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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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95/2308

第95話「税の督促、相手が時間停止で逃げる」

◆朝・税務課執務室前(開庁前から机の上に“今日やらないといけないこと”が並んでいる部署は、だいたい空気が少し乾いている)


 税務課の朝は、電話が鳴る前からせわしない。

 まだ来庁者用の番号札すら外へ出していない時間なのに、執務室の中ではすでに紙が動いている。納付確認の一覧、口座振替の戻り、還付の処理、督促の準備、照会文書の控え。どの紙にも日付があり、期限があり、遅れた分だけ次の仕事へ響く。役所にはいろいろな課があるけれど、税務課だけは、朝から机の上に“今日まで”が積もっているような顔をしていることが多かった。


 係長の佐伯は、開庁前のまだ薄暗い窓際で、督促状の控えをめくりながら小さく息を吐いた。眠そうというより、昨夜から一度も頭のどこかが完全には休まっていない顔だった。税の仕事は、誰かに喜ばれにくい。それでも止められない。道路も、ごみ収集も、街灯も、保育園の修繕も、防災倉庫の中身も、最後は税が流れているところへ行き着くからだ。


「係長、これ……また返ってきてます」


 若い職員が一通の封筒を差し出した。


「送達不能?」

「いえ、受領済みです。ただ……」

「ただ?」

「中に、返事が入ってました」


 佐伯は受領印のついた督促状を開き、同封の紙を見て目を閉じた。黒いインクで、やけに整った字が並んでいる。


『督促状、確かに受領。

 ただし、本日中に対話する時間は存在しない。

 追えば逃げる。

 逃げれば時間は美しい。

 クロノ』


「詩にするな……」


 呟いたあとで、佐伯は机へ額を打ちつけたい気持ちを堪えた。相手は異界から来た時計商人、クロノ。滞在しながら相当額を売り上げていることは把握できているのに、住民税も事業関係の申告も中途半端で、督促に行くたび“時間が止まる”。職員が何度説明しても、次の瞬間には本人が消え、机の上に礼儀正しい一文だけが残る。暴言もない。恫喝もない。ただ、会話が最後まで届かない。その静かな不成立が、一番疲れる。


 佐伯は顔を上げ、総務へ電話を回した。

 異世界経済部に応援を頼むしかない。相手が時間を止めるなら、こちらは時間に依存しないやり方を考える必要があった。


◆朝・異世界経済部(困りごとの内容が特殊でも、役所が最初にやることはだいたい整理である)


 勇輝がその日の朝いちばんに手をつけていたのは、河川敷のドラゴン停留所に立てる案内板の文言の最終確認だった。大型生物の停留と駐輪場の違いを、子どもにも分かる言葉で書けと言われると、案外どこまでも書き直せる。文字は少ない方がいいのに、少なくしすぎると今度は意味が抜ける。そういう紙と向き合っているところへ、総務課の職員がげっそりした顔で現れた。


