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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第2106話「魔王領の黒香り布、畳む前に香りを逃がした布だけ黒縁が細く残る:黒香り畳み台で“終わり方を知ってる人だけ渋い”ように見える」

◆黒い香りが残る布


 黒香り畳み台のまわりには、見た目より先に匂いが来ていた。

 甘いわけではない。花の香りでも、香木の香りでもない。焦げる手前の夜、という妙な言い方がいちばん近い。鼻の奥に黒い布をそっと掛けられるようで、けれど嫌ではなく、どこか落ち着く。

 魔王領から届いた黒香り布は、掌に乗るほどの小布だった。畳むと黒縁が細く締まり、最後に淡い香りだけが残る。そう聞いていたから、来場者たちは少し身構えながらも楽しみにしていた。

 案内担当は布を一枚持ち、畳み台の上でゆっくり広げた。


「こちらの黒香り布は、畳む前に香りを一度逃がしてから畳むと、布端の黒縁が細く残ります。魔王領の方からは、終わり際の黒が大事だと伺っています」


「終わり際の黒、ですか」


「はい。畳み終わったあとに、縁がすっと締まるそうです」


「なんだか、最初から渋いですね」


「魔王領の品ですので、渋い方向ではあります」


 最初に試した男性は、布を丁寧に広げ、端を合わせて畳んだ。動きは悪くない。むしろ几帳面で、角もずれていない。

 ところが、畳み終わった布の端には黒い香りが重く残った。黒縁は細く締まらず、布の端だけが少し厚く見える。香りも、畳んだ布の中で行き場をなくしたように、ゆっくり漂っていた。


「……あれ。畳み方、違いましたか」


「いえ、角は合っています。畳み方自体はきれいだと思います」


「でも、なんか、重いですね。魔王領っぽいと言えばぽいけど、ちょっと、やりすぎた黒みたいな」


「やりすぎた黒」


 加奈が横から覗き込み、すぐに軽く拾った。


「お弁当の海苔が一か所だけ重なりすぎた時みたいな……いや、魔王領の布を海苔で言うのは失礼かな。でも、黒がそこだけ『まだ帰りません』って言ってる感じ」


「海苔でも分かります。たしかに、黒が残っています」


 次に並んでいた女性は、前の布を見て少し慎重になった。彼女は布を広げ、畳む直前に持ち直そうとして、布端を香り逃がし皿の近くへふっと寄せた。

 小さな黒い香りが皿の中へほどける。

 布端の黒縁が、すっと細く締まった。

 畳み上がった布は、先ほどの男性の布とは違い、黒が端へ薄く残るだけになっている。重くない。けれど軽すぎもしない。まさに、少し渋い終わり方だった。


「え、今の、どうやりました?」


「私、何かしましたか? 持ち直しただけです」


「持ち直した時、皿の近くを通りました。香りが少し抜けたみたいです」


 美月が黒縁のぞき窓を覗きながら、目を輝かせた。布の端に残る黒が、太い帯ではなく細い線へ変わっている。畳み方より、畳む前に香りが逃げたかどうかの差が大きい。

 ただ、来場者にはそう見えない。

 最初の男性は、自分の布を見て、少し気まずそうに笑った。


「終わり方を知らなかった感じですね、これ」


「まだそこまでは決めつけなくて大丈夫です」


 勇輝が畳み台の横へ入り、香り逃がし皿の位置を見た。皿は畳み台の右奥に置かれている。来場者が自然に布端を通す場所ではない。たまたま持ち直した人だけが、布の中に残った香りを皿へ逃がしている。

 このままでは、魔王領の終わり方を知っている人だけが格好よく仕上げたように見える。本人の知識や所作ではなく、皿の位置が原因なのに。


「今の差は、終わり方を知っていたかどうかではなさそうです。畳む前に、布に残った香りが皿へ抜けたかどうかで黒縁が変わっています」


「じゃあ、私の畳み方が無粋だったわけではないんですか」


「畳み方は整っていました。ただ、香りが布の中に残ったまま畳まれたので、端が重く見えたんだと思います」


「布がまだ香りを抱えたまま畳まれてる感じ?」


 加奈の言葉に、男性の顔が少し和らいだ。


「それなら、失敗というより、布がまだ帰り支度してない感じですね」


「そうそう。黒い香りが上着を着たまま布団に入ったみたいな。あ、たとえがずれた。でも、逃げる場所がなかったんだと思う」


 その場に笑いが起きた。

 けれど、周囲の目はすでに女性の動きへ向いていた。彼女がどう持ち直したのか。布端をどの角度で返したのか。どのくらい香りを逃がしたのか。

 黒香り畳み台の前に、急に“終わり方の達人”を探す空気が生まれかけていた。


◆渋い顔が増える


 次の来場者たちは、布を畳む前から顔つきが変わっていた。

 黒香り布を受け取った瞬間、まず布端を見る。次に香り逃がし皿を見る。そして、さっきうまく黒縁が締まった女性の動きを思い出すように、布を少し斜めに掲げる。

 畳み体験のはずが、台の前だけ小さな黒い儀式のようになっていく。

 若い男性が布を広げ、目を細めた。


「畳む前に、一回こう……香りを、逃がすんですよね」


「はい。おそらく、香りを皿へ少し逃がすと黒縁が締まります」


「少し、こう、魔王領っぽく」


「魔王領っぽく、とは」


「こう、斜めに。終わりを知ってる感じで」


 彼は布をひらりと返した。布は確かに格好よく動いた。本人の表情も、かなり決まっている。

 しかし、香りは逃げなかった。

 布端の黒は重く残り、畳み上がった布は最初の男性と同じように、黒縁が少し太い。彼は一拍置いてから、自分で照れたように笑った。


「今の、格好だけでしたね」


「格好はありました」


 美月が素直に返し、すぐに口元を押さえた。


「すみません。いや、でも、動きはかなり魔王領でした。香りの方がついてきていませんでした」


「香りが置いていかれたんですね」


「はい。布だけ先に決め顔しました」


 来場者たちから笑いがこぼれた。けれど、笑いながらも、次の人たちはますます慎重になる。

 布の端を顔へ近づけ、香りを聞くように鼻先を寄せる人も出た。聞くという言い方はおかしいが、その姿は本当に、香りの声を待っているようだった。

 加奈がたまらず声をかける。


「香り、返事してる?」


「してないです」


「たぶん、顔を近づけても『今です』とは言わないと思う。香りが抜ける場所が皿なら、布を通す場所の方を見た方がいいかも」


「でも、黒縁が締まった人、なんか通っぽかったので」


「分かる。黒い布で端がすっと決まると、急に達人に見えるよね。でも、さっきの人はたまたま皿の近くで返しただけだと思う。お味噌汁の湯気を逃がすのに、料理人の顔をしなくてもいい、みたいな」


