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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第48話「迷子対策:テレポ迷子、最後に見たのは三次元」

◆朝・ひまわり市役所 住民課(生活の窓口は、平穏な朝ほど小さな異変を早く拾う)


 住民課の朝は、紙の音で始まることが多い。発券機のロール紙が少しだけ軋み、申請書の束が机へ置かれ、番号札を揃える指先が乾いた音を立てる。転入、転出、証明書の発行、印鑑登録、保険の相談。どれも見た目には地味なのに、その一枚一枚が誰かの生活へ直結しているから、窓口の朝には独特の緊張がある。慌ただしいわけではない。けれど、軽くもない。日常の手続きというものが、こんなにも人の暮らしの重心に近いのだと、ここへ来るたびに思い知らされる。


 その朝も、待合にはいつもの種類の人の流れがあった。保険証を手にした高齢の夫婦。小さな子どもを連れた若い母親。異界からの来訪者らしい翼のある青年。転居届の記入例を何度も読み返している学生。番号が呼ばれるまでの数分を、皆それぞれの不安と必要に合わせて過ごしている。


 だから最初は、誰もそれが「迷子対応」の始まりだとは思わなかった。


 青い帽子をかぶった女の子が、待合の椅子の横でしゃがみ込み、床へ差し込む光をじっと見ていた。五歳くらいだろうか。黄色いパーカーの袖口をきちんと折り返し、白いスニーカーの先をそろえている。連れてきた母親は、住所変更の相談票を書きながら時々その子へ目をやり、「その辺だけね」と声をかけていた。子どもが役所の待合で退屈するのは珍しいことではないし、窓口の職員たちもそれには慣れている。危ないところへ行かなければいいし、呼ばれた時にそばへ戻れればいい。そういう種類の、よくある朝の一場面だった。


 女の子は、床のタイルの継ぎ目へ落ちた光を指で追いながら、小さく言った。


「ここ、キラキラしてる」


 母親は書類から顔を上げずに、半ば聞き流すように答える。


「うん、きれいだね。でもしゃがみっぱなしだと寒いよ」


 その返事のあと、母親が相談票の生年月日欄を書き終えるまでに、たぶん五秒もなかった。


 けれど、その五秒のあいだに、待合の空気は少しだけ変わった。


 何かが弾けた音ではない。椅子が倒れたわけでも、泣き声が上がったわけでもない。ただ、そこにいたはずの子どもが、次に母親が顔を上げた時にはいなくなっていた。青い帽子も、黄色いパーカーも、白いスニーカーも、待合のどこにも見当たらない。


「……凛?」


 最初の呼びかけは、確認みたいに小さかった。


「凛?」


 二度目で少し声が上がる。


「凛!」


 三度目には待合の空気が一気に動いた。母親が椅子を引いて立ち上がり、隣の番号札が床へ落ち、住民課の職員が反射でカウンターから出る。待合の人々も何が起きたのかを理解し始め、目だけであたりを探す。けれど、本当に一瞬前までそこにいたはずの子どもは、どう見てもこの空間から切れていた。


 住民課の窓口には、こういう時のための初動がある。迷子、急病、転倒。種類ごとに声かけと動線の止め方が決まっていて、訓練もしている。だから職員の一人が母親を椅子へ戻し、別の一人が庁舎内放送ではなく内線連絡で警備へ回し、さらにもう一人が子育て支援窓口へ声をかけたところまでは、驚くほど早かった。


 ただし、その初動の中へ、いつもの迷子ではない一言が混ざったのがこの朝の厄介さだった。


 待合にいた翼のある青年が、きょとんとした顔でぽつりと言ったのである。


「最後に見えたのは、三次元側でした」


 聞いた瞬間、住民課の職員がそろって動きを止めかけた。


 証言としては詩的すぎる。だが、この町では詩的すぎる証言が、時々そのまま事実であることがある。


◆同時刻・住民課聞き取り席(保護者の呼吸が戻らないと、情報は形にならない)


 美月が異世界経済部へ駆け込んできたのは、その数分後だった。片手にメモ、片手にスマホ、髪は結んだまま少し崩れ、顔色は冗談を差し込める余地のない種類の青さになっている。美月がここまで色をなくす時は、たいてい笑って済ませられない。