「主任、税務課から異界案件の応援要請です」

「税務課?」

 勇輝はペンを置いた。

「聞いただけで、気持ちが少し重くなるな」

「予感の方向は合ってます。納税しない異界住民がいて」

「それだけなら、まだ税務課の通常運転だ」

「相手が……時間停止します」

「時間停止?」

 勇輝は一拍置いてから言い直した。

「よくあるな……って言いかけたけど、やっぱりよくはない」


 美月が端末を抱えたまま目を輝かせる。


「時間停止、強すぎません? 追われたら消えるタイプですよね」

「能力の感想を先に言うな」

 勇輝は言った。

「税務課にとって一番困るやつだろ、それ」

「はい。督促の話が最後まで進まないそうです」

 総務課の職員は真面目に答えた。

「受け取りはする。でも対話の途中で時間が止まり、次に見ると本人はいない。書類だけ置いていく」

「置いていくのが丁寧で、余計に面倒だな」


 加奈がコーヒーを置きながら、少し心配そうに聞いた。


「税の督促って、普通でも重いよね。相手が逃げるだけでも大変なのに、時間を止められたら話が進まない」

「追いかける発想だと負ける」

 勇輝はもう立ち上がっていた。

「相手が時間停止するなら、会話できる一瞬へ全部を賭けない方法を取るしかない。まず状況を聞きに行く」


 そこへ市長も入ってきた。


「税か。町の仕組みを回す血流みたいなものだな」

「今日だけ妙にいいこと言いますね」

「妙に、とは何だ」

「税務課の前でそれ言われると、言葉が強いんです」

 勇輝は書類をまとめながら答えた。

「でも方向はそのとおりです。止められない。だから、時間停止で逃げる相手でも、止まらない手続き側へ引きずり出す」


◆午前・税務課 会議机まわり(逃げられた回数が増えると、担当者は自分の説明の仕方まで疑い始める)


 税務課の会議机には、対象者ごとのファイルが積まれていた。その中でもいちばん分厚いものが、クロノのケースだった。開くたびに、督促状、納付勧奨文書、送達記録、商取引の照会メモ、出店許可の写し、両替所の利用記録、そして受領済みのくせに会話が成立しなかった日の職員メモが出てくる。


「主任さん……助けてください……」


 佐伯は本気でそう言った。


「もう、“こちらが悪い説明をしてるのかもしれない”ってところまで来てるんです」

「整理しましょう」

 勇輝は椅子へ座り、ファイルを引き寄せた。

「対象者は時計商人のクロノ。滞在中の売り上げがあり、住民税と事業関連の未納がある。督促には応じるが、対面で話が深くなると時間停止していなくなる。ここまでは合ってます?」

「合ってます」

 佐伯が頷く。

「しかも、いなくなったあと、毎回書き置きを残していくんです。礼儀はあるんです。礼儀はあるのに、納めない」

「礼儀正しい未納、いちばん扱いに困りますね」

 加奈が苦笑した。

「怒鳴ってくれれば、まだ距離を測りやすいのに」

「そうなんです」

 若い職員も言う。

「丁寧だから、“話せば分かるかも”って毎回思ってしまうんです。でも途中で消える」


 勇輝は、これまで残された書き置きを順に見た。


『本日は対話に適した時流ではない』

『督促は理解した。しかし急ぐ理由に共感できない』

『時間は私のもの。支払いの時もまた私が決める』


「……完全拒否ではない」

 勇輝は紙を置いた。

「理屈は持っているし、制度そのものを理解しようともしてる。ただ、“追われる”感覚が入ると切るんだな」

「係長、それ、本人も少し言ってました」

 若い職員がメモをめくる。

「“追われると、私は時間を止めたくなる”って」

「癖みたいに言うなよ……」

 美月が呟いた。

「でも、そこが分かると逆にやり方は見えるかも」

「見える」

 勇輝は答えた。

「税務課は今まで、対面で説明して、納付か相談に持ち込もうとしていた。普通はそれでいい。でも相手が対面を切るなら、対面がなくても進む流れへ乗せる」


 佐伯が疲れた顔のまま聞き返す。


「文書ですか」

「文書です。でも督促状だけだと、“お願い”の延長に見える。次は段階を進める必要がある」

 勇輝はホワイトボードを借りた。


『督促』

『納税相談の案内』

『滞納処分予告』

『取引先・出店許可・両替所の利用条件確認』


「クロノは、完全に自給自足で商売してるわけじゃない。異界市場の出店許可、市の交換所での両替、仕入れ先との記録、観光イベントへの参加。この町の仕組みにかなり乗ってる」

「はい」

 税務課の係長が目を見開く。

「野良商人ではないです」

「なら、そこです」

 勇輝は言った。

「時間停止しても、出店更新の期限は止まらない。両替所の利用記録も消えない。行政は、対面で捕まえるより“手続きの出口”を押さえる方が強い」


 市長が静かに頷く。


「出店許可の更新条件へ、納税状況の確認を入れる」

「ただし“クロノだけ”では駄目です」

 勇輝はすぐ補足した。

「公平性がないと、罰として見える。市場出店者全体に対して、“許可更新時には納税・使用料・各種届出状況を確認する”という規程に直す必要があります」

「全体ルールにするわけだな」

「そうです。時間停止への対策に見せず、町で商売する人の基本条件へ落とす」


◆昼・異界市場(追いかけると消える相手でも、売り場は毎日同じ場所に開く)


