第156話『海底迷子と、ひまわり市の小さな灯り』
◆朝──ナギル水底ドーム
朝の海底都市は静かだった。
静かなのに、ざわめきがある。矛盾のようだが、水の底では矛盾が矛盾のまま成り立つ。人々の声は遠くへ伸びず、壁や水圧の層に吸われて、すぐに丸くなる。その丸くなった声が、広場のあちこちに漂い、落ち着かない温度をつくっていた。
勇輝は歩きながら、床を見た。
水中の光が反射して、足元がゆらゆらと揺れている。揺れは水面の揺れとは違う。水面は上にあるのに、揺れは下に落ちてくる。世界の上下が入れ替わる場所では、安心の向きも少しずつ狂う。
「……子どもたちが迷子になった」
言葉にした瞬間、その出来事は急に現実味を持った。
迷子――どこにでもある言葉なのに、ここでは「戻れない」の匂いを強く含む。水の中は方向が曖昧で、距離の感覚も薄い。少し目を離すだけで、世界が別の形に折り畳まれてしまう。
美月が端末を操作して情報を整理している。
彼女の指先は速い。速いということは焦っているということでもある。けれど彼女の表情は、焦りを表に出さないように笑っている。笑うことで場を保つ。それもまた、広報の仕事の癖だ。
加奈は眉をひそめた。
水の中だとすぐ迷子になる――その一言は、危険の説明というより、ここにある環境の「性質」を言い当てている。性質は責められない。責められないからこそ、こちらが合わせるしかない。
勇輝は頷き、動き出した。
町の仕事は、いつも「起きてしまったこと」に対して、遅れてでも間に合う形を探すことだ。起きる前に防げれば理想だが、理想は理想のまま、現実は子どもが迷子になる。
◆午前──迷子捜索
透明な通路を進む。
透明であることは視界を広げるが、同時に不安も広げる。壁の向こうに水がある。水があるという事実が、ずっと背中に貼りついてくる。
水流に揺れる光が、通路の内側までゆらぎを持ち込む。小型の生物がガラスの外を横切り、こちらを見ているのか、見ていないのか分からない目で通り過ぎる。
美月が声をひそめた。
ここか、と。
声をひそめるのは、子どもを驚かせないためでもあるが、どこか「この都市に対して失礼にならないように」という配慮にも見えた。水の底では、大きな声は都市そのものを揺らすように感じられる。
そこに、子どもたちがいた。
固まっている。手に小さな光の粒を握っている。握っている光は、玩具のようでもあり、護符のようでもある。
子どもたちの目は、大人を見上げる目だった。助けを求めるというより、まだ「助けが来る」と信じている目。
「大丈夫だ」
勇輝はそう言って微笑んだ。
微笑むという行為は、状況を変えない。だが、状況に対する子どもの内側の見え方を変える。見え方が変われば、身体が動く。
◆昼──光のガイド
帰り道をどうするか。
この都市の通路は複雑で、曲がり角の先に同じような青が続く。青が続くと、人は方向を失う。方向が失われると、恐れが増幅する。
そこで加奈が、端末を操作しながら小さな光の道をつくった。
光の帯が、床の上に生まれる。
帯はゆらめきながら、しかし確かに「こっちだ」と示している。指示ではなく、誘い。
海底の道しるべ――その言葉がぴったりだった。道しるべは、迷子のためだけではない。大人のためでもある。大人もまた、道がなければ迷う。
子どもたちは光に沿って歩き始めた。
光を追いかける足取りは、さっきまでの固さが嘘のように軽くなる。
勇輝はその背中を見ながら、安堵と同時に、胸の奥が少し痛むのを感じた。道しるべが必要だという事実は、世界が優しいことの証拠でもあり、世界が危ないことの証拠でもあるからだ。
美月は感心しながら撮影した。
記録を残す。その癖は、いつも彼女を「後で使える形」へ物事を変換させる。
ひまわり市でも応用できそう、と彼女は言う。
応用という言葉は現実を前向きにする。だが同時に、ここで起きた怖さを「イベント素材」にしてしまう危うさも含む。美月はその危うさを分かった上で、あえて口にしているようにも見えた。怖さを怖さのままにしておくと、人は次に動けなくなる。
◆夕方──無事救出
全員が広場へ戻ったとき、空気のざわめきがひとつほどけた。
ほどける瞬間は、声に出さない方がよく分かる。人々の肩が下がり、呼吸が揃う。胸をなで下ろすという仕草が、ここでも同じように起きる。水の底でも、人間は同じことをして安心する。
子どもたちは笑った。
感謝の笑顔というより、「戻れた」という事実に対する笑いだった。
戻れた、ということは、今日という日が日常に戻ったということだ。
勇輝は上を見上げた。
空ではなく、水面の光を。
上に水があるという現実を眺めながら、彼は「今日も無事だった」と心の中で繰り返す。無事は成果ではない。無事は、積み重ねるしかない。
美月は笑って言った。
協力すれば怖くない。
怖くない、という言葉は嘘ではない。けれど、怖さがゼロになるわけではない。怖さは残り、残りながら薄くなる。薄くなるから、また明日が来る。
加奈は「小さな灯りが大きな安心になる」と言った。
灯りは大きくなくていい。むしろ大きすぎる灯りは、目を眩ませる。
必要なのは、足元を照らす程度の光。迷いを「ゼロ」にする光ではなく、迷っても戻れると信じられる光。
深海都市ナギルの青い静けさの中に、ひまわり市の温かい感触が少しずつ混ざっていく。
混ざっていくものは、目には見えない。
見えないのに、誰かの呼吸が少し深くなることで、確かに存在が分かる