「お味噌汁」


「うん、ごめん。魔王領が急に台所になった。でも、湯気を逃がす場所があれば、顔つきで勝負しなくていいでしょ」


 勇輝は加奈のたとえを受け、香り逃がし皿と畳み台の距離を見た。


「通っぽい顔や動きに寄せると、知っている人だけの場に見えてしまいます。布が畳まれる前に香りを逃がす必要があるなら、その通り道を台の側で作った方がよさそうです」


「通り道」


「はい。布端が自然に皿の上を通ってから畳み待ち布盆へ行く形にすれば、人が大げさに返さなくても香りが抜けます」


 案内担当は、少し困ったように香り逃がし皿を見た。


「口で『最後に香りを逃がしてください』と言えばよいのかと思っていました」


「言うと、皆さんが今のように渋い所作を探します」


「探しますね。私も、見本を作ろうとしてしまいそうです」


「見本役を置くと、その人の格好よさまで真似されます。今回は、皿の上を通る流れにした方が安全です」


 美月は黒縁のぞき窓を持ち、最初の二枚を比べた。太く重い黒縁。細く締まった黒縁。どちらも布そのものは同じだ。香りが残っているか、逃げているか。それだけで終わり方が違っている。

 彼女はその違いを見て、思わず声を弾ませた。


「あ、これ、畳み方より前です。端を合わせるより、畳む前に黒い香りがどこへ抜けたかの方が効いてます。布の中に残ったままだと、畳んだ時に端でふくらむんです」


「ふくらむというか、重くなる?」


「はい。黒い香りが『まだ終わってません』って端に座ってる感じです」


「黒い香りが端に座る」


 加奈がすぐ拾った。


「それ、かわいいような、魔王領としては怒られそうなような。でも分かる。端っこに居残ってるんだ」


「居残り香りです」


「それも案内に載せない方がいい」


「載せません」


 笑いの中で、最初に重くなった男性がもう一度布を手に取った。


「終わり方を知らなかったから失敗したんじゃなくて、香りの逃げ道がなかったんですね」


 黒縁が締まった女性も、同じように笑った。


「こっちはたまたま皿の近くで返しただけでした。少し、できる人みたいな気分になりかけていました」


「できる人代表、また出ましたね」


「魔王領の終わり方代表は、かなり荷が重いです」


 比較の空気が、少しだけほどけた。

 しかし、台の形が変わらないままでは、また次の人が香りを聞き、布を斜めに掲げ、決め顔を作る。香りを逃がす場所を、人の通っぽさから台へ移さなければならなかった。


◆香りが皿を探す


 勇輝は香り逃がし皿を畳み台の手前に置いてみた。

 皿は黒い陶器で、底にうっすら赤い線が入っている。魔王領の器らしく、見た目は少し強い。けれど、香りを受ける時の反応は静かだった。布端が皿の上を通ると、黒い香りがふっと皿の内へほどける。煙ほど見えるわけではないが、空気の黒が一瞬だけ薄くなる。

 問題は、皿をどこへ置くかだった。

 真正面に置くと、来場者はそこを舞台の中心だと思う。皿の前で大げさに布を返し始める。奥へ置くと、たまたま知っている人しか通さない。横へ置くと、また持ち直しの所作に見える。

 加奈は畳み台の前で、布を持たずに動きを試した。


「これ、布を畳む前に一度『はい、香りはこちらへ』って通る感じだよね。でも真正面に皿があると、そこが主役になる。黒い皿の前で、みんな絶対かっこつける」


「すでにかっこつけていますからね」


「うん。魔王領のものって、置いてあるだけでこっちを少し役者にする。黒い布を持ったら、誰でも一回くらい渋い顔したくなる」


「そこを完全には消せませんし、消す必要もないです。ただ、香りが抜ける条件を、渋い顔にしないことが大事です」


「渋い顔はおまけ。香りは皿」


「その言い方、案内にしなければかなり分かりやすいです」


「案内にはしない。会話の中だけ」


 美月は黒縁のぞき窓を台の脇に置き、布端の変化を見た。

 畳む前に皿を通した布は、黒縁が細くなる。皿の上を通らず畳んだ布は、端が重くなる。布を大げさに返しても、皿の上を通らなければ変わらない。逆に、特別な所作をしなくても、皿の上を自然に通れば黒縁は締まる。

 彼女は試しながら、自分でも少し乗ってしまった。布を持つと、つい片手を添え、斜めに返したくなる。


「あ、だめです。私も今、魔王領っぽく返そうとしました」


「美月ちゃんまで」


「黒い布、危ないです。持つと、終わり方を知ってる人の顔をしたくなります。これを見本にすると、みんなやります」


「すでにやり始めています」


「はい。なので、私が真正面でやるのは危ないです。皿の上を通すところだけ、横から見せた方がいいです」


「自分の巻き込まれを戻せましたね」


「戻しました。渋さから帰ってきました」


 来場者たちが笑う。

 勇輝はその笑いを受けながら、香り逃がし皿を畳み台の左手前へ少しずらした。布を広げたあと、畳み始める前に端を整える流れの途中で皿の上を通る位置だ。真正面ではない。けれど、無理に持ち直さなくても通る。

