身代わりに捨てられた私、敵国の魔王様に拾われて「帰りたい」と言い出せない。
ガタゴトと揺れていた黒塗りの馬車が、重々しい音を立てて止まった。
「降りろ、人間の娘」
護衛の騎士に乱暴に促され、私は冷たい石畳の上に降り立った。
見上げれば、天を衝くほど高い尖塔。血のように赤い月明かりに照らされたそれは、人類の敵である魔王が棲むという『万魔殿』だった。
私の名前はエリス。
人間界の希望と讃えられる『聖女』の家系に生まれた双子の姉――でありながら、魔力がほとんどない「無能」として日陰で生きてきた存在だ。
対して、双子の妹であるセリアは、圧倒的な魔力と輝くような美貌を持ち、次期聖女として国中から愛されていた。
だから、魔族からの侵攻を遅らせるための『生贄』として魔王に差し出されることになったときも、不思議と悲しみはなかった。
『セリアを行かせるわけにはいかない。お前が身代わりとして死んでこい』
実の父親にそう宣告されたとき、むしろ「これで、毎日カチカチのパンと冷たいスープをすする日々から解放されるんだ」と、奇妙な安堵すら覚えたほどだ。
どうせ、魔王の餌食になってすぐに死ぬ。
そう覚悟を決めていた私の前に、黒い絨毯の奥、禍々しい玉座に座る『魔王』が姿を現した。
「……」
息が、止まりそうになった。
魔王ゼノス。
漆黒の角、夜闇を切り取ったような長い黒髪。そして、血のように赤い双眸。
彫刻のように美しく、それでいて見る者すべてを畏怖させる圧倒的な覇気が、彼の全身から放たれていた。
ゼノスはゆっくりと玉座から立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきた。
大きな手が伸びてくる。首をへし折られる。そう思ってぎゅっと目を瞑ったが、痛みは一向に訪れない。
代わりに聞こえてきたのは、地鳴りのような、低く凄絶な声だった。
「……やっと、俺の元へ来たか」
「ひっ……!」
「安心しろ。お前はもう俺のものだ。一生、この城から逃がしはしない」
――ああ、終わった。
一生逃がさない。つまり、生かさず殺さず、魔族の慰み者として永遠の拷問を与え続けるということだ。
あまりの恐怖に、私はその場で糸が切れたように気を失ってしまった。
◇◇◇
ふかふかの感触に包まれて、私は意識を取り戻した。
「……あれ? ここは……天国?」
「天国ではなく、魔王城の客室でございます、エリス様」
「ひゃっ!?」
声に驚いて飛び起きると、そこには見事な燕尾服を着こなした、モノクルの初老の男性が立っていた。魔王の側近であるバルカスと名乗った彼は、慇懃無礼な態度で一礼した。
「ゼノス様がお待ちです。さあ、こちらへ」
案内されたのは、拷問部屋……ではなく、シャンデリアが眩しい豪華な食堂だった。
長いテーブルの上座には、腕を組んだゼノスが座っている。彼の鋭い視線が私を射抜いた。
「座れ。そして、まずはこれを食え」
ゼノスが顎でしゃくると、バルカスが私の前に銀のドーム型の蓋を開けた。
ふわぁっ……と、信じられないほど芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
そこにあったのは、肉汁が滴る厚切りのローストビーフ、湯気を立てるコンソメスープ、そして、真っ白でふかふかの焼きたてのパンだった。
「な、なんですか、これ……?」
「見れば分かるだろう。食事だ。お前は痩せすぎている。もっと肉をつけろ」
ゼノスは不機嫌そうに眉をひそめ、低い声で脅すように言った。
「残さず食え。もし一口でも残したら……どうなるか分かっているな?」
「ヒィッ……! い、いただきますっ!」
分かっている。これは最後の晩餐だ。あるいは、この料理に強烈な毒や媚薬が仕込まれているに違いない。