 クロノの店は、異界市場の一角にあった。派手ではない。むしろ、小さく整っている。黒い布を敷いた台に時計が並び、歯車が細い音を立て、針だけが静かに動く。高価そうなものばかりで、通る人は必ず一度足を止める。派手な呼び込みはしないのに客が寄る、商売としては強いやり方だった。


 クロノ本人は、やはり目立ちすぎない。細身で、黒い手袋をして、声も無駄に高くない。だが、立っているだけで“自分の時間の流れを持っている人間”だと分かる。相手を急がせもしないし、自分も急がない。その余裕が、税務課には一番きつい。


「おや。今日は人数が多い」

 クロノは笑うでもなく言った。

「何の時間を取りに来た?」

「税の時間です」

 勇輝は答えた。

「あなたの時間を少しもらいたい。納税と、出店条件の話です」

「税か」

 クロノは肩をすくめる。

「人間は、何でも数字に変える」

「道路も、ごみ収集も、夜の街灯も、最後は数字を通って維持されてます」

「私は道路を使っていない」

「使ってます。屋台を運ぶのに道を通ってます」

「……理屈は早いな」

「税務課の前で遅かったら困る」


 加奈が、少しやわらかく聞いた。


「払いたくないの?」

「払うこと自体は嫌いではない」

 クロノは答えた。

「ただ、追われるのが嫌いだ。追われると、時間を切りたくなる」

「その癖、かなり困ります」

 勇輝は正直に言った。

「なので今日は、追い詰めに来たわけではありません。あなたが逃げても無駄になる話をしに来ました」


 クロノの目が、そこで初めて少しだけ細くなった。


「無駄?」

「あなたはこの市場で商売している。出店許可がある。市の交換所で両替もしている。イベント出店もしている。つまり、町の仕組みの中で利益を上げている」

「そうだとして?」

「その仕組みの更新条件を、町は整えます。納税状況の確認、未納がある場合の分納相談、必要な届出の有無。時間停止しても、更新期限は来る」

「……」

「逃げても、書類は進む。対面の一瞬を切っても、制度は切れません」


 クロノは、そのまましばらく黙った。周囲の市場の音だけが、妙に遠く聞こえる。時計の針が一つ、確かに進む。


「なら、いまここで消えれば?」

 クロノは静かに言う。

「それで君たちの話を一度切ることはできる」

「ええ」

 勇輝は頷いた。

「でも次は、正式な通知が届きます。相談の期限、更新の条件、必要な納付か分納。あなたが消えても、そこは残る」


 クロノは、ほんの少しだけ笑った。

「嫌なやり方だ」

「役所らしいやり方です」

 勇輝は答えた。

「対面に酔わない」


 その瞬間、空気がひゅっと薄くなった。視界の端が、一度だけ“間引き”されたように揺れる。次の瞬間、クロノは店先から消えていた。時計だけが、かち、と小さく鳴る。台の上には、一枚の紙。


『会話は理解した。

 だが、追われる感覚はやはり苦手だ。

 続きは、文書で。』


「……今日は、少し前進ですね」

 加奈が紙を拾いながら言った。

「前より逃げ方が、話の続きを残してる」

「そうだな」

 勇輝は頷いた。

「“気が向いたら払う”じゃなくなった。次は文書で来る」


◆午後・制度設計の机(誰か一人のために見える対策は長持ちしない。全体のルールへ直した時、ようやく効き始める)


 庁舎へ戻ると、すぐに関係部署が集められた。税務課、観光課、市場管理、両替所を所管する部署、それに法務。クロノ一人のケースに見えて、実際は「町で商売する異界事業者をどう制度へ乗せるか」の話になる。