 その奥に、畳み待ち布盆を置く。皿を通した布を一度その盆へ戻し、そこから畳む。盆は大げさな待機場所ではなく、布端が落ち着く小さな受け場だ。

 案内担当が試してみた。

 布を広げる。布端を香り逃がし皿の上へ通す。黒い香りが皿の内へふっと抜ける。畳み待ち布盆へ置く。そこから畳む。

 黒縁は細く締まった。


「今のは、特別な返し方をしていません」


「はい。皿の上を通ってから布盆へ戻しただけです」


「これなら、お客様にも言いやすいです。『皿の上を通してから畳みます』で済みます」


「そうですね。『香りを逃がす所作』と言うより、皿の上を通る形にしましょう」


 次の来場者へ、短い案内を試した。


「畳む前に、布端をこちらの皿の上へ通してから、布盆へどうぞ」


 来場者は布を大げさに掲げることなく、皿の上を通した。香りが抜け、布盆へ置く。畳み上げると、黒縁が細く残る。

 その人は、驚いたように布端を見た。


「格好つけなくても締まりました」


「格好つけてもいいんですけど、締まる理由は皿の方です」


 加奈がすぐ返す。


「渋い顔は自由、でも香りは皿。やっぱり分かりやすいね」


「案内には」


「載せない。分かってる」


 笑いが軽く広がり、黒香り畳み台の重さが少し抜けた。

 しかし、今度は別の小さな問題が見えた。黒縁のぞき窓で、布端が締まる瞬間を見られる。その変化が面白く、来場者たちが窓の前に集まり始めたのだ。


◆皿の前で決めたくなる


 香り逃がし皿を左手前へ寄せたあと、勇輝たちは何度か通し方を試した。

 布端が自然に皿の上を通る位置は見えてきた。だが、皿そのものが強すぎる。黒い陶器の皿は、ただ置いてあるだけで「ここで何かを決める場所です」と言いたげだった。魔王領の品らしい赤い線が底に入っているせいで、来場者は皿の前に来ると、どうしても一拍置きたくなる。

 試し役になった案内担当も、布端を皿の上へ通す直前で止まった。


「今、止まりましたね」


「止まりました。皿の前で、なんとなく間を作りたくなります」


「香りを抜くための間というより、場面を作る間ですね」


「はい。自分でも少し、ここで何か言った方がいいような気がしました」


 加奈が、皿の前をのぞき込みながら笑った。


「黒い皿、圧があるね。ここで『さらば、香りよ』とか言いたくなる。言わないけど」


「言いたくなりますか」


「なる。魔王領のものって、最後に一言置きたくなるんだよ。お鍋の蓋を閉める時は何も言わないのに、黒い布だと急に締めの台詞が欲しくなる」


「締めの台詞まで入ると、畳み台ではなく舞台ですね」


「だから、皿の前で止まりすぎない方がいい。香りは逃がすけど、人が台詞を探しに行かない位置がよさそう」


 勇輝は皿をほんの少し斜めにした。真正面から見ると、皿はどうしても主役になる。布端が横からかすめるように通る角度にすると、皿は受ける場所になり、場面の中心ではなくなる。

 美月が布を持ち、試した。彼女はさっきから何度も魔王領の渋さへ吸い寄せられている。だからこそ、試すには向いていた。


「いきます。布端を皿の上へ……あ、今の角度だと、決め顔の入り口が少ないです」


「決め顔の入り口」


「はい。真正面だと、皿へ向かって布を捧げる感じになります。でも斜めだと、布を通すだけに近いです。香りは抜けます。私の中の魔王領舞台袖は、半分くらい閉まりました」


「半分は開いているんですね」


「黒い布なので、完全には閉まりません」


 来場者たちが笑う。美月は黒縁のぞき窓で端を見た。黒は細く締まっている。大げさな返しは要らなかった。

 次に、最初の男性が試した。彼は一度重い黒縁になったので、慎重さが残っている。皿の前で布を止めかけたが、斜めに置かれた皿のせいで、止まるより通す方が自然だった。


「今、何か言う前に通っちゃいました」


「それで大丈夫です。香りは抜けています」


「前だったら、たぶん『これが終わりか』みたいな顔をしてました」


「それも楽しそうですが、毎回やると列が黒い物語になります」


「列が黒い物語」


「たぶん長いです」


 加奈がその言葉に乗った。


「しかも全員、最後だけ妙に余韻を残すから進まないよ。布を畳むたびに一話完結されたら、受付さんが困る」


「一話完結」


「ごめん、ちょっと行きすぎた。でも、布は短く終われる方がいい。香りは皿へ、余韻は布へ、人は次へ」


「加奈さん、今のはかなりまとまっています」


「まとまりすぎると危ないから、案内には載せない」


 勇輝は笑いを受けながら、畳み待ち布盆との距離も見た。

 皿を斜めにしたことで、布端は自然に香りを逃がせる。だが、皿から布盆までが遠いと、来場者は香りが抜けたあとでまた止まる。畳む前の布をどこへ戻せばいいのか分からず、皿の前で布を持ったまま考えてしまう。

 案内担当がもう一度試した。皿の上を通る。香りは抜ける。そこで手が止まった。


「今度は、皿のあとで迷いました」


「布盆が少し遠いですね」


「皿で終わった感じがして、そのあとどう畳むか一瞬考えました」


「香りを逃がしたあと、布がすぐ戻れる場所が必要です。皿の役目が終わったら、布盆へ流れるようにしましょう」


 勇輝は布盆を皿の奥へ寄せた。布端を皿の上へ通したら、そのまま布盆へ置ける位置。畳み台の真正面には、畳むための余白を残す。

 美月がすぐに試す。


「皿、布盆、畳む場所。今の方が流れます。皿の前で決めなくていいし、皿で終わりにも見えません」


「では、案内は」


「『皿の上を通して、布盆へ』です。短いですけど、これで足が、あ、布なので足じゃない。手が迷いにくいです」


「布に足があると、別の展示になりますね」


「危なかったです。香り布が歩き始めるところでした」


 来場者たちがまた笑った。

 その笑いの中で、次の女性が布を通した。皿の上で香りが抜け、布盆へ戻り、畳み台の中央で畳まれる。黒縁は細い。

 彼女は、自分の仕上がりを見て素直に喜んだ。


「格好よくできたというより、布がちゃんと終わった感じです」


「はい。その感覚が近いです」


「ちょっと格好よく見えるのは、布のおかげですね」


「布のおかげにしておくと、次の方も入りやすいです」


 この場面で、皿が主役になりすぎる問題は少し落ち着いた。香り逃がし皿は、黒い余韻を受ける場所であって、来場者が魔王領の決め台詞を置く場所ではない。皿の角度と布盆の近さだけで、それがかなり変わる。

 ただ、黒縁のぞき窓がまだ人を引き留める。次に詰めるべきは、そこだった。


◆黒縁を覗きすぎる


 黒縁のぞき窓は、小さな黒い枠の中に布端を映す道具だった。

 布を畳む直前、香りが抜けたかどうかを目で見られる。皿の上を通ると、布端に残った黒が太い帯から細い線へ収まる。その瞬間は派手ではない。けれど、黒がすっと整う様子は妙に気持ちがよく、見た人が少し黙る。

