第90話「工事が早すぎる:巨人業者が一晩で橋を直す」
◆早朝・天空橋手前の小橋(壊れた知らせより先に、直った姿が目に入る朝はだいたいろくでもない)
夜の異界風が抜けたあとの朝は、空気だけが妙に澄んで、地面のほうには落ち着かないものが残ることがある。枝の折れる位置が昨日と違う。水路の表面に、普段は見えない細かな砂利が浮いている。橋の手すりへ触れると、風が通り抜けた向きまで何となく指先に残っている。そういう朝の現場は、ぱっと見が静かでも、近くで見るとどこかの力の掛かり方が少しずつ狂っていることが多い。
工務課の若手職員、久住が現場へ着いたのは午前六時半過ぎだった。夜のうちに入った通報は、「天空橋手前の市街地側小橋の支柱がずれたらしい」「昨夜、橋の上で変な音がした」「朝一番で見てほしい」。通報の言葉自体はばらばらでも、橋の異常だけは本当らしいと分かる種類の集まり方だ。小橋といっても、天空橋へ続く歩行動線の手前にあるため、通勤の人も観光の人も、朝になると案外使う。放っておけば日常にも観光にも響く。だから久住は、まだ完全に目の覚めきらない頭を無理やり起こしながら、工務課の公用車を飛ばしてきた。
橋の手前まで来た時、久住は思わずブレーキを強めた。
「……え?」
昨夜の通報では、支柱が歪み、橋桁の一部も沈みかけていたはずだった。少なくとも写真ではそう見えた。だから現場へ来るまでは、カラーコーンを立ててまず通行止め、応急の養生だけでもできるか、それとも完全に封鎖か、そのあたりを考えていた。
ところが、目の前の小橋は、壊れた気配より先に“直った”気配を放っていた。
支柱はまっすぐに戻っている。橋桁の沈みもなく、路面は均され、継ぎ目には見たことのない灰色の目地材がきれいに詰められていた。しかも、手すりまで磨かれている。昨夜の風で吹きつけた泥が落とされ、朝日を受けてやけに誠実な顔をしている。あまりに誠実なので、かえって信用できない。橋というものは、直った直後ほど疑ってかかるべきだからだ。
久住は車を降り、恐る恐る橋の脇を覗き込んだ。補強材の入れ方も、表面だけを整えた感じではない。下から見ると、支点の周りに新しい石材が噛まされ、金属の留め具まで増えている。しかも、その留め具が市販品の規格に見えない。変にごつく、変にきれいで、道具屋の棚から買ってきたというより、誰かが現場で「必要だから作った」顔をしている。
橋詰には、大きな足跡が残っていた。人間の靴跡ではない。踏みしめた地面の沈み方が深く、歩幅も妙に大きい。久住はその跡を見て、ようやく自分が「壊れた橋の確認」ではなく「勝手に完了した工事の確認」に来ているのだと理解した。
「いや……いやいや、順番……」
誰に向かって言ったのか自分でも分からなかったが、そう口に出さないと落ち着かなかった。工事が終わっているのに、発注記録がない。契約がない。検査もない。しかも、橋の見た目だけは妙に立派だ。その状況が役所の神経にどう刺さるかを思った瞬間、久住はすぐに市役所へ電話を入れた。
「主任、現場です。橋……直ってます。完全に」
『何が?』
「橋がです! 昨夜、壊れたって聞いてた小橋が、今朝行ったら新品みたいになってて!」
『……誰がやった』
「それが分からなくて……でも、足跡がでかいです」
『でかい?』
「でかいです。あと、留め具が見たことない。支柱も真っすぐ。下の補強も入ってる。正直、僕、見た目だけなら“よく直ってる”って言いそうになりましたけど、言ったら終わるやつです」
『言うなよ』
「言いません! でも、誰が何をどうしたか、まったく書類がないです!』
『……分かった。すぐ行く』
電話を切ってからも、久住はしばらく橋を見つめていた。壊れているより、直っているほうが怖い朝というのは、役所に勤める前は想像もしなかった。
◆朝・異世界経済部(役所の一日は、終わった工事の説明を後から考えるようになると急に難しくなる)