 勇輝はホワイトボードへ、最初に大きく書いた。


『個別対策に見せない』


「クロノ対策だと分かった瞬間、こじれます」

 勇輝は言った。

「必要なのは“市の市場・イベント・両替所を使って商売する人は、許可更新時に一定の確認を受ける”という全体ルールです」

 観光課の担当が腕を組む。

「そこに納税状況を入れる、と」

「入れます。ただし、一括納付だけが条件だと厳しすぎる。分納相談に入っていることも含めて、“手続きに乗っているか”を確認する」

 税務課の佐伯が、ようやく少しだけ顔色を戻した。

「それなら、“払えなければ出店させない”ではなく、“逃げたままでは更新できない”になる」

「そうです」

 勇輝は頷いた。

「税務課の目的は、相手を詰めることじゃない。納税義務を手続きへ戻すことですから」


 法務の担当が資料をめくりながら言う。


「規程名は市場出店許可事務要領の改正でいけます。『許可更新にあたり、税・使用料その他市に対する債務状況及び必要な協議の実施状況を確認する』くらいの文言なら自然です」

「“債務”まで入れると、税だけ狙った感じが薄れますね」

 美月が感心したように言う。

「狙ってるのは事実だけど、それを正面から出すと揉める」

 勇輝が返す。

「役所はだいたい、正しく迂回することで前へ進むことがある」


 両替所の担当も加わった。


「交換所の継続利用にも、本人確認と市内届出の整合は入れられます。ただ、いきなり利用停止だと市場に混乱が出るので、“更新時確認”と“相談中であること”の確認からでしょうか」

「その順で」

 勇輝は言った。

「止めるためじゃなく、戻すための仕組みにしたい」


 市長は、会議の終わり際に短くまとめた。


「つまり、時間停止しても“期限のある仕組み”からは逃げ切れない形にするわけだな」

「そうです」

 勇輝は答えた。

「そして、来るなら相談へ来るしかないようにする」


◆午後・仕入れ先と交換所(本人を追わなくても、流れを支えている場所はだいたい町の中に残っている)


 制度案を机上で固めただけでは弱いので、その日のうちに関係先の聞き取りも入れた。まず仕入れ先として名前の出ていたドワーフ鍛冶の工房へ行く。時計の歯車や細工金具を納めている先で、クロノとは商売上のつながりが深い。


 工房では、年配のドワーフ職人が火床の前で腕を組んだ。


「クロノか。腕はあるのう。細けえ細工をよう売る」

「支払いはどうです?」

 勇輝が聞くと、職人はあっさり答えた。

「そこはきっちりしとる。期日も守る。いやぁ、だからこそ、町にも払っとらんとは思わなんだ」

「逃げてる、というより“税の窓口だけ時間を止めてる”感じですね」

 美月が言う。

「商売相手には真面目なんだ」

「契約相手は選ぶタイプかもしれんのう」

 ドワーフ職人は頷いた。

「役所相手だと、“追われる”感じが強いのかもしれん」


 次に向かったのは、市の交換所だった。異界通貨と円を扱う窓口で、クロノもここで両替している。担当者は記録を確認しながら言った。


「利用頻度は高いです。売り上げの波も見えます。ただ、本人確認や届出にはきちんと応じているので、こちらから見ると“手続きに協力的な事業者”なんです」

「税だけが切れてるわけか」

 勇輝は低く言った。

「つまり、“制度を全部嫌っている”わけではない。追われる感覚が強いものだけ切る」

「そう見えます」

 交換所の担当が頷く。

「更新や確認の仕組みに乗せれば、こちらの窓口にも影響は出にくいと思います」


 この聞き取りで、勇輝の中の見立てはほぼ固まった。クロノは無秩序ではない。むしろ秩序を選んでいる。ただ、税だけを“追われるもの”として切り分けている。なら、その税を“相談と更新の流れ”へ戻せばいい。相手の癖に正面から勝とうとするより、癖の出る場面を制度の方で変える。


◆夕方・正式通知(郵便は時間を止めても届く)


 正式な通知文は、驚くほど淡々と整えられた。そこが大事だった。感情を乗せれば、相手はまた“追われた”と感じる。だから、必要事項だけを整然と並べる。


『出店許可更新に関するお知らせ

 更新申請にあたっては、市税・使用料その他の債務状況及び必要な協議の実施状況を確認します。

 未納がある場合は、納付又は分納相談の成立が必要です。

 期限:○月○日』


 通知はその日のうちに発送され、翌々日には受領の記録が戻った。相手が時間を止めても、郵便受けの中身まで消せるわけではない。税務課の若い職員は、その受領確認を見て小さく息を吐いた。