 黙るだけならよい。

 問題は、みんな覗きすぎることだった。

 最初の女性が黒縁のぞき窓へ顔を近づけたまま動かない。布は畳み待ち布盆にある。畳める状態だ。けれど、細く締まった黒縁を見ていたくて、畳む作業へ移れない。


「これ、すごくいいですね。黒が細くなるところ、もう一回見たい」


「もう一回見るには、布をまた戻すことになります」


「戻したらだめですか」


「戻すと、また香りの話がややこしくなりますね」


 勇輝が柔らかく返すと、女性は笑ったが、窓から離れにくそうだった。

 美月もその気持ちは分かった。彼女自身、のぞき窓の横で何度も布端を見ている。黒が細くなる瞬間は、魔王領の渋さが分かりやすく出る。しかも、来場者にとっては「自分の布がうまく締まったか」を見られる安心でもある。

 だが、ここで止まると、また黒縁を見極められる人だけが次へ進めるように見える。

 加奈は、のぞき窓の前に集まり始めた人たちを見て、半分笑いながら言った。


「今度は窓の前で、黒の品評会になりかけてるね」


「品評会というほどでは」


「いや、みんな顔が真剣だよ。『この黒、細いですね』『こちらは余韻が』って、言い出しそう」


「言い出すかもしれません」


 美月が小さく手を上げた。


「私、言いかけました。『余韻が』って」


「美月ちゃん」


「すみません。黒縁を見ると、なんか言いたくなるんです。でも、ここで言いすぎると、また終わり方を分かってる人だけの場になります」


「戻れてえらい」


「渋さから帰ってきました、二回目です」


 勇輝は黒縁のぞき窓を、畳み台の正面から少し脇へ移した。真正面で鑑賞する場所にすると、来場者が止まる。横から確認できる程度なら、黒縁が締まったことを見て、そのまま畳みへ進める。

 次に試した来場者は、皿の上を通し、布盆へ置き、横ののぞき窓で黒縁を見た。


「細くなりましたね」


「はい。では、このまま畳みます」


「もう畳んでいいんですね」


「はい。黒縁は整っています」


 案内担当の声が短くなった。来場者は、窓の前で止まりすぎずに布を畳んだ。黒縁は細く残る。

 それでも、次の男性は窓を覗きながら言った。


「黒が細いかどうか、自分だと分かりにくいです。もっと見た方がいいですか」


「長く見なくても大丈夫です。皿を通して布盆へ置けば、布端は細く締まります。窓は、その変化を見られる場所です」


「見極める試験ではない?」


「はい。見極める試験ではありません」


 勇輝が返すと、男性はほっとした。


「よかった。魔王領の黒を読み取れないとだめなのかと思いました」


「黒を読み取る人になる必要はありません。布が通る場所を通れば大丈夫です」


「それなら、いけます」


 男性は布を畳んだ。黒縁は細く残った。

 のぞき窓は必要だ。だが、そこに鑑賞や判定の重さを乗せすぎてはいけない。黒縁が締まったことを見て、安心して畳む。そのくらいでよい。

 案内担当は、声のかけ方を少し変えた。


「黒縁が細くなりました。このまま畳みます」


 それだけで、来場者の手が動きやすくなった。

 美月はその声を聞き、自分でも試した。


「黒縁が細くなりました。このまま畳みます。……いいですね。『見てください』だけだと、みんな覗き続けますけど、『このまま畳みます』まであると、次へ進めます」


「次の動きを一緒に置くんですね」


「はい。窓で終わらせない。布を畳むところへ戻す」


 加奈がすぐに乗る。


「黒の鑑賞会から、畳み物へ戻す感じだね」


「畳み物」


「うん。洗濯物じゃないけど、布は畳まれてこそ終わるでしょ。黒を見つめてるだけだと、ずっと広がったまま」


「かなり生活に戻りましたね」


「戻した。魔王領でも、布は最後に畳む」


 その言葉は案外強かった。

 黒香り布は、魔王領の品だ。香りも黒縁も特別だ。けれど、布である以上、最後には畳まれる。そこへ戻せば、来場者は自分の通っぽさを試すのではなく、布を終えることへ向かえる。

 勇輝は香り逃がし皿、黒縁のぞき窓、畳み待ち布盆の位置をもう一度見た。皿で香りを抜き、窓で黒縁を見て、布盆から畳む。流れはつながってきた。

 あとは、市長がこの形を、町で使える体験として短く決めるだけだった。


◆布盆でまた迷う


 黒縁のぞき窓を脇へ移して、来場者が窓の前で止まりすぎることは減った。

 すると今度は、畳み待ち布盆の前で小さな迷いが生まれた。

 布端を香り逃がし皿の上へ通す。黒い香りが抜ける。黒縁が細く締まる。そこまでは分かる。では、その布を布盆へ置いたあと、すぐ畳んでよいのか。それとも、少し待つべきなのか。

 盆という名前と、黒い布が落ち着いて見える姿のせいで、来場者はまた慎重になり始めた。

 若い女性が、布盆へ置いた布を前に手を止めた。


「これは、ここで少し休ませるんですか」


「畳む前に一度置く場所ですが、長く待つ必要はありません」


「でも、置いたら黒がさらに細くなるかもと思って」


「待てば待つほど渋くなる、という場ではなさそうです」


 勇輝が答えると、加奈がすぐに生活の方へ引き寄せた。


「黒を寝かせると熟成する、みたいに考えちゃうよね。漬物とかカレーなら一晩置く話もあるけど、この布は閉館まで置いてもたぶん困るだけだよ」


「黒香り布の一晩寝かせ」


「おいしそうに言わないで。布だから食べない。でも、待てば渋さが増えると思うと、みんな盆の前で動けなくなるでしょ」


「すでに動けなくなりかけました」


「だから、布盆は寝床じゃなくて、畳む前にちょっと置く場所。長居しなくていい」


 女性は笑って、布を畳み始めた。黒縁は細いまま残った。

 美月はその変化を見て、布盆の位置を少し調整した。布盆が畳み台の中央に近すぎると、そこが第二の主役席になる。少し脇へ寄せ、布を置いたあと自然に畳み台の中央へ戻す角度にすると、布盆で止まりにくい。


