだ。
第二章
雨の金曜、バーはいつもより空いていた。そこにやって来たトレンチコートを湿らせた小柄な女は、まだあどけない顔をしている。
「お客様、失礼ですが年齢確認できるものをお持ちですか?」
女は疲れた様子でマイナンバーを見せた。
「失礼しました、どうぞ」
女は暁の前のカウンター席に座った。マスターがコートをハンガーにかけた。
「いらっしゃいませ、初めてですね? 何にしますか?」
暁は愛想よく尋ねた。
「……甘くて弱いお酒を、任せます」
「かしこまりました」
年下のお客は少ない。暁は余裕を感じた。スプモーニを作ると、
「どうぞ」
出されたカクテルを、女はじっと眺めた。
「……キレイですね」
と呟いた。
「今日は残業でしたか?」
と暁が尋ねると、女は顔を上げた。
「……ええ、まだ仕事に慣れてないのに色々押し付けられて…雨も降って来たし、傘もないしでつい入っちゃったけど……こういうお店初めてなんです」
じっと暁を見る目は、何かを期待しているようだ。
「そうですか、僕も会社勤めしていた時期があったんで、分かりますよ。慣れるまで大変ですよね」
女は頷き、グラスを取った。
「……バーテンさんは、おいくつですか? あ、美味しい……」
「二十四になったばかりです」
「じゃあ私、一つ下です。今年二十三になるの」
「就職して二ヶ月ちょっとってとこ? 一番しんどい時期かもね」
「はい、しんどいですね……先輩が厳しくて。厳しいだけならいいんだけど……えこひいきするし、ちゃんと教えてくれないし……」
お客が語り始めたら、たまに相槌を打つくらいでバーテンは黙って聞くべし。相手は聞いて欲しいのだ。
なかなか可愛い子だ……。彼女が語る苦労は暁も味わった新人故の悩みだった。つまりは要領が良くないのだ。
「そうですね、大変だね、頑張ってるよ」
彼女は科子と名乗った。
「科学の科でしなこって読むの。いつもなんて読むのって聞かれるの、親が科学の先生なのよ、おかわり」
「へえ、教師か」
「私は科学なんて嫌いなのに。親の言うままに教師になりたくなかったから就職したのよ、でも今のままでいいのかなって思っちゃう」
「そうかあ」
まだ二杯しか飲んでいないのに、飲み慣れていないのだろう、もう真っ赤だった。弱くしたのだが。
「その辺で止めておいたら? そろそろ帰ったほうがいいよ、電車でしょ?」
暁は水を差し出した。酔わせ過ぎないことも大事だ。あくまで気持ち良く飲んで貰わなければ。科子はうんうんと頷くと、チビチビと水を飲んだ。
「……暁って、いい名前ですね。お母さんがつけたんですか?」
暁は頷いた。
「そう、明け方に生まれたってことらしいね。梅雨の合間に晴れたからって聞いたよ」
「きっとキレイな明け方だったんでしょうね……ありがとう、話聞いてくれて。元気出たかも。帰ります……」
科子はノロノロとバッグから財布を出した。
「傘いるかな?」
マスターがコートを取るついでに、ドアを細く開けて外を確認してくれた。
「止んでますよ」
「良かった、気をつけて帰って下さい。ありがとうございました」
「……また来ます、暁さん」
「お待ちしています、科子さん」
暁はにっこりと客を送り出した。やれやれ……。
「なかなか長かったな、まあ酔っぱらう前に帰ってくれて良かったよ」
マスターが言った。
「そうですね、不満が溜まってたみたいで……でも素直で可愛かったですよ」
暁は彼女の話を去年の自分と重ねていたのだ。空回りして、孤立していて、我慢して……。誰かが慰めてやらなきゃ、きっと疑心暗鬼になってしまう。そう、俺がそうだったように……。
次の日の土曜日、オーナーがやってきた。
「もう梅雨入りね。ちょっと暇になるかもね、これ差し入れ」
オーナーのマリがたい焼きを差し出した。ちょうど客も二人しかいない。
「お、いいね」
マスターが嬉しそうに受け取った。
「あんこ二つにカスタードに抹茶か……圭太くん何がいい?」
「自分、抹茶で」
「暁くんは?」
「何でも……」
「じゃああんこかな。マリ、カスタード好きだろ」
「うんいい?」
普段も優しいが、マスターはオーナーには特に優しい。どうしてもこの冴えない女性にマスターは勿体ないように思ってしまうが、仲良しなんだよな……。二人は穏やかな空気に包まれている。ふと見ると、マリの手首には、虹色のブレスレットがあった。
そう言えば……暁は思い出した虹色とかげとやらを携帯で調べてみた。……幸運の兆し、か……。今まで忘れていたし、俺が見たわけじゃないからどうでもいいけど、話題にはなる。
「オーナー、この前マスターに教えて貰ったんですけど、虹色とかげっての見たんですよね?」
マリがふっと笑顔になった。
「そうなの、すぐ見えなくなっちゃったけど確かに青かったのよ。キレイだったわ」
「何かいいことありましたか? 幸運が来るって印ですよね?」
「あったわよ、暁くんがウチに来てくれたの。圭太くん大学忙しいし、いい人が来てくれたもの。良かったわ」
「え……俺?」
確かにバーテンの生活は気に入っているけど……。
「そうなの、だから暁くんのイメージがトカゲなのよね」
「はあ……トカゲねえ」
どこがだ?
「スマートでするするしてるとことか」
「スマートでするする? 俺がですか?」
「だって仕事もすぐ覚えたし、そつないし……」
その時、客の女性が口を挟んだ。
「そうそう、誰の物にもなりそうにないとことかね?」
これも一度寝たことがある女だった。が、既婚だし暁とは完全に一度だけという約束の上でのことだった。旦那とは軌道修正できたのか?
