第161話『竜王の試練、ひまわり市に忍び寄る小さな危機』
◆午前・ひまわり市庁舎・広報室
朝の広報室には、紙の匂いがあった。
印刷されたインクの乾いた匂い。ファイルの樹脂の匂い。役所の匂いは、いつも同じ形で人を落ち着かせる。落ち着かせるはずだった。
勇輝は書類を整理しながら、昨夜のことを思い返していた。
町中を飛び回った光の鱗。驚き。笑い。スマホを掲げる手。
好評だった――それは事実だ。事実であるほど、油断が生まれる。
「大丈夫だった」という記憶が、次の危険を呼ぶ。危険はいつも、安心の陰から出てくる。
美月が端末を操作しつつ声をかけた。
竜王領から連絡。秘宝の追加試練があるという。
試練。
その言葉が、室内の空気を少し冷たくした。
試練は「評価される側」に落ちる言葉だ。ここで失敗すれば、町おこしの失敗だけでは終わらない。竜王領との関係が、目に見えない傷を残す。
加奈は眉をひそめた。
また町を巻き込む感じ――その予感は、すでに当たっているように聞こえた。
予感が当たる町は、疲れる。疲れるのに、止まれない。
勇輝は封筒を受け取った。
中には小さな巻物がひとつ。紙は軽いはずなのに、手の中で重い。
開くと文字が光り、淡い竜の紋章が空間に浮かんだ。
「書かれている」だけでなく、「現れてしまう」指示。指示が物質の顔をする。
――町の安全を保ちながら、秘宝の力で小さな奇跡を演出せよ。
奇跡。
奇跡という言葉は甘い。甘い言葉は、人を近づける。
安全を保ちながら、と添えられているのが余計に怖い。安全が条件として書かれるとき、安全はすでに脅かされている。
勇輝はため息をついた。
また町を使った実験か、と。
実験という語は冷たい。冷たい語で語ることで、熱に呑まれないようにする。火や光の魔力には、熱がある。熱は感情を煽る。感情が煽られると、事故が起きる。
美月は目を輝かせた。
町おこしも兼ねられるチャンス。
彼女の視線はいつも未来へ向いている。未来へ向く視線があるから、町は立ち止まらない。立ち止まらないから、転ぶこともある。
加奈は小さく頷いた。
うまくやれば評価が上がる。
評価――ここで初めて、試練が「竜王領の基準」であることがはっきりする。ひまわり市の常識だけでは足りない場所へ、町がまた踏み込む。
◆昼・ひまわり公園
公園は、昼の光に満ちていた。
木々の影が揺れ、芝生の緑が軽い。ここに秘宝を設置するという決断は、現実的でもあり、賭けでもある。開けた場所は安全だが、開けているぶんだけ、人が集まる。
秘宝の光は柔らかく、周囲の花や木々と調和していた。
調和している――そのことが、いちばん危うい。調和は危険を隠す。危険が目立たないとき、人は距離の取り方を忘れる。
子どもたちが寄ってきて、光を見上げた。
「竜の光だ」
触っても大丈夫かな。
触る、という言葉が口に出た瞬間、指先が動きたがる。子どもの指先は、世界を確かめるためにある。確かめたくなるものほど、危ない。
勇輝は手を広げて制止した。
近づきすぎるな。まだ調整中だ。
調整中という言葉は便利だ。中という曖昧さが、今は動かないでほしい、という願いを包む。
美月は笑顔で手を振った。
危なくない程度に楽しんでもらおう。
禁止よりも、条件を渡す。条件を渡せば、人は自分の行動を選べる。選べることが、暴走を止める。
加奈は制御装置を操作し、光の動きを整えた。
整える、というのは押さえつけることではない。
光が「行きたい方向」を読んで、少しだけ進路を変える。
自然を敵にしない。敵にしないことで、制御が効く。
◆午後・町の商店街
だが、風向きが変わった。
風はいつも変わる。変わるものを、完全に固定することはできない。
光の鱗がふわりと商店街へ飛び込み、ショーウィンドウに反射した。
反射した光は、増えたように見える。
増えたように見えると、人は集まる。集まると、さらに反射が起きる。
小さな現象が、町の賑わいと結びついて、拡大していく。拡大はいつも早い。
住民たちは驚きながらも、歓声を上げた。
竜の舞みたいだ、と誰かが言う。
記念撮影したい、と誰かが笑う。
恐怖が「見物」に変換されているうちは、まだ救いがある。見物は、パニックではない。だが見物は、距離を詰める。
勇輝は操作盤を握りしめた。
落ち着け。調整、調整。
落ち着けは心臓への命令だ。
心臓が速く打つと、指が狂う。指が狂うと、光が狂う。光が狂うと、町が狂う。
この連鎖をどこで止めるかが、今の仕事だった。
美月はスマホで記録しながら呼びかけた。
「ちょっとした演出です」
演出、という言葉は魔法みたいに効く。
現象を「意図」に変える。意図があると人は安心する。安心すると、動きがゆっくりになる。ゆっくりになれば、事故の確率が下がる。
彼女の笑顔は、明るさではなく、現場の防波堤だった。
加奈も微調整を続け、安全を保った。
安全は確保されるものではなく、保ち続けるもの。
保つという行為は、終わりがない。終わりがないから、疲れる。疲れるから、誰かと分け合う必要がある。三人でいる意味が、こういう時に出る。
◆夕方・ひまわりの大樹前
最終的に光は、大樹の周囲へ収束した。
収束するということは、帰る場所があるということだ。
散った光が戻ってくる。戻ってくる先が、町の象徴の根元であることが、少しだけ胸を撫でる。
夕陽を受けて、光は柔らかく輝いた。
花や木々を照らし、町に幻想的な風景をつくる。
幻想的、と言ってしまうと軽いが、そこには確かな現実がある。
誰かの呼吸が深くなり、誰かの顔がほころぶ。その変化が、現実だ。
勇輝は深呼吸して、微笑んだ。
町の安全は守った。
守った、と言える程度には、今日をまとめた。
試練も合格だろう、と口にすると、初めて肩の力が抜ける。抜けた瞬間に、疲れが来る。疲れが来るのは、生きている証拠だ。
美月は端末をチェックして、興奮気味に言った。映像映えはバッチリ。
加奈は安心して微笑んだ。竜王領も喜ぶだろう。
喜ぶ――その言葉は、評価の向こう側にある「関係」を示す。評価よりも、関係が続くことの方が、町にとっては大きい。
夕陽の中で、光の鱗がゆらりと揺れた。
揺れは、もう暴走の揺れではない。
風に合わせた揺れ。町の呼吸に合わせた揺れ。
ひまわり市に、またひとつ小さな奇跡が残った。
小さな奇跡は、大げさな祝福ではなく、明日のための「少しの余白」だった。




