第155話『ひまわり市と、深海都市ナギルの“水底マルシェ”』
◆早朝──ひまわり市・港
朝の港には、潮の匂いが薄く漂っていた。
潮の匂いはいつもそこにあるはずなのに、今日はやけに輪郭がはっきりしている。空気が澄んでいるせいか、それとも、これから向かう場所が水の底だからか。理由を探す前に、鼻の奥が先に「海だ」と言い切ってしまう。
勇輝は停泊している小型の水上艇を見下ろし、今日の予定を確認した。
深海都市ナギルとの交流。
交流という言葉は便利で、便利なぶんだけ、中身の重さを隠してしまう。海の下へ行く、という事実を「交流」に包むと、途端に現実感が薄くなる。だが、薄くなった現実感の裏で、身体だけはちゃんと緊張していた。
水面に反射する光が、いつもより青く澄んで見える。
青は空の色ではなく、水の色だった。港の水が、すでに「深い側」へ引っぱられているように錯覚する。
隣で美月が紙袋を抱えている。
紙袋という素材が、海に似合わない。濡れればすぐ弱るものを、わざわざここへ持ってきている。
「案内が届きました」
美月は笑いながら言った。ひまわり市の特産品を、深海の市場で紹介したいらしい。
特産品。紹介。市場。
言葉を並べるほど、やっていることはいつも通りの町おこしに見える。だが、舞台が水底になるだけで、いつも通りが急に不安定になる。
加奈は船上の手すりに手を置き、海風に髪を揺らしていた。
楽しみ、と言いながらも、海の下だよ、と付け足す。
その付け足しが現実だった。楽しみの中に、ちゃんと怖さが混ざっている。
美月は目を輝かせた。水族館では味わえない、本物の深海体験。
本物、という言葉の軽さが少しだけ危うい。人は本物を欲しがるが、本物はいつも、人の都合に合わせてくれない。
勇輝は小さく息をついた。
水圧。転移した町でも、普段通りとはいかない。
普段通りであることが、今はどれほど貴重か。貴重だと知ってしまった時点で、もう普段通りではなくなっているのかもしれない。
◆午前──深海都市ナギル・入り口
水上艇はゆっくり港を離れ、透明な水底ドームへ向かった。
ドームは「守られている」形をしていた。人の背丈ほどの水圧――と誰かが言えばそれで説明できるのに、実際は圧というより、世界の厚みだった。
外側には水があり、内側には空気があり、その境界が目に見える。境界が目に見える場所に立つと、人はいつも自分の呼吸がどれほど危うい上に成り立っているかを思い出す。
中へ入ると、光が青く柔らかく差し込んでいた。
柔らかいのに、どこか冷たい。青は温度を持つ色だ、と勇輝は思った。
美月が「わぁ」と息をのむ。息をのむ音さえ、水の中に吸われていくみたいに小さい。
床の透明パネルの下では、魚群が泳いでいた。
色とりどりの魚。小さな深海生物。
それらは展示物のように見えながら、展示されているわけではない。彼らはただそこにいて、そこを生きている。人間の見物のために泳いでいるわけではない。
「普通の街じゃ考えられない」
勇輝はそう呟く。
普通、という言葉が今は頼りない。ひまわり市だって、すでに普通からは外れてしまっている。普通の外側に、さらに別の普通がある。その重なりが、彼の感覚を少しずつ狂わせる。
青銀の鱗に覆われたナギルの市長が現れた。
鱗は光を返し、光は鱗の間に沈む。人の肌とは別の「表面」がある世界。
市長はにこやかに言った。深海の恵みを体験してほしい、と。
勇輝と美月は礼を返し、加奈は端末を取り出した。
撮影という行為が、この異界の現実を「こちら側の現実」に変換する。変換は記録であり、同時に防御でもある。未知をフレームに収めることで、人は少し安心する。
「特産って具体的には」
美月が尋ねると、市長は微笑んだ。深海に生きる生物や鉱石の宝庫だ、と。ひまわり市の特産品と組み合わせて、海底マルシェを開こうと思う。