「可愛い顔して逃げるのが上手い、とか?」
おいおい、そんな意味ありげな発言はルール違反だろ。
「やだなあ逃げるって、何ですか? 前の会社のことなら、新人いびりに合ったんだって言ったでしょ。するするなんてとても無理でしたよ、熱中症になってヘロヘロだったんですから」
「ありますね、そういうの。俺も昔のバイト先であったよ、何かそういう雰囲気になるんだよな、つられて。あ、俺はそんなことしてないすよ」
圭太が同調した。暁は頷いて返した。確かに圭太はそんなやつではないだろう。
「こことは大違いですよ」
「そうなの……」
話を反らすことには成功したようだ。
「辛かったね」
オーナーがポソリと言った。ズキンと嫌な記憶が蘇りそうになり、暁は慌ててたい焼きを頬張った。
「美味しいです、なんかあんこ久しぶりに食べましたよ」
本格的に梅雨入りした数日後、暁と圭太は一緒にカクテルを作っては、マスターに飲んで貰っていた。
「この小さいグラス一杯で何千円もする。その意味を理解して欲しい。俺たちが作るのは単なる酒じゃない、プロが作る美味い一杯には、お客さまが現実を忘れるように、このバーにいる間だけでも嫌なことを忘れられるようにもてなさなければならないんだ。その為に美味い水と氷にこだわった美味い酒、バーテンの腕とこの空間がある。
つまりバーテンは酒と同じだ。俺たちは一杯の上質な酒なんだ。ひと時いい気分にさせる、それが役割だ。話を聞くこと、うまい酒を提供してリラックスして貰うこと。……ま、みんな前のオーナーの受け売りだけどな」
「前のオーナーって、マリさんのお祖父さんですよね」
圭太が聞いた。
「うん、チンピラの俺を一人前にしてくれた恩人のオヤジさんだよ」
「チンピラ、ですか……」
暁には意外な事実だった。この品のある男がチンピラだったのか。
「うん、どうしようもないごろつきだったよ。ちょっと酒に詳しいってくらいしかなくてさ……ここにいなかったら、多分今頃アル中になって道端に転がってたろうなあ。うん、これ美味いよ圭太くん」
「そうなんですか……」
恩人か……。マリにはその感謝の念があるわけか……。マスターがこの店とマリを大事にしているのは日頃から感じていた。
「さ、暁くんのカクテルくれよ」
第三章
金曜日。また雨か……。暁が氷を割っていると、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
いつぞやの女がおずおずと入って来た。
「科子さん、でしたね?」
「嬉しい、覚えててくれてましたか?」
「勿論。どうぞ座って下さい。あの日はちゃんと帰れましたか?」
「ええ、なんとか……。色々愚痴っちゃってごめんなさい。思い出したら申し訳なくって……。今日はピーチフィズを……」
「申し訳なくなんかないですよ、科子さん、帰りに元気出たって言ってくれたでしょ。僕のお酒飲んで、話して元気になってまた仕事頑張れるなら、それがバーテンにとって嬉しいことなんですから。さ、どうぞ」
科子ははにかみながら小さなグラスを傾けた。
「美味しい……カクテルって、キレイだし美味しいし、いい気分にしてくれるし、素敵なものなんですね」
潤んだ瞳には暁が映っている。科子は努めて明るく話し出した。おかげで少しは先輩と上手くやっていけそうだとか、最近料理に挑戦してるとか。きっと暁と話したくて話題を考えてきたのだろうと、その様子から伺えた。
また俺を気に入った女が増えたか……。しかしこの女は新鮮な素人さがあり、気分が良かった。
暁は優しく、あくまでビジネスライクに接するよう心がけた。
次の日の土曜も科子はやって来た。
「今日は仕事休みじゃないの?」
「ちょっとだけ用あって……ついでに」
言葉少なに科子はカウンターに座った。俯き加減に、照れくさそうに……暁に会いに来たのは明白だった。マジになられそうだ……まずいな。こないだ忠告されたばかりだってのに……。
「なんか、初めての日が雨だったせいか、雨になるとここに来たくなっちゃって……」
今日も小雨が降っている。任せると言うのでダージリンクーラーを作った。
「弱いから。一杯飲んだら帰って休んだら?」
「……何故追い帰すんですか? 空いてるのに」
「いや、休みなんだから家でゆっくりすればってこと。雨だし、風邪ひかない内に」
「……暁さんも飲んで」
「じゃあ一杯貰おうかな」
暁はスカーレットオハラを自分に作った。シェイカーを振り、グラスに酒を流し込む一連の仕草を、科子はじっと見つめていた。
「キレイね」
「暁みたいな色でしょ? 強く生きろってメッセージが込められているカクテルだと思うんだよね」
暁自身、自分の名前を結構気に入っていた。そしてこのカクテルはピッタリだ、と常々思っていたのだ。
「確か今日を精一杯生きろ、だったかな。カクテル言葉は」
マスターが横から教えてくれた。
「あ、そうなんですか? やっぱりそんな感じなんですね」
「風と共に去りぬ……そうですね。私にもそれを……」
その時、三人の男性客が入って来たので、暁は素早くカウンターを離れ、テーブル席に案内してそっちの接客に移行した。マスターが科子と話し始めた。