勇輝が机の上で公告文の赤字を見直していた時、工務課からの電話は、ちょうど「これでようやく昨日の入札方式変更の整理が一段落する」と思ったところへ差し込んできた。終わったと思った紙の山の向こうから、別の山が立ち上がってくるのは、ひまわり市役所ではもう珍しくない。珍しくないのだが、橋が壊れたと思ったらもう直っている、という報告だけは新しかった。
「……入札方式変更の公告文、終わった」
思わずそう呟いた直後に橋の件が飛んできたので、達成感は一秒も持たなかった。
美月が拍手しながら言う。
「お疲れさまです、主任。昨日の分、やっと片づきましたね」
「片づいた瞬間に、別件で片づかなくなったよ」
加奈が紙袋からパンを出して机へ置いた。
「食べな。昨日から顔色、役所の蛍光灯みたいになってる」
「例えが正確すぎて、ちょっとだけ傷つくな」
そこへ市長が入ってきた。いつもどおり爽やかな顔で、いつもどおり爽やかで済ませてはいけない話を持っている時の雰囲気だった。
「おはよう。橋が壊れた」
「おはようございます……で済ませる前に、どこの橋ですか」
「天空橋の手前の小橋だ。昨夜の異界風で支柱が歪んだらしい」
「止まりますよね」
「止まる」
「止めるなよ、じゃなくて、壊れたなら仕方ないです! で、今から現場確認に……」
「だが安心しろ。もう直った」
「……何が?」
「橋が」
「いつ」
「今朝」
「今朝って、そういう修理の仕方ないでしょう!」
美月が変なところだけ元気に反応する。
「橋トラブル回ですね。来ましたね、インフラ回」
「喜ぶな。インフラ回って言い方をするな」
加奈は眉を寄せる。
「工事って、普通は見積、設計、契約、施工、検査って順番でしょ」
「そう。普通は」
市長は妙に落ち着いた声で言った。
「巨人業者が一晩でやった」
「だから説明を短くまとめすぎるな!」
勇輝は立ち上がり、手帳と端末を掴んだ。
「現場行きます。工務課、財政、場合によっては契約担当も後から呼ぶ。誰が何をどう直したか分からないまま通行再開はできない」
「そうだな」
市長が頷く。
「だが、壊れたままよりは良い顔をしているらしい」
「そういう問題じゃないんですよ。良い顔の橋が一番危ない時もあるんです」
加奈が静かに言う。
「でも、近くの人は通りたがるだろうね。見た目が直ってたら、なおさら」
「だから先にこっちが見に行く」
勇輝はパンを一口だけかじり、味をちゃんと感じる前に飲み込んだ。
「今日は、“終わった工事に役所が追いつく”話になる。たぶんかなり面倒です」
◆朝・天空橋手前の小橋(新品みたいな顔をしている時ほど、構造の説明が欲しくなる)
現場へ着くと、久住の報告は一切誇張ではないとすぐに分かった。小橋は、昨日までそこにあった傷みを自分だけ知っているみたいに、朝の光の中で妙にしゃんとしていた。補強の入り方も、表面の均し方も、職人の手が通っている顔をしている。ただ、その職人が誰で、どういう設計と計算のもとでやったのかが、橋の表面には一文字も書いていない。
「……直りすぎだろ」
勇輝が思わずそう言うと、工務課の久住が泣きそうな顔で頷いた。
「主任、僕も最初そう思いました。でも、思った瞬間に、自分で自分が怖くなりました。だって、誰も発注してないのに“よく直ってる”って口が言いそうになって」
「言うなよ」
「言ってません」
「偉い」
加奈は手すりへ軽く触れてから、すぐに手を離した。
「見た目はきれいだね。でも、だから余計に怖い。誰が何を使って、どこまで触ったか分からないまま乗るのって」
「そう。行政的に、そこが一番危ない」
美月は写真を撮りかけて、勇輝と目が合うと素直にスマホを下ろした。
「今日は記録用だけです」
「今日は本当にそれで頼む」
橋の下を工務課の職員がもう一人覗き込んでいた。補強の石材と留め具を見て、半分感心、半分困惑の顔をしている。
