第64話「窓口が大混乱:異界の“偽装防止”団体が役所前で勝手に検査を始める」
市役所という建物は、機能だけでできているわけじゃない。
書類を出せる。相談ができる。印鑑を押せる。――そういう手続きの便利さの奥に、「ここへ来れば、少なくとも追い払われはしない」という空気が必要だ。
ひまわり市が異界へ転移してから、その空気はさらに大事になった。言葉も文化も違う人が増えたからこそ、入口でつまずかせたら生活が止まる。
役所は“門”だけれど、門番が求めているのは入場料じゃない。暮らしが行き来できる通路だ。
……だからこそ、朝いちばんに飛び込んできた報告が、まずかった。
「主任! 役所前に“検査ゲート”ができてます!!」
美月の声は、廊下をまっすぐ走ってきた勢いのまま、室内の空気を跳ねさせた。息が上がっている。走り方が完全に“事件のそれ”だ。
勇輝は椅子から立ち上がりながら、頭の片隅で昨日の広報対応を思い出す。噂を沈めたはずなのに、次の波がもう来るのか。
「検査ゲート……? 何の検査だ」
「偽装防止です! “本当の姿を隠してる人を見つける”って。役所の入口で、勝手にです!」
言い終わった瞬間、美月が悔しそうに唇を噛む。彼女は煽りたいわけじゃない。言葉が強くなるほど状況が悪いから、自然にそうなるだけだ。
そこへ加奈が紙袋を抱えて入ってくる。今日は冷たいおしぼりが入っていた。手の汗も、声の乾きも、現場はだいたいセットで来る。
「役所前で検査……それ、入口を通れない人が出るよね」
「もう出てる。列が途中で途切れて、みんな遠巻きになってる」
勇輝は深呼吸を一つ入れた。怒りは必要な時に使う。まずは順番だ。通路を開ける。人を動かす。怖がっている人の足を、戻す。
背後の気配に振り向くと、市長が立っていた。いつもの柔らかい調子ではなく、眉間にしっかり線が入っている。表情が引き締まると、言葉が余計に重くなるタイプだ。
「公共の場で勝手な検査は許さん。町の入口を、誰かの私物にするな」
「ありがとうございます。現場へ行きます。美月は状況を整理、加奈は来庁者側の様子を見て、必要なら声をかけてください。市長は――」
「もちろん同行する。だが前に出るのは状況を見てからだ」
市長が自分で釘を刺してくる。昨日の“布告感”の話を、ちゃんと覚えているらしい。勇輝は少しだけ肩の力が抜けた。
「助かります。総務の庁舎管理にも連絡を回します。あと、警備員さんにも」
勇輝は走り出す前に内線を取り、庁舎管理係へ短く事情を伝えた。
通路が塞がれている、勝手な検査をしている、トラブルが発生している――要点だけ。
向こうの声が一拍で切り替わる。「分かりました、コーンと規程集を持って行きます」。規程集が持ち運ばれる役所は強い。
「危機管理課にも一報を。必要なら警察にも相談しよう」
市長がそう言いながら、自分でも別の内線を入れる。判断が早い。こういう時に迷わないのは、本当に助かる。
美月はスマホを出しかけて、すぐに引っ込めた。
記録は大事。でも、広場でスマホを向けられると、それだけで人は身構える。今日の相手は“噂”じゃなく“現場”だ。
「私、入口側で案内役やります。通れるって言い続けます。声が枯れても」
「枯れないで。加奈、おしぼり追加できる?」
「できる。あと水も。今日は喉が大事そう」
それが笑える冗談になっているうちに、行こう。怖さが冗談を奪う前に。
――
庁舎前に出た瞬間、空気が違った。
いつもの朝なら、玄関に向かって人が散らばって歩いていく。住民票の手続き、福祉の相談、子どもの書類、商店の届け出。ちょっとした用事が、町を回す。
今日はその流れが、入口の手前でいったん止まっている。止まったものは、だいたい良くない形で溜まる。
通路の両側に縄が張られ、簡易ポールで“レーン”が作られていた。立て札が二枚、真新しい紙で貼ってある。
《異界偽装防止同盟》
《安全のため、簡易検査にご協力ください》
“ご協力”の語感だけ丁寧で、やっていることは強引だ。しかも、場所が役所の入口。ここは誰かの主張を通す舞台じゃない。