やれやれ……。科子から離れてほっとした。弱ってるところに優しくされてふらつくのは分かるが、こちとらそういう商売なんだから……。もっと世慣れたタイプならともかく、また酒の飲み方も身についていないんじゃウブすぎるってもんだ。
科子にはあまり構わないようにしなければ……。
次の週の半ば、キャリアウーマンの常連客に誘われた暁は、まあいいかと誘いに乗った。最近シテなかったし。
「久しぶりね暁くん。寂しかったわ」
ホテルで抱き合うと女は嘘ぶいた。
「そうですか? 瞳さん、こないだの男は?」
「ただの新しい部下よ。異動してきたんだけど、こいつが生意気で、でも仕事は出来るのよね。うかうかしてると課長のポストを奪われるかも。弱音でも聞き出してやろうと思ってこの前連れて来たんだけど、全然! 酒は強いし紳士的だし、弱点がないのよね。憎たらしい……」
「随分ご執心だね」
女は俯いてちょっと黙った。どうやらライバルでもある部下の男に惚れたようだな……。前に見かけたその男は彼女より年下っぽかったし、ギスギスしたキャリア重視の自分には見込みなしの恋ってわけだ。
「ま、今日は俺をそいつと思っていいですよ」
服を脱ぎながらおでこにキスすると、女は暁の背中を撫でながら身を任せた。
こうしているとそれなりに可愛いもんだけどな……。
他の男の代わり、これが一番楽だ。彼氏や旦那が構ってくれないから、という女は、つまり本命が構ってくれるようになればそれまでなのだ。彼女はこの前まではただストレス解消と、特に相手はいないけどたまにはそういうこともしたい、とかいう気楽な理由だったが、心に別の男がいるならこの関係ももう終わるだろう。長引くと厄介だから、丁度いい。俺はただ優しくされたい。そして優しくしてやる、それだけだ。
女は暁の腕の中で涙した。
週末になるとまた科子がやってきた。この前はあまり話せなかったから暁と話したいのかも知れないが、またマスターが相手をした。恐らくマスターもこんな純真そうな子には手を出すなと言いたいのだろう。暁も他の客と話が弾み、あまり気にしていなかった。確かに厄介そうなタイプだし。
「さて、ちょっと今日は先に帰らせて貰うよ。締めは圭太くんに頼んであるから」
丁度客が途切れた時に、マスターが帰る支度をした。
「あれ、何かあるんですか、こんな時間に?」
「うん、今日、後一時間で終わりだけど、オヤジさんの命日だから早く帰ってやりたいんだ。明日の昼に墓参りに行くから」
「前のオーナーの命日ですか。そりゃあ……」
「マリさんによろしくお伝え下さい」
「仲いいよなあ」
扉が閉まるのを見届けると、圭太が言った。
「マリオーナーさ、バツイチって知ってました?」
「ああ、何か前に聞いたような……」
「前の旦那、DVだったらしいすよ。逃げて来たんだって。マスターは優しいから安心なんでしょうね」
「へえ……」
あのぽけっとしたオーナーにそんな過去が…。
「オーナーの親には反対されたままらしいすよ。何年も一緒にいるし、マスターいい人なのに。……じゃ俺、ちょっと事務室片付けて来ます。この雨じゃもうそんなに来ないでしょ」
ホールを見ると、いつの間にか客は科子一人になっていた。いつも週末はもう少し客がいるのだが。
二人きりになった以上、話さないわけにもいくまい。
「科子さん、何飲んでます? おかわりは?」
「……ストロベリーマルガリータ……マスターにお任せしたの。おかわりは、この前のがいいかな」
「スカーレットオハラ? はい。弱くしますね」
「……暁さん、あの……」
シェイカーを振っている間、科子はもじもじしていた。
「……どうしたの?」
「……私、迷惑なの? 避けてる? 私のこと」
またこれは随分……
「まさか、そんな風に思わないで欲しいなあ。たまたまですよ、ただ特定のお客さんと慣れすぎるのは良くないかも。特に科子さんみたいな若いお嬢さんはね。どうぞ」
「でも私……暁さんと話したかったの。ほら、最初に勇気貰ったし……」
「マスターも話上手でしょ?」
「うん、まあそうだけど……」
「僕はまだ勉強中だし、色んなお客さんと話さないとね」
その時扉が開いた。
「いらっしゃいませ……」
暁の胸がざわりと波打った。扉から顔を覗かせているスーツの男に見覚えがあったのだ。
「濡れちゃったなあ、二人いい? ……あれっ?」
男も気付いたようで、目を合わせた。
「知り合いなのか?」
連れの男が尋ねた。科子も暁を見た。口の中が急激に渇き、上手く舌が回らない。
「同じ大学の……久しぶり……」
「おう、暁じゃないか? 村田だよ、こんなところで働いてたのか」
村田はずかずかとカウンターにやって来た。
「久しぶりだなあ。へえバーテンなのか、気楽でいいな。こっちは毎日ペコペコしてるってのによ。あ、こいつ同僚」
連れの男は軽く会釈すると、テーブル席を指した。
「あっち行かないか、ほら……」
と科子の存在を気にした。しかし村田は気にせず続けた。
「あ、俺サングリアな。……お前、勿体ないなあ、せっかく新卒で入った大手辞めちゃったんだって? どうしてるかと思ってたんだぜ。こんなところで酔っぱらいの相手をする為に大学行ったわけじゃないだろ?」
随分不躾な……。そう言えば、ヤツはなかなか内定が貰えず苦労してたっけ。確か入った会社も暁の方が良かったような……。
マウントが取れるとばかり、嬉しそうに……どうやら多少酒も入ってるか?