「主任、素材は良さそうなんです。良さそうなんですけど、“良さそう”でしか言えないんですよ。強度証明も、施工写真も、材料証明もないので」
「その“良さそう”を今は口に出すな」
「分かってます」
「でも、本当に良さそうです」
「だから言うなって」
その時、地面がどん、と鈍く揺れた。振り向くと、林の向こうから何か大きな影が近づいてくる。人間の歩幅ではない。しかも、こちらへ来るたびに地面の石が少しだけ跳ねる。
巨人だった。
身長は二階建ての家に近い。肩幅も広く、背中には丸太みたいな工具が束ねてある。工具袋というより、建材置き場をそのまま背負ってきたみたいな姿だ。だが顔つきは意外なほど穏やかで、目元は眠そうですらある。敵意も威圧もない。ただ、「良いことをした」と思っている時の大きい生き物の顔をしていた。
『橋、直した』
低い声が、ほとんど地面から上がってくるみたいに響く。
『みんな、通れる。よかった』
「よかったで済まないんですよ!」
勇輝は思わず前へ出た。
「直してくれたこと自体はありがたい。でも、勝手に工事すると困る。安全確認が必要なんです」
『安全、した』
「何をもって」
『太い木、強い石、良い鉄、使った』
「素材の話じゃない。検査の話です。書類の話です」
巨人は首を傾げた。傾げるだけで、こちらの視界が一瞬暗くなる。
『書類?』
「そう。誰が、いつ、どの材料を、どういう順番で使って、どう組んだか。それがないと、役所は“使っていい橋”と言えない」
巨人はしばらく考え、それから腰の袋を探り、巻物みたいに大きい紙を取り出した。いや、紙というより布に近い。そこへ、太い字でこう書いてある。
『つくった きょじん
なまえ どんが
しごと はし なおす
きのう よる から
きょう あさ まで
おわり』
美月が口を押さえる。
「施工日誌の入口だけは合ってる……」
「日誌としては足りなさすぎる!」
加奈が小さく笑った。
「でも、“誰が”“いつ”は書こうとしてるんだね」
「その方向性は悪くない。でも、役所が欲しい情報量にはまだ遠い」
市長が一歩前へ出た。
「ドンガ殿。助けようとしてくれた気持ちはありがたい。ただ、ひまわり市には工事の順番がある。先に相談し、頼まれて、内容を決め、記録して、直す」
『でも、橋、曲がってた』
「そうだろう」
『人、落ちたら、いや』
「それもそうだ」
『だから、直した』
理屈があまりにまっすぐで、悪意を挟む隙がない。だからこそ厄介だった。怒れば済む相手ではないし、追い払えば「では今度、壊れた橋は見て見ぬふりをしろと言うのか」となる。
勇輝は息を吸って、順番を選び直した。
「わかった。今の橋は、まず緊急応急復旧として扱う。その上で、正式に安全点検をする。ドンガさんには、できるだけでいいから施工の記録を出してもらう」
『記録……』
「木をどこから持ってきたか、石をどう置いたか、鉄を誰からもらったか、誰が手伝ったか。そのくらいからでいい」
『できる』
「できるのかよ」
『木、山から。石、川から。鉄、ドワーフから。手伝い、三人』
久住が横で小声になる。
「主任……地産地消の勢いで材料証明が全部ざっくりしてます……」
「ざっくりでもいい。いまはゼロよりましだ」
◆昼前・橋のたもとでの仮点検(善意で直ったものを、そのまま善意で使い始めると、あとで全員が困る)
橋が直って見える以上、人は渡りたがる。現に、少し離れた場所では、通勤途中らしい自転車の男性が「もう通れますか」と何度も遠慮がちに尋ねていた。見た目がきれいな橋ほど、「まだだめです」の説明が難しい。壊れている橋は誰だって避けるが、直って見える橋は、人の我慢を短くする。
だから勇輝は、まず現場でできる最低限の点検を前倒しで始めた。正式検査は後でやるにしても、少なくとも“今朝中は通すかどうか”を決めないと、人も車も動けない。