でも、もうどうでもよかった。
お腹が空きすぎて、目が回りそうだったのだ。私は震える手でナイフとフォークを握り、お肉を切り分けて口に運んだ。
「…………っ!」
雷に打たれたような衝撃が走った。
柔らかい! お肉が口の中でとろける! 溢れ出す肉汁と、甘酸っぱいソースの絶妙なハーモニー。パンは雲のようにふかふかで、スープは舌に染み渡るほど濃厚だ。
「おい……しい……っ」
気がつけば、私の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
人間界の屋根裏部屋で、残飯のような食事を強いられてきた私にとって、それは文字通り、神々の食べる奇跡の味だった。
「おい、なぜ泣く!? 口に合わなかったのか!?」
ゼノスがガタッと音を立てて立ち上がり、焦ったような大声を出した。
「い、いえ! 美味しすぎて……私、こんな美味しいものを食べて死ねるなら、もう悔いはありません……っ!」
「は? 死ぬ? 何を言っている……バルカス! こいつの味覚はどうなっているんだ、もっと甘い菓子を持ってこい!」
「かしこまりました、我が君。エリス様、食後には魔界特産のフルーツタルトがございますよ」
泣きながら肉を頬張る私と、なぜか慌てふためく魔王。
こうして、私の「絶望の拷問生活」は、予想とは全く違う、甘く美味しい方向へと転がり始めたのだった。
◇◇◇
魔王城での生活が始まって、一週間が経った。
私が当初予想していた「血の池地獄」や「凄惨な拷問」は、今のところ一度も行われていない。
それどころか、朝は焼きたてのパンと新鮮なミルクの香りで目覚め、昼は専属の魔族シェフが腕を振るうフルコース、夜は果実をふんだんに使ったデザートと、贅の限りを尽くした食事が提供され続けている。
「……バルカスさん」
「はい、エリス様。紅茶のおかわりでございますか?」
「いえ、そうじゃなくて……私、いつ食べられるんでしょうか」
陽光が差し込む美しい温室で、三段重ねの豪奢なアフタヌーンティーをつまみながら、私はこっそりと執事に尋ねた。
「おっしゃる意味が分かりかねますが」
「ですから、私の『命』ですよ。私は生贄としてここに来たんです。魔王様は、私を美味しく太らせてから食べるおつもりなのでは……?」
「……ふふっ」
バルカスはモノクルの奥の目を細め、ひどく愉快そうに笑った。
「ご心配には及びませんよ、エリス様。我が君は、人間などという筋張った肉はお嫌いですから」
「じゃ、じゃあ……私の魔力を吸い尽くして、干からびさせるつもりなんじゃ……!」
「エリス様。失礼ながら、貴女のそのスズメの涙ほどの魔力を吸ったところで、我が君の足しにはなりません」
「……それもそうですね」
私はほっと胸を撫で下ろし、スコーンにたっぷりとクロテッドクリームを塗った。
無能でよかった。魔力がなくて、これほど感謝したことはない。
では、なぜ魔王ゼノスは私をこんなにも丁重に扱うのだろうか。
「……おい、エリス」
温室の入り口から、地鳴りのような低い声が響いた。
びくりと肩を震わせて振り返ると、そこには漆黒のマントを翻したゼノスが立っていた。赤い瞳が、鋭く私を睨みつけている。
「魔王様……っ、申し訳ありません、勝手に寛いでしまって……!」
「誰が謝れと言った」
ゼノスはずかずかと歩み寄り、私の目の前にドサリと巨大な箱を置いた。
中から現れたのは、星空を切り取ったかのように美しい、群青色のドレスと、大粒のダイヤモンドが輝くネックレスだった。
「これに着替えろ。今すぐだ」
「えっ、でも、こんな高価なもの……私にはもったいなくて……」
「黙れ。俺のそばに置く以上、みすぼらしい格好は許さん。お前は俺の所有物だということを忘れるな」
――ヒィッ!
