第163話『幽界の迷子と、ひまわり市の小さな救助隊』
◆朝・ひまわり市・公園
霧が少し残る早朝だった。
昨日より薄い。薄いのに、完全には消えない。消えないものがあるだけで、人は「終わっていない」と感じる。終わっていない感覚は、眠気より先に身体を起こす。
勇輝は公園の小道を歩きながら、昨日の霊魂のことを思い返していた。
あの子はちゃんと戻れただろうか。
疑問というより、確認できないことへの静かな不安だった。助けたはずのものが、助かったかどうかは、最後までこちらには分からない。分からないものを抱えたまま仕事に戻るのが、この町の習慣になりつつある。
美月が端末を手に、空気を測定していた。
微弱な霊力反応がまだ残っている。
残っている、という言葉が苦い。残るということは、漂うということだ。漂うということは、居場所がないということだ。
加奈も頷いた。
もう一人くらい出てきても不思議じゃない。
予測が現実の形で口に出るとき、予測は半分すでに当たっている。
その瞬間、ふわりと小さな霊魂が目の前に浮かんだ。
霧の薄い膜から、息が抜けるように現れる。
大きさは手のひらほど。輪郭は曖昧で、けれど「子ども」であることだけははっきり分かる。子どもは、存在の小ささがそのまま痛みに繋がる。
「……あの、助けて……」
声は小さいのに、胸の奥へ沈む。
沈むのは、声のせいではない。助けて、と言えるだけの未完が残っているせいだ。
勇輝はそっと手を差し伸べた。
「大丈夫だ」
昨日と同じ言葉を使うことが、少しだけ怖かった。
同じ言葉が同じ効き方をするとは限らない。けれど言葉がないと、何も始まらない。だから彼は同じ言葉を選び、同じ温度で差し出した。
霊魂は、ゆっくりと近づいた。
近づくというより、引かれる。引かれる力が、彼の手のひらの中にあるように見えた。
◆午前・市庁舎・広報室
広報室はいつもの明るさだった。
蛍光灯の白い光は公平で、霧の青白さとは違う。公平な光の下で、異界のことを話すと、異界が少しだけ現実に見える。現実に見えることは、救いでもあるが、疲れでもある。
勇輝、美月、加奈は「小さな救助隊」を組むことになった。
救助隊――大げさに聞こえる。だが、彼らがやろうとしていることは、確かに救助だった。
迷子を返す。居場所のないものを、居場所へ戻す。戻すという行為は、世界の縫い目を繕う。
美月は霊魂を誘導する装置を準備した。
装置は小さい。小さい装置ほど信頼できる。大きいものは壊れたときに怖い。小さいものは、壊れても手で補える。
「小さな迷子なら、直接手で誘導した方が安全かも」
安全、という言葉が何度も出る。
安全が話題になるほど、安全は脆い。脆いから、何度も確かめたくなる。
加奈は霊力の流れを整える魔法陣を描いた。
見えないように通すルートを作る。
見えないようにするのは、隠蔽ではない。日常を守るための配慮だ。日常は壊れやすい。壊れた日常は、戻るのに時間がかかる。
勇輝は真剣な表情で頷いた。
町の安全と霊魂の安全、その両方を守る。
両方を守る、という言葉は理想だ。理想を言葉にしておかないと、現場はすぐ「片方だけ」を選びたがる。選びたがるのは、人間の癖だ。癖を抑えるために、理想が必要になる。
◆昼・町中
迷子霊魂は、公園から庁舎前まで誘導された。
町中を歩く。歩くと言っても、霊魂は浮く。
浮くものを、歩く者が導く。この町ではもう、その逆転が不思議ではなくなりつつある。
途中、好奇心旺盛な町の猫が近づいてきた。
猫は霊魂に向かって首を傾げる。
霊魂は怖がらなかった。怖がらないというより、猫を「見て」いた。
見ていることが、ここにいる証拠だった。見ている限り、まだ迷子は完全に「向こう側」に落ちていない。
美月が微笑んだ。
癒される、と言った。
癒し――それは危険な言葉でもある。癒しは油断を生む。油断は事故を呼ぶ。だが癒しがないと、人は続かない。続けるために癒しが必要だという矛盾もまた、ここにはある。
加奈は小さく息を吐いた。
「油断は禁物」
迷子が増えると町が混乱する。
混乱は、霊魂のためではなく、町のためでもなく、「境界のため」に起きる。境界が乱れると、世界の方が揺れる。その揺れに、人間は弱い。
勇輝は霊魂に手をかざし、そっと導いた。
もう少しだ。頑張れ。
頑張れ、という言葉を霊魂に言うことの奇妙さが、胸のどこかに刺さった。
頑張るべきなのは、霊魂ではなく、この町の方かもしれない――そんな考えが一瞬よぎる。だが考えている暇はない。今は目の前の小さな存在を、帰すことだけが仕事だ。
霊魂は嬉しそうにふわふわと舞い、庁舎前に設置された転送ゲートへ到着した。
ゲートは「安全な場所」の形をしている。形をしている、というだけで人は安心する。安心は、形を必要とする。
「ありがとうございました!」
小さな声が聞こえる気がした。
気がした、という曖昧さが残るのは、声が弱いからではない。
曖昧さそのものが、幽界の言語だからだ。はっきりしないまま、それでも伝わるものがある。伝わってしまうから、胸が熱くなる。
◆夕方・庁舎屋上
夕方、勇輝たちは屋上から公園の方を見渡した。
霧はすっかり晴れていた。晴れた空は「最初から晴れていた」顔をしている。
世界はいつも、何事もなかったように元へ戻ろうとする。戻ろうとする力があることは救いだ。
美月は端末を置き、肩の力を抜いた。
今日も無事。
無事という言葉は、結果をまとめる言葉だ。まとめることで、一日を終えられる。
加奈も微笑んだ。
やりがいがある、と。
やりがい――それは現場に必要な感情だ。やりがいがあると思えなければ、怖さだけが残る。怖さだけが残ると、人はいつか折れる。折れないための言葉を、彼女はちゃんと持っている。
勇輝は空を見上げた。
日常を守るのも、ひまわり市の日常の一部。
皮肉のようでいて、今はただの事実だった。事実が皮肉に聞こえなくなるとき、人は「慣れた」のだろう。慣れることが良いのか悪いのか、彼にはまだ分からない。
ふわりと風が吹く。
霧の風ではなく、いつもの風。
その風が、町にささやかな安堵を運ぶ。
幽界省の小さな迷子たちも、きっと安心して帰っていくだろう――そう思えるだけで、今日は少しだけ軽くなる。