工務課の職員がレベルを当て、目視で支点のずれを確認し、橋面の沈み込みを簡易で測る。ドンガは邪魔をしないよう少し離れた場所にしゃがみ込み、自分がやったことを何とか伝えようとしている。
『石、ここ』
巨人の指先が、支点まわりの新しい補強を示す。
『前、ぐらぐら。石、足した。木、かませた。鉄、しめた』
「“しめた”の具体が欲しいんだよな……」
勇輝が呟くと、久住がうんうんと頷いた。
「でも、やってること自体は筋が通ってます。暫定の荷重分散と、支点補強と、橋面の不陸調整。見よう見まねじゃなくて、ちゃんと橋を直す発想なんです」
「そうなんだよ。そこが一番厄介なんだよ」
加奈が橋の端に立って、通行を待っている人たちへ説明していた。
「今、安全確認中なんです。見た目は直っていても、役所が確認してからでないと通せなくて」
中年の女性が、困ったように言う。
「でも、もう遅れそうで……。見た感じ、大丈夫そうなんだけどねえ」
「そう見える時ほど、ちゃんと確認したいんです」
加奈の言い方はやわらかいが、引く線はぶれない。こういう時、本当に助かる。
やがて、工務課の簡易点検の結果がまとまった。
「主任。正式検査前提ですが、歩行者の片側通行なら暫定でいけそうです。大型荷重はまだ避けたい。あと、今朝中に追加の締め直しと、仮の記録作成が要ります」
「車は」
「まだ怖いです。少なくとも今日の段階では歩行者限定が妥当です」
勇輝はそれをすぐ採用した。
「よし。歩行者片側通行で暫定開放。カラーコーンと注意札を置く。正式検査は午後。ドンガさん、締め直しの位置を工務課の指示に合わせてください」
『わかった』
「あと、勝手に追加できれいにしない」
『……きれい、だめ?』
「だめじゃないけど、今は“安全のために必要なところだけ”」
『必要だけ……わかった』
美月がそのやり取りを聞いて、ぼそっと言う。
「褒めると消える火に続いて、説明すると我慢する巨人か……」
「まとめるな。そういうシリーズ化をするな」
市長は、その場の判断が一応前へ進んだのを見て頷いた。
「少なくとも、誰も通れない朝にはならなかったな」
「ええ。でも、ここからが行政の地獄です。工事が終わってるのに、発注と支払いが一文字も存在してない」
◆昼・市役所会議室(工事が早すぎると、手続きはだいたい全部あとから走る)
庁舎へ戻ると、今度は工務課、財政、契約担当、総務、それに異世界経済部を集めた臨時会議になった。議題はひとつで十分だった。
『小橋応急復旧の事後整理及び異界協力業者の取扱い』
文字にするとまっとうだが、実態は“朝見たら橋が直っていたので、いまから合法に追いつく方法を考える会議”である。
財政課の佐伯課長が、いつもより本気で顔をしかめていた。
「まず確認です。現時点で、市としてドンガ氏に発注した事実はない。契約もない。予定価格もない。請求書もない。つまり、通常の公金支出の入口が何もありません」
「わかってます」
勇輝が答える。
「でも、“直してくれた人に何も払わない”も違う。しかも橋は実際に使える状態へ戻っていて、住民は恩恵を受けている」
加奈が頷く。
「そうなんだよね。善意だったとしても、材料も労力も使ってる。そのまま“勝手にやったから知らない”は、町の感じとして良くない」
「倫理的には払いたい。行政的には今のままだと払えない。そこが問題です」
契約担当が静かに言った。
「寄附として整理する案もありますが、今回は危険です。寄附で受けてしまうと、今後“勝手に直したら寄附扱いになる”という変な前例が立つ」
「それは避けたいですね」
市長が腕を組んで言う。
「なら、災害や事故時の応急復旧として協定を結ぶのはどうだ。今回の件をきっかけに、異界側の業者を“協力事業者”として登録する」
勇輝はその案を聞いた瞬間、ようやく地面が見えた気がした。
「……それです。単発の例外処理じゃなく、次からの入口を作る」