レーンの先で、魔族らしい青年が止められていた。髪は暗い赤、肌は人間より少し青みがあり、角は短い。町では珍しくない見た目だ。彼は手続きの封筒を握りしめたまま、腕章の男に言い返している。
「昨日と耳が違うって、そんな理由で止めるな。今日は帽子を被ってるだけだ」
「帽子の下を見せろ。偽装の可能性がある」
「役所に入るのに、なんで見せなきゃいけない」
周囲がざわつく。その隣で、エルフの女性が幼い子の手を握り、肩をすくめている。子どもは状況が分からず、ただ不安そうに大人の顔を見上げていた。
少し離れたところでは、人間の年配の男性が腕を組み、「最近物騒だからなぁ」と小さく呟いている。心配が悪いわけじゃない。心配が“誰かを止める理由”になるのが問題だ。
美月が勇輝の横で、息を潜めるように言った。
「主任、これ……“本人確認”の顔してますけど、やってるのは選別です。止められるの、怖いです」
「分かってる。まず、止められてる人を解放する。次に、縄を外す」
勇輝は一度だけ、年配の男性にも視線を向けた。敵を作らない。味方を増やす。今はそれが一番効く。
「心配な気持ちは分かります。でも、入口で人を止めるのは違います。相談は、役所で受けます。まず通路を戻しますね」
男性は口を開きかけて、結局閉じた。代わりに小さく頷く。否定されると反発するが、“相談を受ける”と言われると一段落ち着く。人の心は、単純で難しい。
加奈が一歩前に出る。声の出し方が、いつもより少し低い。柔らかいけれど、逃げない声だ。
「すみません。ここ、役所の入口ですよね。検査って、誰が許可したんですか」
腕章の男が振り向いた。人間だ。三十代くらい。目に疲れがあるのに、姿勢は妙に硬い。自分の正しさで背筋を支えているタイプだ。
「許可は要らない。市民の安全のためだ。最近“なりすまし”が増えている。役所も困っているだろう?」
言い方がうまい。相手の弱いところ――“困っている”――に乗せてくる。ここで感情的に否定すると、相手の物語が強くなる。
勇輝はゆっくり前に出て、名札が見える位置で止まった。
「異世界経済部の主任、勇輝です。ここは市役所の敷地です。通行を妨げる行為や、外見を理由に通行を制限する行為は認められません。今すぐ、通路を空けてください」
言葉は硬く、でも刃を立てない。線引きだけをはっきりさせる。
男は鼻で笑うように息を漏らした。
「役所は甘い。だから噂が広がったんだ。“真の姿を写す写真機”が必要だった。偽装者を見逃したら、誰が責任を取る?」
昨日の噂を、もう“必要”の論拠にしている。早い。怖い物語は、次の行動の言い訳になる。
その時、市長が前に出た。派手にではなく、一歩だけ。けれど、その一歩で場の重心が変わる。
「私が市長だ。ここでの検査は許可しない。撤収しなさい」
男の表情が一瞬だけ揺れた。権威に弱い、というより、予想していなかったのだろう。だがすぐに持ち直し、声を張る。
「市長でも危険を放置するのか! もし偽装者が紛れて――」
「“もしも”で人を縛るのは、町を守るやり方ではない」
市長の声は低く、短い。怒鳴らないのに、広場が静まった。勇輝は心の中で頷く。こういう時の市長は、余計な飾りがない。
勇輝は視線をレーンに戻した。止められている青年が、もう限界の顔をしている。ここで長引かせたら、怒りと恐怖が噴き出して、最悪は揉み合いになる。
「いま、ここで誰かを止めることをやめてください。通路を確保します。縄と札を外してください」
男が食い下がる。
「なら、役所が検査すればいい! 偽装者を――」
「役所は“暴く”ための場所ではありません。必要な手続きのために、必要な確認をする。外見を理由に人を止める権限は、あなたたちにはありません」
勇輝が言い切ると、列の後ろで誰かが小さく息を吐いた。緊張の糸が、ほんの少しだけ緩む音だ。
美月が一歩前に出て、広報としての“場の説明”を大きめの声で届ける。
「皆さん、こちらからそのまま入れます! 役所は通常通り手続きできます。検査は必要ありません!」
“必要ありません”の一言が、群れの重さを動かす。遠巻きだった人が、そろそろと一歩踏み出す。
