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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第162話『ひまわり市に忍び寄る、幽界のささやき』

◆早朝・ひまわり市・庁舎前


朝の空気は、いつもよりひんやりとしていた。

冷たいというより、薄い。皮膚の上を撫でるものが減ったような感覚がある。音も匂いも、少しだけ遠い。季節の変わり目の冷え込みに似ているのに、それとは違う「引き算」の気配だった。


勇輝は出勤途中、空を見上げた。

淡い霧が町の屋根の間に漂っている。屋根の稜線が溶けて、建物の境界が曖昧になる。境界が曖昧になると、人の心も同じように揺れる。どこまでが現実で、どこからが別のものなのか、判断の指標が一つ消える。


「……霧?」


昨日の天気予報では晴れだった。

予報が外れたのではない。外れたのだとすれば、まだ安心できる。これは「外れ」ではなく、予報の外側にある霧だ。


そのとき、空気の中にかすかに響いた。

低い。ささやくようでいて、耳の奥を叩く。声は近いのに、距離がある。

「……助けて……」


勇輝は眉をひそめた。

聞こえたか、と自分に問う。自分の耳を疑うというより、自分の現実を疑う。現実はときどき、当然の顔で別の層を見せる。


美月が後ろから駆け寄ってきた。

「え? 何か声がしました?」

彼女の声は明るい。明るい声が、霧の薄さを少しだけ押し戻す。

勇輝は頷いた。幽界っぽい、と言う。

幽界――その言葉はこの町ではもう、突拍子もない冗談ではない。町の生活のすぐ隣に、異界が並んでいる。


加奈も端末を手に、霧の動きを見た。

微弱な霊力反応。幽界省からの何か。

「かも」という曖昧さが残るのは、霊力が強くないからではない。霊力が「迷っている」からだ。迷っている力は、行き先を定められずに漂う。


◆午前・ひまわり市庁舎・広報室


庁舎の小さな会議室。

いつもなら紙の匂いがして、蛍光灯が平等に明るい。だが今日は、窓の外の霧が部屋の中に薄く入り込んでいるようだった。湿り気というより、温度の低い透明が混ざっている。


小型の霊力検知装置が、広場の南側に集中反応を示した。

点が集まる。集まるということは、そこに「呼びかけ」があるということだ。呼びかけがあるのなら、応える側が必要になる。


美月は驚きながらも、軽く笑った。

「また町に異界の何かが」

笑いは、怖さを薄める道具だ。薄められた怖さの分だけ、足が動く。

だが、幽界省の場合は、笑っていい種類のものではないかもしれない――加奈の表情はそう告げていた。


「幽界省なら事前に警告があるはず」


加奈は慎重に言った。

警告がない、ということが不穏だった。制度があるなら、制度は守られる。守られないなら、制度の外側で何かが起きている。


勇輝は決意を固めた。

町を守りつつ調査する。無理な戦闘は避ける。

戦闘、という単語が出てしまう時点で、彼らの世界はもう普通ではない。普通ではないのに、彼らは普通の顔でそれを扱う。役所の仕事の延長線上で。


◆昼・ひまわり公園


霧は公園の木々の間で濃くなっていた。

葉の輪郭が溶け、遊具の色が鈍る。子どもたちの声が遠い――というより、声が「届かない」。霧は音を吸う。吸われた音が、見えないところで沈んでいるように感じられる。


その中に、透明に光る小さな存在が浮かんだ。

幽霊のような、と言うより、幽霊そのものの「幼さ」だった。

子どもの霊魂。迷子。

迷子という言葉は、ここでもやはり重い。生者の迷子は見つければ戻る。死者の迷子は、戻る場所そのものが揺れている。


「……助けて……」


声は小さいのに、胸の奥に残った。

残るのは、声の大きさではなく、声が持つ「未完」の感情のせいだ。助けてと言えるということは、まだここに繋がっているということでもある。


勇輝は手を差し伸べた。

「大丈夫だ」


大丈夫という言葉は、相手のためでもあるが、自分のためでもある。

霊魂に対して「大丈夫」と言うのは、現実の側が現実を保つための呪文に近い。


美月と加奈が周囲を警戒しながら、霊魂を囲む。

町民には見えない程度に、こっそり誘導しよう。

見えないようにするのは隠すためではない。日常を壊さないためだ。日常は壊れやすい。壊れた日常は戻りにくい。だから、異界は目立たない形で処理される。


子どもの霊魂は、少しずつ落ち着いた。

勇輝の手にふわりと触れる。触れたのに、冷たくはない。冷たくないからこそ、余計に胸が痛む。温度があることが、そこに「まだ何かが残っている」ことを示す。


「ありがとう……」


霧は徐々に晴れた。

陽光が戻り、芝生の緑がまた生き返る。

霧が晴れると、世界は急に現実を装う。さっきまでのことが夢だったかのように。けれど胸の中には、確かに残っている。助けて、と言われた重さが。


◆午後・市庁舎・広報室


戻ってきた広報室は、いつもの匂いをしていた。

いつもの匂いがする場所で、異界の事後処理をする。

それがこの町の異常の形だ。異常が日常の手順に収まっている。


迷子の霊魂を幽界省へ返還する準備を整える。

返還という言葉が事務的で、それが救いでもある。事務的にできるということは、前例があるということだ。前例があるということは、世界が壊れていないということだ。


美月は端末で記録を取りつつ、微笑んだ。

彼女の微笑みには、いつも現場を軽くする意志がある。

けれど幽界の案件に「映え」を持ち込むのは慎重でなければならない。その境界線を、彼女自身もどこかで探っているように見える。


加奈は深呼吸し、霊力の流れを整えた。

これで一安心。幽界省の方もきっと安心する。

安心――安心は、相手のためだけの言葉ではない。自分の中の震えを鎮めるための言葉でもある。


勇輝は霧の向こうを見つめた。

霧はもうない。なのに、霧の向こうを見てしまう。

異界の国から来る小さな訪問者も、町の一部になれるようにしてやる。

その言葉は優しい。優しいからこそ、責任の匂いがする。

町の一部にする、というのは守るということだ。守るというのは、見捨てないということだ。見捨てない、という決意は時に人を疲れさせる。けれどその疲れがあるから、町は町でいられる。


日常に戻った町の空気は、いつもより少し冷たかった。

冷たいのに、柔らかい。

霧の名残のような冷えが、しかし不思議と人の心を落ち着かせる。

ひまわり市は今日も、異界のささやきを受け止めながら、何事もなかったように朝を終えていく。

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