やっぱり怖い! 「俺の所有物だから、俺の好みの服を着ろ」という恐ろしい束縛だ。
私が逆らう権利などない。震える手でドレスを受け取ると、ゼノスは不機嫌そうに舌打ちをした。
「……まだ震えているのか。バルカス、部屋の温度を上げろ。こいつが風邪でも引いたら、お前の首を刎ねるぞ」
「かしこまりました、我が君。エリス様はお体が冷えやすいようですからな」
ゼノスは私の顔を覗き込み、威圧感たっぷりに言い放った。
「いいか、エリス。俺の城にいる以上、傷一つ負うことは許さん。少しでも不満があれば言え。すぐに俺がすべてを排除してやる」
「は、はい……命だけは、お助けください……っ!」
「……っ! あ、ああ! お前の命は俺が保証する! だからもっと笑え!」
ゼノスは顔を真っ赤にして叫ぶと、嵐のように温室から去っていった。
後に残されたのは、最高級のドレスを抱えて震える私と、涼しい顔でお茶を注ぎ足すバルカスだけだ。
「……バルカスさん。魔王様、怒っていましたよね?」
「いえ? 我が君は『エリス様が自分との生活に命がけで感謝してくれている』と、大変ご満悦なご様子でしたが」
「ええっ!?」
魔族の感情表現は、人間には難しすぎる。
◇◇◇
一方その頃。
執務室に戻ったゼノスは、頭を抱えて机に突っ伏していた。
「……クソッ、またやってしまった……!」
「我が君、あまり強く机を叩かれますと、また修繕費が嵩みますよ」
後を追ってきたバルカスの冷静なツッコミにも耳を貸さず、ゼノスは巨大な角を壁に打ち付けて悶絶していた。
「俺はただ、『似合う服を買ってきたから着てくれないか』と優しく言いたかっただけだ! なぜあんな脅迫みたいな言い方になってしまうんだ!」
「生まれつきの強面と、魔王としての長年の威厳のせいでございましょうな。エリス様は『いつ殺されるか』と、それはもう見事に怯えておられましたよ」
「頼むバルカス! どうすれば俺は、あの美しい恩人に嫌われずに済むんだ!?」
――そう、ゼノスはエリスを深く愛していた。
十数年前、魔力の暴走で人間界に墜落し、瀕死の重傷を負って路地裏で倒れていた少年ゼノス。そんな彼に、自分も空腹だったはずなのに、たった一つのパンを分けてくれたのが幼いエリスだった。
ゼノスにとって、エリスは命の恩人であり、初恋の相手であり、長年探し続けてきた『運命のつがい』だったのだ。
「妹の身代わりとして彼女が送られてきたと知った時は、人間の愚かさに感謝したぞ。あんな掃き溜めから俺の女神を救い出せたのだからな!」
「左様でございますね。ですが我が君、このままではエリス様は、美味しい食事目当てで留まっているだけの『恐怖の捕虜』のままですぞ」
「ぐっ……ならば、どうすればいい!」
ゼノスが血走った目で睨むと、バルカスはフッと笑みを浮かべた。
「エリス様は、ご自身の価値を全く理解しておられません。ですから、我が君の『愛』を言葉ではなく、行動で示し続けるのです。……たとえそれが、人間の国との戦争を引き起こすことになろうとも」
◇◇◇
魔王城での生活がひと月を過ぎる頃には、私の体にはすっかり人間界にいた頃にはなかった「柔らかいお肉」がついていた。
あんなにカサカサだった金糸の髪は、魔界特産の高級オイルのおかげで艶々に輝き、頬は薄紅色に色づいている。
「……信じられない。これ、本当に私?」
姿見の前に立ち、私は目を丸くした。
ゼノスから与えられた群青色のドレスは、私の華奢な体にぴったりと合い、まるでどこかの国のお姫様のように見えた。(※ただし、魔王の恐ろしい所有物というタグ付きだが)
「とてもよくお似合いですよ、エリス様」
「バルカスさん……。でも、魔王様はお気に召すでしょうか。私みたいな無能が、こんな綺麗な服を着て……」
「ご心配には及びません。さあ、我が君がお待ちです」
案内されたテラスには、夜風に黒髪をなびかせるゼノスがいた。