「サングリアですね、お連れ様は?」
暁は努めて冷静に笑顔を作った。
「あ、俺も……」
「おい暁、お前の彼女、どうしてる? 彼女……」
「いらっしゃいませ」
いいタイミングで圭太が奥から戻ってきた。
「あっちに移ります」
同僚の男が慌ててテーブル席に引っ張って行った。何故なら、鏡を見なくても分かる。暁の顔色が変わっていたからだ。しかし村田は空気を読むことなく同僚を制して話し続けた。
「お前は出世街道から離脱したってことだよな。別れたのか? おっと、お姉さん、うるさかった? ごめんね、何せ久しぶりだからさ」
「おい、絡むなよ」
同僚が頑張ってくれたおかげで、やっとカウンターから二人は離れた。
「……サングリア二つお願いします」
そっちは圭太に任せると、暁は適当に目の前にあった酒を引っかけた。
「大丈夫?」
科子が心配そうに聞いた。
「……大丈夫。圭太、先に上がっていいか」
暁の顔色を見て、圭太も頷いた。
「気をつけて」
この程度で動揺するなんて情けない……。しかしこれ以上ヤツに話しかけられたくなかった。昔のことなんて、知りたくなかった。
着替えて裏口から出ると、科子が待っていた。思わず戸惑ったが、恐らく科子はチャンスだと思って勇気を出したのだろう。それは彼女の表情からも伺える。
「お疲れさま暁さん、良かったらお茶でも……飲みませんか」
緊張した面持ちの女を見て正直面倒だなと思った。一人になりたかったのだが、暁を見つめる科子の真っ直ぐな目は、他の女たちにないものではあった。
「……そうだな。心配かけたね。お茶より一杯やりたいな。飲み足りないんだ」
近くの居酒屋に入ることにした。あまりいい事態ではないと分かってはいたけど、まあ一杯飲んだら帰ればいいか。
「私はウーロン茶で……さっき飲んだし」
「俺は軽く食べようかな」
元カノの話が聞きたいのだろうが、科子は遠慮しているようだった。純粋そうな眼差しは悪い気がするわけがない、好意だ。どこか懐かしいその視線は、誰かを思い出させる。
注文すると、暁は少しくらい事情を話さなきゃな、と一呼吸おいてから
「……前の会社で、新卒で就職したとこなんだけど、ちょっと、熱中症みたいになったんだ。なのに、ノルマ増やされたり、新人いびりみたいなことされて……パワハラってやつ。それで辞めたんだけど、去年の夏。そしたら、大学の時から付き合ってた同い年の彼女にフラれちゃって……。向こうは仕事楽しそうだったから……」
それだけやっと言えた。
「そうなんですか……」
暁が口を閉じると、科子はにっこりと言った。
「言いたくなければいいんですよ。さ、飲みましょ」
それから先ははっきり覚えていないが、三、四杯くらい飲んでから、流れるようにごく自然に近くのホテルへ入った。暁の主義に反する上、ちょっとヤバいかもと分かってはいたが、酒の勢いのままに任せ、科子も黙って着いて来たのだ。たまには年下もいいか……。
バレたらまずい上に、何となく危うそうだけど、しっかり今夜だけのことだと言い聞かせると、科子も頷いたのだった。
頼りないキスとぎこちない痴態、固い反応に、ようやく冷静さを取り戻した暁は、抱きながら思わず舌打ちしそうになった。
初めてかよ……チッ。
ヤバいことにならなきゃいいが……。
次の日は土曜で、オーナーがやって来た。
圭太は休みだったので、昨日の話をせずに済んだ。
マスターは事務室で作業していて、カウンターにマリと二人になったので、暁から話してみた。
「お墓参りに行ってこられたそうですね。雨に降られなくて良かったですね。ご両親にも会ったりしたんですか?」
マリはレモネードを頼んだ。
「ううん、親とは何年も会ってない……。私のおじいちゃんね、このお店を開く前はクラブのボーイだったのよ。おばあちゃんもホステスだったの。私の親はおじいちゃんたちが水商売をしていることが気に入らなくて……。頭固いの。もちろん私が離婚したことも気に入らないのよね。この店も、親は手放したがったの……私もお酒苦手だし、前にちょっと手伝ってはいたんだけど、向いてないし……。おじいちゃんが亡くなった時に揉めたの……。でも私に遺してくれたから、大事にしたいのよ」
そこで一旦マリは口をつぐんだ。苦い思い出のようだ。こちらから聞いてはいけない。
レモネードを一口飲んでから続けた。
「二人ともよくやってくれて感謝してる。圭太くんは大学卒業だから来年で終わりだけど、暁くんがいるから安心だわ」
「はあ、まあ……。そうだ、オーナーはスピリチュアル好きなんですって?」
「うーん? スピリチュアルが好きと言うより、何て言うか、縁起をかつぐって、ちょっと安心するのよ。元々おじいちゃんとおばあちゃんが好きで、ほらお店立ち上げたから、あの神棚もおじいちゃんが付けたの。商売繁盛とか、何か、たまに神社にも行ってて……。お守りとか、気休めみたいなものよね?」
手首の虹色のブレスレットを見せながら言った。
「これもおまじないと言うか、何か励まされるような……。神様に応援して貰ってるような気がするのよ」
確かに事務室にある神棚は、毎週土曜に来るオーナーが手入れしているようだった。
神様の応援か……。
この日、科子は来なかったので、暁は安堵した。
数日経ったが、科子は来なかった。一度関係を持つと足が遠のく女はいるから、暁はむしろほっとしていた。
カウンターでは目にうっすら隈があるサラリーマンが、中間管理職はツラいとマスターに愚痴っている。ベルモントを差し出し、
「さあこれを飲んで休んで下さい。あなたが眠れるようにと作りましたから」
「俺が眠れるように? ありがとう、マスター……優しいんだな」
男はゆっくり味わって酒を飲み干し、素直に帰って行った。
それを見ていたいつぞやの既婚の女性客が呟いた。
「ベルモントって、確か友達に出すといいお酒とかって、どこかで見た気がするわ」
「ああ、慰めたり励ましたりする意味があるんですよ」
客を送り出したマスターが答えた。
「さすがねえ、ね?」
暁も頷いた。そんな意味が……。
「私も暁くんに励まして貰ったよ? 旦那と仲直り出来たのよ、時間かかったけど、おかげさまでね」
女が小声で言った。
「そうですか、良かったですね」
「ま、こっちもやり返したからだけど、ね」
女はまた意味ありげに笑った。暁はさりげなく笑って流した。
「お幸せに」
バーテンは一杯の酒、か……。
「そう言えば暁くん昨日休みだったろ、あの人来たよ、科子さん」
マスターに言われてはっとする。
「えっ、あ、そうですか……」
「うん、一杯ですぐ帰ったけど」
平日なのに来たか……。そう言えば雨だった。あの時は科子が寝てる内にさっさと帰ったから、言いたいことがあるのかもな……。
マスターに気付かれなきゃいいけど……。
第四章
金曜になると、予想していたことだが、科子がやって来た。
「いらっしゃいませ……」
「また雨ですね」
科子は硬い表情で暁の前のカウンター席に座った。ちょっと気まずい。
「……何にしますか?」
面倒なことになる前にはっきりさせるべきか……?