ホワイトボードへ、急いで書き出す。
『異界協力業者登録制度(応急復旧分野)』
『災害・事故時の簡易出動協定』
『施工記録フォーマット(巨人向け簡易版)』
『事後精算の単価表』
『工事後即時検査の手順』
美月が、それを見て机に突っ伏した。
「主任、役所って……書類で世界を追いかける仕事なんですね」
「今さら気づいたのか」
「今日の橋の件で、やっと骨身にしみました」
佐伯課長が現実的な線を引く。
「単価表は要ります。材料費、人件費……いや“巨件費”か?」
「変なこと言わないでください」
「すみません、疲れてます」
会議室が少しだけ和んだところで、工務課が真面目に続ける。
「巨人業者を応急復旧協力として登録するなら、最低限、できる工事の範囲を限定したいです。橋、法面、倒木、土のう積み、仮設の運搬。このあたり。建築確認が絡む本格工事まで広げると、別制度が必要になります」
「その線でいきましょう」
勇輝がすぐ答える。
「今日は“勝手工事を後から追認する”んじゃない。次から“頼むならどう頼むか”を作る。そのための制度です」
加奈が、少し安心したように言う。
「いいね。“ありがたいけど、勝手にはやらないで”を、ちゃんと町の言葉にした感じ」
市長が頷く。
「では、名称は“応急復旧協力業者登録制度”だな」
「名前はそれでいいです。変に可愛くしないでください」
「誰も可愛くはしていない」
美月がぼそっと言う。
「“橋一本いくら”の単価表、ちょっと見たいですけど」
「言い方を雑にするな。仮設木橋、支柱補強、落石除去、資材運搬、そういう書き方にします」
契約担当が手を挙げた。
「それと、今回のドンガ氏の工事については、まず施工記録をこちらで聞き取りして作ります。本人に書けるところは書いてもらう。材料提供元のドワーフ側からも確認を取る。正式検査の結果を踏まえた上で、“緊急応急復旧の実績”として協定準用の形に持っていくしかありません」
「やりましょう」
勇輝はそう言って、ようやくこの案件が“変な現場”から“追いつける手続き”へ変わり始めたのを感じた。
◆午後・巨人向け施工記録の聞き取り(書ける相手には書いてもらい、書けないところはまず図にする)
ドンガは午後、市役所へ呼ばれた。庁舎の正面玄関は当然通れないので、資材搬入口側の広場で机を出し、聞き取りの場を作る。巨人相手のヒアリングというだけで、会議の様子が少し野外寄りになるのが、この町らしいといえばらしい。
勇輝の前には、急ごしらえの“施工記録フォーマット(巨人向け)”が置かれていた。文字だけでは厳しいので、絵も多い。橋の絵、木の絵、石の絵、鉄の絵、人の絵、時間の絵。美月が横で描いたピクトがここで役に立っている。
「ドンガさん。順番にいきます。まず、いつ見つけた」
『きのう よる。風、つよい。橋、ぐにゃ』
「次、誰とやった」
『ぼく と、いとこ と、いとこ のともだち』
「名前」
『ドンガ、ドド、ガング』
「すごい、全部巨人っぽい名前だ」
美月が小声で言うので、勇輝は肘で制した。
「材料は」
『木、山の倒木。石、川のそば。鉄、ドワーフにもらう』
「もらう、じゃなくて、どのドワーフに」
『ゴルドのところ』
「入札の人かよ」
『ちがう ゴルド。鉄のゴルド』
「別のゴルドがいるのか。もう名前だけで整理がしんどいな」
工務課の久住が、ドンガの話す順番を図に落としていく。まず歪んだ支柱の下へ石を入れて一時支持。次に橋面を持ち上げ、倒木から切り出した木材で噛ませ木を作る。そのあとドワーフから受け取った鉄の帯で締め、最後に表面を均す。やっていることは、驚くほど理にかなっていた。理にかなっているからこそ、余計に放置できない。
「主任、これ……応急としてはかなり良い線です」
久住が言う。
「うん。だから、“勝手に直すな”だけで切れないんだよな」