私が恐る恐る足を踏み入れると、ゼノスは振り返り――その赤い瞳を限界まで見開き、完全に硬直した。
「ま、魔王様……? やっぱり、似合いませんよね……すぐ脱ぎますっ!」
「待て!!」
ゼノスが血相を変えて大声を出したので、私はヒィッと首をすくめた。
彼はズンズンと大股で近づいてくると、私の肩をガシッと掴み、穴が開くほど見つめてきた。
「……誰が脱げと言った。そのままにしておけ。俺の視界を汚さない、完璧な姿だ。二度とそのドレス以外を着ることは許さん」
「えっ!? 寝る時も、お風呂の時もですか!?」
「っ、ば、馬鹿者! そういう意味ではない! ……とにかく、よく似合っている。俺の隣を歩くのに相応しい」
ゼノスはなぜか顔を逸らし、耳まで真っ赤にして口元を覆っている。
……怒っている。絶対に怒っている。自分が買った服を着せたのに、思ったより似合わなくて不機嫌になっているんだわ。
私はガクガクと震えながら、「す、少しでも視界を汚さないように、端っこを歩きますぅ……」と涙目で誓うしかなかった。
◇◇◇
そんな奇妙で、けれどひどく甘やかされた平和な日々は、ある日突然終わりを告げた。
「我が君。人間の国『サンクチュアリ』より、特使が参りました」
いつものように温室で魔界特産のフルーツを頬張っていた私の手が、ピタリと止まった。
バルカスの報告に、同席していたゼノスの纏う空気が、一瞬にして氷点下まで下がる。
「……人間どもが、何の用だ。生贄は受け取ってやったはずだが?」
「それが。どうやらエリス様を『返還』し、本来の生贄である妹君、セリア様を改めて差し出したいと」
ガチャンッ!
私が手にしていたティーカップが、床に落ちて砕け散った。
「え、エリス様!?」
「か、帰る……? 私が、人間の国に……?」
全身の血の気が引いていくのが分かった。
なぜ今さら? 私が無能な不良品だったから、返品交換しろということ?
もし帰ったら、私はどうなる? 国庫を無駄にしたと罵られ、あの暗く冷たい屋根裏部屋に戻される。腐りかけのパンと、妹からの冷たい嘲笑。お父様からの暴力……。
――嫌だ! あんな地獄には、絶対に帰りたくない!
せっかく、こんなに美味しくて温かいご飯が食べられるようになったのに。ふかふかのベッドで眠れるようになったのに。
魔王様は顔も声も怖いけれど、私を殴ったりしない。それどころか、毎日「痛いところはないか」「何が食べたい」と聞いてくれる。
帰るくらいなら、ここで魔王様に食べられた方がマシだ。
私は震える足で立ち上がり、ゼノスの漆黒のマントの裾をギュッと握りしめた。
「ま、魔王様……っ」
「……」
「私、帰りたくありません……っ。人間の国になんて、帰りたくない。お願いです、私をここに置いてください。何でもします、床掃除でも、お肉になる準備でもしますから……っ!」
必死の懇願だった。
無能な私に価値などない。だから、せめて食料としての価値をアピールするしかなかった。
しかし、私の言葉を聞いたゼノスの反応は、私の予想を遥かに超えるものだった。
「…………そうか」
ゴゴゴゴゴ……と、城全体が揺れるほどの凄まじい魔力が、ゼノスの体から溢れ出した。
彼の赤い瞳は、見たこともないほどの深い怒りと、そして、暗く濁った情欲でドロドロに染まっていた。
「お前は、俺のそばがいいと。俺から離れたくないと、そう言うのだな」
「は、はい……っ(美味しいご飯から離れたくありません)」
「……よく言った。俺の可愛いエリス」
ゼノスは私の腰を片腕で力強く抱き寄せると、狂暴な笑みを浮かべてバルカスを振り返った。
「バルカス。特使を玉座の間へ通せ。……虫ケラどもに、誰のものを奪おうとしているのか、たっぷりと教えてやらねばなるまい」
「御意のままに。……あな恐ろしや」
バルカスがわざとらしく肩をすくめる。
えっ? なんか魔王様、ものすごく機嫌が良くなってない?