科子はメニュー表を見やると、
「テキーラサンライズ……。スカーレットオハラより、こっちの方がピッタリじゃない?」
と暁を潤んだ瞳で見た。
「ああ、朝焼けですか。まあね……」
「思い出の映画ですか?」
確かに風と共に去りぬは前の彼女と観た映画ではあったが、他にも沢山観たし、単純にスカーレットオハラが好みの味と色なだけだ。
少し苛ついて来て、暁は肩をすくめただけで答えなかった。
「知ってる……? テキーラサンライズのカクテル言葉」
科子が探るように問いかけた。知らないよ。いちいち意味を考えて飲まないだろ。
「熱烈な恋……」
横でマスターがぽそりと呟いた。思わず身体が固まった。
「……ちょっと科子さんには刺激が強いんじゃない? もう少し……優しいほうがいいよ。もっと……」
暁はぐるぐると考えを巡らせた。手を出したことがマスターにバレたらまずいし……。
科子は真っ直ぐこちらを見ている。
「……自分に合ったのを選んだ方が……お酒、強くないでしょ」
その時他の客に呼ばれ、
「はいっ、マスターこちらお願いします」
これ幸いと逃げるようにその場を離れた。
その後も科子には近付かないようにして、科子がトイレに立った隙にこっそり帰った。
次の日の土曜、また科子が来ていたが、暁はしっかり他の客と向き合っていたので接触はなかった。何か言いたげな視線を向けられているのは認識していたが、鬱陶しいだけだ。罪悪感がないわけじゃないけど、合意だし……。
今日は雨じゃないし、そろそろ梅雨明けだとニュースで観たな。もうしばらく相手にしなきゃ、その内諦めるだろ。ちゃんとあの時だけのことだと約束したんだ。少し我慢だ……。
しかしそろそろ帰ってもいい時間じゃないかとふと顔を上げた時、扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
「よお暁。来てやったぜ」
村田が私服姿で入って来た。
先週同僚に制止されたのでリベンジに来たのか……?
村田は暁の前のカウンター席に座った。二つ隣には科子がいる。何かイヤな予感がする……。
「……今日はお一人ですか?」
「ああ、こないだはちょっと酔ってたし、ちゃんと話せなかったからさ、ジントニック頼む」
「……はい」
しばらく沈黙が続き、作った酒を差し出した。マスターと科子が見ている……。
村田はジントニックをあおるように飲んだ。
「……お前、せっかく来たのにやけに冷たいな。客商売でそんなことでいいのか? お、こないだのお姉さんじゃない、知ってる? こいつ大学時代、彼女とラブラブだったんだぜ。俺なんかいつも見せつけられてたなあ。でもフラれたのな。なあ、暁。何とか言えよ」
どうやら新しい情報を仕入れて来たようだ。意気揚々としている。
「お前にはサラリーマンの大変さは分かんないだろうなあ。だってしっぽ巻いて逃げ出したんだよな? あんないい会社に早々と内定貰ったって得意気だったのになあ。僻んでるんだろ? そりゃ久実ちゃんだって、見切りつけるよな。知ってるか? 最近婚約したんだってさ。無理ないよな? だって、今のお前とは悩みを分かち合えないんだからさ。こんな学生時代の延長みたいな仕事してるんだから」
「お客さま……」
マスターが口を挟んだ。
「何だよ? 旧交を温めてるんだ、邪魔するなよ」
他の客たちがざわめいている。
「村田……」
隠しきれない動揺が顔に出ているのが自分でも分かる。
「ちゃんと転職先探してるのか? このままでいいのか? お前、バーテンで満足なのかよ?」
手元が震えそうだった。一息つくと、言った。
「……ああ、今のあんたは立派なビジネスマンで、俺は脱落者だ。認めるよ。これでいいか? 気が済んだら帰ってくれ。ここはそんな風にくだを巻くような店じゃない」
「何気取ってやがるんだ? たかが飲み屋だろ」
「ならわざわざ来ることないだろ?」
思わず暁が言い返すと、
「止めろ、暁」
とマスターがいつになく厳しく言った。
「お客さま、うちのバイトが失礼しました。一杯奢らせて下さい」
「教育がなってねえな、なあ?」
圭太が暁を下がらせた。
「裏で掃除してて下さい、行って」
転がるように事務室に行くとソファにへたりこんだ。久しぶりに聞いた名前……。
身体が震えている……くそっ。
しばらくして圭太が様子を見に来た。遠慮がちに暁を見つめると、水を差し出した。
「もう上がっていいって。マスターが相手してる内に帰れって」
「……ごめん、迷惑かけて……。マスターの大切な店でこんなこと……」
「うん……。それもそうすけど……。年下の俺に言われるのは面白くないかも知れないけど……バーテンならあれくらい流さないと。もう少しプロ意識を持たないと……まあ、何か訳があるんだろうけど」
「……ああ、悪かった」
プロ意識、か……。確かに、今の暁は上質な一杯とは言い難い。
二十分弱の家路を、暁はノロノロといつもより時間をかけて歩いた。疲れた……。身体が重い。
やっとの思いでアパートに辿り着いた。壁にはヤモリが張り付いている。
「ふう……」