加奈がドンガに水を渡しながら、優しく言う。
「助けたかったんだよね」
『うん。橋、こわい。人、落ちるの、いや』
「でも次は、先に役所へ言う。約束」
『約束』
「我慢も約束」
『……我慢、むずかしい』
「だよね」
「そこで共感しすぎると、制度がまた柔らかくなるからほどほどにな」
勇輝が言うと、加奈は笑った。
「分かってる。だから“約束”までセットで言ってるんでしょ」
聞き取りの最後に、ドンガは太い指で自分の名前の横へ丸をつけた。サインというより“ここまで読んだ”に近い印だが、少なくとも当人が説明内容を認めた形にはなった。
勇輝はその紙を見て、ようやく本当に息をついた。
「よし。これで“何もない”からは脱出できた」
◆夕方・正式検査と暫定再開(善意の工事も、最後に検査を通って初めて町の橋になる)
午後遅く、正式検査が入った。工務課の技術職に加え、外部の土木技術者にも急ぎ立ち会ってもらい、補強位置、部材の固定、荷重の逃がし方、今後の恒久補修の必要性まで確認する。検査官は最初、巨人が一晩で直した橋と聞いて露骨に顔を曇らせたが、現場を見てからは逆に慎重さを増した。
「応急としては、かなりまともです。だからこそ、変に褒めたくなる。でも、褒めたまま終えると制度が壊れる」
「今日の役所の空気、それです」
勇輝が言うと、技術者は深く頷いた。
「歩行者通行は可能。ただし恒久補修計画は別に必要。補強部材の一部は正式な規格材へ置換したほうがいい。今回は“壊れた橋を救った応急”として評価するのが限界です」
その言葉で、ちょうどいい位置に着地できた気がした。絶賛でもない。否定でもない。助けられた事実を認めた上で、制度の外へ出さない。行政としては、そのくらいの言い方が一番強い。
夕方、橋には正式に暫定開放の札が掛かった。
『本橋は応急復旧済みです。
歩行者通行可。
大型荷重不可。
恒久補修を後日実施予定。』
近くで見ていた住民が、ほっとしたように言う。
「通れるの、助かるよ。朝はどうなるかと思った」
「今日は応急だけですからね。まだ完全じゃないです」
久住が丁寧に答える。
ドンガは少し離れたところで、その札をじっと見ていた。自分のやったことが“町の橋”として認められたのか、まだ半分しか認められていないのか、その境目を考えている顔に見える。
勇輝は歩み寄った。
「今日の工事は、助かりました。でも、次からは先に相談です。そこを守れれば、町も頼める」
『頼む?』
「頼む。壊れた時、急いで手が欲しい場面はある。そのために、今から制度を作る」
『ぼく、役所に呼ばれたら直す』
「それなら助かる」
『勝手に、我慢する』
「その一言が今日いちばん大事かもしれないな」
加奈が横で笑った。
「えらいね、ドンガさん」
『えらい?』
「うん。我慢できるの、えらい」
ドンガは少し照れたように頭を掻いた。頭を掻くだけで、背中の工具ががしゃりと鳴る。
◆夕方・財政課と契約担当のあいだ(払いたい気持ちと払える根拠のあいだに、役所はだいたい机を一枚増やす)
ただ、橋が暫定で開いたからといって、役所の悩みがそこで終わるわけではなかった。むしろ、住民の通行が再開したあとに残るのは、いつも数字と根拠の話だ。財政課の机へ資料を持ち込んだ瞬間、佐伯課長が最初に指で叩いたのは“善意”でも“応急”でもなく、支払いの入口がないという一点だった。
「ここを曖昧にすると、次から全部曖昧になります。今日は“たまたま助かった”で済ませられても、来月別の橋で同じことが起きた時に、“前も払ったでしょう”で押し切られたら困る」
「分かってます」
勇輝は頷いた。
「だから単発の例外ではなく、“こういう時だけ、こう払う”を今ここで作る必要がある」
契約担当も資料を開きながら続ける。
「通常契約が間に合わない応急復旧に限って、出動協定に基づく事後精算を認める。対象は災害、事故、急迫した危険の除去。それ以外の“ついでにきれいにしました”は含めない。線はそこまで明確に引きたいです」