 勇輝は受話器を置いたばかりの手を止めて、まず短く聞いた。


「誰が、いつ、どこで」


「子どもです。五歳。住民課の待合。母親が相談票を書いてる一瞬のあいだに消えました。目撃者がいて、その人の証言が……『最後に見たのは三次元です』って」


「証言の癖が強いな……」


 そう言いながらも、勇輝の足はもう住民課へ向かっていた。美月も並走する。途中で加奈が紙袋を抱えたまま合流し、状況を聞いた瞬間に表情を変えた。


「笑えないやつだね」


「うん。だから、笑わずに動く」


 住民課の聞き取り席では、若い母親が椅子へ座らされていた。顔色は真っ白で、膝の上の手が細かく震えている。泣いてはいるが、完全に崩れてはいない。崩れないように必死で体を支えている顔だった。隣には町内会の女性がついていて、背中へそっと手を添えている。


 勇輝は椅子の高さを合わせ、しゃがむほどではないが視線を落として声を整えた。


「ひまわり市役所です。異世界経済部の勇輝といいます。まず、お子さんのお名前と年齢、服装を教えてください。急がなくて大丈夫です。ゆっくりでいいので、順番に」


 こういう時、保護者は「早くしなきゃ」と思いすぎて、逆に情報が飛びやすくなる。だから、急ぐことと急がせることは違うと、最初の声で伝えないといけない。


 母親は喉を何度か動かしてから、やっと言葉を絞り出した。


「……凛です。五歳で、髪は短くて、青い帽子をかぶってて……黄色いパーカーで……白い、スニーカーで……」


「ありがとうございます。背の高さは、このくらいですか」


 勇輝が手で示すと、母親は頷いた。


「はい……そのくらいです……」


 加奈はそのあいだに紙コップへ温かいお茶を入れ、母親の前へそっと置いた。


「一口だけでいいから。喉が乾いてると、余計苦しくなるから」


 母親は震える手でコップを受け取り、ほんの少しだけ飲んだ。それだけで、息の乱れ方が少し変わる。小さなことだが、迷子対応ではこういう数秒が後で効いてくる。


 勇輝は続けた。


「消えた時の状況を、覚えている範囲で教えてください。どこで、何を見ていて、凛ちゃんが何を言っていたか」


「……公園の……相談の前に、中央公園で少し遊んでいて……。役所へ来る前に寄ったんです。そしたら、遊具の近くで、地面が少しキラキラしてて……。凛が、『ここ、キラキラしてる』って……」


 そこで母親の声が詰まる。


「そのあと……ちょっと目を離したら、いなくて……。公園を探して、でも見つからなくて、役所なら誰か分かるかと思って……」


 公園。キラキラ。最近、遊具の成長や魔力溜まりで何度も問題になった場所だ。

 勇輝の頭の中で、嫌な符合がきれいに噛み合う。


「凛ちゃんが消える瞬間を見た人はいますか」


 そこで、待合にいた翼のある青年が手を挙げた。前回、雲の上の住所で転入してきたセレスだった。こういう時に継続キャラが現れると、この町がちゃんと続いている感じがして少しだけ救われる。


「私が見ました。正確には、見たというより、“落ちる”のではなく“滑る”ように消えたのを捉えました。配送路でよくある折れ目です」


「配送路?」


 母親が不安そうに顔を上げる。勇輝はすぐに補う。


「天空国の空路配送で使う通路です。安全なものもありますが、節が変な場所へ出ると、まれに地上へひっかかることがあります」


「最後に見えたのは、三次元側でした」


 セレスは少し申し訳なさそうに言う。


「変な言い方に聞こえるかもしれませんが、配送路には表と裏のような区別があります。通常の地上側を、我々は便宜的にそう呼びます。つまり……凛さんは、地上から次元の継ぎ目へ入った可能性があります」