「届くんですね……」

「届きます」

 佐伯が言う。

「止まるのは対話の途中だけで、記録の流れまでは止まらない」

「だから、今回は郵便が強い」

 勇輝も頷いた。

「受け取った時点で、もう“知らなかった”にはできない」


 その間、観光課と市場管理は、水面下で出店規程の改正案を整えていた。クロノ一人だけを名指しするのではなく、市場出店者全体へ同じ条件をかける形で、納税や各種使用料、必要な届出が“手続きの流れに乗っていること”を更新の前提にする。両替所も、継続利用の確認欄へ税務相談の有無を追加する方向で調整を始める。派手な差押えや追跡ではない。だが、町で商売する以上、どこかで必ず制度の線へ戻るよう、静かに囲いが立ち始めていた。


 美月は、その囲いの作り方に少し感心したようだった。


「主任、これ、誰かを捕まえる感じじゃなくて、“逃げても最後に戻る場所”を増やしてるんですね」

「そうだよ」

 勇輝は答えた。

「相手が消える能力を持ってるなら、こちらは消えない手続きを増やす。役所らしいやり方って、だいたいそういう地味さなんだ」


 その日の夕方、異界市場の組合からも問い合わせが入った。“出店更新の確認事項が増えるらしい”という噂が、もう市場の中を回り始めていたのだ。理事役の商人が、市場管理の窓口で少し困ったように言う。


『一人の未納のせいで、皆の更新が重くなるのか』

「そう見えない形にしないといけませんね」

 勇輝は答えた。

「ただ、いままで確認が曖昧だった部分を整えるだけです。市税だけではなく、使用料や届出も含めた“町の仕組みを使う人の基本確認”ですから」

『それなら、我々にも説明の紙が欲しい』

「用意します」

 美月が即答する。

「“何が増えるのか”“何をしておけばいいのか”を一枚にします」

「助かる」

 市場理事は頷いた。

『人は、知らぬ条件より、知っている条件の方がまだ守りやすい』


 その言葉は、そのまま税務課にも当てはまるように勇輝には聞こえた。納税義務そのものを理解していない相手ではない。曖昧なまま“追われる感じ”だけが増えるから、切りたくなる。なら、何をどこまで進めれば更新に届くのか、その道筋を見えるようにしてしまえばいい。


◆翌日・税務課 窓口の前(相談の入口が見えると、逃げるより座る方がましになることがある)


 翌日の午後、税務課の窓口に来たのはクロノ本人ではなかった。市場で働いているらしい若い助手が、封筒を一つ持って立っていた。中には、クロノの手で書かれた短い文と、売上の概算メモ、次の出店更新日を書いた紙が入っている。


『分納相談の前に、何を持参すればよいか示してほしい。

 無駄な時間停止を避けたい。

 クロノ』


 佐伯が、その文を二度見した。


「……前進してますよね?」

「かなり」

 勇輝は頷いた。

「“避けたい”って書いた時点で、本人もこれを続けたくないと思い始めてる」

「必要書類を一覧で出しましょうか」

 若い職員が聞く。

「出す」

 佐伯はすぐに言った。

「売上の目安、仕入れの状況、現在の手持ち、希望する分納の期間、出店更新の予定。窓口で一から口頭説明すると、また途中で切られるかもしれない」

「紙で先に道筋を見せるわけですね」

 加奈が言う。

「そう」

 勇輝は答えた。

「最初から全部言葉で捕まえようとしない」


 その日のうちに、“納税相談に必要なもの”の一覧が渡された。難しい言葉を並べるのではなく、“これがあると早い”を順に書く。売上の記録。仕入れの控え。今後の出店予定。まとめて払える額。分けて払うなら無理のない回数。税務課が求めているのは、相手を責める材料ではなく、支払いを動かす材料なのだと伝わるようにした。