加奈がその言い方を聞いて、少し笑った。
「“ついでにきれいにしました”って、今日の巨人さんはちょっとやりそうだったもんね」
「やります」
工務課の久住が即答した。
「現場で“せっかくだから手すりも磨いた”って本人が言ってました」
「そこを善意として放っておくと、次から予算が全部溶ける」
佐伯課長が真顔で言う。
「応急は応急。美観向上は別事業。この線を紙にしないと危ない」
勇輝はそこで、支払いの整理をさらに詰めた。
「じゃあ、今回のドンガさんの工事は、正式検査で応急復旧相当と認められた範囲だけを対象にします。手すり磨きや見た目を整えた部分は支払い対象外。構造の安全に寄与した箇所だけ拾う」
「それなら説明しやすいです」
契約担当がメモする。
「単価表は、人力・巨人力の区別ではなく、作業種別と必要機材で持ちます。支柱仮起こし、橋面応急補修、石材充填、金属帯固定、資材運搬。そこへ補正係数として“特殊体格作業”を置くのが現実的かもしれません」
美月が思わず吹き出した。
「特殊体格作業って、急に制度の顔をした巨人ですね」
「笑うところじゃないけど、必要なんだよ」
勇輝は言った。
「普通の人間の半日作業を、巨人が一時間で終わらせるなら、時間単価だけでは整理しにくい。逆に、巨人だから常に高いとも限らない。やった作業の種類で拾うしかない」
市長もそこは真面目だった。
「住民から見ても、そのほうが納得しやすいだろう。“大きいから高い”ではなく、“何を直したかで支払う”のなら」
佐伯課長が最後に、かなり大事なことを言った。
「あと、今回の支払いの前に、ドンガ氏側にも説明が必要です。役所は感謝で払うのではなく、根拠で払う。そこを理解してもらわないと、“助けたのに値切られた”という話になる」
その言葉に、勇輝は深く頷いた。異界との仕事は、善意を受け取る時ほど、後からその善意を傷つけない説明が要る。払うことだけではなく、どう払うかを相手の文化へも翻訳しなければ、結局また別の誤解が生まれる。
◆夕方・資材搬入口広場(制度を作るだけで終わらず、その制度を相手が使える形まで下ろさないと意味がない)
ドンガをもう一度呼んだのは、そのためだった。役所の中へ入れないから、庁舎の資材搬入口脇の広場に簡易机を出し、ホワイトボードまで持ち込む。夕方の風が少し冷えてきて、巨人の影が長く伸びていた。
勇輝は、新しく作った紙を見せる。
「これが、今後のための約束です。名前は“応急復旧協力業者登録”」
『とうろく』
「そう。先に登録する。壊れた時、役所が頼む。頼まれたら行く。終わったら記録を書く。検査する。払う」
ドンガは、ホワイトボードの絵と文字をじっと見た。
『勝手に、先に、直さない』
「それが大事」
『でも、人、落ちそう』
「その時は役所へ知らせる。夜でも知らせる方法を作る」
美月が横から補足する。
「巨人さん向けに、連絡用の板も作れますよ。絵で、“橋”“道”“崖”“家”を選んで、危険の種類に丸をつけるやつ」
「それだ」
勇輝はすぐ乗った。
「電話が難しくても、絵で連絡できれば早い。場所も地図で示せる」
加奈が、ドンガの目線に近づくよう少し離れて立ちながら言う。
「役所に頼まれてから直すのって、遠回りに見えるかもしれない。でも、あとで“ありがとう”がちゃんと形になるための順番なんだよ」
ドンガは少し考えてから、ゆっくり頷いた。
『勝手に直すと、“ありがとう”が迷子になる?』
「……そう」
加奈が笑う。
「まさにそれ」
その言い方が、ドンガにはかなり通じたらしい。巨人は大きな手で新しい登録用紙を押さえ、勇輝が示した欄へ順番に印をつけた。名前。できる作業。持っている道具。連絡がつく場所。さらに、美月の描いた絵つきの欄へ、“橋”“倒木”“崩れた道”“重いもの運ぶ”の印が加わる。