 証言の意味は分かった。分かったが、言葉の響きが容赦なく嫌だった。


 そこへ市長が現れた。廊下を急ぎ足で歩いてきたらしく、上着の襟が少しずれている。


「ふむ。ならば探すのは半径ではないな。出口だ」


「そうです」


 勇輝はすぐ答えた。


「通常の迷子対応に加えて、転移出口の洗い出しが要る。警備は庁舎内確認、子育て支援は受け入れ態勢、町内会は近隣目視。公園側の現場確認はこっちで行きます」


 市長が頷く。


「庁舎の上も下も見る。天井裏も倉庫もだ。異界の迷子は、まっすぐなところへ出ない」


「その経験則、持っていてほしくないやつですね」


「だが、役に立つ」


 たしかにそうだった。

 役所の強さは、こういう時に「まず何を動かすか」がすでに体へ入っているところだ。問題は今回、その探索範囲に次元が一つ増えたことだった。


◆午前・中央公園(迷子捜索は、半径で探すか出口で探すかで景色が変わる)


 中央公園へ向かうあいだ、美月がスマホを握ったまま言う。


「主任、普通の迷子なら半径と時間で範囲を切りますよね。テレポだと、その前提が全部ずれません?」


「ずれる。だから今日は、半径を捨てる」


「捨てるんですか」


「代わりに出口を探す。入口があるなら、どこかに抜け口がある。もしくは、中間に引っかかってる」


 セレスも横から補足した。


「配送路系の折れ目なら、出口は完全にランダムではありません。近い性質の場所へ寄ります。高所、風の流れ、光の反射、静かな通路。あと、子どもが怖がらないよう、見え方が丸い場所」


「最後の条件だけ妙に優しいな」


「配送路は本来、荷物を怖がらせないためのものなので」


「荷物に感情を配慮する物流、すごいな……」


 加奈は歩きながら、母親へ聞き取ったメモを見返していた。


「りんちゃん、好きなものは鈴の音と、喫茶ひまわりのクッキー。あと、“見つけてもらう遊び”が好きだって。かくれんぼで、見つかったあと笑う方の子」


「それは助かる情報だな。隠れたまま黙るより、安心できる音や匂いで返ってくる可能性がある」


 公園に着くと、地面の一角だけがたしかに違っていた。

 伸びた遊具騒ぎのあと、排魔を入れて落ち着いていたはずの地面が、すべり台脇の砂利の間だけ薄く光っている。朝露の反射に見えなくもない。だが、見慣れた人間が見ればすぐ分かる。自然の光り方ではない。線がある。規則がある。円の中心へ向かって光が薄く巻いている。


 真鍋がロープを持って走ってくる。


「主任、公園はもう一部閉じてます。朝の利用者には別の広場へ移ってもらいました」


「助かります。人を入れすぎないで。ここ、たぶん入口です」


 勇輝はしゃがみ込み、地面の光を目で追った。

 誰かが描いた魔法陣ではない。もっと浅い。魔力溜まりが配送路の節へ引っかかり、地上側に口を開けかけた痕跡のように見える。


「勝手に“道”になった感じですね」


 美月が小声で言う。


「誰かが悪意で開けた形じゃない。だから余計に困る」


 セレスは地面の光の外側へ立ち、周囲の風を確かめた。


「完全な通路ではありません。節です。細く、浅い。子どもの重さだから入ったのでしょう。大人なら途中で弾かれると思います」


「子どもだけ吸われる道って、最悪に近いな」


 勇輝は低く言った。

 母親は少し離れたところで町内会の女性に支えられている。ここで必要以上に怖い言い方はできない。けれど、現場を甘く見ることもできない。


「目視捜索は継続。図書館、公民館、商店街、庁舎内、温泉街、全部へ迷子情報を回してあります。ただし写真は出さない。服装と帽子だけ。異界側は天空国配送局、竜族観光組合、影路管理所に連絡を」


「影路管理所まで?」


 美月が聞く。


「通路の性質が似てる。迷子が“明るい方へ”行くとは限らないから」


 セレスが頷いた。


「適切です。あと、出口が近いなら音が届きます。ですが、大きすぎる声は反射を増やします」


 加奈が、そこで母親の方を振り返った。


「りんちゃん、怖い音より好きな音の方が来やすいんだよね。鈴、使おう」


◆午前・捜索の広がり(迷子対応は、見つかったと確定するまで何度でも空振りを引き受ける仕事でもある)