「この位置だと、布盆が『待ってください』って言ってる感じが減ります」


「布盆が言うんですか」


「見えるんです。真正面にいると、かなり言います。脇にいると、『はい、一回こちらへ』くらいになります」


「布盆の口調まで出てきましたね」


「危ないです。でも、来場者の動きは変わります」


 案内担当も試した。皿の上を通す。布盆へ置く。そこから畳み台の中央へ布を戻して畳む。流れは止まらない。

 ところが、次の男性は別のところで迷った。布盆から布を戻す時、自分で持ち上げてよいのか、案内担当が渡してくれるのかが分からなかったのだ。


「ここからは自分で畳むんですか。それとも、触らない方がいいですか」


「ご自身で畳んで大丈夫です。香りは皿へ抜けています」


「魔王領の布って、途中から触るのをためらいますね。急に職員さんだけの領域みたいに見えて」


「職員だけの領域にすると、また知っている人だけの場になります」


 勇輝は男性の迷いを受けて、案内担当へ言葉を足した。


「布盆へ置いたら、『このままご自身で畳めます』と添えるといいかもしれません。香りが抜けたあとの布を、職員だけが扱うように見せない」


「はい。そこまでこちらで引き取ると、特別な処理に見えますね」


「そうです。皿が受ける、布盆で落ち着く、最後は来場者が畳む。その順にしたいです」


 加奈は畳み上がった布を見ながら、少し首を傾げる代わりに言葉を探した。


「最後を全部職員さんに渡しちゃうと、『やっぱり分かる人が仕上げるんだ』って見えちゃうもんね。おにぎりを握る体験で、最後の海苔だけ店員さんが巻いたら、そこがおいしいところに見えるみたいな」


「また食べ物ですが、分かります」


「ごめん。でも、最後の一番かっこいいところを渡されると、来た人は自分で終われなかった感じがする。布は自分で畳んで終わりたいよね」


「はい。香りの受け先は台側で支えて、畳み終えるところは来場者へ残します」


 美月は黒縁のぞき窓を覗き、布盆から畳まれた布を比べた。


「職員さんが畳んでも、お客さんが畳んでも、皿を通っていれば黒縁は細いです。畳む人の通っぽさではなく、香りの抜け道が効いてます。だから、自分で畳んでも大丈夫です」


「その言い方、来場者にも効きそうです」


「長くなりますかね」


「聞かれた時なら大丈夫です。最初は短く」


「はい。短く、聞かれたら足す」


 次の来場者に、案内担当が試した。


「布端を皿の上へ通して、布盆へどうぞ。黒縁が細くなったら、このままご自身で畳めます」


 来場者は迷わなかった。皿、布盆、畳む。黒縁は細く残る。

 その人は畳み上がった布を見て笑った。


「自分で最後までできた感じがあります。途中で魔王領に回収されなかった」


「回収される予定はありません」


 勇輝が返すと、周囲も笑った。

 その直後、案内担当は子ども連れの母親にも短い案内を試した。子どもは黒い布を前にして、最初から少し楽しそうだった。布を持った瞬間、どうしても悪役のマントのように広げたくなるらしく、端を持ってふわっと揺らす。


「これ、ひらひらしていい?」


「ひらひらしたくなるよね。でも、畳む前にこっちの皿の上を通してからね。香りが皿へ行ったら、布盆に置いて畳めるよ」


「香りが皿へ行くの?」


「うん。布が『ちょっと黒を置いていきます』ってする感じ」


 加奈が子どもの高さに合わせて言うと、子どもは納得した顔で布端を皿の上へ通した。黒い香りがふっとほどけ、黒縁が細くなる。


「行った?」


「行った。ほら、端が細くなった」


「じゃあ畳む」


 子どもは、さっきの大人たちよりずっとあっさり布を畳んだ。決め顔も、通っぽい動きもない。ただ、皿を通って、布盆へ置いて、畳む。それだけで黒縁は細く残った。

 母親が笑いながら、少しだけ肩を落とした。


「大人の方が、余計なことをしようとしますね」


「黒い布がそうさせるんだと思います。子どもさんの方が、皿を通るという流れだけを素直に受け取れました」


「私も、魔王領らしくしなきゃと思ってました」


「その気持ちは楽しいので残していいです。ただ、仕上がる条件にしなくて大丈夫です」


 勇輝が受けて戻すと、後ろの来場者たちも気が抜けたように笑った。子どもが普通に畳めたことは、余計な所作を探していた大人たちにとって、いちばん効く近道になった。

 布盆の迷いは、これでかなり減った。香りを逃がすのは皿。布を一度受けるのは盆。最後に畳むのは来場者。その役割が見えれば、誰かだけが知っている終わり方にはなりにくい。

 市長が来る前に、台の流れはようやく一つになった。


◆終わり方を人に背負わせない


 市長が黒香り畳み台の前へ来た時、来場者たちはちょうど布を畳んでいるところだった。

 一人が布端を香り逃がし皿の上へ通す。黒い香りが皿へふっとほどける。黒縁のぞき窓で端が細くなったのを見て、畳み待ち布盆から布を畳む。畳み上がった布は、渋く、けれど重すぎない黒縁を残している。

 市長は最初の重い布と、今の細く締まった布を見比べた。


「最初は、終わり方を知っている人だけが仕上げられるように見えたんですね」


「はい。実際は、畳む前に香りが皿へ抜けたかどうかでした」


「香りの逃げ道が、来場者の所作に寄りすぎていた」


「その通りです。口で細かく伝えると、皆さんが渋い動きを探し始めます」


 加奈がすかさず声を足した。


「探してました。布をひらっと返したり、香りを聞こうとしたり、台の前だけ魔王領の舞台みたいになってました」


「舞台になっていたなら、見てみたかった気もします」


「市長、見たら笑うと思います。でも、笑ったあとで『これを正解にしちゃだめだ』ってなるやつ」


「なるでしょうね」


 市長は軽く笑ってから、香り逃がし皿の位置を見た。真正面ではなく、布端が自然に通る左手前。黒縁のぞき窓は脇。畳み待ち布盆はその先。来場者の動きは、皿で止まらず、窓で止まりすぎず、布盆から畳みに戻る。