その動きに合わせて、加奈が子連れのエルフへそっと声をかける。
「先にどうぞ。小さい子、寒いよね」
女性が恐縮して首を振りかけたが、子どもが加奈の手を見て安心したのか、きゅっと母親の指を握り直して前へ出た。
止められていた青年にも、加奈は視線を送る。
「ごめんね。ここ、通って大丈夫。もし不安が残るなら、窓口でゆっくり話を聞くから」
青年は少し戸惑いながらも頷いた。封筒を胸に抱え直し、子連れの後ろを守るように歩く。彼も怖いのだ。怒鳴ってしまうくらい、怖い。
だが――ここで終わらなかった。
「なら簡易でいい! 真名だけ答えろ!」
別の腕章の男が、列に向かって叫んだ。
“真名”という単語が広場に落ちた瞬間、空気がもう一段冷えた。エルフの女性が反射的に子どもの肩を抱き、魔族の青年の目が鋭くなる。年配の男性も顔をしかめる。“真名”の重さは、人間にも伝わってしまうのだろう。雰囲気が一気に危険に寄る。
市長の声が、短く刺さる。
「それは危険だ。今すぐやめなさい」
腕章の男は引かない。
「偽装防止に必要だ!」
勇輝は一歩だけ前へ出て、言葉を強くした。ここは曖昧にすると負ける。怖い文化語は、要求した時点で既に暴力になる。
「役所が求めない情報を、民間が求めるべきではありません。真名の要求は、ただちに停止してください。拒否されたらどうするつもりですか。押し問答になれば通行妨害です。敷地内での行為として、庁舎管理と警備が対応します」
タイミングよく、庁舎管理の職員が駆け寄ってきた。片手にはカラーコーン、もう片手には分厚い規程集。場違いなくらい事務的な装備が、逆に頼もしい。
腕章たちに向け、敷地利用の規程が書かれたバインダーを開いて見せる。さらに、警備員が二人、入口側から近づいてくる。遠くには警察官の姿も見えた。近所の交番が様子を見に来たのだろう。通報が入ったに違いない。
“正義”は、相手が個人なら強い。だが相手が組織的に動くと、急に足場がぐらつく。腕章の人たちの視線が揺れた。
勇輝は、ここで相手を追い詰めすぎないように気をつけた。角を立てたまま押し込むと、別の場所で爆発する。必要なのは撤収と、次に同じことを起こさない仕組みだ。
「不安があるなら、役所に相談してください。“なりすまし”が心配なら、相談窓口を作ります。情報提供は受けます。けれど、ここで人を止める権限はありません。今は撤収してください」
加奈が、現場の言葉で補う。
「怖い気持ちは分かるよ。最近、噂も多かったし。でも、ここで止められて困るのは、普通に暮らしたい人たちだよね。手続きできなくなる」
美月も続けた。声を強くしない。言葉をまっすぐにする。
「今のやり方だと、“検査される側”だけじゃなくて、あなたたち自身も危ない扱いになります。目的が安全なら、手段で信用を失うのはもったいないです」
腕章のリーダー格の男は唇を噛んだ。
正しさの顔が、ほんの少しだけ剥がれて、その下の疲れが見える。怖いのはこの男も同じなのだろう。怖いから、何かを“はっきりさせたく”なる。はっきりさせたい衝動が、人を傷つけるのに。
「……分かった。撤収する。だが、事件が起きたら――」
「起きないように、町が仕組みで守る。あなたたちの“気づき”も、情報として受け取る。ただし、次はない」
市長が短く言う。
“次はない”は、脅しではなく線引きだ。境界線があれば、人は戻れる。
腕章たちは縄を外し始めた。札が下り、レーンが解体され、通路が広がる。遠巻きだった人たちが、ようやく入口へ向かって歩き出す。広場にあった緊張が、少しずつ薄まっていく。
止められていた魔族の青年が、勇輝に小さく頭を下げた。
「……ありがとう。正直、今日は帰ろうと思った」
「来てくれてよかった。手続き、先に済ませてください。困ったら窓口で」
青年は頷き、封筒を握り直して中へ入っていった。
エルフの女性も、子どもの手を引いたまま入口をくぐる。子どもが一度だけ振り返り、腕章の男たちを見てから、加奈の方を見て小さく会釈をした。加奈は笑って、軽く手を振った。