 公園で入口らしき光を見つけたからといって、そこで全員がその場へ張りつけばいいわけではなかった。迷子対応で怖いのは、「ここだ」と思った一点へ意識が寄りすぎて、別の出口を見逃すことだ。特に今回は、普通の道ではなく節を通った可能性がある。だったら、出口は一つとは限らないし、途中で別の場所へこぼれることも考えなければならない。


 勇輝は、公園の東屋の机を簡易本部代わりにして、捜索範囲を紙へ書き出した。中央公園を起点に、半径ではなく“子どもが出た時に人がいて、受け止められる場所”を順番に置いていく。図書館、公民館、児童館、喫茶ひまわり、温泉通りの土産物屋、天空橋のたもと、市役所庁舎、商店街の裏路地にある小さな広場。五歳児が突然ぽんと現れても、大人の目が届きやすく、怖がらせずに保護できる場所を優先した。


「駐在所にも回します」


 町内会の男性が言う。


「写真は使わずに、服装だけで?」


「はい。今回は、変に画像が広がると別の子へ誤認が飛びます。黄色いパーカー、青い帽子、白いスニーカー、五歳、名前は凛。見つけたら呼び止めず、まず市役所へ連絡、です」


 美月はすでに共有文面を作り、庁内だけではなく、町内会の連絡網、商店街、図書館、公民館の窓口へ短く回していた。文面は乾いている。乾いているが、それでいい。迷子対応の文章に熱を入れると、読む側の不安まで煽ってしまうからだ。


 それでも、実際の捜索は乾いた文面どおりには進まない。十分もしないうちに、最初の誤報が入った。


「黄色い服の子が図書館にいたらしいです!」


 駆け込んできた職員の声へ、真鍋がすぐに動きかける。だが、その次の瞬間には図書館側から訂正が来た。確かに黄色い上着の子どもはいたが、小学校帰りの別の子で、帽子は赤だった。次は温泉通りの足湯の近くで青い帽子の子が見えたという連絡が入り、そちらもすぐ違うと分かった。


 空振りが続くたび、母親の肩が小さく跳ねるのが見える。だから加奈は、その都度そばへ戻って、「今のは違ったけど、探してる人がいる証拠だから」と短く伝え続けた。希望を大きく言いすぎず、けれど諦めの方へも落とさない。その加減が、本当に難しい。


 セレスは、地上側だけでなく空路側の連絡も進めていた。配送路の節へ小型の生き物が迷い込んだ場合、通常は近くの待避ポケットか、物流監視の立つ分岐へ寄ることが多いらしい。だが今日は、子どもが“キラキラ”へ自分から足を向けたせいで、どの入口の印象を持ったまま通路へ入ったかが鍵になるという。


「怖くて逃げたなら、暗い方へ寄るかもしれません。けれど、遊びの延長で入ったなら、明るくて丸い出口を選ぶ可能性が高い」


 その説明を聞いた時、加奈がすぐに言った。


「じゃあ、呼ぶときに“探してる感じ”より、“見つけるよ、大丈夫だよ”の方がいいんだね。鬼ごっこで『もういいかい』って呼ぶみたいに」


 勇輝は、その発想にかなり救われた。迷子捜索は、つい大人の焦りが前へ出る。けれど相手が五歳なら、その焦りそのものが出口の選び方を変えてしまうかもしれない。今回必要なのは追跡より誘導で、追いつくことより戻りやすくすることだった。


 何本目かの空振り連絡のあと、公園の光る節は少しだけ濃さを変えた。セレスが足元を見て、静かに言う。


「たぶん、近いです。出口が完全に閉じていません。向こうにも“ここが帰り道だ”と分かる印があれば、寄って来られます」


 そこで、鈴とクッキーの案が、ただの気休めではなく“出口の印”として形を持ったのだった。


◆呼び戻しの準備(迷子を探すだけではなく、戻ってきやすい道を作る)


 市役所へ走って戻った美月が、受付の呼び鈴を持ってきた時、さすがに勇輝は一瞬だけ「それは備品では」と思った。だが、その次の瞬間には、役所の備品より迷子の方が先だと理解もした。