それに、腰を抱く手がガッチリと食い込んでいて、全然離れる気配がないのだけれど……!?
◇◇◇
玉座の間。
私はゼノスの隣――なぜか玉座のすぐ横に置かれた、私専用の豪奢な椅子――に座らされていた。
ゼノスは私の手を握ったまま、大広間の中央に立つ神聖騎士団の特使を見下ろしている。
「魔王ゼノスよ! 我が国の手違いにより、無能な娘を送ってしまったことを謝罪しよう!」
尊大な態度で声を張り上げるのは、見覚えのある男だった。妹・セリアの取り巻きの一人である、高位貴族の騎士だ。彼は私をチラリと見て、嘲るように鼻で笑った。
「我が国の至宝である『聖女セリア』を改めて連れてきた。その無能な『姉の偽物』は、直ちに我々に返還してもらいたい。……おいエリス、さっさと降りてこい。お前は帰国後、国を欺いた罪で地下牢行きだ!」
地下牢。
その言葉に、私の体がビクッと跳ねた。やっぱり、帰ったらそんな場所に入れられるんだ。
「……おい、人間」
地獄の底から響くような、ゼノスの声が玉座の間に轟いた。
特使の男が、その凄まじいプレッシャーに息を呑み、一歩後ずさる。
「今、俺の妻になんと言った」
……えっ?
妻?
いま、妻って言った!?
◇◇◇
「……は? つ、妻、だと……?」
特使の男は、間の抜けた声を出して固まった。
固まったのは私の方も同じだ。今、魔王様は私のことを「生贄」でも「非常食」でもなく、「妻」と呼んだ。
「魔、魔王殿! 冗談が過ぎる! そいつは魔力を持たない無能なゴミだぞ! 我々が連れてきた真の聖女セリアこそが、あなたに相応しい——」
「黙れ」
ゼノスが一言放った瞬間、玉座の間を満たしていた空気が物理的な重さを持った。
特使の男は「ガハッ!」と短い悲鳴を上げて床に這いつくばり、連れられてきた美しい妹・セリアも、恐怖で顔を真っ青にしてへたり込んだ。
「ゴミだと? 貴様らの腐った目では、このエリスの真の価値が分からないようだな」
ゼノスは私の手を引いて立ち上がらせると、まるで壊れ物を扱うようにそっと私の肩を抱いた。
「彼女は俺の命の恩人であり、この魔界を統べる女王となるただ一人の女だ。その彼女を虐げ、あまつさえ『偽物』呼ばわりした罪……万死に値する」
「ひっ、お、恩人……!? 何を言っている、そいつはただの——」
「これ以上、俺の妻を愚弄するなら……明日の朝日を拝むのは諦めろ。人間界ごと、灰燼に帰してやろう」
ゴゴゴゴゴ、と魔王の背後に漆黒の炎が燃え上がる。
圧倒的な死の恐怖を前に、特使と妹はプライドも何もかも投げ捨て、這うようにして玉座の間から逃げ出していった。
「ひぃぃぃっ! お、お許しをぉぉっ!」という悲鳴が、遠くの廊下へと消えていく。
……終わった。
人間の国からの使者は追い払われた。つまり私は、あの冷たい屋根裏部屋に戻らなくて済むということだ。
「……エリス」
不意に、嵐のようだった魔王の覇気がスッと消え去り、代わりに熱を帯びた声が私を呼んだ。
「よく言ってくれた。人間の国になど帰りたくない、俺のそばにいたいと……俺は、お前のその言葉を、十数年もの間ずっと待っていたのだ」
「えっ? じゅうすうねん……?」
首を傾げる私を、ゼノスは情熱的な赤い瞳で見つめ下ろした。
「忘れてしまったか。俺がまだ魔王として未熟だった頃、魔力暴走で人間界の路地裏に落ちた時のことを」
「路地裏……?」
「空腹と怪我で動けなかった俺に、君は自分のパンを半分分けてくれた。……あの時の君の笑顔と、甘いパンの味を、俺は一日たりとも忘れたことはない!」
パン? 半分分けた?