 翌々日の夕方、今度はクロノ本人が現れた。

 しかも、初日よりずっと早い時間に。


「……役所は、紙を揃えるのがうまい」

 窓口へ座るなり、クロノはそう言った。

「何を持っていけばよいか、先に分かるだけで少し楽だ」

「それはよかったです」

 佐伯が答えた。

「今日は、できるだけ一回で終わるようにしたい」


 クロノは、用意してきた書類を静かに並べた。市場の売上帳、仕入れの控え、出店予定表、交換所の利用記録。どれもきれいに揃っていて、税以外の手続きは本当に丁寧なのだとよく分かる。


「……ここまで揃えられるなら、最初から相談に来てくれれば」

 若い職員が思わず言うと、クロノは顔を上げずに答えた。

「督促の紙を見ると、“遅れた側”の時間になる。私はそれが苦手だ」

「そこは、分かる気もします」

 加奈が静かに言った。

「でも、だからって止めると、今度は町の時間が進まなくなる」

「分かっている」

 クロノは短く言った。

「だから、今日は来た」


 そこから先は、かなり地味なやり取りが続いた。売上の波。イベントの繁忙期。時計の仕入れに大きな金が動く月。支払える額と、無理をすると商売まで止まる額。その調整を、佐伯が淡々と聞き、紙へ落としていく。


「この額なら?」

「重い」

「ではこちらは?」

「それなら、続く」

「回数は六回までなら無理なくいけますか」

「七回だと余る」

「では六回で組みましょう」


 数字が並ぶだけの会話だ。けれど、この数字の行き来が成立している時点で、税務課にとっては大きな前進だった。追えば逃げる相手が、いまは逃げずに“どこなら続くか”を話している。


◆夕方・分納計画書の署名(時間を止める人が、時間のかかった支払いへ自分で名前を書く)


 分納計画書は、税務課の定型様式に沿って静かに完成していった。一回目の納付日、二回目、三回目。更新期限までにどこまで進んでいる必要があるかも確認し、その先の予定もつなげる。途中で無理が出そうな月は、少し額を下げて後ろへ回す。税務課の仕事は、ときどきこうして“続く形”を探す仕事でもある。


 クロノは、出来上がった計画書をかなり長く見ていた。

 数字の列を追い、日付を見て、最後に小さく息を吐く。


「……これなら、時間停止しなくて済みそうだ」

「そこは本当にお願いします」

 勇輝が言うと、窓口の空気が少しだけやわらいだ。


 クロノはペンを取り、名前を書いた。筆致は相変わらず妙に優雅だったが、今回はその優雅さが少しだけ腹立たしくない。最後まで止まらずに書き切ったこと自体が大きかったからだ。


「一回目の納付、今日はできますか」

 佐伯が聞くと、クロノは頷いた。

「できる。やってしまった方が楽だ」


 そこまで聞いて、若い職員が少しだけ笑った。

「それ、税務課としては最高の言葉です」

「最高ではない」

 クロノは言う。

「ただ、追われる前に一つ進める方が性に合うだけだ」

「その感覚を、最初からこっちへ向けてください」

 勇輝が返すと、加奈が笑いを噛み殺した。


 納付が終わる。領収が出る。税務課にとっては日常の一手続きだが、今日だけはその紙が妙に重く見えた。時間を止めて逃げていた相手が、自分の手で時間のかかった支払いの始まりへ名前を書き、一回目を納めた。その事実が、派手ではないのに確かに大きい。


◆翌週・異界市場の組合小屋(誰か一人のケースから始まった規程でも、皆に説明できる形になって初めて町のルールになる)


 分納相談が成立した数日後、異界市場では小さな説明会が開かれた。市場理事と出店者、それに観光課と税務課、異世界経済部が顔を揃える。目的は一つ。更新規程が変わることを、噂ではなく文書と口で通すことだった。


 市場の出店者たちは、表情こそ様々でも、気になっていることはだいたい同じだった。

 何が変わるのか。

 誰に何を出せばいいのか。

 そして、それは一人の未納者のせいで急に増えた負担なのか。


 理事役の商人が最初に口を開いた。


「確認したい。我々は、今後税が一日でも遅れたら、即座に店を閉めねばならぬのか」

「そこまで極端な話ではありません」

 勇輝は答えた。

「今回の変更は、“未納があるなら、無視したまま更新しない”をなくすためのものです。相談に入っている、分納が成立している、必要な届出が揃っている。そこまで含めて“手続きに乗っているか”を見ます」