「鈴、取りました。あと、庁舎の案内チャイムも録音できます」


「録音まではいらない。まず生の音で行く」


 加奈は紙袋からクッキーを取り出し、袋を少しだけ開ける。バターと砂糖の匂いがふわりと流れた。こんな場所でクッキーが捜索道具になるとは思わないが、子どもを呼び戻すものは、理屈より先に安心である方がいい。


 母親は、まだ泣いてはいるが、最初より呼吸が戻ってきていた。勇輝はもう一度、目線を合わせる。


「今から、凛ちゃんが安心できる音と匂いで呼びます。大声は出しません。驚かせると、出口が揺れて戻りにくくなる可能性があります」


「……はい……」


「凛ちゃんへ声をかけるのは、お母さんが一番です。ただ、泣き声より、迎えに行く声の方が届きます。そこ、少しだけ手伝ってください」


 母親は何度も頷き、目元を拭った。

 こういう時、保護者へ「落ち着いてください」とだけ言うのはたいてい役に立たない。落ち着ける理由を作り、その中で役割を渡した方が、人は少しだけ前へ戻れる。


 セレスは地面の光の位置を微調整するように、小さな風見石を三つ置いた。配送路の出口を固定するためらしい。理屈は難しいが、本人は落ち着いた顔をしている。


「戻すというより、こちらの側へ傾けます。完全に開くのではなく、戸口を見えやすくする感じです」


「戸口って言われると、だいぶ安心できるな」


「実際、子どもへは“道”より“戸口”で考えた方がよいでしょう。迷う時、人は帰る穴を探しますから」


 その言い方はよかった。

 勇輝は公園の周囲へ立つ職員たちへ、改めて声をかけた。


「ここから先、誰も光の内側へ入らない。見物もなし。もし何か出ても、最初に抱きつきに行かない。驚かせない。戻る側の足が地面へつくまで待つ」


 子どもが見つかった瞬間、人はどうしても駆け寄りたくなる。けれど、それで出口が乱れるなら元も子もない。事前に抑えるしかなかった。


 準備が整い、あとは音と声を置くだけになった時、公園の空気は妙に静かになっていた。

 朝のざわつきも、遊具のきしみも、見物の好奇心も、全部が一段引いている。誰もが「戻ってきてほしい」だけを共有している時の静けさだった。


◆呼び戻し(安心の方角を作ると、子どもは案外そこを選ぶ)


 最初に鳴らした鈴の音は、とても小さかった。

 チリン、という、庁舎の受付なら誰も振り返らないくらいのささやかな音だ。けれど公園の中央で鳴ると、その細さがかえってよく通る。風の中へ溶けるようでいて、輪郭だけはちゃんと残る音だった。


「凛ちゃん。聞こえる?」


 勇輝はできるだけやわらかく声を落とした。


「こっちはひまわり市役所だよ。怖くないよ。鈴の音の方に、ゆっくり来て。急がなくていい」


 加奈が隣でクッキーの袋を少し揺らす。紙の擦れる音と、甘い匂いが重なる。


 母親は涙をこらえながら、しかし今度ははっきりした声で呼んだ。


「凛。ママ、ここにいるよ。大丈夫。急がなくていいから、音の方においで」


 何も起きない数十秒は、いつもやけに長い。

 美月が息を止め、真鍋がロープを握る手に力を入れ、セレスだけが地面の光をじっと見ている。勇輝も、心の中では最悪の可能性を何度も押し戻していた。節が浅いなら戻れるはずだ。出口が近いなら、音も届くはずだ。けれど、「はず」だけで子どもは戻らない。


 チリン。

 チリン。


 三度目の鈴のあと、地面の光がふっと濃くなった。

 砂利の間に走っていた細い線が、今度は薄い輪になって浮かぶ。扉というより、水面の上に逆さまの輪が開くみたいな揺れ方だ。見ているだけで体が少し引かれる感じがある。


「……来る」


 セレスが低く言った。


 次の瞬間、ぽん、と小さな破裂にも似た気配がして、輪の中心から人影がこぼれた。

 黄色いパーカー。青い帽子。白いスニーカー。凛だった。膝を軽く曲げた姿勢のまま現れ、一度だけきょとんと周囲を見回す。泣いてはいない。むしろ少し不思議そうな顔で、ここが元の公園だと理解するのに一秒ほどかかったらしい。