美月は入口の脇で、案内の声を続けた。
「通常通りです、こちらからどうぞ。写真はスマホでも大丈夫です。困ったら窓口で言ってくださいね」
何度も同じ言葉を繰り返すのは、しんどい。けれど、その反復が人を安心させる。役所の言葉は、派手でなくていい。揺れないことが強さになる。
――
撤収が終わった後も、課題は残る。
腕章たちは「引き下がった」だけで、納得したわけではない。ここで放置すると、次は別の場所で検査を始める。あるいは、もっと巧妙なやり方で“選別”を持ち込む。
勇輝は庁舎管理の職員と確認し、簡易レーンの設置が敷地内規程に違反すること、通行妨害に当たる可能性があること、そして“真名の聴取”がプライバシー侵害になり得ることを整理した。
危機管理課にも連絡し、警察にも「今後同様の動きがあれば、先に相談する」と約束を取りつける。揉めてから呼ぶより、揉めないように整えるほうが負担が少ない。
ついでに、庁内放送も入れた。館内にいる人へ、入口の混乱が“検査”ではなく“勝手な行為”だったことを、短く事実で伝える。
『ただいま庁舎入口付近で、来庁者への呼び止め行為が確認されました。市役所として検査や真名の確認は行っていません。通常通り、窓口をご利用ください。不安がある方は職員にお声がけください』
放送は淡々としていたけれど、だからこそ効く。聞いた人が、余計な想像を挟まずに済む。
昼前、庁舎の小会議室で簡単な打ち合わせを開いた。
総務、庁舎管理、危機管理、住民課、そして異世界経済部。部署が違う人が揃うと、机の上の文房具の種類まで変わる。いつも通りのひまわり市役所だ。
市長が口火を切る。
「今日の件は、入口の秩序を守る問題だ。同時に、町に広がった不安の受け皿が足りない問題でもある。二つを切り分けて対処する」
勇輝は頷いた。
“勝手な検査”は止める。だが“怖い気持ち”は消えない。その怖さを放置すると、別の誰かがまた“正義の道具”に変える。
住民課の係長が控えめに言う。
「窓口にも来ています。『最近なりすましがあるのでは』と不安を訴える方が。逆に、『疑われるのが怖い』という方も増えています。どちらも生活の話で……対応が難しいです」
加奈が、生活側から補う。
「不安な人がいるのは分かる。でも不安を理由に、人を止めるのは違う。役所が“話を聞く場所”を先に用意した方がいい」
美月も手を挙げた。
「広報としては、入口での検査が禁止だと明示しつつ、相談窓口の存在も同時に出したいです。禁止だけ出すと、『役所は何もしない』って言われます」
「それだ」
勇輝はホワイトボードに、短く書いた。
入口:検査・呼び止め禁止(線引き)
窓口:不安の相談受付(受け皿)
運用:なりすまし対応の手順(役所の仕事)
総務の職員が頷きながら言う。
「相談受付は、危機管理と住民課で一次受けができます。情報提供は記録し、必要なら警察へ。けれど、提供者が勝手に動かないように注意喚起も必要ですね。『現場で止めないで』を、はっきり入れましょう」
市長が短く言った。
「“通報は役所へ。検査はするな”。それを掲示にする」
美月が即座にメモを取る。文章は短いほど効く。昨日の都市伝説対応で学んだことを、今日に使う。
――
午後。役所の入口に、新しい掲示が貼られた。大きく、迷いようがない字で。
《役所敷地内での検査・呼び止め・真名の要求は行っていません》
《来庁者の通行とプライバシーを守ります》
《不安や情報提供は、窓口へご相談ください》
その横に、相談窓口の案内が追加される。
「相談」と「情報提供」を同じ紙に載せることで、「何もしない」ではなく「役所が受け取る」に変える。怖さを持ち込む人を減らし、怖さを預ける道を作る。
美月は掲示を撮る時、来庁者が写り込まない角度を何度も確認した。SNSに出すなら、守るべきものは守る。そこがぶれると、全部が台無しになる。
加奈は入口の近くで、さっきのエルフの女性を見つけた。手続きが終わったのか、子どもと一緒に出てきたところだった。女性はまだ少し肩に力が残っている。
「大丈夫だった?」
「……はい。窓口の人が、ゆっくり説明してくれました」