……あ。
遠い記憶の底で、ボロボロの黒い子犬(だと思っていた生き物)に、カチカチの黒パンをかじらせた記憶がうっすらと蘇る。あれ、魔族だったの!?
「俺はあの日から、君を俺の番にすると決めていた。生贄として君が送られてきた時は、人間の愚かさに感謝したものだ」
「そ、そうだったんですか……? てっきり私、美味しく太らせてから食べられるのかと……」
「た、食べる!? 俺が君を!? そんな恐ろしいことをするわけがないだろう!!」
ゼノスは顔を青ざめさせ、ブンブンと激しく首を横に振った。
「俺はただ、君にふさわしい贅沢を与え、俺を好きになってほしかっただけだ! だが、俺の顔が怖いせいで、君はいつも怯えていた……。だから今日、君が『帰りたくない』と言ってくれた時、天にも昇る心地だったのだ!」
「えっ。じゃあ、『一生逃がさない』って言ったのは……」
「一生、俺の愛で守り抜くという誓いだ!!」
……なんということでしょう。
拷問だと思っていた監禁生活は、単なる「極度の過保護」と「空回りした溺愛」だったのだ。
◇◇◇
「……ふふっ」
「エリス?」
「あはははっ! 魔王様、なんだか……不器用なんですね」
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、私はお腹を抱えて笑ってしまった。
魔界を統べる恐ろしい魔王様が、たった半分ちぎったパンの恩義で、こんなにも一生懸命に私を甘やかそうとしてくれていたなんて。
「笑うな! こっちは真剣に、君に嫌われないよう必死だったんだぞ……!」
顔を真っ赤にするゼノスを見て、私は少しだけ背伸びをして、彼の漆黒の頬にそっと手を伸ばした。
「魔王様。私……帰れと言われても、もう人間の国には帰りません。だってここには、ふかふかのベッドも、綺麗なドレスも……」
「ドレスも?」
「毎日、信じられないくらい美味しいご飯がありますから!」
「……そこは『俺がいるから』じゃないのか?」
少しだけ不満そうに口を尖らせるゼノスに、私は最高の笑顔を向けた。
ゼノスは深いため息をつき、降参したように私の腰を抱き寄せた。
「……まあいい。君の胃袋を掴んだだけでも、上出来だ。だが覚悟しておけ。君が俺から離れられなくなるくらい、これからは胃袋だけでなく、君の心も体も甘やかしてやる」
宣言通り、耳元に落とされた声は甘く、そして逃げ場のない執着に満ちていた。
ぎゅっと強く抱きしめられ、逃れられない熱に包み込まれる。
「エリス様、ゼノス様。食後のデザート、特製チョコレートパフェをお持ちしましたぞ」
「あ、バルカスさん! いただきます!」
「……おい、俺の告白よりパフェを優先するな、エリス!」
泣きそうな顔をする魔王様と、にこやかにパフェを差し出す執事さん。
私は、甘いチョコレートを口いっぱいに頬張りながら、密かに決意した。
――身代わりとして捨てられた私だけど。
この最高に美味しくて甘い「魔王の鳥籠」からは、一生出てあげないんだから。




