第154話『妖精の子どもたちと、小さな門のひらく日』
◆早朝──ひまわり市・市庁舎前広場
朝の光は、町を柔らかく包んでいた。
舗装の隙間の砂まで淡く照らされ、草木の葉先に残った露が、ひとつひとつ小さな鏡のように瞬く。いつも通りの朝だ、と言ってしまえばそうなのに、いつも通りの朝が、今日は少しだけ「薄い布」を纏っているように見えた。
勇輝は出勤の途中で、足を止めた。
微かな甘い香りが、鼻先を掠めたからだ。花の匂いに似ている。けれど、この町でその匂いを嗅ぐ場所を、彼は思い当たらない。植えた覚えのない花。覚えのないのに、懐かしい匂い。
懐かしさはいつも、理由より先に来る。
ふわりと、空中に小さな光の粒子が漂った。
埃が光っているのではない。光が埃の形を借りているのだ、と皮膚が理解する。
視線を上げると、広場に妖精たちがいた。
フィリィとエル。
それ以外にも数名、幼い妖精が羽を震わせ、空気をかき回すように飛び回っている。羽ばたきは規則ではなく、遊びのリズムを持っている。子どもたちは「整える」より先に「満たす」ことを知っている。空気を満たし、匂いを満たし、笑いを満たす。
彼らが運んできたのは、妖精界からの最後の贈り物だという。
小さな門を通して、町に穏やかな魔力の風を送り込む儀式。
儀式という言葉は、時に重いが、ここではむしろ軽い。遊びと祈りの間にある、子どもたちの集中の形。
勇輝はそれを見ながら、妙な感覚に襲われた。
この町は、いつの間にこんな風景を受け入れられる場所になったのだろう。
受け入れたのか、受け入れざるを得なかったのか。
違いはあるはずなのに、朝の匂いの中では、どちらも同じように溶けてしまう。
◆市庁舎・広報室
窓の外を見て、美月と加奈が言葉を失っていた。
声にならない感嘆は、時に最も正確だ。説明にすると逃げてしまうものが、世界にはある。
町中に漂う穏やかな風は、ほのかに光っている。
光は主張しない。主張しないからこそ、見上げた人の心の奥へ入り込む。和ませるというより、「尖り」を丸めていく。いつもなら気づかない呼吸の浅さが、少しずつ深くなっていく。
フィリィは小さく息をつき、羽を軽く振って子どもたちをまとめた。
昨日までの危うさは消え、羽の色も戻っている。回復が完全であることが、彼女の動きに表れていた。
エルの表情には、自信がある。自信は誇りの形をしているが、その根には「誰かを助けた」という経験がある。
端末に、妖精界から最後の伝言が届いた。
ひまわり市に心を込めて。いつでもまた訪れます。
文面は丁寧で、整っている。整っているからこそ、そこに「帰る場所が複数ある」という感覚が滲む。
訪れる、という言葉が示す距離は、遠さではなく、関係の作法だ。
美月は記録を取ろうとする手を一度止め、窓の外を見つめた。
記録しないと消えてしまいそうで、記録すると消えてしまうような瞬間がある。
彼女はその境目で、しばらく迷っているように見えた。
◆午前──ひまわり公園
公園の中心で、子どもたちは輪になった。
小さな手が合わせられ、魔力が集中する。集中は静かだった。静かなのに、空気が張る。張り詰めるのではなく、布がきれいに伸びるように、均一な緊張が生まれていく。
地面に淡い光の輪が現れ、微かに揺らいだ。
揺らぎは不安定さではない。水面が「そこに水がある」ことを示すように、揺らぎは「境界がここにある」ことを示す。
光の中で、空にひとつの門が姿を現した。
大きくはない。だからこそ目を奪う。大きなものは風景になってしまうが、小さなものは「意味」になる。
門は象徴のように輝き、妖精界とひまわり市を繋ぐ、と誰もが分かった。分かった、というより、身体が先に受け入れてしまう。
勇輝は木漏れ日の中で、子どもたちを見守った。
守る、という言葉が彼の内側で再び重くなる。守るべきなのは、門か、子どもか、町か。
たぶん全部だ。全部を守ろうとすることが、全部を壊すこともある。
その怖さを抱えながら、それでも彼は息をつき、口にした。
「……小さな門だけど、これでつながりはできたか」
美月は笑って、端末に指を走らせた。
加奈は子どもたちに手を振り、「新しい風が吹くね」とつぶやく。
新しい風――言葉にすると軽い。けれど、風が新しいというのは、町が少し変わったということだ。変わっても、町であり続けるということだ。
◆夕方──ひまわり市・広場
夕方になると、門の光は徐々に落ち着いた。
消えたのではない。溶けたのだ。町の光に混ざり、夕陽の色に馴染み、あたかも最初からそこにあったような顔をする。
子どもたちは疲れた様子で羽を休めた。
フィリィとエルがそっと肩を寄せ合う。寄せ合うという仕草は、境界を越えた友情の証というより、単純に「眠くなった」身体の自然な落ち着きにも見える。
大きなことをしたあとに訪れるのは、達成感よりも、眠気なのかもしれない。
勇輝は空を見上げた。
柔らかな夕陽に映えるひまわりが、どこか遠い世界の花のように見える。
異界の国が増えても、日常が続くなら悪くない――そう思う。思うことで、自分の中の怖さをなだめる。
日常は、守るものではなく、続いてしまうものだ。続いてしまうことが、ときに救いになる。
妖精たちの笑顔と、小さな門。
それらはひまわり市に、ひとつの「可能性」を残した。
可能性は祝福の形をしているが、同時に責任の形もしている。
風はやさしく吹き、町はそのやさしさを、今日の出来事ごと、静かに受け取った。