「払えない者を切るためではない、と」

「切るためではなく、放置させないためです」


 その説明に、場の空気が少しだけやわらぐ。

 税の話は、誰でも少し身構える。しかも相手が異界の商人なら、“人間の町の縛りを増やす話”に聞こえやすい。だからこそ、“払えるかどうか”だけでなく“相談に来ているかどうか”を条件に入れたのは大きかった。


 美月が、事前に作ってきた一枚紙を配る。

 見出しは簡潔だった。


『市場出店更新の確認事項

 ①税・使用料・届出の状況

 ②未納がある場合は納付または分納相談

 ③更新期限までに必要書類を提出』


「この紙、いいですね」

 市場の若い店主が言った。

「何が必要かだけ先に分かれば、変に身構えずに済む」

「税務課の窓口って、行く前がいちばん遠いですから」

 加奈が笑うと、周囲から少しだけ共感の空気が漏れた。


 その端で、クロノも腕を組んで立っていた。組合の一員として来ている以上、ここでは時間を切るわけにもいかないらしい。勇輝はそれを横目に見ながら、説明を続けた。


「税は、人を困らせるためにあるわけではありません。市場を開く場所、夜の街灯、清掃、警備、許可の事務、その全部の土台をつなぐ流れです。だから、“儲かったのに払わない人が得をする”形を放っておくと、市場全体の信頼が削れます」

「言い方がやわらかいのに、かなり刺さるな」

 理事役の商人が苦笑した。

「でも、その通りだ」


 そこで意外だったのは、クロノ自身が口を開いたことだった。


「……追われる感覚が嫌で切っていたが、市場全体の話として聞くと、たしかに放置は美しくない」


 その言い回しは相変わらずだったが、少なくとも“自分だけの時間”から少しだけ出てきているのが分かった。勇輝は、そこではあえて何も言わなかった。本人が自分で言ったことの方が、あとで効く。


◆翌週・税務課窓口(二回目にちゃんと来るかどうかで、分納計画は紙から暮らしへ変わる)


 分納計画が成立しても、税務課はそこで気を抜かなかった。分納が本当に動くかどうかは、二回目に来るかで分かれる。最初だけ払って、また時間を切る人もいる。だから佐伯は、二回目の納付日が近づくにつれて、表情がまた少しずつ硬くなっていた。


「係長、そんなに分かりやすく窓の方ばかり見てると、待ってるのが伝わりますよ」

 若い職員が言うと、佐伯は苦い顔で返した。

「待ってるんだから仕方ないだろう。来るか来ないかで、今後の組み立てが全然違うんだ」


 その日の夕方、窓口が混み始める少し前に、クロノはまた現れた。

 今度は前回ほど不機嫌な顔ではない。ただ、時間を惜しんでいる人の顔はしている。


「今日は消えません」

 窓口へ座るなり、クロノは先にそう言った。

「宣言してくれるの助かるな」

 勇輝が答えると、クロノは少しだけ口元を動かした。

「一度来てみると、消える方が面倒だと分かった」

「それ、税務課にとってかなりありがたい気づきです」

 佐伯が真顔で言う。


 クロノは二回目の納付額を納め、そのついでに次回分まで確認していった。分納計画表へ自分で印を付け、今月の市場出店予定と照らし合わせる。その様子は、最初の督促時と比べると別人のように静かだった。


「時間を止めなくて済む相談は、思ったより悪くない」

 クロノがそう呟くと、加奈がやわらかく笑った。

「最初からそうしてくれたら、もっと早かったんだけどね」

「それは、そうだな」

 クロノは珍しく素直に認めた。

「私は“追われた時間”に弱い。だが、“先に見える時間”なら扱えるらしい」

「だったら、次も先に来てください」

 勇輝は言った。

「税務課は、来ない人を追うより、来た人と組む方が得意です」


 その言葉に、佐伯も静かに頷いた。税務課の窓口は、恐れられがちだ。だが本当は、払い方を決め、続け方を相談する場でもある。その姿が少しだけ相手に伝わっただけで、今日の二回目は十分意味があった。