 市長は一度、自分で布を試した。

 黒香り布を広げる。畳む前に布端を皿の上へ通す。黒い香りが皿へ抜ける。黒縁のぞき窓で端が細く締まったことを見て、布盆から畳む。

 布は渋く仕上がった。

 ただ、市長の動きが自然だったせいで、周囲の数人がまたそれを見本にしそうになる。市長はそれに気づいて、すぐに言葉を置いた。


「今の動きを真似する必要はありません。大事なのは、布端が皿の上を通ることです。魔王領らしい格好よさは布が持っています。来場者が過度に背負わなくて大丈夫です」


「過度に背負わなくていい」


 最初に重くなった男性が、ほっとしたように繰り返した。


「それ、助かります。黒い布を持つと、なんか自分も渋くならなきゃいけない気がして」


「分かります。黒いものには、こちらを少し黙らせる力がありますから」


「市長もそう思います?」


「思います。けれど、町の体験で大事なのは、誰かだけが格好よく終われることではありません。初めての人でも、布の黒がちゃんと終われることです」


 勇輝は市長の言葉を受け、案内担当へ確認した。


「案内は、『畳む前に布端を皿の上へ通して、布盆へどうぞ。黒縁が細くなったら、このまま畳みます』でどうでしょう」


「それなら、香りの逃がし方を細かく教え込まなくて済みます」


「はい。香りの話は、聞かれた時に足す程度でいいと思います」


 市長は短く決めた。


「この形で行きましょう。黒縁の渋さを、知っている人の所作へ預けない。香りは皿へ逃がし、布は布盆へ戻して畳む。魔王領らしさは残しますが、通っぽさの競争にはしません」


 通っぽさの競争。

 その言葉で、台の前にあった空気がはっきりほどけた。

 黒縁が重く残った男性も、細く締まった女性も、同じように笑う。知っている人と知らない人ではなかった。皿を通ったか、通らなかったか。それだけだった。

 美月は、黒縁のぞき窓を軽く拭きながら言った。


「これで、私も窓の前で余韻がどうとか言いすぎずに済みます」


「言いすぎる予定だったんですか」


「かなりありました。魔王領の黒、語りたくなります」


「語りたくなる気持ちは残していいです。ただ、体験の入口では短く」


「はい。語るなら、終わったあとに希望者へ」


「それくらいがちょうどいいですね」


 市長は案内担当へ最後に声をかけた。


「通常の回し方で二回見ましょう。初めての方と、香りの違いが分かりにくい方。どちらも、自分だけ渋く終われない感じにならないか」


「はい」


 黒香り畳み台は、ようやく人の格好よさから少し離れた。

 香りは皿へ。黒縁は窓へ。布は布盆へ。そして畳む。

 魔王領の余韻は消さずに、町の人が普通に触れる形へ近づいていた。


◆皿の上を通るだけ


 決めた形で最初に来たのは、初めて黒香り布を扱う女性だった。

 彼女は黒い布を受け取っただけで、少し姿勢を正した。魔王領という言葉と、布から立つ黒い香りが、自然にそうさせるらしい。だが、以前のように無理な決め顔までは作らない。

 案内担当は短く声をかけた。


「畳む前に、布端をこちらの皿の上へ通してから、布盆へどうぞ。黒縁が細くなったら、そのまま畳みます」


「布端を皿の上へ通すだけでいいんですか」


「はい。香りは皿の方へ抜けます」


「香りを自分で逃がすわけではなく?」


「皿の上を通れば大丈夫です」


 女性は少し安心した顔で布を広げた。布端を香り逃がし皿の上へ通す。黒い香りが皿へほどける。黒縁のぞき窓で、端の黒がすっと細くなった。

 彼女は思わず笑った。


「本当に、皿の上を通るだけでした」


「はい。このまま畳めます」


 布盆へ置き、畳む。黒縁は細く残った。

 加奈が横から、軽く声をかける。


「ね、布をひらっと返して魔王領っぽい顔をしなくても大丈夫だったでしょ」


「実は、ちょっとやろうとしてました」


「やりたくなるよね。黒い布って、持った瞬間に自分の中の舞台袖が開く感じあるもん」


「舞台袖」


「うん。『ここで渋く終わります』みたいな。でも、今日は皿が受けてくれるから、普通に畳んでいい」


「普通に畳めるの、助かります」


 次の来場者は、前の癖で布を大げさに返そうとした。布端が皿から離れ、香りが抜けない位置でひらりと揺れる。

 美月がすぐに笑って戻した。


「今日は皿の上を通るだけで抜けます。布を大きく返さなくても大丈夫です」


「今、ちょっと決めようとしました」


「決まりかけてました。かなり黒かったです。でも香りは皿に行っていません」


「格好だけでしたね」


「格好はありました。香りは別でした」


 来場者は笑い、布端を皿の上へ通した。黒い香りが抜け、黒縁が細くなる。布盆から畳むと、仕上がりは落ち着いていた。

 周囲に、変な拍手は起きない。誰かを見本役として持ち上げる空気もない。ただ「おお、締まった」「ほんとだ」と小さく喜ぶ声が広がる。

 勇輝はその様子を見て、少しほっとした。


「今の戻し方、よかったです。大げさな動きを否定するのではなく、香りが抜ける場所へ戻せています」


「否定すると、せっかく楽しくなりかけた人が縮みますもんね」


 美月は少し得意そうに返した。


「黒香り布は、ちょっと格好つけたくなるところも楽しいです。でも、それが正解に見えると困るので、皿へ戻します」


「その感じでお願いします」


 市長も、少し離れて見ていた。


「笑いが残っているのがいいですね。魔王領らしい格好よさを全部消すと味気ない。でも、格好よさだけで仕上がる場にはしない」


「はい。布が通る場所で揃えます」


 初めての来場者が続けて数人試した。

 布端を皿の上へ通す。黒い香りが抜ける。黒縁が細くなる。布盆から畳む。

 誰かの所作だけが特別に見えることはなかった。渋い終わり方は、知っている人のものではなく、台の流れを通った布のものになっていった。


◆香りが分からない人


 次に来たのは、香りの違いが分かりにくいという男性だった。

 彼は黒香り布を受け取って、少し申し訳なさそうに笑った。


「正直、香りが抜けたかどうか、自分ではあまり分からないかもしれません。黒い香りがする、というところまでは分かるんですけど」


「その受け取り方で大丈夫です。香りを読み取れる人だけの体験にはしません。布端を皿の上へ通して、黒縁のぞき窓で端が細くなったのを見てから畳めば、仕上がりは整います」