「ママ」


 その声が出た瞬間、母親の体が前へ出かけて、加奈がそっと肘を支えた。


「ゆっくり。もう大丈夫。いま行ける」


 母親はそこで一度だけ呼吸を整え、それから歩いて凛の前へ行った。凛も自分から走り寄る。抱きついた瞬間、公園の空気が一気に緩んだ。誰かが小さく泣き、誰かがようやく息を吐き、美月は半分泣きそうな顔で笑った。


「戻りました……ほんとに……」


「うん。ちゃんと三次元に」


 勇輝がそう言うと、美月が涙目のまま吹き出した。


「その言い方、今だけはちょっとだけ面白いです」


 凛は母親の腕の中で、のんきに言った。


「ねえ、ママ。さっきね、お空の下のながーい廊下だった」


 全員が一瞬だけ固まる。


「廊下?」


 加奈が聞くと、凛は嬉しそうに頷いた。


「うん。キラキラの先が、すごい長くて、箱がいっぱいで、雲の下が見えたの。あと、すべり台もあった」


 勇輝とセレスが顔を見合わせた。


「……配送路の待避ポケットですね」


 セレスが言う。


「荷物を一時避ける横道に、子ども向けの安全滑路がついている場所があります。迷い込んだ生き物を驚かせないための設備ですが、まさか本当に子どもがそこへ出るとは」


「物流の安全設備が、迷子の一時保護になったのか……」


 勇輝は力が抜けそうになった。最悪だが、最悪の中ではかなり助かった方だった。


「おじさんがいたよ」


 凛は続ける。


「変な帽子のおじさん。『出口見つかるまで、ここね』って」


 セレスが眉を上げる。


「配送路監視員ですね。後で礼を言わねば」


 母親はもう泣きながら笑っていて、そのまま凛を抱きしめ続けていた。こういう時、役所の人間がやるべきことは少ない。無事であることを確認し、けがの有無を見て、保護者の手へ戻す。それ以上は家族の時間だ。


◆帰還後の確認(見つかった瞬間が終わりではなく、無事を確かめて初めて捜索は閉じる)


 凛が戻ったあとも、役所の仕事はそこで終わらなかった。町内会の女性に案内されて庁舎の相談室へ移ると、保健師がすぐに体温と脈を確認し、擦り傷や打ち身がないかを見た。幸い、目立った怪我はない。服の裾に少しだけ白い粉がついているくらいで、本人はむしろ「雲の廊下のおじさんがやさしかった」と話したがるほど元気だった。


「寒くはなかった?」


 加奈が聞くと、凛は首を振る。


「ちょっとだけ。でもね、すべり台のところ、ふわふわしてた」


 保健師が困ったように笑う。


「感想はかわいいけど、もう一人で行っちゃだめな場所だね」


 母親も、その言葉にやっと現実の方へ戻ってきたらしく、凛の帽子を何度も撫でながら「ほんとにもうだめ」と小さく繰り返していた。


 勇輝は、その様子を見てから、母親へ確認した。


「今日はこのまま、誰か一緒に帰れますか。お一人だと、気持ちが後から追いついてしまうことがあります」


「はい……町内会の方が、家まで一緒に来てくれるって……」


「それなら安心です。公園の近くは、今日は寄らずに。明日まで仮封鎖します」


 迷子は見つかったあとに保護者が一気に力を失うことがある。だから、帰り道と帰宅後の時間まで含めて受け止める必要があった。制度の紙だけでは届かないが、紙の外まで気を配るのも、結局は役所の仕事の一部なのだとこういう日はよく分かる。


◆午後・市役所会議(無事に終わった日ほど、次の無事のために紙を作らないといけない)


 庁舎へ戻ると、さっきまでの捜索の緊張がようやく人間の疲れに変わってきた。

 市長は本当に天井裏まで見に行っていたらしく、上着に少し埃がついている。美月は呼び鈴を受付へ返しに行き、加奈は母親と凛へ落ち着ける部屋を用意してから会議へ戻ってきた。セレスも、配送路側へ連絡を飛ばし終えて合流する。