組み合わせる、という発想が、交流の核心かもしれない。混ざり合っても壊れない形を探す。壊れない形を探しながら、壊れてしまう可能性も抱え込む。
◆昼──水底マーケット
会場は光る珊瑚と水中植物で彩られていた。
飾りというより、環境そのものが飾りの役割を果たしている。魚群が背景を泳ぐ。背景が生きている、という事実が、視界のどこかを落ち着かなくさせる。
落ち着かないのに、見ていたくなる。深い青は、恐れと吸引を同時に持つ。
美月は手際よく準備を進めた。ひまわり茶と焼き菓子。
焼き菓子の甘い匂いが、青い空間の中で妙に鮮やかになる。海底に甘さを持ち込むことの違和感が、逆にこの交流を「現実」にする。
加奈はナギル特産の光る海藻や加工品を並べた。
勇輝は見学者の動線と安全を見ていた。役所の仕事は、いつも「見えないところ」を支える。幻想的な景観の中でも、床の滑りやすさや、手すりの位置や、子どもの目線の高さが現実として存在する。
来場者は人間だけではなかった。
ナギルの住民たち――海の生き物に似た形の人々が、興味深そうに商品を手に取る。指の形も、目の位置も、こちらと少し違う。違うのに、手に取る動作は同じだ。
欲しい。確かめたい。持ち帰りたい。
その素朴さが、異界を異界のまま、生活へ戻していく。
勇輝は思わず微笑んだ。
透明アクリル越しに手を振る子どもたちの姿が、いつもより柔らかく見える。水の層が、感情の角まで丸めるのかもしれない。
◆午後──ちょっとしたトラブル
順調に進んでいた展示が、ふいに揺れた。
光る海藻が漂い出す。固定されているはずのものが、固定されない。
美月が声を上げた。海藻が浮いた、と。
浮く、という現象が、ここでは「当然」に近い。
水の近くでは、ものはしばしば漂う。漂うものを押さえ込むのではなく、漂う前提で整える必要がある。
ナギルの住民の一人が、指揮棒のような器具で海藻を整列させた。整列は命令ではなく、誘導だった。海流と折り合いをつけるような動き。
「よくあることです」
市長は笑って言った。
自然と共存する深海都市ならではの小さなハプニング。
ハプニング、という軽い言葉の裏に、長い付き合いがある。この都市は「起きること」を受け入れる方法を、暮らしの中で磨いてきたのだろう。
勇輝は周囲を見た。
子どもも大人も、海底の景色に夢中で、混乱はすぐに笑顔へ変わっていた。
笑顔は、異常を正常に塗り替える。塗り替えることで、人は前へ進める。
◆夕方──水底ドームの広場
展示を終えたあと、勇輝たちはナギルの住民と談笑した。
談笑という言葉では足りない。言葉の端々に、互いの「違い」を確かめる時間が含まれている。違いを確かめて、違いに慣れて、違いを当たり前にしていく。
美月は興奮気味に言った。映える、と。
映えるという言葉は、世界を切り取るための言葉だ。切り取っても残るものだけが、本当に町の記憶になる。
加奈は微笑んで、町おこしと観光体験の両方が成功だと言った。
成功――その言葉を口にした途端、今日が「終わった日」になってしまうのが少し惜しい。終わらせたくない青が、まだここにはある。
勇輝は水面の光を見つめた。
空を見上げる代わりに、上にある水を見上げる。上に水があるという事実は、世界の上下を入れ替える。
異界の都市が増えても、交流が生まれるなら悪くない。そう思うことで、胸の奥の不安の形が少しだけ変わる。不安が消えるわけではない。形が変わるだけだ。
深海都市ナギルの静かで幻想的な世界に、ひまわり市の風景が混ざっていく。
混ざることは、溶けることでもある。溶けたものは見えなくなる。見えなくなるのに、匂いだけが残る。
潮と焼き菓子の甘さが、同じ空気の中で共存している。
その不自然さが、今日の交流の証拠だった。