「香りが分からなくても?」


「はい。分からないままでも、布の方は分かります」


 その言い方に、男性は照れたように笑った。


「分からないままでも布の方は分かる、いいですね。自分より布がしっかりしている」


「魔王領の布ですから、そこは頼っていいと思います」


 加奈も隣で声を添えた。


「香りって、人によって分かり方が違うもんね。コーヒーの違いが分かる人もいれば、『なんかいい匂い』で終わる人もいる。私もだいたい後者。でも、おいしく飲めればいい時もあるでしょ」


「それ、かなり分かります」


「今回は飲まないけどね。香りを全部読めなくても、布端が皿の上を通ればちゃんと終われる。通っぽい鼻にならなくていい」


「通っぽい鼻」


「変だった。でも、そういうこと」


 男性は笑い、布端を香り逃がし皿の上へ通した。黒い香りが皿へ抜ける。本人は鼻を動かしたが、首をひねる。


「抜けた……んですかね」


「黒縁、見てみましょう」


 美月が黒縁のぞき窓を指し示した。窓の中で布端の黒は細く締まっている。

 男性は目を丸くした。


「香りは分からないままですけど、端は分かります。細くなってます」


「それで大丈夫です。このまま畳めます」


 布盆から畳むと、黒縁は渋く残った。男性は畳み上がった布を見て、ほっとしたように笑った。


「自分だけ渋く終われないかと思いました。香りの違いが分からないと、魔王領のものは向かないのかなって」


「向かないわけではありません。香りを感じるのが得意な方もいますが、今回の仕上がりはそこへ預けません」


「皿が受けるから」


「はい。皿が受けます」


 次に、別の女性が同じように試した。彼女も香りの違いに自信がないらしく、布端を何度も鼻へ近づけようとする。

 美月が笑って戻した。


「今日は皿の上を通れば抜けます。香りを当てなくても大丈夫です」


「当てるつもりになってました」


「なりますよね。黒い香りって、分かった方が格好いい感じがします」


「そうなんです。『あ、今抜けましたね』とか言えたら渋いなって」


「言いたくなります。でも、言えなくても布は締まります」


 女性は安心して皿の上を通した。黒縁が細くなる。畳む。仕上がりは静かに渋い。

 加奈がその布を見て、柔らかく言った。


「ほら、鼻が魔王領にならなくても大丈夫だった」


「鼻が魔王領」


「ごめん、さすがに変だった。でも、分かるでしょ」


「分かります。自分を変えなくても布が終われました」


「それがいい。香りを分かる人だけが格好いいんじゃなくて、布がちゃんと終われる場所がある」


 その言葉で、台の前の空気がさらに軽くなった。

 香りを扱える人だけが魔王領らしいのではない。黒を読み取れる人だけが渋いのでもない。香りを逃がす皿があり、黒縁を見る窓があり、布を戻す盆がある。そこを通れば、その人の布として落ち着く。

 市長は、二人の仕上がりを見て案内担当へ言った。


「香りの違いが分かりにくい方でも大丈夫ですね。『香りが抜けたかを当てる必要はありません』と、不安そうな方には添えてください。最初から全部言うと長くなりますが、聞かれた時に効きます」


「はい。香りを当てる場ではない、と」


「そうです。布が皿を通れば、黒縁が整う。そこへ戻しましょう」


 案内担当は、今度は自分の言葉で次の人へ声をかけた。


「香りが分からなくても大丈夫です。布端を皿の上へ通すと、布の方がちゃんと終わりを作ってくれます」


「布の方が」


「はい。のぞき窓で黒縁を見てから畳めます」


 来場者は笑って布を通した。黒縁は細くなり、布は落ち着く。

 黒香り畳み台は、もう通っぽい人だけの場所ではなかった。


◆黒は残して重さは逃がす


 夕方の混み始め、黒香り畳み台にはまた数人が並んだ。

 最初の頃と違い、全員が静かに決め顔を作ることはない。けれど、黒い布を手にすると、どうしても少しだけ芝居がかる。布を広げる指先がゆっくりになり、目元がわずかに深くなる。魔王領の品には、人をその気にさせる力がある。

 それ自体は、悪いことではなかった。

 大事なのは、その芝居がかった楽しさを、正解の条件にしないことだ。

 一人の来場者が、布端を皿へ通したあと、前の癖でひらりと返そうとした。今度は香りはもう抜けている。黒縁ものぞき窓で細くなっている。なのに、最後にもう一回、渋く終わらせたくなったらしい。

 案内担当が笑って戻した。


「香りは皿の方へ抜けています。このまま布盆から畳めます」


「今、余計に決めようとしました」


「決める気持ちは分かります」


 加奈がすぐに乗る。


「黒い布って、最後にひと芝居したくなるよね。でも今日は、芝居は心の中で。布はそのまま畳んで大丈夫」


「心の中で芝居」


「うん。外へ出すと香りが迷子になるかもしれない」


「香り、迷子になります?」


「たぶんならないけど、言いたかった」


 来場者は笑い、そのまま布を畳んだ。黒縁は細く残る。

 美月はその仕上がりを見て、黒縁のぞき窓を畳み台の脇へ少し戻した。混み始めると、人は窓の前に残りやすい。横から見てすぐ畳める位置の方がいい。


「この時間帯だと、のぞき窓を真正面に置くと、みんな黒を眺め続けます。横にしておく方が、黒縁を見てから畳みに戻りやすいです」


「混んでくると、鑑賞場所がそのまま詰まりになりますね」


「はい。黒は見たい。でも台の真ん中で見入ると、次の人が皿へ行けません」


「黒を残して、人は流す」


「勇輝さん、今ちょっと格好いいこと言いました」


「案内には載せません」


「先に戻された」


 場が笑う。

 市長は、台の前のその笑いを聞いていた。魔王領の布なのに、重くなりすぎていない。黒は残っている。香りも残っている。けれど、来場者が黒を扱える人かどうかを競う場にはなっていない。

 それでも、黒縁が細く残った布を見て、来場者の一人がつい言った。


「これ、渋いですね。自分でもちょっと、分かってる人みたいに見えます」


「見えます。でも、分かってる人にならなくても大丈夫です」


 勇輝が受ける。


「その布は、皿を通って香りが抜けたから渋く終わっています。来場者の方が急に魔王領の達人になったわけではありません。もちろん、なった気分を少し楽しむくらいはいいと思います」