「庁舎内にはいなかった。天井裏はスライムが一匹いただけだ」


 市長が言うので、勇輝は思わず返した。


「そっちも後で案件です」


「後で対処する。今は迷子の方が先だ」


 会議卓の上には、簡単なメモが並ぶ。

 公園、遊具脇、光の節、鈴、クッキー、配送路待避ポケット、監視員。言葉にすると妙にまぬけだが、どれも今日の現場では真面目な要素だった。


 勇輝は深く息を吸ってから言った。


「今日の件を偶然の幸運で終わらせるわけにはいきません。公園の魔力溜まりが配送路の節へ触れ、子どもが“遊びの延長で入りうる入口”になっていた。しかも、迷子対応の通常フローだけでは出口側の捜索が抜ける。次からは手順を増やします」


 美月がすぐに端末を開いた。


「迷子対応・次元版……」


「タイトルを勢いでつけるな」


「でも必要ですよね」


「必要だが、もう少し公文書らしく頼む」


 市長が腕を組んだ。


「“テレポ迷子対応要領”でいいだろう」


「急に公文書感が出ましたね」


 加奈が苦笑しながらも、言葉自体には反対しなかった。


「名前はさておき、やることは三つかな。入口を作らないこと。入っても出口側で拾えること。戻す時に安心の道具を持つこと」


「その整理、いいな」


 勇輝は頷く。


「一つ目。公園や公共施設の魔力溜まりは、遊具点検とセットで巡回する。キラキラ、地面の光、空気の歪み、子どもが『変』と言った場所は軽く見ない。二つ目。天空国配送路、竜族観光路、影路管理所に、迷子が流入した場合の連絡経路を作る。三つ目。現場呼び戻し用に、音と匂いの安心物品を用意する」


 真面目な会議の中で「音と匂いの安心物品」という語が生まれるのが、この町らしい。


 セレスがそこで補足した。


「配送路側でも、子どもや小型生物が紛れた際の一時滞留ポケットに、市の連絡先を追加します。今までは荷主優先でしたが、地上と人の生活がこれだけ混ざっている以上、そのままでは足りません」


「助かります」


 勇輝は素直に頭を下げた。

 異界対応の難しさは、こっちだけで完結しないところにある。だからこそ、向こうも同じだけ生活側へ寄ってくれるなら、手順は一気に現実へ近づく。


 加奈は静かに言う。


「あと、ポスターね。『キラキラに近づくな』だけだと、子どもは近づくよ。だってキラキラだもん。だから、“見つけたら大人を呼ぶ”にした方がいい」


「そうだな」


 勇輝はすぐに書き足した。


「禁止だけでは弱い。発見報告へつなぐ。『へんなキラキラを見つけたら、おとなを呼んでね』の方が実際的だ」


 美月がもう一案を出す。


「それと、呼び鈴。備品で正式配備はしなくても、迷子対応キットみたいな箱に、鈴、甘い匂いのする安全なお菓子、保温シート、落ち着かせるカード、そういうのを一式入れておくのはありだと思います」


「迷子対応キットか……」


 加奈が少し感心したように言う。


「いいね。普通の迷子にも使えるし、テレポじゃなくても子どもって安心できるものがあると戻りやすいし」


「採用ですか?」


 美月が身を乗り出す。


「採用。ただし名称は変える」


「なんでですか!」


「美月がつけるとだいたい軽くなるから」


 会議室の空気が、そこでようやく少し笑える方へ寄った。

 母親と凛が無事に庁舎の別室で落ち着いていると分かっているからこその笑いだった。


◆夕方前・住民課の前(制度だけでは片づかない日の最後に、人の安心がちゃんと残るかどうか)


 会議を終えて住民課の前を通ると、午前の慌ただしさが嘘みたいに薄れていた。

 もちろん窓口はまだ回っている。証明書を受け取る人がいて、番号を待つ人がいて、職員は相変わらず紙を渡し、受け取り、確認している。けれど、あの朝、待合で子どもの名前が何度も呼ばれた時の張りつめ方は、もう庁舎のどこにもなかった。


 別室の扉が開き、母親が凛の手を引いて出てくる。二人とも少し疲れているが、顔は朝よりずっと人間の顔に戻っていた。凛は青い帽子をきちんとかぶり直し、加奈にもらったらしいクッキーの残りを大事そうに持っている。