工務課の久住が、その様子を少し感心した顔で見ていた。
「主任、これ、他の異界業者にも応用できるかもしれませんね。文字だけじゃなく、絵と工程で登録する形」
「あるかもな」
勇輝は答える。
「結局、制度って“書ける人向け”に作ると、書けない相手を最初から落とす。今回みたいに働ける相手がいるなら、入口の形を変える必要があるんだろう」
市長が、ホワイトボードの“頼む→直す→記録→検査→払う”の流れを見て満足そうに言う。
「きれいだな」
「この順番、今日いちばん大事ですからね」
勇輝はそう返した。
「橋が先に直ってしまったから、余計によく分かる。逆順は、役所を本当にしんどくする」
ドンガは最後に、自分の大きな字で登録用紙の余白へ書き足した。
『こわれたら すぐ いいたい
でも かってに は がまん』
その字は不揃いだったが、今日のどの会議録よりも、この制度の核心を掴んでいる気がした。
◆夜・庁舎へ戻って(早すぎる現実を、あとから手続きが追いかける日もある)
市役所へ戻るころには、もう窓の外が薄暗くなっていた。橋は暫定で開いた。施工記録も聞き取った。検査も通した。制度の骨子も見えた。だから、最悪の混乱はもう越えている。にもかかわらず、机の上の紙は朝より確実に増えていた。現実が早すぎると、その分だけ役所はあとから書類を書くことになる。
勇輝はメモを清書しながら、項目を一つずつ整えた。
「巨人業者ドンガを“応急復旧協力業者”として登録候補に整理」
「災害・事故時の簡易出動協定を整備」
「施工記録フォーマットの簡易版と詳細版を作成」
「工事後即時検査の手順を明文化」
「支払いは協定に基づく事後精算へ接続」
美月がその紙を覗き込んで、机へ突っ伏した。
「主任、今日のまとめ、完全に“書類で世界を追いかける役所”ですね」
「そういう仕事だからな」
「前から知ってましたけど、今日は追いかけ方が露骨でした」
「橋のほうが先に走ったからな」
市長は満足そうだった。
「橋は直った。人も通れた。町も困らなかった。十分成功だろう」
「成功です。でも、かなり綱渡りです」
「綱渡りでも渡り切った」
「その綱、毎回こちらが編んでるんですよ」
加奈がパンを差し出す。
「食べな。今日は“橋の補強”だけじゃなくて“主任の補強”も必要」
「それを入札したら、ドワーフが百年持つ仕様で出してきそうだな」
「巨人は一晩で終わらせるかも」
「やめろ。補強の話を人間に広げるな」
そう言ってから、勇輝は少しだけ笑った。入札の方式を変えた翌日に、今度は工事の順番そのものが飛んでいく。ひまわり市は本当に、こちらが理解したと思った瞬間に別の角度から異界を差し込んでくる。
けれど、今日の終わり方は悪くなかった。勝手工事をそのまま拍手で受けるのではなく、危険を見て、点検して、制度へ繋ぎ直した。善意を否定せず、しかし手続きの外へ放り出しもしなかった。それができたなら、役所としては上出来の部類だろう。
窓の外では、夜の庁舎の灯りが静かにガラスへ映っている。明日になればまた別の案件が来るはずだ。だが、少なくとも今日の橋は、ちゃんと通れる橋として夜を迎えられる。そのことだけは確かだった。
勇輝は最後に、メモの余白へ一行だけ書き足した。
「壊れる前に守るのが理想。
だが、壊れたあとに早すぎる善意が来た時は、追いつく制度も要る」
美月がそれを見て、小さく言う。
「今日のひまわり市、完全にそれですね」
「そうだな」
橋は一晩で直った。役所は一日かけて、その早すぎる現実へ追いついた。順番はめちゃくちゃだったが、最後に町の中で使える形まで持っていけたなら、それはたぶん失敗ではない。ひまわり市は今日も、異界の速さに振り回されながら、その速さを何とか書類とルールの中へ座らせていた。
それがこの町の行政で、今のところ、いちばん壊れにくいやり方だった。