◆翌朝・異界市場の通り(止まらない手続きが一度回り始めると、町の側の顔つきも少しだけ変わる)


 翌朝の異界市場は、いつもと同じように開いていた。布を広げる音、荷を降ろす音、香りの強い茶を沸かす音。市場そのものは何も変わっていない。けれど、入口近くの掲示板には一枚、新しい紙が増えていた。


『税・出店更新で困ったら相談できます

 税務課・観光課・市場管理へ』


 短い文だった。命令でも警告でもなく、ただ相談の窓口があると書いてある。それだけの紙なのに、市場を歩く商人の目が何人かそこへ止まる。町の側が“来ないなら締める”だけでなく、“来るなら一緒に組む”という顔を見せたのは、たぶんこの市場では初めてだった。


 クロノの店の前を通ると、本人は客へ静かに時計を見せていた。昨日と違うのは、台の端に小さな札が一つ置かれていることだった。


『出店更新手続き対応中』


 美月が思わず足を止める。


「……あの人、ちゃんと出してますね」

「たぶん、“隠して逃げるより先に示した方が楽”って分かったんだろうな」

 勇輝は答えた。


 クロノは、こちらに気づいて小さく会釈しただけだった。

 それで十分だった。対話が最後まで届かない相手では、もうない。


 町の時間は、いつも大きくは変わらない。けれど、紙が一枚増え、窓口へ来る人が一人増え、止まっていた話が少しだけ先へ進むだけで、その町は確かに昨日と違う。

 税務課の仕事は、派手ではない。

 それでも、こうして誰かの商売と、町の灯りと、明日のごみ収集の時間をつないでいるのだと思うと、その地味さにはちゃんと意味があった。


◆夜・税務課の帰り道(止まらないものを一つずつ持っているのが、役所の地味な強さなのかもしれない)


 窓口が閉まり、税務課の灯りが一つずつ落ちていく頃、佐伯はようやく背もたれへ深く体を預けた。


「……全部終わったわけじゃないですけど、かなり進みましたね」

「ええ」

 勇輝はファイルを閉じた。

「未納が消えたわけじゃない。でも、“逃げて終わる”から“払う流れへ戻る”へ変わった」

「しかも、こっちが追い回して捕まえたんじゃなく、向こうから窓口へ来て、一回目も二回目も納めた」

 若い職員が、まだ少し信じられない顔で言う。

「時間停止しても、更新期限と相談の流れには勝てないんですね」

「勝ち負けで言うと、また話がこじれる」

 勇輝は言いながらも、少しだけ笑った。

「でも、時間を止める人に対して“止まらないものを使う”のは、たぶん役所のやり方として正しかった」


 加奈が帰り支度をしながら、小さく言った。


「追いかけると消える相手でも、売る場所も、両替する場所も、更新する紙も、全部までは消せないんだね」

「そう」

 勇輝は頷いた。

「人は切れても、記録は残る。手続きは残る。期限は来る。役所は、そこをつないでいく」


 市長は最後に、いつもより少しだけ静かな声で言った。


「町の時間は、個人の魔法では止められない」

「今日はその言い方、かなり当たってます」

 勇輝は答えた。

「道路も、ごみも、市場も、全部が少しずつ毎日を進めてる。その流れを保つための税ですから」


 庁舎の外へ出ると、空はかなり暗くなっていた。異界の空は、星が近い。近いのに、町の街灯はちゃんと足元を照らしている。あの光も、結局は税の流れの先にある。


 時間を止める力を持つ相手がいても、町の時間そのものは止めない。そのために、手続きがあり、記録があり、更新期限があり、窓口がある。

 派手ではない。けれど、そういう地味な仕組みの上にしか、静かな夜は立たないのだと、勇輝はその夜あらためて思った。


 役所は今日も開庁していた。

 そして明日も、たぶん同じように開く。

 時間停止に一瞬だけ目を細めても、最後には紙と期限と窓口で追いつくようにできている。そういう不格好でしぶとい進み方こそが、町の時間を守っているのかもしれなかった。

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