「本当に……ありがとうございました」


 母親は深く頭を下げた。

 その言葉へ、勇輝はすぐに首を振る。


「こちらこそ、落ち着いて情報を出してくださって助かりました。迷子対応って、最初の数分で情報が揃うかどうかが大きいので」


「でも……私、目を離したので……」


 そこへ、加奈がやわらかく言った。


「今日のは、普通の『ちょっと目を離した』にしない方がいいよ。だって、地面が入口になるなんて、誰も思わないもん。責めるより、次に同じものを作らない方が先」


 その言い方に、母親は少しだけ肩を落として、それからやっと頷いた。

 保護者が一番責めるのは、だいたい他人より先に自分だ。そこへ制度や理屈だけを乗せると、あとに残るのは傷だけになる。


 勇輝は凛の前にしゃがみ、目線を合わせた。


「凛ちゃん、今日は一つ約束してほしい。キラキラの道は、今度見つけても一人で入らない。見つけたら、大人を呼ぶ。できる?」


 凛は少し考え、それから元気よく頷いた。


「うん。でもね、雲の上のすべり台、たのしかった」


 その言葉へ、勇輝と加奈と美月の返事はきれいに重なった。


「だめです」


 凛はきょとんとして、それから笑った。

 その笑顔が見られた時点で、今日の案件はようやく本当に終わったのだと思えた。


 そこへ、市長が遅れてやってきて、いつもの余裕ある顔で言う。


「安全な観光要素として転用できれば面白いのだが」


「市長」


 三人の声が揃って飛ぶ。

 市長は肩をすくめるだけで悪びれない。


「分かっている。今日のところは言っただけだ」


「言うな。保護者がいる前で言うな」


「そうだな。それは悪かった」


 珍しく、その謝り方はちゃんとしていた。


◆夕方・庁舎を出る頃(迷子の範囲に次元が足された町でも、最後に頼るのは人が戻りたがる方向だ)


 庁舎の外へ出ると、夕方の風が少しひんやりしていた。

 公園のキラキラはすでに仮封鎖され、明日の朝には排魔と再点検が入ることになっている。配送路側にも連絡が回り、監視員は今日の件を正式な事例として残すという。書類も、ルールも、柵も、たぶん必要だ。けれど、勇輝はそれでも、最後に凛を戻したのが鈴とクッキーと母親の声だったことを忘れたくなかった。


「安心が道を戻したんだね」


 加奈が隣で言う。


「たぶん、そうだと思う。制度だけじゃ出口の形は作れても、子どもがそっちを選ぶ理由までは作れない」


「うん。怖いままだったら、戻れないよね」


 美月はメモを見返しながら言う。


「マニュアルに、ちゃんと書きましょうか。“呼び戻しは安心できる音・匂い・声を優先”って」


「書こう。あと、“保護者を責める方向へ話を持っていかない”も。今日の件、そこを間違えたらかなりきつかった」


「それも入れます」


 市長は少し前を歩きながら、振り返らずに言った。


「この町は、これからも地図にない困りごとを受けるだろう。だが、地図にないからといって、手順まで作れないわけではない。今日の一件で、それがまた一つ増えた」


「増やしたくない種類の手順でしたけどね」


「そうだな。だが、迷子の範囲に“次元”が入ってしまった以上、見ないふりはできん」


 その言葉に、勇輝は苦笑するしかなかった。

 ひまわり市役所。今日も通常運転と言い張るには少し無理のある一日だった。住民課の待合から始まった迷子が、気づけば公園の光る節と天空配送路と鈴の音を繋ぐ話になっている。普通の自治体なら聞くだけで冗談にしたくなる。けれど、この町では冗談にしている暇より先に、保護者の震える手と、戻ってきた子どもの体温の方が現実だった。


 制度は、きっと明日から少しずつ整っていく。

 ポスターも作る。点検も増やす。連絡路も結ぶ。けれどそれでも、最後に人をこちらへ戻すのは、たぶん今日と同じで、安心の方角なのだろう。


 そうしてひまわり市はまた一つ、暮らしを守るための手順に、地図の外側を折り畳んで加えるのだった。

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