玄関でポケットの鍵を探っていると、何やら後ろで人の気配がした。こんな真夜中に何だ? 振り返ると、そこには科子の姿があった。
「ひゃっ……!」
お化けかよ? 暁は思わず後ずさって狼狽した。
「暁さん……」
まるで顔に水をかけられたような衝撃だった。
「何だ? 何だよ、跡をつけたのか?」
「だって仕方ないじゃない、お店に行っても話してくれないから。連絡先も知らないし。部屋に入れてよ、話があるの」
「何故だ? なんであんたを俺の部屋に入れなきゃいけない? お断りだ。勝手についてきておいて……こんな時間に。帰ってくれ」
暁は科子の腕を掴むと強引にアパートの敷地から連れ出した。道路脇まで来て手を放す。
「止めてくれこんなこと。部屋に入れる気なんてない。帰ってくれ」
まるでさっきの反動のように口から動揺が飛び出した。イライラどころか、頭に血が上るってやつだ。
「分かってるわ、元カノの話聞いて戸惑ったんでしょ? きっかけがどうだろうと、あなたは私の初めての人なの。会いに来ちゃいけないの?」
「一回相手しただけだろ? ちゃんと言ったろ、あの時だけだって。あんたも承知したろ」
全く冗談じゃない。
「冷たいのね……」
科子の手は震え、ポケットに隠された。
「気に入らなければホストクラブなり女風俗なりで買えばいいだろう、俺はただのバーテンだぜ。ジゴロじゃないんだ。商売でもなきゃ無理を言った覚えもない。彼氏役を期待しないで欲しいね。迷惑だ」
「あなたを私だけのものにしたいと思っちゃいけないの? 付き合いたいのよ、普通に。普通の男と女として。好きになったから」
「俺にそんな気はないよ。他所を当たってくれ。いっときのことだ」
「好きな人がいるの? 前の彼女?」
「違う! 誰とも付き合う気はないんだ。いちいち顔色を伺ってデートしてなんて、面倒なだけだ。あんたと記念日を祝う気も映画を観る気もない。俺には必要ないんだ。分からないか? 客か他人か、それだけだ。第一、俺の相手はあんただけじゃないぜ」
つい声が荒れる。
「ならあなたは誰のものにもならないのね。それとも平等にみんなのものなの?」
「しつこいな……」
「ひどいわ、本当に人を好きになったこと、ないの? あるなら私の気持ちも分かるはずよ」
目に涙を溜めた科子の声は段々と高くなっていった。近所迷惑な……。
「分かったら何だってんだ? 俺の考えは変わらないよ、付き合う気はないね」
道に科子を残して部屋に戻ろうと身体の向きを変えた時だった。
「私を抱いたくせに! このアバズレ、娼婦と同じよ」
言うや否や、科子は素早く駆け寄り、暁に体当たりした。避ける暇はなかった。鋭い痛みが脇腹に走る。
「え……」
膝の力が抜けて、思わず電柱に寄りかかってへたり込んだ。血……?
科子が走り去ったまでは覚えている。頭がぐるぐると周り、左右も上下も分からなくなった。いつの間にか地面が目の前にあった。通りかかったタクシーから、白髪の運転手が降りて来て何か言っていた……。
俺が本当に人を好きになったことがないって?何で分かる?
久実……。
ノイローゼ寸前だった、やっとの想いで辞めたのに。熱中症でぶっ倒れて痙攣している俺に、まだ仕事を押し付けて、自分はラクしようとしていたんだ、あのクソ上司。俺をいびる理由は女顔が気に入らないからだとのたまった。
パワハラから逃げただけなのに。俺が悪いのか?
残ったのは奨学金という借金だけになってもがいていた俺をさっさと見捨てた。
あれだけ愛を誓い合ったのに、無職になったら切ったんだ。仕事なんてまた見つけりゃいいだろ? 俺が壊れそうだったのに。
久実、許さない。俺を愛していると言ったのは嘘だったんだ。
許せないのに、会いたいんだ。
だから求めるんだ、刹那の恋を。
女が抱きたけりゃ相手はいくらでもいる。求めているのはぬくもりなんだ。
俺を甘やかし、俺に慰められてくれる女を、暖かい腕を。
お前の代わりに、俺を抱いて、抱きしめてくれる女を。肌の触れ合いを。
誰を抱いても……。
本当に好きだったからこそ辛かった。
本当に、心から好きだったさ、間違いなく。
久実……。
別れを告げられたあの日から、決して口にしなかった名前だった。
呪いのように、呪文のように、そうだ、あれから俺はただの一度も泣いていない。お前の名を口にしたら、それだけで涙が溢れて来そうで……。
「ママ……」
自分の声で目が覚めた。
「大したケガじゃない、大丈夫だ」
マスターが心配そうに暁を見下ろしていた。天井と白い壁、点滴とシーツ。すぐ病院だと思い出した。
そうだ、俺は眠っていたんだった。ふと気付くと、涙が頬を伝っている。
「凶器はカッターだったんだ。だから傷は浅いから。タクシーの運転手さんが助けてくれたんだ。場所が悪かったから、急所だから出血が心配だったけど、大丈夫だから。彼女は捕まったよ。親に付き添われて自首したんだ。すぐ退院出来る。心配ないから」
涙を流しながら目が覚めるなんて、まるで子供だ。頭が重いし脇腹が痛む。暁は涙を拭うと呟いた。
「……俺を捨てた彼女が許せなかったんです」
「無理に話さなくていいんだ」