「少し楽しむくらい」


「はい。楽しんでいいですが、次の人が『自分も達人にならないと』と思わない形にしたいです」


「分かりました。達人気分は胸の中で」


「それくらいがいいですね」


 加奈がその返しに笑った。


「達人気分、完全禁止じゃないのがいいよね。こういう布、ちょっとその気になって楽しいから」


「全部禁止すると、魔王領らしさが薄くなります」


「そうそう。黒は残して、重さだけ皿へ逃がす」


 その言葉に、美月がぱっと顔を上げた。


「今の、かなり今日の感じです。黒は残して、重さは逃がす」


「案内には?」


「載せません。会話の中だけです。でも覚えておきたいです」


 市長も少し笑った。


「会話の中なら、よい言葉です。掲げるとまた全員が黒の重さを測り始めますから」


「測り始めそうですね」


「ええ。ですから、案内は短く。皿の上を通す、布盆へ戻す、黒縁が細くなったら畳む」


 その短さで、夕方の列も回った。

 香りが分かる人も、分かりにくい人も、少し芝居がかる人も、普通に畳みたい人も、同じ皿の上を通る。黒い香りは皿へほどけ、布端の黒縁は細く締まる。

 魔王領の余韻は、台の上にちゃんと残っていた。


◆最後の布


 閉館前、黒香り畳み台の前には最後の来場者が一人だけ残っていた。

 彼は、最初からずっと見ていたという。黒香り布の香りが面白く、でも自分がやるとなると、どうにも格好つけすぎそうで迷っていたらしい。

 黒い布を受け取ると、彼は少し照れた。


「たぶん、自分はこういうのを持つと、すぐ変な決め方をします」


「分かります。持っただけで、終わり方を知ってる人の顔になりますよね」


 美月が明るく返すと、彼は笑った。


「なります。でも、今日は皿の上を通るだけなんですよね」


「はい。格好よさは布に任せて大丈夫です」


 案内担当の声が、すっかり自然になっていた。

 彼は布を広げる。黒い香りがふわりと立つ。少しだけ決め顔になりかけたが、自分で吹き出した。


「だめだ、今、入りました」


「入りましたね」


 加奈が楽しそうに返す。


「でも、そのくらいはいいよ。布を持って楽しくなる分には。香りを逃がすところだけ、皿へ任せればいい」


「はい。皿へ任せます」


 彼は布端を香り逃がし皿の上へ通した。黒い香りが皿の中へほどける。黒縁のぞき窓で端が細くなった。畳み待ち布盆へ置き、そこから畳む。

 布は静かに仕上がった。

 黒縁は細く、けれど消えていない。香りも薄く残り、畳み上がりに小さな余韻をつくっている。

 彼は布を見て、ほっとしたように言った。


「終わり方を知らなくても、ちゃんと終われました」


「はい。布が終われる場所を通りましたから」


「それ、いいですね。自分が渋くなったというより、布が渋く終わった」


「そのくらいが、ちょうどいいと思います」


 市長は最後の仕上がりを見て、案内担当へ短く声をかけた。


「明日もこの形で。魔王領らしい黒は残し、人の通っぽさで差を作らない。皿と布盆の位置を変えずに始めましょう」


「はい」


「そして、香りが分からない方にも、『布の方が分かります』と返せるように」


「分かりました」


 美月は黒縁のぞき窓を片づけながら、小さく笑った。


「今日は、みんな何度か達人になりかけましたね」


「なりかけたね。魔王領の布、強い」


「でも、達人にならなくても畳める形になりました」


「それが一番いい。ちょっとその気になる楽しさは残して、できる人とできない人の差にはしない」


 勇輝は香り逃がし皿を手に取り、皿の底に残る黒い香りを見た。香りは煙のように見えるわけではない。けれど、皿の内側がほんのり暗く、そこへ布から逃げた余韻が集まっている。

 黒を消したわけではない。逃がしきったわけでもない。布に残す分と、皿へ逃がす分が分かれたことで、黒縁が細く締まったのだ。

 台の上で、布はようやく終われていた。


◆皿にほどける黒


 人が引いたあと、黒香り畳み台には一枚の布が残っていた。

 片づけ用に案内担当が最後に畳む布だ。部屋の照明は少し落とされ、黒い香りは昼間より静かに感じられる。魔王領の品は、人が多い時より、誰もいない時の方が少し近い。

 案内担当は布を広げた。香りがふわりと立つ。けれど、もう身構えない。布端を香り逃がし皿の上へ通す。

 黒い香りが、皿の内へふっとほどけた。

 布端の黒縁が細く落ち着く。黒縁のぞき窓を使わなくても、今なら台の上で分かる。重たく残っていた黒ではなく、布の終わりに似合う細い黒だった。

 畳み待ち布盆へ置き、ゆっくり畳む。

 黒縁は、最後まで細いまま残った。

 加奈が台の端から、静かにその布を見た。


「最初は、黒い布を持つだけでみんな役者みたいになってたのにね」


「なっていましたね」


「でも、今は布がちゃんと終わってる。人が決め顔しなくても、黒は黒で残る」


「香りの行き先ができたからだと思います」


 勇輝は香り逃がし皿を元の位置へ戻し、布盆との距離を確かめた。明日も同じように布端が通る場所。皿が主役になりすぎず、しかし忘れられない場所。

 美月は黒縁のぞき窓を布で軽く拭いた。


「窓、片づける前にもう一回見たくなりますね」


「また沈むならぬ、黒に寄ってる」


「寄ってます。でも、今日は戻れます。黒縁が締まったのを見たら、布を畳む。そこまでが終わりです」


「いい戻り方です」


 市長は、畳み上がった最後の布を見て、少しだけ口元を緩めた。


「魔王領の黒は、町で軽くしてはいけないものだと思っていました。でも、重さを全部人に持たせる必要もない。残す黒と逃がす香りを分ければ、初めての人でも触れます」


「はい。渋さは残りました」


「ええ。けれど、知っている人だけの渋さではありません」


 黒香り畳み台の上で、最後の布が静かに置かれている。

 香り逃がし皿の内側には、黒い余韻が薄くほどけていた。畳み待ち布盆の上には、細い黒縁を残した布が一枚。

 そこに立つ案内担当は、所作を決めた顔ではなかった。ただ、畳み上がった布の静かな渋さだけを見ている。

 皿の上でほどけた黒い香りは、もう誰かの通っぽさを試していなかった。

 布端の黒縁が、細く、落ち着いて残っていた。


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