女性は少し迷ってから、ぽつりと言う。
「怖かったです。検査と言われた時、悪いことをしていないのに、なぜだろうって……」
加奈は一拍置いて、軽く首を振った。
「悪いことをしてない人が、悪いことをしたみたいに扱われるのが一番つらいよね。だから、今日止めた。役所はあなたの生活の味方でいたい」
女性の目が少しだけ潤んだが、笑いながら拭った。
「ありがとうございます。……この町、まだ慣れないけど、住める気がします」
それを聞いて、勇輝は胸の奥で小さく息を吐いた。
住める気がする。役所が守るべき言葉は、それだ。
――
夕方、庁舎管理から連絡が入った。
偽装防止同盟のリーダー格が、「相談窓口に話をしたい」と言ってきたらしい。逃げるのではなく、話しに来る。そこに“次はない”が効いている。
勇輝は加奈、美月、市長と一緒に、小会議室で面談の場を設けた。相手を吊し上げないためだ。扉を閉め、声の大きさを下げると、正義の鎧も少し緩む。
男は椅子に座るなり、先に言った。
「……やり方が強引だったのは認める。だが、こちらにも事情がある」
「事情は聞きます。ただし、入口での検査は許可できません。それは先に確認します」
勇輝が言うと、男は小さく頷いた。反発の勢いがもうない。代わりに、疲れが見える。
「最近、商店街で“なりすまし”があった。支払いを踏み倒して逃げた。被害にあったのは、異界の人の店だった。だから余計に……」
加奈が眉をひそめる。
そういう話が出ると、怖さが“方向”を持ってしまう。方向を持った怖さは、簡単に他人を刺す。
「被害があったなら、役所としても真剣に受け取るよ。でも、その怖さを入口に持ち込むと、別の被害が生まれる。今日みたいに」
男は視線を落とした。
「……分かっている。だが、役所が動くのは遅いと思っていた」
市長が、淡々と言った。
「遅いのは、確かに我々の課題だ。だからこそ、手順で動く。勝手に動けば、町は割れる」
美月が補足する。
「今日の件、SNSにも流れ始めてました。検査する側が“怖い”って言われると、あなたたちの目的は逆に遠のきます。安全のためなら、まず信頼を守る必要があると思います」
男は苦笑した。
それは“効いた”時の苦笑だ。
「……なら、どうすればいい」
勇輝は、準備してきた紙を出した。
ここで説教をしない。代わりに、道を置く。
「こうします。あなたたちが不安に思う事例は、相談窓口へ情報提供してください。証拠や状況を整理して、必要なら警察とも連携します。あなたたちが現場で“検査”をするのではなく、役所に“情報”を渡す形にしてください」
加奈が続ける。
「それから、町の見守り活動をするなら、“誰かを止める”じゃなくて、“困ってる人に声をかける”方向に変えよう。困ってる人がいれば、役所へ案内する。それなら味方になれる」
男は少し考えて、ゆっくり頷いた。
「……分かった。今日のやり方はやめる。看板も撤去する」
「ありがとうございます。代わりに、こちらも動きます」
勇輝は住民課の係長と目配せした。
“なりすまし”の相談が来た時の対応手順を、明日までに簡易でまとめる。窓口の言い方も、疑う言い方ではなく確認の言い方に揃える。異界の人が相談しやすいよう、通訳の呼び出し手順も加える。
面談が終わり、男が立ち上がる時、最後にぽつりと言った。
「……怖かったんだ。町が変わって、何が起きるか分からなくて。だから、はっきりさせたかった」
その言葉は、正義の旗よりずっと正直だった。
勇輝は短く返した。
「怖さは、相談していい。人を止める前に、まず役所へ持ってきてください」
男は一度だけ深く頭を下げ、部屋を出ていった。
――
その夜、勇輝は庁舎の入口を見上げた。
今日ここで止まった人が、明日も来られるかどうか。
役所の仕事は、派手な勝利ではなく、そういう当たり前を守ることだ。
ひまわり市役所。
今日も通常運転。
ただし、正義の顔をした“勝手”が現れることがある。だからこそ、線引きは硬く、受け皿は温かく――町が町でいられる形を、毎日少しずつ整えていく。
か――。