そう言われても暁の口は止まらず、まとまらない苦悩を垂れ流した。
パワハラで、限界だった。辞めたらすぐ見限られた。それまでは励ましていたのに転職先を見つけられずにいたら早々に別れを切り出された。
ショックだった。同じ時間を、大学時代を共に過ごして、これからもずっと一緒だと疑わなかった。彼女しかいなかったのに。
同じ思い出を共有し、将来も上書きしていけると信じていたのに。
俺も刺してやりたかったのかも知れないし、違うかも知れない。
他の男と……そう考えるとたまらない。母のように俺を捨てるのか。
こんなことになって、ようやく科子の気持ちが分かるような気がするんだ。
「……彼女も新しい生活でいっぱいいっぱいだったんだろう。思い出は嘘じゃないだろ?」
マスターの低い声が涙を誘う。
確かに、彼女といた時間は幸せだった。あの時間は嘘じゃない。あの時が今までで一番幸福だった。お前が側にいたから。
俺も刺したかった。この手で殺したかったんだ。俺を捨てた母と、恋しい人を。唯一無二のあの女を、殺してやりたかった。
もう一度、俺の名前を呼んで欲しかった。
久実……。
ずらずらと詰まっていたものを吐き出して涙がやむと、やっと頭がクリアになって来た。
病室の窓から見える青空に、遠くうっすらと虹が見える。
「……梅雨、明けたんですね」
俺が眠ってる間に……。
「ああ、やっとな。大変な季節だったな。今年は長かった」
最終章
数日後、日付が変わる頃バーに行くと客はおらず、マスターが一人、カウンターを片付けていた。
「来たか、もう閉めるからちょっと待っててくれ」
暁はホールを見渡した。ほんの十日ばかりなのに、懐かしいようなこの店が、何だか以前と違って見えた。
店の方の片付けを終えて、事務室で身支度を整えるマスターを横のソファで待った。
「順調に退院出来て良かったな」
「はい。……まさかあんなことで刺されるとは思わなくて……。俺が未熟だったんですよね」
「まあな、一言で言うとそういうことだ」
全く、あんな風に泣くなんて……。恥ずかしい。でもマスターで良かった。
「……示談で済ませることにしたんです。俺も悪かったし、傷も思ったより大したことなかったし……。前科がついて、ずっと恨み続けられても面倒ですしね。警察もその方がいいって……。病院で親御さんに土下座されましたよ。慰謝料で済ませる代わりに、俺のことは忘れて欲しいと伝えました。娘をたぶらかした男に頭を下げたくはなかったでしょうに、感謝されましたよ」
マスターも向かいのソファに腰掛ける。暁は頭を下げた。
「恥ずかしいところを見せてしまって……情けないです」
「良かったな。……少し、俺の恥ずかしいところも聞いてみるか。なあ、詳しくは言えないけど……俺は犯罪者の子供なんだ。で、養護施設で育った。何に対しても本気になれず、熱くなれず、人生の目標なんてなかったし、何で生きているかも分からなかった。ワルだったよ。そんな俺を拾って、カクテルの作り方を一から教えてくれたのが前のオーナーだ。そして暴力亭主から逃げて来たマリは、どこの馬の骨とも知れない俺を愛して、必要としてくれた。親の反対を押し切ってまでな」
真夜中のしんとした部屋に、マスターの低い声が染み渡る。
「最初はおどおどした辛気くさい女としか思わなかったんだ。マリがやって来てすぐ、オヤジさんが倒れて二人きりになった。どうすりゃいいかと不安で初めて抱き合ったんだ。そしたらさ、顔や目に見えるところは何ともなかったのに、身体中痣だらけでさ、驚いたよ。胸も背中も腕もだ……そりゃおどおどもするわなって」
暁は黙って聞いた。
「オヤジさんの看病をしながら手探りで二人で店をやって、離婚の準備もして……怒涛のような毎日だったよ。でも俺は、生まれて初めて生き甲斐を感じたんだ」
マスターは神棚の方を見上げて言った。
「俺をハイキングに誘ってくれるヤツなんて他にいない……。一つだけ確かなことは、俺の人生はこの店と、マリの為にあるってことだ」
「……はい」
何と答えていいか分からない。そこでマスターは立ち上がった。
「さあ、タクシー会社にお礼に行こうか。運転手さんが救急車を呼んだ上に、お前の腹を押さえててくれたんだから」
「今から?」
「さっき電話したよ。夜中の方がいいみたいだ」
いつの間にか菓子折と礼金は用意されていた。店を閉めてタクシー会社に向かうと、うっすらと見覚えのある白髪の運転手が、暁を見て顔を綻ばせた。そのしわくちゃな笑顔は、暁をほっとさせてくれた。
帰りにファミレスに寄った。席に落ち着くと暁は改めて頭を下げた。
「すっかりお世話になってすみません。みっともないとこばかり見せて……せっかく忠告してくれたのに、こんなことに……」
「うん? ああ、いつか何かありそうだとは思っていたよ。まあ昔の俺に比べりゃ可愛いもんさ」
「面目ないです……もうこんなこと、ないようにしますから」
「プレイボーイは卒業か? 一つ言っておくと、さ。女ってのはおしゃべりなんだぜ?」
少しばかり顔が赤らんだ。つまり女たち本人が暁との関係を喋ったってことか……?
