第157話『ひまわり市と、深海都市ナギルの“水底祭り”』
◆早朝──ナギル水底ドーム中央広場
水底の朝は、朝らしくない。
夜が明けたというより、青が少しだけ薄くなる。光が差すのではなく、光が滲む。滲んだ光が、透明な壁や床の角に集まって、ゆっくりと揺れる。揺れは波ではなく、呼吸に近い。都市そのものが静かに息をしているように見える。
ナギル市長の提案で、共同の祭りが開かれることになった。
祭り――その言葉には浮かれた響きがある。だが水底では、浮かれるという行為がどこか慎重さを伴う。浮かれすぎれば、自分が浮いてしまう。水の底では、浮くという現象が寓話にならない。現実として起きる。
勇輝たちは準備のために広場へ向かった。
足を運ぶ、と言っても、歩く足元は常に揺れている。揺れがあるだけで、普段の動作が少しだけ遅くなる。遅くなることで、見えてくるものがある。準備を急がない場所。急ぐと危ない場所。
「今日は一日、マルシェとパフォーマンスの祭りですね」
美月は楽しそうに言い、手伝いを始めた。
楽しそう、というより、楽しそうであろうとしている。彼女の熱はいつも周囲を前へ押すが、水底ではその熱も薄い青に包まれて少し静かになる。熱が静かになると、言葉が丁寧になる。
加奈は子どもたちの安全確認と展示の調整を担当していた。
安全確認。調整。役所の言葉。
祭りの高揚の中でも、役所の言葉は地面のように残る。地面が残るから、人は踊れる。
◆午前──展示と交流
展示が並ぶと、広場は一気に賑やかになる。
深海の珍しい生物や鉱石。ひまわり市の特産品。
異なるものが同じ空間に置かれるだけで、人は「繋がった」と錯覚する。錯覚は悪いものではない。錯覚が先に繋げて、あとから本当の繋がりが追いかけてくることもある。
子どもたちは魚群と遊びながら、透明な水中トンネルを通った。
遊びは、本能のように境界を越える。怖さを知らないのではなく、怖さの扱い方をまだ覚えていないだけで、だからこそ一番自由だ。
勇輝は、その光景を見守った。
見守るという行為は、何もしないようでいて、ずっと緊張している。子どもが笑うほど、大人の心臓は少しだけ強く跳ねる。笑いの裏側に、転倒や迷子や、ガラスの向こうの水圧がいつでも潜んでいるからだ。
「……ひまわり市じゃ味わえない」
彼は小さく呟く。
味わえない、という言葉の裏には、味わえなくてよかった、という気持ちも混ざっている。
異界は美しい。美しいから、危ない。
◆午後──小さなサプライズ
祭りが動き出すと、「予定」からはみ出したものが現れる。
予定からはみ出すものを、人はサプライズと呼ぶ。サプライズは、世界が生きている証拠だ。
ナギル住民の青年が、即興のパフォーマンスを披露した。
光る海藻と、ひまわり市の焼き菓子。
海藻と菓子――水と火、塩と甘さ。相性が悪いはずのものが、水中の青い光の中で妙に馴染む。
青年の動きは、水に合わせて柔らかい。指先が海藻を操り、光が帯になって広場に流れる。焼き菓子は匂いとして参加する。匂いだけが、空気の層を作る。甘さが青に混ざり、青が甘さを冷ます。
水中ショーが広場を包む。
包む、という表現が似合う。水はいつも包む。包み込みながら、外へ逃がさない。
その包まれた感覚が、今日という日をひとつの記憶に固定する。
美月は端末で撮影した。
記録は、現象に枠を与える。枠ができると、人は安心する。安心すると、次に進める。
加奈は微笑んだ。
町おこしと交流が自然に一体化している、と言う。
自然に、という言葉が鍵だった。力づくではない。違いを消すのでもない。混ざり合っても壊れない濃度で、ただ並ぶ。
勇輝は深海の青い光を見上げた。
上には水面がある。空ではないのに、空を見上げるときと同じ動作をしてしまう。
異界との交流は、少しずつ町を広げていく――彼はそう思う。
広がる、という言葉は希望の形をしている。けれど広がることは、責任の範囲が広がることでもある。守るべきものが増える。迷子になる可能性も増える。
その両方を抱えたまま、彼は今日の青を眺めていた。
◆夕方──祭りの終わり
祭りが終わる頃、賑やかさはゆっくり静かさへ戻っていった。
急に終わらないのが水底の時間だ。音がすぐには消えず、気配が壁に残る。笑い声が薄くなり、足音が散り、最後に匂いだけがしばらく漂う。
子どもたちは小さな記念品を手にして帰っていった。
記念品は物だが、物が記念になるのは、物が「今日」を思い出させるからだ。今日が良かったということを、忘れずにいられるからだ。
勇輝たちは疲れを感じながら、最後の挨拶を交わした。
疲れは心地よかった。身体がちゃんと「一日を生きた」と言っている。
「また来てください」
ナギル市長は笑った。
笑顔が光る水底に映える。映える、という言葉は軽いが、ここでの笑顔は軽くない。都市と都市の間に、次の約束が生まれるということだからだ。
美月も小さく手を振った。
もっと大きな交流ができるといい――彼女は言う。
大きくすることが目的ではない、と勇輝は思いながらも、彼女の言葉の中にある純粋な期待を否定できない。期待は、町を動かす燃料でもある。
加奈は微笑んで頷いた。
頷きは約束の形をしている。言葉ほど強くないが、だからこそ長く続く。
勇輝は水面を見上げ、少しだけ空想した。
異界の都市が増えても、こうして日常が続くなら悪くない。
日常は、守るものではなく、続いてしまうもの。続いてしまうことが、時に救いになる。
水底の光と、町の風。
それらが静かに、ひまわり市とナギルを繋いでいた。
繋ぐものは大げさでなくていい。大げさだと、切れたときに痛い。
小さな灯りのように、消えない程度の明るさで、そこに在り続ければいい。