「……さすがに懲りましたよ」
「ハハッ、まあプレイボーイってやつはさ、悪いところばかりじゃないんだ。寂しい女の精神安定剤をやってたろ? お前はいいプレイボーイだったよ。女を不幸にしないんだ。つけこむことも媚びることも、たかることもしなかっただろ。ちゃんと相手は選んでたし、その辺はスマートだったな」
特にそんなつもりはなかったが、確かにトラブルらしいトラブルはなかった。だから、調子に乗ったのかもな……。
「最後以外は、ですかね……」
「だな」
二人は笑った。あの時ヤバいと分かっていたのに、手を出したのは自分だ。
「来週からまたよろしくな」
暁は頷いた。
「……一人前のバーテン目指しますよ、俺。病院でよく考えました」
マスターも頷いた。
「オヤジさんが俺を育ててくれたように、俺にもお前を育てさせてくれ。お前はいいバーテンになれる。これからは、美味い酒と話し相手で慰めるといい。そいつが腕の見せ所だ」
……もしあの時、マスターみたいな人に話を聞いて貰えていたら、何か違ったのだろうか。
一杯のベルモントがあったかなかったかで、あのサラリーマンの眠りは違ったのだろうか。
そんな風に思わせるバーテンに、上質な酒に、俺はなれるだろうか。
やってみよう……。
ファミレスから出ると明け方だった。もう夏だ。柔らかな、しかしキッパリとした光が闇を押し退けつつある。
「夜が明けるな。見ろよ、キレイだな」
まるで汚れた街を陽光が浄化しているような……。
「……お前が生まれた朝も、こんな暁だったんだろう。曙、夜明け、日の出、明け方、朝日……色んな表現があるな。これってつまり、それだけ人に何かを感じさせるってことなんだろうな。きっとお前の母さんも、お前に生きる希望を感じたんだよ」
ああ、きっとそうだろう。この名だけが、母に愛された証拠なんだ。
「さあ早く帰って寝ようぜ」
歩き出すと、ファミレスの花壇にふと蠢く小さいものがあった。
「ヤモリ……」
「ヤモリは夜行性だよ、トカゲだろ。しっぽ青かったか?」
「いや、そこまで見えなかったですけど…そう言えばちょっと光ってたかも……。でも朝日のせいでしょ」
「多分青かったよ」
「幸運の兆し、ですか。こんな駅前のごみごみしたところに……」
「そうと思えばいいんだよ、スピリチュアルってのは懐が広いからな」
翌週、久しぶりに出勤すると平日にも関わらず、沢山の常連客がやって来てくれた。暁にとっては意外とも思えるほど、歓迎された。
中には寝たことのある女もいた。みんな本当に心配してそうだった。
「今日は無理しないで、身体慣らすくらいで、締めの作業だけ覚えてって」
圭太が優しく言った。
客たちが口々に言葉をかけた。
「復帰したのね、大丈夫? もう痛くないの?」
「災難だったなあ」
「モテるのも考えものねー」
「脇腹ってさ、昔江戸時代とかに磔になった罪人が槍で刺された場所なんだよな。無事で良かったよ」
「運転手さんに感謝ねー」
何だかくすぐったい。
「カッターで助かりましたよ、ナイフだったらと思うと……でもおかげで奨学金の終わりが見えてきました」
「そうだなあ、カッターじゃ殺意はないってことになるから傷害だし、罪も軽いだろうから慰謝料の方がいいかもなあ。まだ若いしな」
一人の女がこっそり言った。
「私はね、暁くんに救われたのよ? 彼に二股されて落ち込んでたから、優しくして貰って嬉しかったの。あんな、ね、刺すなんてとんでもない小娘よねえ」
暁は微笑んで返した。みんな優しい、寂しい女たち。
「あれオーナーじゃない?」
客の声に目を向けると、マリがカウンターのはじっこに座るところだった。土曜以外に来るのは珍しい。
暁は丁寧にレモネードを作ると、マリの元へ向かった。
「オーナー、運転手さんに渡すお礼、準備してくれてありがとうございました」
「うん、彼から話聞いたわ」
「反省してます。……俺まだ二十四のガキなんで、多目に見てくださいね」
「ふふ、出世払いでね……。お母さんが出て行った時はおいくつだったの?」
「二十八くらいかな。俺は三つで、ほとんど記憶になくて」
「まだ若かったのよね。……私が夫の元から逃げ出したのは三十六だった。最低限の貴重品だけ持ってバッグ一つで飛び出したの。ボロボロだったわ。……だから少しは、あなたのお母さんの気持ちが分かるつもりよ。子供はいなかったけど……。庇うわけじゃないんだけど……。勿論子供のあなたは辛かったと思う……。気を悪くしないで?」
マリがはにかむように微笑んだ。
「はい」
すっとマリの言葉が胸に入って来る。
「祖父と彼がいなかったら、どうなっていたか……」
そこへマスターがやって来た。
「マリ」
暁はその場を離れ、二人をつい眺めた。
静かに寄り添うオーナーとマスターは、孤独な魂が二つ支え合っているのだろう、つがいという言葉が浮かんで来る。出会うべくして出会ったような……。
今まで見た目だけで釣り合わないと思っていた自分が間違っていたと、素直に思えた。お互いを思いやり、穏やかに微笑み合う二人はこの上なく似合っていた。
俺もあんな風に、なりたかった……。
久実、何故なれなかったんだろうな。ああそうだ、きっとマスターが言った通り、お前もいっぱいいっぱいだったんだな。
母もきっと、同じだったのだろう……。
久実……。やっと忘れられそうだ。
これまでこの名前を想うだけでも息が詰まるくらい苦しかったのに、今は切ないだけだ……。
科子も、俺の名前を想う度に、朝焼けを目にする度に切なくなるのだろうか。
……もっと優しくしてやれば良かったな……いや、そもそも手を出すべきじゃなかったんだ。
しばらくして、例のキャリアウーマンが他の客を押し退けるようにカウンターに飛びついて来た。
「いたいた暁くん、聞いてよ~!」
「瞳さん、いらっしゃ……」
「もー慰めて~!」
思わずマスターの方を見ると、目が合った。
何だかやけに照れくさかった。そして笑って、また、笑った。




